今や自己PRの作成代行会社まである
最近の学生の就職活動においては「自己PR」ということの重要性がことのほかクローズアップされてきており、それを受けて指導者側も自己PRに関する指導に次第に力を入れてきているようである。
概して日本人は自己主張の下手な国民だと言われてきたがその原因はいったいどこにあるのだろうか。
多くの日本の諺や格言にもあるようにその理由は日本人が「でしゃばる」ことや「目立ちがる」ことを極端に嫌う性向があるからではないだろうか。
例えば「能ある鷹は爪を隠す」だとか「沈黙は金」とか、あるいは「謙譲の美徳」などの格言などにも見られるように、とにかく人前に「しゃしゃり出る」ことを敬遠する傾向が私たち日本人にはあるようなのである。
したがって会議などでも積極的に発言する人は「出る杭は打たれる」などと言われるが故に積極的な発言者は少なく、どちらかと言えば聞き役にまわる人が多くてその結果効果のない会議に終わることもあるのである。
これがアメリカなどだと発言せず黙っていたりすると間違いなく「無能」と見なされて昇進などもありえず、なにかことがあれば解雇の対象にもなりかねないほどで、それだけ発言力という要素は重視されているのである。
長年尊重されてきた日本人の美徳も残したい
そうした風潮が変わってきたのが最近の就活指導である。
一昔前と違って言葉ではっきり自分を主張できない人を企業は採用しないなどと言い切って「何が何でも自己PR」と強調しているのである。
いったいこれではこれまで尊重されてきた日本人の美徳はいったいなんだったのであろうか。
これでは「口下手の人など」はまったく出る幕がないではないか。
もちろん自己PRの重要性はじゅうぶんに認める。
しかし日本人が長い間美徳としてきたものを一気に放棄してまるで180度転換したかのようにそれだけを前面に出すのはどうであろうか。
何も口に出してばかりでなく態度や書面で発表していることを観察すればそれでじゅうぶんその人の実力や人間性が分かることもある。
それは当事者である人事担当者や面接官の力量次第ではないだろうか。
今の日本では小学校などで自分の意見発表などについての特に力を入れた指導はない。
これがアメリカなどだと成績表の項目にもディスカッションの場での発表能力という形で重要な能力評価項目になっている。
したがって日本でも基礎教育の段階からこうした方向に進まなくては、いきなり自己PRの重要性をといても、言葉だけが一人歩きしてなにか地に足がついていないような脆弱さを感じるのである。
加えるに下手に自己PRばかり指導すると、この言葉のの真意を捉えず実行に移す人が増え、どちらかと言えば日本人が嫌がる「自慢」と取られてしまう危険性をはらんでいるのではなかろうか。
自己PRと自慢とはどう違うのか
ではともすれば悪い意味に取られがちな日本語の「自慢」と言う言葉とこの「自己PR」とはいったいどこがどう違うのであろうか。
あるネットのサイトにはその違いについてこのように書いている。
自己ピーアールは、自分を売り込む為に行うのですが、どこを売り込むかのポイントがずれていると、自慢話ばかりのピントはずれな自己ピーアールになってしまいます。
テーマになるのは成功談がほとんどですから、つい自慢話になりがちですが、面接官が聞きたいのは、成功の要因をきちんと分析できているか?
