2011年4月30日土曜日

ブラックジョーク傑作集(その3)


・ついてないのはどっち?

その弁護士はちょっと飲みすぎていたようだった。

車を運転して家に帰るとき、軽くオカマを掘ってしまった。

弁護士は車を降り、前の車の運転手をまるめこみにかかった

「おい、あんたツイてねーな。俺は弁護士だ」

運転手
「ツイてねえのはおまえさんのほうだ。俺は裁判官だ」


・やられるのは嫌だ

先生「ワシントンが桜の木を切ったことを正直に話したとき、
   彼の父親はすぐに許しました
   何故だか分かりますか?」

生徒「はい、ワシントンはまだ斧を持っていたからだと思います」


・ こわい話

レーサー:「あの峠道はね、別名『フラワーロード』と呼ばれてるんだ」

女:「素敵、たくさんのお花が咲いてるのね」

レーサー:「いや、死亡事故のメッカなんだ」


・どっちもどっち

女がベッドから出たとき、ちょうど電話が鳴った。女はOKといっただけで電話をすぐ切った。

男:「誰からだい?」

女:「夫よ」

男:「じゃあすぐに帰らなきゃ。彼はどこ?」

女:「急がなくていいのよ。夫はあんたとポーカーしてるって言ってたわ」



・サッカーの記者会見にて

インタビュアー「日本で最も注目すべき選手は誰ですか?」

クロアチア代表「そうだな、イチローだな」


・超過激なジョーク

「お母さん、真っ赤な手袋が落ちているわ。」

「あら、中身も入ってるわ。」


  2ch「ブラックジョークを延々とあげていくスレ」より

2011年4月29日金曜日

ゴールデンウィーク前日・ブログのアクセス数に異変が!

オイオイちょっと待ってよ。なんなのだ、今日の異常に少ないアクセス数は。

これだと普段の半分もいってないではないか!

いったいどうしたと言うのだ、この低い数字は。

4月月28日のこと、月初から平均120〜130と安定して続いていたブログのアクセスが突如止まった。

夜8時だというのにアクセスカウンターは「50」も行ってはいないではないか。

普段だとだいたいこの時間帯までには少なくても「90〜100」はいっているはずである。

いったい何が起こったと言うのだろう。

何かまた大きな災害でも起ったのだろうか。それで人々の関心がそちらへ向かってしまったのだろうか。

そう思って早速ニュースサイトを覗いてみたが驚くようなことは何も起ってはいない。

ではいったいなぜだろう。

そう考えていてふと気がついた。

そうだ。今日は大型連休に入る前の日だ。明日29日からは長い休日が続くのだ。

きっと人々は休みのことで浮かれてしまいブログ閲覧どころではないのだろう。

そうだ。きっとそうに違いない。他にこれと言う理由など見つからないのだから。

そう言えば去年のゴールデンウィークにはこのブログはまだ開設していなかった。

したがったその期間のアクセス状態など知るよしもない。

特に今年の連休は東日本大震災で人々が大きな衝撃を受けてみな精神的に疲れている。

その後のこの長い休みを迎えて皆ホッとした気持になっているのだろう。

緊張感が抜けて、久しぶりにゆったりとした気分を取り戻してゆっくり連休の過ごし方などに心をめぐらせているに違いない。

そうした緊迫感の緩んだリラックスした日がこの日なのだろう。

人々の心はいま連休の過ごし方を考えるのでいっぱい。他のことは何も頭に入ってこない。

ブログ閲覧もきっとその他のことの一つなのであろう。

結局昨日のアクセス数は今月1日平均のきっちり半分の「62」しかなかったのである。

2011年4月28日木曜日

「楽天」「ユニクロ」社内公用語の英語化・はたした快挙なのか暴挙なのか

不況下にも関わらずいま強い上昇気流に乗って躍進を続ける人気企業の2社「楽天」と「ユニクロ」。

先頃両社は2012年度から社内での公用語を英語にすると発表した。

これはわが国のビジネスマンに少なからず衝撃を与えるニュースである。

その後ビジネス界ではこれが大きな話題となり、あちこちで論議の的になっている。

そうした中で全般的にみると賛否両論であるようだが、一部には意地悪なものもある。

その意見をご紹介すると 「そもそもこの発表の本来の目的はグローバル化を目指している両社の雰囲気作りのための宣伝にあるのであって、果たして2年後に完全英語化するかどうかは疑わしい」などと言うものであるのだ。

