2019年12月15日日曜日

純文学とは何か ・ アメリカの純文学は?

 
純文学とは「この作品のどこが面白いの?」と思わせる読み物?
 
こんなふうに思ったのは、アメリカの作家サリンジャーの「ナインストーリーズ」を読んだときです。
 
サリンジャーは超ベストセラー作品「ライ麦畑で捕まえて」で有名な米国の作家ですが、今回読んだ「ナインストーリーズ」はそれに次ぐ彼の代表作です。
 
実は「ライ麦畑で捕まえて」も随分前に一度読んだ記憶があるのですが、あまりにも前なので内容をすっかり忘れてしまっており、面白かったかどうかも不明なのです。
 
以前から家の書棚にある世界文学全集にサリンジャーの巻があり、それば前から気になっていて、意を決してその中に収録されている作品のひとつ「ナインストリーズ」を読んでみることにしました。
 
しかし読んでみて思ったのは、表題の「この作品のどこが面白いの?」というものだったのです。要はこの作品、アメリカの純文学なのでしょうか?
 
 
ブログに「純文学について」という名文があった!
 
たまたま目にしたブログに「純文学について」という記事があり、内容が優れており非常に感銘を受けましたので、ここでその抜粋をご紹介します。
 
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純文学とは何か
 
まず、とても端的な質問を与える。それは、純文学とは何か、ということである。その答えというか定義は多様であるが、1つの定義として、純文学は私小説である、というものがある。
するとさらに私小説とは何かということになるが、それは作者が直接に経験したことに基づき書いた小説ということになり、自叙伝的なものとか、日常のちょっとした経験したことをテーマに書いた小説ということになる。そういえば、私は若い頃から渡部昇一氏のファンであるが、渡部昇一氏は、私小説だと書くテーマが限られているので、次第に枯渇するのではないかと、私小説に対して批判的だった。それでつい私も、私小説的な小説を避けてきたところがあるが、ちょっと一方的だったかもしれないとこの歳になって反省している。自分の個人的な体験から壮大にテーマを描くというのは十分にありえるからである。
別の純文学の定義として、面白さよりも芸術性にフォーカスされた小説というものがある。そういえば大学時代にある知り合いが、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読んでみたが、何が面白いかさっぱり分からないといっていた。今の私なら、そういうならと読んでみたかもしれないが、当時は松本清張一辺倒で、純文学っぽいものは読む気がしなかった。ともかく、「ライ麦畑でつかまえて」が純文学なのかどうか知らないが、文学の芸術性というのは私は、ある程度の教養がないとその意味とか面白さが理解できないもの、と定義してみる。違うだろうか。そういう意味で、ノーベル文学賞をもらった大江健三郎なども私には芸術性が高い純文学と映る。なにしろ、読んでもさっぱり理解できなくて、途中で投げ出してしまう。そしてその背景に単なる荒唐無稽ではなく、何かの思想があるんだろうとは推察する。
 
出典:純文学について  あやたろう 2013年12月22日
http://commutative.world.coocan.jp/blog3/2013/12/post-1126.html
 
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このブログで注目すべきは、サリンジャーの代表作「ライ麦畑で捕まえて」についての記述です。
 
この著者も私が同じ作者の作品「ナインストーリーズ」で抱いたと同じ感想を「ライ麦畑で捕まえて」で感じているのです。
 
要は、アメリカでも日本でも、純文学とは、何を言わんとするのか意味不明の「この作品のどこが面白いの?」と思わせる作品なのではないでしょうか。 
 
 
「純文学 ⇔ 芥川賞 ⇔ 面白くない」
これは疑いようのない図式なのか?
 
