2010年7月13日火曜日

変ってきた日記のイメージ

自分のものも含めて、昨今のネットのブログにはそのタイトルに「~日記」とか「~diary」などとつけたものが実に多い。

少しオーバーな表現だが、まるでこれなしではブログタイトルが成り立たないのかと思わせるほど多くのブロガーがこの名前にこだわっているようである。

でもここではブログサイト上のそれらのものを対象として言うのではなく、いわゆる従来型の日記に対して,一つの提言としての筆者の日頃からの考えを述べたものである。

本などに載せられた記事の中に時々、「日記とは人に見せるために書くものではない」といった断定的でやや偏見的なニュアンスをもったコメントを目にすることがある。

そんな意見に接したときの私はいつも「エッ」と小さな驚きの声を発していて、その後すぐ「何故だろう」とその理由について探りたい気分になっている。

でも考えてみても、それに対する答えなど何も頭に浮かばず、出てくるのはそうした意見への反論ばかりである。

世に「三日坊主」という言葉があるが、その対象となるものでなぜか多いのがこの「日記」である。
では日記はなぜ三日坊主になりやすいのであろうか。

推論だが、その理由の一つは、「人に見せるものではない」という先入観に縛られていて、それ故に「評価されることがない」と考えるため、やりがいを感じないからなのではないだろうか。

したがって初めの頃こそ気合だけでやり通せても、すぐに「やりがいの無さ」からモチベーションの低下を来たし、やがてギブアップへと結びついていくのではないだろうか。

そもそも日記とは何なのであろうか。

その問いに対して「それは自分の身辺の日常の出来事の記録である」と応ずるのが従来の日記の形なのであろう。
しかし社会は大きく変わってきた。

インターネットが普及して、ブログという形で誰もが人に評価してもらう為に自分の意見を公に向かって発表できるような世の中になってきた。

こうしたトレンドの中で、同じ書くという作業を必要とする従来型の日記だけを、未だに「人に見せるモノではない」と、なぜ考え続けなければならないのであろうか。

人は本来、自分の意見を人前で発表したいものである。

それを書くことによって、つまり文章にして発表するのである。

文章も芸術のひとつである。そうである以上、人の評価なくして制作のためのモチベーションは上がらず、ましてその上達は望めない。

それ故に古いイメージの日記という形で、ちまちまと独りよがりの文章を綴っていくより、堂々と人に見せることを前提として日記を書いていく。そのほうが余程やりがいを感じ、それ故に長続きするのではなかろうか。

今の時代、自己を堂々と主張する為にも、日記はむしろ人に見せるモノと考える方がいいと思うのだが・・・。

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