さらにこんな批判もある。

「海外赴任の可能性もない社員になぜ英語が必要なのだろうか。そんなことをすれば英語学習に時間と神経を向けなければならなくなり、他のことがおろそかになりトータルではマイナスになるのではないだろうか。

そもそも日本国内で英語を必要としている人は5%ぐらいしかいなく、95%の人はまったく必要としていないではないか。

それに会社にそうした風土を作ると、英語ができる人だけ評価され、出来ない人の仕事へのモチベーションが低下するのではなかろうか」などという意見である。

そうした外部からの意見などどく吹く風とでも言うふうに、これに対しての両社トップの鼻息は荒い。

まず楽天の三木谷社長であるが自身がハーバードビジネススクールのMBAを取得しているだけに英語力は抜群。

同氏は言う「目的は日本企業であることをやめて世界企業へと変身をはかるためである。

今後会議は資料を含めてすべて英語で行い、英語が出来ない執行役員は2年後にはくびにする」と、ここまでテンションが上がっているのだ。

一方ユニクロの柳井社長はこうである。

「世界中に年間100店を出店し、英語を使って世界で活躍できる店長を年に1000人送り出す。

その目的のために社員のTOEICの平均得点は700点以上を目指す」とこちらの方も負けず劣らずの怪気炎である。

では私自身の感想はどうかと言うと、過去にホテルマンとしてニューヨークで1年少しの期間職場留学の経験があるのだが、そこでは300名あまりのスタッフの中で日本人は私一人であった。したがって当然のことながら周りは英語オンリーである。

だがこれは外国であったのでいたしかたないこと。

しかし今回の話は日本国内でのことである。

まあ楽天などは外国人社員が非常に多く外国人相手に話すときはいいとしても、問題は日本人同士の会話である。現段階では決してすべての社員が流暢な英語をしゃべれるわけではないだろうし、果たしてじゅうぶんコミュニケーションが取れるであろうか。

それには大いに疑問がわく。

コミュニケーション不足を来たし仕事に支障が出はしないだろうか。

さらに国内で日本人同士が何も英語でしゃべらなくてもいいでないか。

私などそうした場面を想像しただけで面はゆい思いを感じるのだが。

なにはともあれこれに関する両社の今後の展開が見逃せない。

2011年4月27日水曜日

いま「シェア」の時代なのか・所有から共有への意識の変化

いま巷間でよく耳にするようになった「シェア」とはいったい何を意味する言葉なのであろうか。

シェアとは「分け前」とか「分け合い」あるいは「共有」という意味である。

ではなぜその言葉に今熱い視線が向けられているのであろうか。

いま東日本巨大地震の被災者に向けた募金活動が国内を問わず世界中の国々で過去に例を見ないほど大きな盛り上がりを見せている。

人々をここまで駆り立てているのはいったい何であるのだろうか。

それは決して災害の大きさに比例するだけのものではないように思われる。

それはむしろ近年国内外を問わず急激にに高まってきている人々(特に若者)の社会貢献に対する意識の高まりによるものではないのだろうか。

つまり不遇な立場にいる人々とその困難や苦労を共に分かちあおうと言う精神のあらわれではないのか。

それに加えて格差社会と言われる今の世の中を少しでも平等な方向へ持っていこうとする人々の行動のあらわれなのかもしれない。

いまシェアビジネスに熱い視線が

何もこれは社会貢献という名の奉仕活動の分野だけでなく、今やビジネスの世界にもこのシェアという考え方は広く浸透しつつあるのだ。

例えばCO2削減の目的で車の増加を押さえる為の自家用車の共同所有。

あるいは管理が行き届く共同墓地の促進。はてまた高齢者の孤独化を防ぐシェアハウスの普及促進運動などなどなど。

身のまわりだけでも数多くのこうした新形態のビジネスの出現を目にするようになってきているのだ。

こうした社会の現象はまさに今の世の中が所有社会から共有社界へと変身を図ろうとしているようにも見えてくる。

こうした現象が今大きく社会に広がろうとしているのは先ほど述べたように人々の「分かち合い」の精神と共に、無駄を廃する合理化精神に目覚めたからであるとも言えるのではなかろうか。

