マンハッタン西97丁目 第2章「予期せぬ下宿人」(その6)
今年で大学を卒業して三年目だというT銀行の栗田をはじめ、修一を含めてあと六名の年齢は20代中ごろから30代そこそこと、ほぼ似通っていた。
この日修一と森川の二人が、山崎を除いたほかの五人と初対面であった。
年の功で最初は森川、次に山崎が自己紹介した。続いて五名が一人づつ同じように自己紹介した。この日の修一を除いた七人のうちで妻帯者は帝京銀行の佐々木と日本レストラン「杉」のマネージャー森川だけで、他はみな独身であった。
2年前にこちらへ来て今年三一歳になる山崎が「適齢期に日本を離れたおかげで、とうとう僕も売れ残りになってしまいましたよ」と言うと、横合いから大阪出身だと言う橋本がどぎつい関西弁で「あんさん、男の場合は『売れ残り』違うて『買いそこね』言うんだっせ」などと言って茶化すもんだから皆がいっせいにドッときた。
この夜の八人はまるで時のたつのも忘れたかのように食べて、飲んで、そして喋った。 修一はこの日、後々まで記憶に残る面白い話をいくつか聞いた。その中で最も傑作だったのは山崎とこの同じこのアパートに住む渡瀬の話であった。
その話というのはこうである。ある日彼は仕事を終え外で食事をすませてアパートへ帰ってきた。夜十時をすこし回った頃である。
ドアを開け中に入り、ふと正面の窓に目をやると、いつもはたいていカーテンの閉まっている向かいのアパートの正面の部屋が、この日は珍しくカーテンが開けられ、中からはこうこうと明かりが洩れていた。
渡瀬はその部屋に若い白人女性が一人で住んでいるのを前から知っていた。
それまでに見たことのない向かいの部屋の光景に彼は興味津々で、自分の部屋の電気のスイッチを入れるのも忘れ、暗がりからじっとその光景に見入っていた。
渡瀬の部屋からその向かいの部屋までは距離にして十メートルあるかないかで、部屋の中の様子はかなり鮮明に見えたのだ。暗い渡瀬の部屋の中からしばらく目を凝らしてみていると、向こうの部屋の隅にはベッドがあり、その上に人が横たわりうごめいているのが見えた。彼は「オヤッ」と思い、さらに目を凝らして見てみると、ベッドの上にいたのは、なんとその部屋の住人らしい全裸の若い女性ではないか。 渡瀬は早鐘のように激しく動悸する胸を抑えて、窓に顔をくっつけんばかりにして、その光景に見入った。ベッドの上の女性は一方の手を胸に、もう一方を下腹部へやり、悩ましげに身体をくねらせながら悶えていたのだ。
渡瀬はアルコールのせいか、はたまた興奮したせいか、丸い顔を真っ赤にして話を続けた。
なおもその光景に見入っていた彼は、ふと「ヒッチコックの映画『裏窓」ではないが、こんな珍しい光景を目にすることは今後二度とないだろう」と思い、慌ててカメラを取り出してきてバシャッ、バシャッと五~六回連続でシャッターを切った。
まさかその音が相手に聞こえたわけでもないだろうが、その直後にスタンドの電気が消され何も見えなくなった。
―残念!もっと続いてほしかったのだがなあ。 すこし物足りなさを残しながらも、彼は ― 大変なものを目撃してしまった。おまけに写真まで撮ってしまって、と思い、その夜は興奮して朝方までねむれなかったのだという。
渡瀬はそこまで話して一呼吸入れた。 そこまででも相当おもしろい話なのだが、傑作なのはその後であった。 写真を撮り終えた彼は一時も早くそれを現像して、もう一度あの生々しい場面にお目にかかりたかった。
カメラには新しい二四枚どりのフィルムを入れてあり、前の夜は五~六枚しか写していなかったので、まだ二0枚近くのフィルムが残っていた。
それをそのまま取り出して写真屋に持っていくのもいかにもしまらない話だ。
現像に出す前にせめて半分ぐらいはフィルムを使用しておきたいものだ。
そう思った彼は、朝起きるや否や、窓の外のあちこちの風景に向かってバシャッ、バシャッとシャッターを切った。 「写したくもない写真を十枚近くも撮るなんてなんともおかしな気持ちですよ」渡瀬がそういうのを聞いて,またいっせいにドッときた。
「さあこれでよし」とフィルムをカメラから取り出した彼は、四四丁目の自分のオフィスへ行く途中でそれを現像に出した。
写真屋の頭のはげた小太りのおじさんが妙にニヤニヤしながら「何を写したのだ?」と、別に聞かなくてもいいことをを聞くので、渡瀬はとっさに「なーに、つまらない風景写真ですよ」と答えたのだが、前のほうの五~六枚は決してそうではないことを思い出して思わずドキドキして心中おだやかならぬもの感じた。
「明日の夕方までにできあがるよ」というおじさんの返事を聞いた渡瀬は「明日これを取りに来るのはちょっと恥ずかしいな」と思いながら店を去ってオフィスへ向かった。
(つづく)次回 7月5日(土)
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