これまで私のブログでは純文学のつまらなさについて何度も書いてきました。ターゲットに上がったのは、たいてい芥川賞受賞作品でした。それゆえに純文学について上のような図式のようなものを思いついたのです。
 
それでも飽きもせず読み続けるのは、発表のたびにメディアが大きく取り上げ、賛辞を送るからです。
 
いったいメディアは何ゆえにつまらない純文学作品の後押しを続けるのでしょうか。


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2019年12月10日火曜日

名作を読み直してみた(2)  蒲団  田山花袋

 
最後のページでやっと蒲団という題名の由来がわかった
 
「蒲団」は「田舎教師」に並ぶこの著者の代表作です。どうして蒲団というタイトルなのかが読んでいてもなかなかわかりませんでしたが、やっと最後のクライマックスのシーンで「なるほど」と解明できました。
 
 
発表当時は問題作と騒がれたが、いま読んでみると?
 
この作品が発表されてから100年以上もたった今でも読み続けられている理由はいったい何なのでしょうか。

最大の理由は発表当初から問題作品として注目されたからです。

何が問題かといえば、主人公竹中時雄の性にまつわる赤裸々な感情の告白です。
 
弟子の女性が去ってしまった最後のシーンでは、教え子でもあるにもかかわらず、その女性に対しての押さえ切れない性的感情を一気に爆発させているのです。
 
しかし、これが問題になったのは、あくまで男女交際に厳粛な明治という時代背景があった故で、人々が性に関してうんと大らかになっている現在では当てはまらないのも事実です。
 
にもかかわらず今でも人々がこのテーマに注目して読み続けているのは不思議です。

 
 
蒲団 あらすじ
34歳という当時としては中年真っ只中の年齢で、妻と3人の子供のある作家の竹中時雄だが、その元に縁あって横山芳子という女学生が弟子入りを志願してきた。見目美しい妙齢の女性ではあったが、時雄はなぜだか始めはあまり気の進まなかった。でもその後芳子と手紙をやりとりするうちに、その才能に将来性を見つけ、師弟関係を結ぶに至り、芳子は郷里の岡山県新見から上京してくる。時雄と芳子、二人の関係ははたから見ると仲のよさそうなカップルであったが、時を経ずして芳子には田中秀夫という恋人ができた。 時雄は並々ならぬジェラシーの感情を抑えることができず、監視するために芳子を自らの家の2階に住まわせ恋人から隔離ることにする。だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進展していき、嫉妬からの怒りを抑えきれない時雄は、恋人から離れさすために芳子を破門し父親と共に帰らせる。
 
 
100年以上過ぎた作品なのに、今でもこれほど多くのコメント(書評)が寄せられているのは驚き!
 
下にご紹介するのは、この作品に対する書評コメントです。
 
ネットの「読書メーター」というサイトに載った2018から2019年にかけてのごく最近のものばかりです。
 
文面から若い読者が多いようですが、100年以上前のこうした古い作品を読んで、熱心にその書評を書く真摯な態度には驚かされます。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・
 
日本の自然主義文学を代表する作品の一つで、また私小説の出発点に位置する作品とされる。 内容は簡単にいうと、 文学作家が若く美しい女弟子に片思いする話。 中年男の自分勝手な恋情にイライラしてしまって主人公の気持ちに浸れなかった。笑 けど、ここまで赤裸々に言っちゃうその勇気はすごいね!男気!
ナイス
 

自然主義の代表作として名前は知っていました。ですから、あまり期待せずに読みましたが、予想に反して、読みやすかったです。いろいろ評価は分かれるのでしょうが、女学生の甘さと主人公の心中のキモさがなかなかに面白いです。本来の味わい方とは違うのでしょうが、妄想、泥酔、奥さんへの八つ当たり、自己欺瞞、自己憐愍に、わー、きもーいと思いながら楽しみました。
ナイス★8
 

日本の私小説の出発点で、最後の露骨な描写が当時問題になったという事ですが、中年男性が若く美しい女学生に憐れにも翻弄され懊悩する様子がありありと描かれていて『痴人の愛』に通ずるものがあり、一気に読み進められました。男女の交際に対する当時の禁制的な雰囲気、それに反してしまった芳子の態度と、主人公の赤裸々な妄想の対比が面白がったです。
ナイス★2
 

