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その夜、道夫は館内巡回の当番で、一時過ぎには客室フロアーを回っていた。
まだ五月に入ったばかりだというのに、歩いていると首筋あたりがじっと汗ばんでくるほどの暖かい夜だった。
最上階の十八階からスタートして、中ほどの十階まではどのフロア―も深閑としているだけで、べつだん巡回者を驚かすようなことは何もなかった。
客室は五階からで、チェックを要するフロア―があと六つ残っていたものの、この様子だと今夜も何事もなさそうだ。
〈全館異常なし〉 報告書に記入するいつもの文句を思い出しながら、道夫はまた一階下へとエレベーターを動かした。
九階で降りて、エレベーターロビーの前から左右にわかれた左半分を歩いてチェックを終え、もう一方のフロア―の中ほどに差しかかったときだった。不意に道夫の耳に、女の人のすすり泣くような声が入ってきた。 おやっ、あの声いったいなんだろう?
そら耳かもしれないと思って、道夫はいったん足を止めてから、耳の後ろで手のひらを広げて聞いてみた。
泣いているような声は確かに聞こえている。気のせいか、さっきより大きくなっている。
さらに耳をすませてよく聞くと、すすり泣きの声の間に、「ああっ」といううめき声も入っていた。 その声はフロア突き当たりのダブルルームのほうから聞こえてきていたのだ。
道夫が、その声を、きっとあれに違いない。と思ったとき、なんだか、急に恥ずかしい気がしてきて、このまま、踵を返してすぐその場から立ち去ろうと一瞬思ったが、意に反して足は前に進んでいた。
だんだんその声に近づいて、突きあたり左の非常ドアの二~三歩手前でまた足を止めた。 すすり泣きとうめき声は間断なく続いている。 九二〇号室、その声は間違いなくそのダブルルームから聞こえてきていた。その部屋のドアの前で立ちどまった道夫は、まるでその場所に吸いつけられたかのように静止して動かなかった。
そして、一週間前、中崎街のマンションの、ベッドの中での十一番さんを思い出していた。
うめき声はよく似ている。でも、このすすり泣きのような声はいったい何だ。 ふーん、こんな声もだすのか。女の人ってさまざまなんだ。
ズボンの中心部がみるみる張りつめて、痛いような感触をもてあましながら、道夫はまだそこを動こうとはしなかった。
一階に下りてきたときには何故かぐったりしていて、疲労感さえ覚えていた。
巡回して歩いた.その労働で疲れたのではなく、道夫を疲れさせたのは九階で聞いたあの声なのだ。
体中の血をこの上なくたぎらされ、思い切り想像力をかきたたされたあの声なのだ。 体中の血をこの上なくたぎらされ、思いきり想像力をかきたたされ、そしてただそれだけで終わらされ、若い肉体のとって疲れることこの上ない。
道夫は人気のないロビーにヘターと座り込んで、しばらくの間は動くものいやだ。というような疲労感が体中に残っていた。
あーあ、たまらないな。早くまた十一番さんと会って、それから・・・・
その夜、仮眠につく四時までの間、道夫はそのコトばかり考えていた。
やっと十一番さんとエレベーターの中で会えたのは、それからさらに二日たってからの夜だった。彼女のマンションへ行った日から、かれこれ十日ぐらい過ぎている。
その夜十一時からのエレベーター当番で、十階に行くという彼女を乗せたとき、その時間としては珍しく同乗者はひとりもいなかった。
「先日はどうも」 エレベーターのハンドルを動かして、その後すぐ道夫は言った。
「こちらこそ。あのときはごめんなさいね。いやな思いさせて」
あの日蒲団をかぶって以来初めて、彼女がそのことに触れて言った。
「いいえ、別になんとも思っていませんから」 決してそうではなかったのに、道夫は平静をつくろってそう答えた。
「ねえもう一度、こんどは外で会わない?」 十階で止まって、ドアが開く寸前に彼女が言った。 「ええ、もちろん僕はいいですけど、でもいつですか、それ?」
「あしたどう?」 「あしたどこで?」 「上六って知ってる?」 「ええ知ってます。百貨店のあるところでしょう?」 「そう。そのデパートの正面玄関の前で五時に」
「は、はいわかりました。五時ですね」
それだけ言うと十一番さんは「じゃあね」という言葉とともに流し目を送ってから十階の薄暗いフロア―の中に姿を消した。
翌日、また久しぶりに胸をときめかせながら、四時半に地下鉄を降りて、そのデパートの前には五時十五分前に着いていた。
十一番さんはまだ来ていなだろうと思いつつも、入念に辺りを見まわしてみたが、やはり彼女の姿はなかった。待ち遠しくてたまらない十五分間、道夫は時計を見ては辺りを見廻すという動作をずっと繰り返していた。
五時になってもまだ彼女は現れなかった。 確かにこの場所だったんだろうな。と道夫がそう思って少し首をかしげていたとき、十一番さんがやってきた。
「ごめんなさい。電車を一つ乗り遅れてしまって、待った?」
「はいすこし。四十五分頃にここへ着いたものですから」 道夫は正直に答えた。
「ねえ、いま五時すぎでしょう。あなたのお仕事は十時からだし、これから三時間ぐらいはいいんでしょう?」 「はい。ここからだと一時間もあれば十分だし、九時前ぐらい前まではいいです」 「じゃあまずお食事しましょうか。いい?」
「はい。僕もそのつもりでした。あのう失礼ですが、今日は僕にごちそうさせて下さい。この前のお礼の意味で」 「お礼だなんて、いいのよ無理しないで」
「だいじょうぶです。給料まだもらったばかりですし」
「そう、じゃあお言葉に甘えてそうするかな。さあ行きましょう」
二人はすぐ横にある階段を下りて地下街のちょっとこぎれいな中華レストランへ入った。
奥まったところのテーブルに十一番さんと差し向かいですわり、普段より少し高級な料理を食べながら道夫はしきりに考えていた。
ここを三十分で出たとして、九時までだと二時間あまりか。この近くにいいとこあるかな。頭の隅にラブホテルの赤いネオンがチラチラと浮かんだ。
レストランを出てから道夫は行き先にも道順にも少しも気を使うことはなかった。
それらすべてを十一番さんがリードしてくれたのだ。
つづく
次回 10月2日