つまり、たまにしか乗らない車、たまにしか着ない高級な着物や洋服などを何も高いお金をかけて所有する必要はなくレンタルですませばいいという考え方である。

このように物の所有に対する人々の価値観が大きく変わってきているのである。

もちろん一部の人たちの間にはこうした考えは以前からあったに違いない。

例えば持ち家主義ではなく借家主義であるというような。

しかし今起っている一連のムーブメントは決して一部の人たちの間のことではなくなってきているのである。

そして、そうした人々の価値観の変化に対応する為に出てきたのが数々の「シェアビジネス」なのである。

これを一時だけの一過性のブームと見るか、今後普遍的に続くものであると見るかは現時点では不明である。

それがはっきり見えてくるのは日本経済が不況を脱して再び景気を取り戻した時ではなかろうか。

2011年4月26日火曜日

この小説に新時代の息吹を感じた・IT社会における父と息子の壮絶な起業奮戦記

書評「起業の砦」江波戸哲夫著・講談社

書評を度々ブログに載せるつもりはなかったのだが、この本だけは許していただきたい。

これほど今の時代を見事に捉えた経済小説は稀であるという思い込みからあえてここに紹介させていただくことにする。

読み終えるのが惜しいと思うほどの充実感を味わいながら卓越したストーリー展開に引っぱられて一気に読み通した。

第二の産業革命とも言われて久しい現在のIT社会下でリーマンショックの余波で職を失った不動産会社エリートであった父と、一度挫折を経験したコンピューターの申し子とも言える息子の壮絶な起業奮戦ドラマである。

49歳の父と24歳の息子は世代は違うが一度仕事を失ったという点でおかれた立場は同じである。

その二人がそれぞれの方向で起業を目指して悪戦苦闘しながら道を切り開いていく様子が業界の克明な描写をもとにリアルに描かれている。

父親と息子の日常が同時進行で語られており、それが臨場感と共に緊迫感を一層盛り上げている。

特に父親の大手不動産会社での長期間にわたる勤務のヒストリーなども良く書き込まれており、それ故に業界動向が手にとるようにわかる。

それと同時に仕事を通じた主人公の人間像がはっきり浮かび上がっているのも大きな魅力である。

元エリートの身でありながら、今はハローワークに通いを続けるというその身の哀れさなども人間臭くリアルに描かれている。

息子の方も一時は親に反抗しながらも、社会の荒波にもまれその厳しさに直面することにより次第に成長していく姿がよくあらわれている。

また全編を通しての著者の卓越したレトリックと会話文におけるセンスあるセリフが光彩をはなっている。

また時おり出てくる不動産営業活動現場でのセールストークはまさにトップセールスマンの見本とも思えるような洗練されたものである。

これなど不動産営業担当者には大いに参考になるのではないだろうか。

この本は先端のIT社会の現在の様子を見事に取り込んだ新時代にふさわしい経済小説である。

読んでいてぐんぐん引きこまれていくお世辞抜きの第一級経済小説である。

2011年4月25日月曜日

なんと大胆な発想だろう・ボスマネ(Boss Management)とは何か?

「上司取扱説明書」という超ユニークなタイトルの本が出ている。

女性経営コンサルタントの書いたものである。

内容を簡単に言えば部下が上司を上手にコントロール?するためのノウハウを説いた本である。

「部下が上司をコントロールする」と聞いて驚いてはいけない。

今やこのBoss ManagementというテーマはMBAの学習カリキュラムにも入っている必須科目なのである。

「部下は上司を選べない」とよく言われるが、言わばそうした上司に泣いている哀れな部下たちに勇気と救済の道を与えてくれる有難い本でもあるのだ。

また酒場で悪口を言って憂さ晴らしをするだけが能じゃないということも教えてくれる貴重な本でもある。

ではこの本に限らず一般的に「ボスマネージメント」についての講義ではではどのようなことを伝授してくれるのであろうか。

それは例えばつぎのようなことである。

・ 動かないボスを戦略的に動かす技術

まずあなたの上司が動かない理由を考えましょう。

恐らくそれは上司側の何らかの劣等感情に根ざすものなのではないでしょうか。

例えば部下が自分の言うことを聞いてくれないとか、自分が動いても部下はついてこないとか言うふうなマイナス感情を抱いており、それが行動力へのモチベーションを低下させているのではあるまいか。