・しお
国語便覧で概要を読んだ時は勝手に、冴えない男のつまらない横恋慕の話なんだろうなと思っていたが、実際に読んでみると色んな事情か絡んでいてとても面白かった。私小説なんてただ自分体験したことをそれっぽく書いただけだろうと思っていたのだが、主人公以外の人物の心情も事細かに書かれていて人間を相当観察していないと書けないなと思った。表現がすっと頭に入ってきて読みやすかった。当時の女性観も知れて興味深かった。男女交際について今では考えられないほど厳しい時代だったなあ…
ナイス★1
 

★3.0(3.29)1907年(明治40年)発行。私小説の出発点とされ、日本の自然主義文学の代表作とのこと。題名は昔から知っていたが、やっと読み終えました。明治時代の恋とはこのようなものだったんですね。結婚している時雄の元に女学生の芳子が弟子入り。時雄は芳子に恋するも、芳子には、恋焦がれる田中秀夫が・・・。時雄は結局は芳子のいい理解者になろうとするが、本心はなんとか芳子を手に入れたいと苦悩。何で「蒲団」という題名なのかと思ったら、最後で漸くわかりました。男性の心理とはいつの時代でも変わらないと思いました。
ナイス★12
 

★★★★☆:正直に言うと、主人公だいぶキショイし、hypocriteだし、奥さんが可哀想。作品のテーマは「浮雲」に似てる!要するに近代化しきれていない日本批判。女学生という明治レディに憧れる高学歴女子 v. 保守的な男性たち。日本に於いてのキリスト教受容の難しさもついでに描いてる。女の子がいくら頑張っても結局男の人が勝つということ。
ナイス★16
 
窗体底端
 
助平をこじらせて、性癖へと昇華されていく過程が面白い。癖とは結果的に同じであっても、其処に至るまでの景色は多様で複雑であると思います。時雄の助平心、芳子の純情、秀夫のヒモ気質、時雄妻の無個性感と、其々キャラが立っていてとても分かり易い。先日ニュースで、玄関で脱いだ他人の靴の匂いを四つん這いで嗅ぎ、お気に入りを新品と差し替えて持ち帰るという事件が報道されていました。その癖はどのように形成されたのだろうか。
ナイス★10
窗体底端
 
私は一応 若い女の立場なので、大人の男たちが権力で私欲を正当化しているような態度にとても腹が立った。ホント弱い奴ら!処女信仰とかクソ喰らえ!そもそも個人的に、師匠や先生といった立場にある人を男として見たくないので、こういう生々しい表現は吐き気がする。とはいえ、彼の醜い感情の端っこは 私にとっても覚えのある葛藤だったりもするんだよな。
ナイス★11
 
窗体底端
 
・yuki
妻と子供がありながら、文学を志し自分を慕ってくる芳子の事が可愛くて仕方がない。しかし、妙なプライド?思想?から一線は超えず、でも自分が全てを支配したいと思いその狭間で懊悩する。ある意味すごく人間らしいと感じた。途中で一瞬妻と恋愛していた時の事を思い出すが、矛盾でも無節操でもこれが真実なのだから仕方ない!と開き直るところがまたリアル。
ナイス★7
 
窗体底端
 
文学の話などしたことない人から「気持ち悪い中年オヤジの話 なかなかおもしろい」とすすめられました。学校の国語便覧で目にしてはいましたが、未読だったので、ibooksを使って読んでみました。 人ってだいたいこういう気持ちをもっているよね~っと思いながら読み終わりました。
ナイス★7
 
窗体底端
 
日本の自然主義が露悪的な私小説となっていくきっかけを作った作品とされている。作品そのものよりも、モデルとなった岡田美知代に興味を持った。広島県府中市にある記念館を訪ねてみたい。
ナイス★3
 
出典:読書メーター



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2019年12月6日金曜日

空き家だけではない、今の日本はあらゆる所で空きスペースが増えている

 
ショッピングセンターは閉店だらけ
 
よく行くスーパーが入った駅前の複合ビルにまつわる話です。このビルにはスーパーのほかにさまざまな店舗、それにレストラン、映画館、歯科医院などが入っています。
 
このビルについては以前のブログにも書きましたが、2階にあったカフェがいつも客入りが悪く、つぶれるのは時間の問題か、と思っていたとおり、それから間もないうちに姿を消してしまいました。
 
