「ひゃっきん」とカナで書いたら少し妙な感じもしないではないが、漢字で表すと「百均」となり、つまり「百円均一ショップ」のことである。
誰がつけたのか、この「ひゃっきん」と言う名前、語感と言い、その使い勝手と言い実に的を得た良いネーミングではないだろうか。
この「ひゃっきん」いつの間にか庶民の間にすっかり浸透していて、いわば「無くてはならないもの」という感すらして、今や庶民の味方として圧倒的な力をもって消費社会に君臨している。
よく「日用品のかしこい買い方」などとタイトルのついた雑誌などで目にする記事に「日用品を買うときはまず百円ショップに行ってみて、無かったら他の店を当たればよい」などと書かれており、そう紹介されるほど百円といえども、その品揃えは実に見事なのだ。
その品揃えの中で、時として「こんなにいいモノをはたして百円という安い値段で買っていいのだろうか」と、買う側をすこぶる謙虚な気持にさせるほど価値ある品物に当たることもあったりする。
今の消費社会では物を販売する「店」の形態は多種多様だが、それらの中で、「百円ショップ」のように「無くてはならない」と感じさせるものが果たして幾つあるだろうか。
デパート、スーパー、コンビ二、ドラッグストアなど、並べてみれば種類は多いが、これらを指して「無くてはならないもの」と言えるだろうか。
いや決してそうではあるまい。
つまり、あえて必要でなかったり、もしそうであっても他で代替が利いたりするのである。
デパートは年々売上が減る傾向で客離れが進んでいて、もはやなくても困らないと思われるし、スーパーは必要ではあるが、もし無いとすれば少し値段の高いのを我慢すれば、デパ地下とかコンビ二で間に合うし、コンビニは少し距離はあってもスーパーに行けば良いと考えられ、ドラッグストアは薬品では必要だが、日用品では他の店でいくらでも間に合う。
以上のような考えから、日常生活ではポピュラーなこうした形態の店も、百円ショップのように「価格的な面で無くてはならない」という、言わば絶対条件的なものは持っていないのである。
したがっていずれもが「無くてはならない」と言い切れないのである。
世の中の景気は依然と悪く、庶民の懐が寂しくなる一方の今の社会で「ひゃっきん」の価値はますます上がり、無くてはならないものという実感も次第に強くなっている。
こうした状況下で、最近少し残念に思うのは、百円の品物の間にいつの間にか「300円」とか「500円」とかの商品が交じり始めていることである。
利益獲得上仕方のない方針とも考えられるが、できることなら本来の「100円均一」の精神を貫いて、今以上に他の価格帯の商品を増やさないでほしいものである。
「庶民はひゃっきんなしでは生きられない!」のだから。
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