マンハッタン西97丁目 第2章「予期せぬ下宿人」(その4)
エールトンホテルでの早朝出勤も二週目に入り、次第に身体も慣れてきた。
そんな週半ばのある日の午後、前の週にこのホテルのコーヒーショップで会ったN商事の山崎から突然電話がかかってきた。仕事が一段落して、そろそろこの日二度目のコーヒーブレイクでも、と思っていた矢先、チーフクラークのマックが「サミー、フレンドから電話だよ」と呼びに来た。それまで勤務中に外部からプライベートの電話がかかってきたことなど一度もなかったので、いったい誰だろう?」と、いささか怪訝な気持ちで受話器をとった。
「ハロー ジスイス オオノスピーキング」と英語で話すと、「ああ大野さんですね。先日は失礼しました。わたしN商事の山崎です」と相手はいきなり日本語で返してきた。
「お仕事中突然お電話して申しわけないのですが・・・・」と続いた山崎の話の内容は、明日の夜、自分のアパートでこちらに滞在している日本人ばかりが十人ほど集まって親睦バーティをやるので、あなたも出席しませんか?というものであった。
先週初めて会ったばかりで、まだ相手についてろくすっぽ知っていない山崎からのパーティの誘いに、はっきり言って戸惑った。日本人ばかりといっても皆知らない人ばかりだし、それに四時に仕事が終わるのも今週一杯。できることなら明日もまた早く帰ってバーマと話がしたい。そんなふうに考えながら修一は返事を躊躇していた。受話器の向こうの山崎も、そんな雰囲気に気づいたらしく、
「急にお電話して今すぐ返事をくれと言うのもなんですから、できましたら今夜にでもわたしのアパートに電話いただけませんか」と言った。
山崎のとっさの判断力のよさに感心しながら、それを承諾し彼の電話番号を聞いて受話器を置いた。
その後すぐコーヒーブレイクを取って外へ出た。
七番街を横切り、前方のやけに敷地の広い大きな建物のほうへと歩いていった。
丸い円筒状のこの建物は、かの有名な室内スポーツの殿堂「マディソンスクエアーガーデン」である。ここでは近々、プロボクシングヘビー級のアーリー(カシアス クレイ)の三度目のチャンピオン防衛戦があるということで、正面玄関の横には、今にも相手に殴りかからんばかりの鋭い目つきをしたアーリーと対戦者がファイティングポーズで向かい合った大きなポスターが貼ってあった。
それを横目にして、建物の前の広大な敷地を歩きながら、修一はしきりに先ほどの山崎からの電話の件について考えていた。
せっかくの誘いだから行ってみようか。でも彼のアパートはどこだろう。近いのだろうか? それにパーティはどれくらい時間がかかるのだろうか?
そんなふうに考えながらまだ決断が就かないまま時計を見て、時間がきた、と来た道を職場へと引き返して行った。
この日チーフのマックはなぜかすこぶるご機嫌だった。いつもはフロント中央の宿泊客のネームラックの前に立って、「シット!(くそったれ)」とか「ガッダム!(くたばれ)」だとかのあまり品のいいとはいえないスラングを吐きながら、どちらかと言えばしかめっ面をして仕事をしていることが多いのだが、この日のマックはいつになくニコニコしている。
どうした風の吹き回しであろうか。客から思わぬチップでももらったのかな? それとも十二月も終わりに近づき、そろそろオフシーズンとなり、仕事が暇になってきたからであろうか。 いつもと違うマックのことをそんなふうに勘ぐった。
すでに五0年配で、転職の多いアメリカ人には珍しく、このホテルにもう三0年近く勤めており、役職では彼より上のフロントマネージャーのウイルソン氏も、副支配人のマッコイさんもこのマックには頭が上がらないらしく、仕事上の議論などしても、いつも負かされてすごすごと引き下がっている。この道三0年のキャリアはやはり伊達ではないのだ。
三時を回った頃、マックが修一の側に寄ってきて、「仕事にはもう慣れたか? 日本は恋しくないか?」などと聞いた。マックとしてはいつも「これをしろ、あれをしろ」と修一に仕事の命令をしているので、こうして近づいてきて、こんなふうに声をかけたのも、ほんのご機嫌とりのお愛想のつもりだったのに違いない。
そうと分かっても、まんざら悪い気もしなかった。
マックはあと一時間も仕事をすれば、明日と明後日は休みだと言った。
この月の彼の休日は木曜日と金曜日であったのだ。
ああそうか、それで今日のマックは機嫌がよかったのか、とここへきてやっと機嫌のいい理由が飲み込めた。
「でも家の芝刈りがあるのでゆっくりとは休めないかもしれないんだ」
マックはそう言うと修一のほうへ向かってアメリカ人がよくやるように、両の手のひらを上に向けて肩をすぼめるポーズをした。そんなマックを修一は微笑ましげな表情をしてポカンと見ていた。
(つづく)次回6月29日(日)
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