カフェだけではありません。トンカツ屋、子供おもちゃ専門店などもいつの間にか閉店していました。
 
まだ開業してから5年もたたないのに、これほど多くの店が閉店になるのは尋常なことではありません。たぶん見通しが甘かったのでしょうが、問題は閉店した後のスペースの利用です。
 
代わりに新しい店が入ればいいのですが、なにぶんダウンサイジングが始まっている今の日本ではおいそれとは新規出店の店は見込めません。
 
 
閉店跡地の休憩所
苦肉の策なのか、閉店した店の空きスペースは休憩所に
 
閉店した店をそのままシャッターを下ろしたままにしておくのは何かと問題です。
 
何が問題かといえば、複合ビル全体に対して美観をそぐのはまもちろんのこと、客に対して店がつぶれた、ということは多大な悪印象を与えます。
 
これはなんとしても防がなければなりません。その結果、苦肉の策として考えられたのが、店舗閉店後の空きスペースを、客用の休憩所として利用することです。
 
そのスペースにカラフルなチェアやテーブルを配置して客用の休憩所とへと転化させるのです。
 
閉店する店が急増している昨今では、ショッピングセンターの客用休憩スペースも急増中なのです。
 
 
ダウンサイジングの日本、ショッピングセンターの無料休憩所が急増中!
 
個人的にば、街中に休憩所が増えることは大歓迎です。なぜなら外出中に読書をすることが習慣になっているからです。
 
読書をするには座るスペースが必要です。もちろんカフェなどに行けばざ席は簡単に確保できますが、回数が増せば出費が嵩みます。
 
そこでありがたいのがショッピングセンターなどの休憩所なのです。
 
ショッピングセンターだからといって何か買い物をしないと利用できないわけではなく、いつでも誰でも気兼ねなく無料で利用できますから、読書だろうが仮眠であろうが心置きなくできるのです。



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2019年12月3日火曜日

バスや電車の車内で気になるのはケータイだけではない

 
依然として多い、バス車内でのケータイ着信
 
バスは外出時の交通手段としてよく利用します。それだけに気がつくことが多いのは当然かもしれません。気がつくことはほとんどが悪いことで良い点はあまりない、といっていいでしょう。
 
特によく気がつくのは車内での乗客のマナーです。なかでも迷惑になるのはケータイの利用です。

最近では車内アナウンスなどで注意が行き届いてきたせいか、さすがに通話の発信はほとんど見かけません。しかし着信はそうはいえません。
 
乗車前には電源を切るかマナーモードにするように注意されているのにも関わらず、それを守らない人が多いようで、乗車中に着信音が鳴り、それに応えて話す人は今でも少なくないようです。
 
そもそも何故車内でケータイが禁止されているのでしょうか。それは人は電話では通常の会話より大きな声を出すからです。
 
ひそひそ声で話すのならまだしも、普段より大きな声をバスの中で上げられたら周りの人は迷惑するのは当然です。
 
要するにやかましくて、煩わしく感じるのです。それゆえに車内ではケータイ使用が禁止になっているのです。
 

 
 
