マンハッタン西97丁目 第1章「眠られぬ夜」(その8)
あれからはや一ヶ月たつ。修一はエールトンの地下にある社員用ロッカールームで、クラーク用のジャケットに着替えながら、空港で見送るときの、ちょっぴり寂びそうな憂いに満ちた木内さんの美しい横顔を思い出していた。
でも着替え終わったときには、そうした感傷を胸の内から払い除けるかのように、―さあ、今日の仕事の始まりだ。と、ロッカールームのドアを開け、階段を上がって職場のフロントオフィスの方へと歩いていった。
マンハッタンに初雪が降った十一月下旬のある朝、洗面所に立った私を見てエセルが「一緒に食事をしない?」と言った。
このアパートへ来て最初の二週間ぐらいは、彼女はほぼ三日に一度の割合で朝食に誘ってくれていた。でも、このところ修一の朝が遅いこともあってか、久しぶりの誘いである。食卓についた修一に向かってエセルは思いがけない初雪に多少興奮した様子で「この雪はいつもの年より二週間も早いのよ」と言った。
例年だとここニューヨークでは十二月初旬から中旬にかけて初雪を見るのが多いのだそうだ。今日が十一月二十一日だから、いつもの年が十二月初旬としても、そうだきっちり二週間早いのだ。
「この雪も陽が照ってうまく溶けてくれるといいんだけど、気温が上がらずそのまま道路に凍りついてしまったら歩くのが大変なのよ」
エセルは今度は心配そうな表情をしてそう話し続けた。修一もその後何度も経験したが、実際ここニューヨいークの雪は降っているときはともかく、降り止んだその後が大変なのだ。
気温は東京あたりよりはるかに低く、積もった雪はよほど速く取り除かないと、たちまちカチンカチンに道路に凍りついてしまうのだ。そうしたときは修一のような若者でさえ歩くのがオッカナビックリなのに、足腰の強くないエセルのような老人にとっては外出する際の大きなな悩みの種になるに違いない。でもこの朝の修一にはそうした事情がまだよく飲み込めておらず、エセルの話に適当に相づちを打つだけであった。
エセルはその頃になって修一のことを「サミー」と呼ぶようになっていた。
でもこれはエセルがつけたのではない。エールトンホテルのアシスタントマネージャーであるマッコイさんが付けたものなのだ。
なんのことはなく、修一のイニシャルのSを取ってつけただけの単純なものである。エセルにそのことを教えると「それはいい」といって、早速その日から使い始めたのである。
エセルの朝食はいつも質素だ。少量のスクランブルエッグに二枚のベーコン、それにパンが一切れとコーヒー。パンにつけるバターとかジャムはいつも出ていなかった。こちらへやって来るまで、アメリカ人の食事が意外と質素であるということは知らなかった。
エセルを見ただけでそうと断言はできないが、チャーリーの店でも豪華な朝食をとっている人など見たこともなく、夕食はともかく、朝食と昼食においては、日本人よりむしろ質素なのではないかとさえ思った。
朝食が終わって、後かたずけしているときエセルが口をひらいた。
「サミー実はね、近々もう一人下宿人が来ることになったのよ」
エセルのその言葉を修一は意外な面持ちで聞いていた。
それまで修一以外の下宿人云々ということは一度も話題にされたことがなかったからだ。でも、そう言われてみれば、入り口のドアにいちばん近いキッチンの隣の部屋が空いている。
そうか、あの部屋に入るんだ。以前その部屋を覗いて見たとき、―この部屋空いているのなら、ぼくに只で使わせてくれないかなあ。などと虫のいいことを考えたことがあったが、修一の部屋より少し狭いが、ベッドとクロゼット、それに机と椅子があって、設備については遜色ない。
「それでその人も僕と同じ日本人?」と聞くと、
「いいえ、今度は二十九歳のカナダ人よ」とエセルは答えた。
カナダ人か、そうするとエセルの他にもう一人僕の英語の先生が増えるわけだ。
そう思うと、あの部屋を自分が使わせてもらうチャンスがなくなったのは少し残念な気持ちがしたが、総じてこのことに対して不満はなかった。
そのカナダ人は十二月早々にやってくるとのことであった。その人のためにも、今後エセルの喘息の発作がなるべくひどくならないようにと祈った。
(つづく) 次回6月15日(日)
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