2026年6月11日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈6〉紳士と編集長(7)

  

  

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 この前の、ホテルのバーのお返しのつもりでその日は僕が勘定を払いそこを出たとき外には秋半ばの心地よい風が吹いていた。


 居酒屋から路地を駅前のバス停とは反対方向に二ブロックほど歩くと、彼の言ったとおり左手にうっそう木の生い茂った公園があった。


たぶん児童公園なのだろう。端のほうには砂場があり、その前の二組のブランコが風で微かに揺れているのが街灯の薄明かりの中に見えていた。


 「座りましょうか」


 そのブランコとは反対側の正面のベンチをさして彼が言い、「そうですね」と僕が応じて、二人は人気のない深閑とした公園の片隅に腰を下ろした。


それからしばしの間、彼と僕とは心地よい秋風に吹かれながら黙っていた。


「でもおかしいですね。こんな時間に男同士でこんなところにいるなんて」ふとそう思って僕が口を開いて横をふり向いた時、最初そのベンチの端と端に間隔をおいて座ったはずなのに、いつの間にか彼がすぐ横に寄ってきており、「そうでしょうか」と返事をしたとき、その息づかいが僕の頬をなでるような気がした。


 でもこの人はどうしたんだろう。こんなに近くによって来たりして? 


僕がそんなふうに少し妙に思っていた時、「手を握ってもいいですか?」と、思いもよらないセリフが彼の口から飛び出した。


 「手握るって、いったいそれなんですか?」


 僕がそう答え終わるか終わらないうちに、ひざの上の、僕の右手に生あたたかい彼の手が伸びてきて、甲の上にそっと重ねられた。


驚いた僕は、その瞬間手を引っ込めようと思ったが、すぐにはできず


 「ちょ、ちょっと待ってください。なんですかこれ?」と、かなり上ずった声で言いながら、ひと呼吸おいてから、彼の手の下からサッと右手を引き抜いた。


 「ねえいいでしょう。少しだけ」


 そんな僕の行動に少しも動じることなく、横合いから彼が今度は囁くように言った。


 やばい! この人ホモっ気があるんだ。彼の紳士振りからして、ついさっきまでは露ほどもそんなことは考えていなかった僕だけど、二度目のそのセリフではっきりそう思った。


でもそれを直接指摘するようなセリフは吐かず、「いったいどうしたんですか。酔っているんでしょう。それとも僕をからかっているんですか?」


 そう言って僕はベンチから立ち上がった。つられて彼も立ち上がり、今度は僕の目の前に立ちはだかり、「ねえキミ、ちょっとでいいから手を握らせてください。それが駄目なら肩を抱かせてくれてもいいですから」とさっきよりエスカレートしたセリフを吐いた。 


 こりゃ駄目だ。ここは早く退散するしかない。


 そう思って「帰りましょう」と一言発すると、踵を返して公園の入り口に向かって歩き始めた。


 「待ってくださいよ。ねえいいでしょう。ちょっとだけですから」


 彼はなおもさっきと同じようなセリフを執拗に吐きながら僕を追ってきていた。


きゃしゃな体つきで、しかもあの年齢では力ずくでどうこうされる心配はなかったけれど、なんだか次第に気味悪くなってきて、早く大通りへ出なければと、僕は逃げるように小走りで歩いていった。


 さっきの居酒屋の前まで来て、やっと辺りに人影が多くなり、立ち止まってさっきの方角を振り返ってみた。公園から一直線のその道に彼の姿は見えなかった。


 彼、追って来てないな。途中で道を折れて違う所を通って帰ったんだろうか?

 

公園にいた時間はいくらもなく、まだそれほど夜風に吹かれてはいなかったが、思いもよらない彼の振る舞いにすっかり驚かされたせいか


さっきまでのほろ酔いかげんも一気に吹き飛んでしまっており、まるで悪い夢から覚めたような妙な気持ちでバス停に向かって今度はゆっくりと歩いていた。


 そんなことのあった秋の一夜だったが、次の週から僕の職場であるデパートの外商部は秋期特別売上強化ウィークスというものに入っており、それからの二週間は連日ふだんの二倍ぐらいの得意先まわりをこなさなければならず


仕事を終えて帰りのバスに乗るのはいつも八時を過ぎており、しばらくの間はバス停であの紳士に会うこともなかった。


 あの夜はあれからずいぶん考えた。


 いったい彼ってどうなっているんだろう。二週間ほど前、バス停でリベーラを読んでいるとき僕に近づいてきて、突然「その雑誌おもしろいですか?」と聞き、次に会ったときには「実はあの雑誌の編集長は僕の甥なんです」と言って僕を驚かせ


その次のホテルのバーではそのことについてはとんと触れず、「若いときロンドンに留学していた」と言ったかと思うと、今度は「昔いたパリにまた行ってみようと思うんです」などと言う。


あの話の脈絡の乏しさ、そして極めつけは居酒屋を出たあとの夜の公園での、まるで僕が想像することもできなかったあの振る舞い。知的な風貌と一分の隙もないほど洗練されたいでたちのあの紳士はいったい?


 あの夜のバスの中でも、帰って床についた後でもずっとそのことばかり考えていた。でも、結局よくわからなくて結論めいた考えには至らなかったのだ。


でもその後バス停でも会うこともなく、しばらくたつと、彼のことはさほど気にならなくなっていき、いつも仕事で疲れていたせいか、二~三日の間はまったく思い出さないこともあった。


つづく


次回 6月18日(木)