車内でケータイ禁止なのは、「人は雑音を嫌がる」から
 
そもそもなぜ公共の乗り物の中でケータイの通話が禁止になっているかといえば、人は雑音を聞くのは嫌がるからです。
 
そうなのです。人が通話する声は騒音以外の何ものでもないのです。なぜなら耳障りが悪いからです。
 
人は耳障りの悪いものは聴きたくないのです。多くの人が音楽を聴くのを好むことからも、それがよくわかるでしょう。音楽は耳障りがよく、聴いて心地よいからです。
 
 
バスの中では、禁止すべきものはケータイ以外にもある
 
車内ではケータイ使用が最もダメなことはよく分かります。でも迷惑なことはケータイ以外にもあります。それらが何かといえば、代表的なのが会話と飲食です。
 
まず乗客同士の会話ですが、どちらかといえば女性に多い仲間内の雑談です。これはケータイに劣らず迷惑なものです。
 
前でも書いたように人は雑音は聞きたくありません。バス内の会話は他愛のないものばかりで雑音の他の何物でもないのです。
 
ケータイが禁止されているのなら迷惑な雑談も禁止にすべきではないでしょうか。
 
 
車内での飲食も良くない
 
たまにバスの中で飲食をする人をみかけますが、観光バスや長距離バスならまだしも、短距離の路線バスでは感心できません。
 
路線バス車内での飲食は目障りであるだけでなく非常に迷惑です。なぜなら飲み物はこぼして座席を汚したり、空いた容器を車内に捨てる心配があるからです。時々捨てられた空き缶が走行するバスの床をコロコロと転げ回っていることがあります。
 
また食べ物も包装をはがして取り出すときのガサガサという音や、食べるときのペチャペチャという音が耳障りです。
 
したがって車内での飲食も、ケータイや会話とともに禁止すべきです。




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2019年12月1日日曜日

もう一度読んでみたい・高校英語リーダー名作シリーズ(5)

 
 
    THE SANDPIPER(いそしぎ)
           
          Mary Sherman Hilbert(出典:new horizon 2,L3)訳:大平庸夫 
 
 
この話は、ピーターソンという女性とウェンディーという少女の交流を、事実に基づいて描いた物語である。
 人っけのない砂浜で1人で遊んでいる少女のことを、ピーターソンは初めはあまり気にかけていなかった。その頃の彼女の気持ちはあまりにも荒涼としていて、少女と遊ぶような余裕はなかったのである。だが時がたつにつれて、彼女はこの少女ウェンディーや、浜辺に飛んでくる イソシギ という鳥について多くのことを知った。でも何よりよく自覚できたのは彼女自身のことについてであった。
 
 
 私がはじめてその少女を見たのは、彼女が浜辺で砂のお城を作っているときであった。
 
「砂の手ざわりって、とても気持ちがいいわ」 少女が見上げながら言ったが、私はそんなことには少しも関心がなかった。その頃の私は、周りのすべてのことにうんざりしていて、心の余裕など少しも無かったのだ。
 
 「名前なんていうの?」 少女が聞いた。
 「ルースよ、ルース ピーターソン」 私はややぶっきらぼうに応えた。
 「わたしウェンディーというの、6歳よ」
 イソシギが滑るように飛んできて海岸の方へ下りていった。
 「ママはね、イソシギって幸せを運んでくるんだって」 少女は私の方を見て
微笑みながら言った。私はぎこちない笑顔を返すと、少女を残してそこを離れた。
 「また来てね、ピーターソンさん。この次はきっと楽しいよ」
 
 数日たった或る晴れた日の朝、 ”どうやら私にはイソシギが必要なようだわ ”
 そんな独り言を言いながらコートを着ると足は浜辺の方に向かっていた。頬に冷たい風を受けながら私はどんどん歩いた。
 
 その時はあの少女のことが頭に無かったので、彼女の姿を見たときは一瞬びっくりした。
 
 「こんにちは ピーターソンさん、私と遊びたい?」
 「あなたは何がしたかったの?」 
 子どもに邪魔されるうっとうしさをかろうじて抑えながら私は応えた。
 「うーん、分からないわ、お姉ちゃんが言って」
 「言葉当てゲームはどう?」 私は皮肉っぽく言った。
 「わたしそれ知らないわ、何なの?」
 「そう、それじゃ仕方ないわ。歩きましょ」
 少女を見たとき、その顔色がいくぶん青白いのに気がついた。
 「どこに住んでいるの?」 私はそう訊ねてみた。
 「あそこよ」 彼女は避暑用の別荘を指差しながら答えた。
 それを聴いたとき、こんな冬になぜだろう?と、私にはすごく不思議に思えた。
 「どこの学校へ行っているの?」
 「学校へは行っていないの。私たちは今休暇中だって、ママが言ってたわ」
 浜辺を歩いている間中、彼女は嬉しそうな顔をして喋り続けていた。でも私は別のことを考えていた。
 