成功した要因を違うテーマにも応用出来る人か? が知りたいのです。
・成功に至った最大のポイントは何か
・メンバー達の役割と自分の役割は
・常に心がけていたことは何か
・メンバー達はどのような行動をしたか
インターネット「面接突破のキーワード」より
このように自己PRについて書いた本などには、「自己PR」と「自慢」はまったく別なもののように書いているものが多いようだが、単に力点のおき方だけの相違で考えようによってはあまり違いはないようにも思えるのだが。
今でこそ「就活」でその重要性が叫ばれている「自己PR」であるが、そこはやはり日本人、その内容にあまりにも類型的なものが多くなれば、そのうち面接官も辟易としてくることもあり得るのではないだろうか。
とにかく行き過ぎた自己PRの指導は禁物で、この際日本人の美徳である「能ある鷹は爪を隠す」とか「沈黙は金」だとかの精神を今一度見直してみたいものである。
学生の就職関係者におかれましてはくれぐれも自己PR一辺倒で人物をはかるようなことはないように、また指導においてもこれに対して過度に重点をおくことだけは避けていただきたいものだ。
このことを切にお願いする次第である。
最近の学生の就職活動においては「自己PR」ということの重要性がことのほかクローズアップされてきており、それを受けて指導者側も自己PRに関する指導に次第に力を入れてきているようである。
概して日本人は自己主張の下手な国民だと言われてきたがその原因はいったいどこにあるのだろうか。
多くの日本の諺や格言にもあるようにその理由は日本人が「でしゃばる」ことや「目立ちがる」ことを極端に嫌う性向があるからではないだろうか。
例えば「能ある鷹は爪を隠す」だとか「沈黙は金」とか、あるいは「謙譲の美徳」などの格言などにも見られるように、とにかく人前に「しゃしゃり出る」ことを敬遠する傾向が私たち日本人にはあるようなのである。
したがって会議などでも積極的に発言する人は「出る杭は打たれる」などと言われるが故に積極的な発言者は少なく、どちらかと言えば聞き役にまわる人が多くてその結果効果のない会議に終わることもあるのである。
これがアメリカなどだと発言せず黙っていたりすると間違いなく「無能」と見なされて昇進などもありえず、なにかことがあれば解雇の対象にもなりかねないほどで、それだけ発言力という要素は重視されているのである。
長年尊重されてきた日本人の美徳も残したい
そうした風潮が変わってきたのが最近の就活指導である。
一昔前と違って言葉ではっきり自分を主張できない人を企業は採用しないなどと言い切って「何が何でも自己PR」と強調しているのである。
いったいこれではこれまで尊重されてきた日本人の美徳はいったいなんだったのであろうか。
これでは「口下手の人など」はまったく出る幕がないではないか。
もちろん自己PRの重要性はじゅうぶんに認める。
しかし日本人が長い間美徳としてきたものを一気に放棄してまるで180度転換したかのようにそれだけを前面に出すのはどうであろうか。
何も口に出してばかりでなく態度や書面で発表していることを観察すればそれでじゅうぶんその人の実力や人間性が分かることもある。
それは当事者である人事担当者や面接官の力量次第ではないだろうか。
今の日本では小学校などで自分の意見発表などについての特に力を入れた指導はない。
これがアメリカなどだと成績表の項目にもディスカッションの場での発表能力という形で重要な能力評価項目になっている。
したがって日本でも基礎教育の段階からこうした方向に進まなくては、いきなり自己PRの重要性をといても、言葉だけが一人歩きしてなにか地に足がついていないような脆弱さを感じるのである。
加えるに下手に自己PRばかり指導すると、この言葉のの真意を捉えず実行に移す人が増え、どちらかと言えば日本人が嫌がる「自慢」と取られてしまう危険性をはらんでいるのではなかろうか。
自己PRと自慢とはどう違うのか
ではともすれば悪い意味に取られがちな日本語の「自慢」と言う言葉とこの「自己PR」とはいったいどこがどう違うのであろうか。
あるネットのサイトにはその違いについてこのように書いている。
自己ピーアールは、自分を売り込む為に行うのですが、どこを売り込むかのポイントがずれていると、自慢話ばかりのピントはずれな自己ピーアールになってしまいます。
テーマになるのは成功談がほとんどですから、つい自慢話になりがちですが、面接官が聞きたいのは、成功の要因をきちんと分析できているか?
成功した要因を違うテーマにも応用出来る人か? が知りたいのです。
・成功に至った最大のポイントは何か
・メンバー達の役割と自分の役割は
・常に心がけていたことは何か
・メンバー達はどのような行動をしたか
インターネット「面接突破のキーワード」より
このように自己PRについて書いた本などには、「自己PR」と「自慢」はまったく別なもののように書いているものが多いようだが、単に力点のおき方だけの相違で考えようによってはあまり違いはないようにも思えるのだが。
今でこそ「就活」でその重要性が叫ばれている「自己PR」であるが、そこはやはり日本人、その内容にあまりにも類型的なものが多くなれば、そのうち面接官も辟易としてくることもあり得るのではないだろうか。
とにかく行き過ぎた自己PRの指導は禁物で、この際日本人の美徳である「能ある鷹は爪を隠す」とか「沈黙は金」だとかの精神を今一度見直してみたいものである。
学生の就職関係者におかれましてはくれぐれも自己PR一辺倒で人物をはかるようなことはないように、また指導においてもこれに対して過度に重点をおくことだけは避けていただきたいものだ。
このことを切にお願いする次第である。
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