2014年7月27日日曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第27回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第3章・夜のセントメモリアル病院(その9)



マンハッタン西97丁目 第3章「夜のセントメモリアル病院」(その9) 

 クリスマスも間もないある風の強い日の深夜、エセルがまた激しく咳き込んだ。

 修一がベッドに入って間もないときで、ウツラウツラし始めた矢先のことである。
 散発的なものはほぼ毎日のようにあっても、バーマがこの家に来た十二月に入ってからは不思議と前のような激しいものがなかっただけに、その日の発作がことさら強いものに聞こえた。

 少しでもその音から逃れようと毛布ですっぽり耳を覆いながら、しばらくすれば止まるだろうと、ひたすらそのときを待ったが、三十分ぐらい経っても一向におさまる気配はなく、むしろ前より次第に激しくなっているようだった。

 エセルはこの前のようにリビングの方へは立って行かず、いつまでもベッドの中で咳き込んでいた。

 「すごく苦しそうだな」そう思った修一は眠たい目をこすりながらベッドから起き上がってエセルの部屋の方へ歩いていった。ドアを三~四回ノックすると、苦しい息遣いの中でエセルが「カムイン」と弱々しく返事した。

 ドアを開けて中へ入ったとき、咳き込んで大量の息を空気の中へ放ったせいか少し嫌な臭いが鼻をついた。奥のベッドに苦しくてたまらないというふうに顔をしかめたエセルがハーハー言いながら横たわっていた。修一が入っていったとき、チラッと見て瞬きをしたが、その表情は少しも変わることはなかった。

 苦しさで笑顔をつくる余裕などなかったようだ。

 エセルはよく聞き取れないほど弱々しい声で「そこの水を取って」と言った。

 枕元のサイドテーブルに水差しとコップが用意されているのに、それを取る気力さえ失っていたのだ。

 修一はコップに水を注いで手渡そうとしたが、この状態だと起き上がるのもきつかろうと、彼女の首に下から手を入れて頭を持ち上げ、口にコップをつけてやった。後頭部は生温かくジトーとした汗が出ていて、それが手のひらに付くのが分かった。三口ほど飲んで「もういい」とエセルは言った。

 手を離してコップをテーブルに戻しながら「薬は飲んだかい?」と聞くと、
「寝る前にちゃんと飲んだわ」とかすれた細い声で答えた。それでも水を飲んだ後は一時咳が止まっていた。それならばと、修一が立ち去ろうとして二~三歩ドアの方へ進んだところでまた激しく咳き込んだ。「あーあ、この先いったいどうしてやればいいんだ」修一は立ち止まって考えた バーマを起こして相談しようか?

 いや、彼女は朝から学校があるのでそれも気の毒だ。やはり止そう。医者を呼ぼうにもこんな深夜ではきっと無理に違いない。そんなふうに修一が自問自答しているとき、背後でエセルの「電話を取ってちょうだい」という声が聞こえた。

 電話をどうするのかな?とは思ったが、とりあえず部屋の隅からコードを延ばして枕元においてやった。寝返りを打ってかろうじて横向きになったエセルは、焦点の定まらない手つきで何度も失敗しながら、やっとダイヤルを三度回し終えた。

 やがて相手が出てきたらしく彼女はおもむろに話し始めたが、声が小さくて弱々しく、側に立っている修一にでさえよく聞き取れないほどであった。それでも「苦しくて仕方ないから来てほしい」という意味のことを喋っているのがなんとか分かった。

 相手がなかなか言い分を聞いてくれないらしく、エセルは執拗に同じせりふを繰り返していた。そして時おり咳に襲われて受話器を口から離していたが、話を進めるにつれて次第に哀願調になり、やがてそれは泣き声へと変わっていった。

 それでも十分ぐらい話して、ようやく相手が納得したらしく、エセルは投げ出すように受話器を置いた。そして「救急車が来るわ」とひとこと言った。

 「そうか、さっき彼女が電話した先は991の救急電話だったのか」そのときになってようやく修一は事情を飲み込んだ。

 エセルはやっとの思いでベッドに半身を起こした。でもどう見ても一人で立って身支度をするのは無理なようだ。

 修一はクロゼットを開けて彼女がいつも外へ行くとき着ている茶色のワンピースを取ってベッドへ持って行き、手を取って着せてやった。そして肩を貸して立ち上がらせた。

 背丈こそそれほどないが、エセルはどちらかと言うと肥満型の老人で、修一の肩にズシリと体重がかかった。よたよたしながらなんとか壁際の肘掛け椅子までつれて行き、コートはどこか?と聞くと、キチンの椅子の上だ、と言うので、それを取ってきて乱れたベッドの上に置いた。

(つづく)次回  7月30日(水)


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