2026年6月4日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈6〉紳士と編集長(6)

 

  

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「よろこんで」ねえ。ほかでも聞いたことがありますよ、こういう返事。客に感謝の意を伝えようとしていて、悪くないと思いますよ僕は。英語にもウイズプレジャーって返事がありますし」


「ウイズプレジャーですか。でもそれとちょっとニュアンスが違うんじゃないですか」


僕はそう応えながら、このことに関して彼の同意が得られなかったことに軽い失望を覚えながら、つまるところ感性の違いなんだと、わりきって考えていた。


「よろこんで」か、〈居酒屋 よろこんで〉なんて店の名前もいいんじゃないですか」


同意はしなかったものの、横で彼がひょこっとそんな滑稽なことを言ったので、二人は顔を見合わせて大笑いした。


喧騒に満ちたその店で彼と僕とは二時間近く飲んでいて、何度も何度も話題をかえて話し合った。


でも僕が不満かつ不審に思ったのは、途中で何度か話を例のリベーラと彼の甥の編集長のことにもっていこうとしたにもかかわらずその度に彼は「うん、うん」とうなずくだけで、それについて自分から何も発言しようとしなかったことだ。


 いったいどうしたんだろう彼?そもそも二人のきっかけはあのリベーラだったはずなのに、しかも彼の甥がその編集長であるというのに。


やや不審なそんな面持ちで、「九時過ぎか、そろそろ出なければ」と、すでに半分ぐらい席の空いた店内を見渡しながら僕がそう考えていた時、また彼が唐突に妙なことを口にした。


 「ところで僕、近々また若い頃いたパリに行ってみようと思っているんです」


 パリ?おかしいな。ロンドンじゃなかっただろうか。この前ホテルのバーで、二十三のとき、ロンドンのロースクールに留学していた。


確かそう言ったはずだ。ロンドン以外にこの人パリにもいたことがあるのだろうか? 


僕は次第に不審な気持ちをつのらせながらそう考えていたが、そんな僕を尻目に彼はなおも話し続けた。


「いいですよ。あのシャンゼリゼの大通り。小高いモンマルトルの丘。それにあのメトロにももう一度乗ってみたいなあ」


「木谷さん、この前ロンドンに留学していたと言われましたがパリにもいらしたんですか?」


 不審な気持ちを少しでも晴らそうと、僕はとりあえずそうたずねてみた。


 「えっ、ロンドン。僕そんなことを言いましたか? パリですよ。パリ。僕が留学していたのは」


 ここへきて僕は彼のことがよくわからなくなっていた。


 うーん、どうもよくわからない。創刊されたばかりの雑誌リベーラの編集長が彼の甥であるということ、法律事務所をやっていて、今はそこの顧問であり、仕事は息子に任せており、彼自身は週に二~三度しか顔を出さないということ


つい一週間前に、若い頃ロンドンに留学していたと言ったかと思うと、今日は、いやそうでなくて留学していたのはパリだと言ったりして。


でも何より不思議なのは、最初あれだけ熱心に語っていた雑誌リベーラと甥の編集長について、ここんとこまったく触れようとしないことだ。


そんなふうに考えていると、酔いも手伝ったせいか、次第に頭に混乱を来たし、何がなんだかよくわからなくなってきて、早くここを出て外気に当たって頭を冷やさなければと思っていた。


「いい時間ですし、そろそろ出ましょうか」

伝票の方へ手を伸ばしながら僕が言った。


「えっ、もう帰るんですか?もう少しいいじゃないですか。パリのことなどまだいろいろお話したいことがありますし」


 この前のバーでは出るのをすんなりと応じた彼が、その日は渋ってすぐ立とうとはしなかった。


「でも僕少し酔ったみたいだし、外へ出て早く冷たい外気に当たりたいんです」


「おや、ご気分でも悪いんですか? いや、そんなふうでもありませんね。顔色も良くて。


でもそうですね。出ましょうか。出て外の新鮮な空気を吸いましょう。


そうだ。この近くに公園があるでしょう。酔いを覚ますためにそこへ行ってしばらく散歩でもしましょう」


彼のその言葉に、僕は時計に目をやり、まだ九時半だ。と時間を確認し、そうだな、酔ったままバスに乗るより、少し歩いて頭をすっきりさせてから帰ったほうがいいかと、「公園ですか。


でもそんなとこ、この近くにありましたか? いいですよ。とにかくここを出てそこへ行ってみましょう」と、伝票をつかんでややふらつく足で席を立った。


つづく


次回 6月11日(木)