2026年6月18日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈6〉紳士と編集長(8)

     

  

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 〈木谷進一〉と名乗る男の人から僕の職場に電話があったのは、そんなある朝のことだった。


木谷と名のったその電話の声に、木谷、はてどこかで聞いた事のある名前のようだが誰だったろう? 確か得意先にはそんな名前はなかったはずだが、僕は相手のことを思い出せないまま用件をたずねていた。


 「木谷進一ともうします。父の木谷徳夫をご存知だと思いますが」

 

 つい最近まで四度も会っていて、すぐにでも思い出してもいいはずなのに、木谷さんと名前を呼んだことがいくらもなく、そう言われたときもピンと来ず、やや間をおいてやっと二度目に会った時に貰ったあの木谷法律事務所という名刺の名前を思い出し、「木谷さん、あの法律事務所の」と慌てて僕は返事した。


 「法律事務所って、ひょっとして父がまたそんな名刺をあなたに渡したんですか?」


電話の声は一オクターブ高くなり、なぜか狼狽しているかのようだった。


「いえ、こちらがやっているのは会計事務所なんです。前にも一度あったんですけど、父はどういう訳か会計事務所を嫌っており、勝手に法律事務所と書いた名刺を人に渡したりするんです。お恥ずかしいことですが」


 「へえー、会計事務所なんですか」

 久しぶりにまた紳士のイメージを頭に描きながら、僕はそれだけ答えた。


 「実は今日お電話させていただいたのは父のことについて、二〜三お聞きしたいことがありまして」


また元のトーンに戻った電話の声が僕にそう告げた。


 あの夜以来一度も会っていないけど、あの紳士の息子がこの僕にいったい何を・・・。


僕はやや不審な気持ちだったが、とりあえず「はいどうぞ」と返事した。


 「父は一ヶ月ほど前から週に二度バスに乗って病院通いしているんです。最初の二週間ぐらいは五時に診察を終えて、五時半にはバスに乗り、六時過ぎには家に戻っていたんです。


ところが三週目に入った頃、たて続けに二回、それまでより四時間も遅い十時ごろ帰ってきたんです。


なにぶん病気が病気なもんで、予定の時間に帰ってこないと家族はとても心配なんです。


それで父に問いただしたところ、あなたの名刺を見せて、「二度ともこの人に会っていた」と言うもんで、その真偽を正すためにお電話させていただいたのです。


いえ、父が普通の人間だとこんなことはしないんですが、さっきも言いましたように病気が病気なもんでして」


 週に二度病院通い? 彼は「週に二〜三度事務所に顔を出す」といってたけど、そうじゃなくてその二~三度は病院通いだったのか。


それにしてもこの息子とかいう人、今しがた、「なにしろ病気が病気なもんで」と二度も言っていた。その病気っていったいなんだろう?


 僕はますます不審な面持ちになっていたが、極力平静をつくろって応答した。


 「はい。確かに二十日ほど前に一度と、その一週間後に一度お会いして、二回とも九時ごろまで一緒にお酒を飲んでいましたけど」


 そう答えながら、最後の夜のあの公園でのことをやや苦々しく思い出していた。


 「そうなんですか。それで父の言ったことが嘘でないことはわかったんですが、実はこれ言いにくいんですが、できましたら今後父に誘われた時は断っていただきたいんです。


父はいま、そう鬱病の治療を受けてまして、アルコールは禁止されているんです。そうじゃなくても現在はそうの状態にあって、精神が非常に昂揚していますので刺激はよくないんです。


あちこちでありもしないことを大言壮語したりして、本人は気分がいいようなんですが、刺激は病気の回復を遅らせると治療に当たっている医師も言っていますし、それで・・・」


 そううつ病。そう聞いて僕はおぼろげながら紳士のとった一連の言動についてわかってきた。そしてこの息子のを申出を承諾することに何の依存もなかった。


 「そうだったんですか。そうとは知りませんで、お父さんにお聞きになったかどうかは知りませんが、僕たち、最初は駅前のバス停で知り合ったんです。


その時僕が読んでいた雑誌が縁で、なにかその雑誌の編集長を東京にいる甥っ子さんがやっているとかで」


 躁うつ病という病名を聞いてから、僕はそのことについてはもう半信半疑であったのだが、話の行きがかり上、ついそう言ってしまった。


つづく


次回 6月25日(木)