 私が家にかえるとき、ウェンディーが「とても楽しい日だったわ」と言った。
 私はいくぶん気分がよくなっていて、彼女を見て微笑んだ。
 
 それから3週間たった或る日、私はこの上なくうっとうしい気分を持て余しながら、また浜辺に行ってみた。
 その日はウェンディーと話すどころの気分ではなく、彼女の母親が彼女を外へ出さなければいいのに、というふうにさえ思っていた。
 
 「ねえ、もしよかったら・・・・・」
 ウェンディーが私を見つけて、ついてこようとしたとき、私はさも機嫌悪そうな声で言った
 「私ねえ、今日は1人でいたいのよ」
 「どうしてなの?」 そう訊いた彼女の顔は、前の時より一層青ざめて見えた。
 私は彼女の方を振り向くと、自分でも何を言っているのかはっきり自覚することもなく
 「何故って、私のお母さんが亡くなったからよ!」と叫ぶように言っていた。
 
 無邪気な子どもを前に、なんと馬鹿なことを言ってしまったのだろう。
 「そうだったの」 彼女は静かに応えた。
 「じゃあ今日は悪い日なのね」
 「そうよ、今日だけでなくて昨日も一昨日もよ。ねえ、私なんかほっといて向こうへ行って遊びなさいよ」
 残酷な言葉だとはよくわかっていたが、そう言うと彼女を残して立ち去った。
 
 それから一ヶ月くらいたってから、私はまた浜辺に行ってみた。この前言ったことに対して恥ずかしさと罪の意識を持ちながら、私はウェンディーを探して歩いた。でもいくら探しても彼女は見つからず、代わりに一羽のイソシギが静かに飛んでいるのが見えた。
 私はそのとき初めて、彼女が側にいないことの寂しだを感じていた。
 
 それからすぐ彼女の別荘へ行ってドアをノックした。まだ若くて美しい女性がどあを開けて現れた。
 
 「私アンダーソンと申します。お宅のお嬢さんが今日は浜辺には見当たらず、どこにいらっしゃるのかと思いまして・・・・・」
 
 「まあ、あなたがアンダーソンさんでいらっしゃるのね。どうぞお入りになって。ウェンディーがいつもあなたのことを話していましたわ。あの子、あなたの邪魔になったんじゃなくって? もしそうだったのならご免なさいね」
 「いいえ、決してそんなことはありませんでしたわ。とても賢いお嬢さんでいらして」
 とつぜんそう応えながら、私はそのことに初めて気がついたという風だった。
 
 「それで今どこにいらっしゃるのですか?」
 「ウェンディーは先週亡くなりましたわ、ピーターソンさん。あの子、白血病だったんです」
 
 私の胸を激しい動悸が走り言葉を失ってしまった。立っていられない気がして近くの椅子をまさぐった。心臓が激しく打っていた。
 
 「あの子、浜辺がとても好きで、あそこで楽しい思いを一杯したようだったわ。そうそうピーターソンさん、あの子がこれをあなたに渡してくれるように言ってたわ」
 
 彼女はそう言うと、子どもらしい字で、Miss.Pへ、と宛名書きした封筒を手渡した。中には黄色い砂浜、青い海、そして茶色い鳥がうすい色のクレヨンで描かれた絵が入っており、その下の方に太い文字で ”イソシギがお姉ちゃんにしあわせをはこんでくるよ ”と書いてあった。
 大粒の涙がどっとあふれてきた。そしてそれと同時にほとんど忘れかけていた温かい”人の愛”に触れた思いがして、胸のつかえが一気に晴れたような気がした。
 
 「ごめんね、本当にごめんね!」 泣きながら私は何度も何度もそう叫んだ。
 小さな絵の下に書かれた一行の文字、この一文字一文字こそ、彼女が生きてきたかけがえのない一日一日だったのだ。これこそ、私に真実の愛を教えてくれたあの少女からのすばらしい贈り物なのだ。



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