もしそうであるなら、上司にやる気を取り戻させるためにコミュニケーションを強化する必要がある。

それには上司に対していわゆる「ほうれんそう」を頻繁に行って部下側の信頼感を見せることが必要である。

それにより信頼している態度を見せれば上司もそれに呼応して動いてくるのではあるまいか。

それが血の通う人間というものだ。

・ 考えが古いことを気付かせる技術

現在の世の中の状況にキャッチアップできていない古い考えと行動パターンの上司は今でも意外と多い。

いわゆる頭が固くてフレキシブルな思考が出来ないと言うか、要するに前時代的な考えとか手法を部下に押し付けるのである。

これに対抗するには相手にまっとうに当たっては駄目だ。

相手が理解できないような新しい用語とか話法を駆使して煙に巻いてしまうことしかない。

・ 上司にうまく協力させる技術

営業分野であればかつての活躍の場面などを祭り上げ、おだてまくってお手並み拝見と同行をお願いし、実地指導の場面を設定する(またはその努力をする)。

すると上司は例え同行はしてくれないとしても面子にかけて何らかの別の形で有利に取り計らってくれるものだ。

営業以外の部署でも基本的な考えは同じようなものだ。


以上は一例でしかないが、このような講義では多くの場合職場の上司に限って取り上げているのだが、考えてみればこれは私たちの身のまわりにいる目上の人全般に通用することなのではないだろうか。

つまり先生、監督、親、目上の兄弟や親族などなど。

ということはこのボスコントロールの手法をうまく使えば世の中の目上の人すべてを自分の思うままに上手に動かすことができるではないか。

そうなると、これはこれは夢のようなすばらしい手法ではないか。

まさに上司や目上の人に泣かされているビジネスパースン必読の書であると言える。

2011年4月24日日曜日

草食系男子・その実態と背景

近年の流行語について

ここ数年の間は話題になった流行語と呼ばれる言葉の中にそれほど気にいったものはない。

だが少し遡ってみるとやや古いそれらの中には傑作でその上使い勝手もなかなか良く、気にいっているものが幾つかある。

もう20年ぐらい前に出て今でも廃れることなく使われている「オヤジギャル」というのもその一つである。

もっとも最近では「オッサンギャル」などと少し形を変えて使われている場合も多いようだが。

しかしそれよりもっと気にいっているのが今回テーマにしている「草食男子」あるいは「草食系男子」とという言葉である。

はじめの「オヤジギャル」は確か流行語大賞を受けているが、この方はどうだったのだろう。

2009年に「新語・流行語大賞」のトップ10に選出された程度で大賞は受けていないようである。

もっとも映画化されるほどの人気は得ているが。

でも大賞を受けていないのはいかにも残念である

私個人としては何十年に一度の傑作とも思えるすばらしい作品なのだが。

この言葉は最近の「優しさ」だけが目立つ男子のことを実にうまく表現しているではないか。

力は無いが優しさだけは人一倍もっているというような。

これが最初に世に出たのは2006年というから今から5年前である。

この傑作?を作ったのはいったい誰なのか

コラムニストの深澤真紀さんという方が2006年10月に日経ビジネスオンラインで始めて使ったそうだ。

日経ビジネスオンラインと言えばお堅いビジネス系の情報サイトである。

それだけにこの言葉も浮ついたものではなく、対象の実態を良くとらえた上での代名詞として使っているのである。

その後2008年、雑誌「non-no」に草食系男子と命名された特集が載り、女性誌の間でしだいに浸透していったのである。

当初は恋愛やセックスにガツガツしない男性を指す代名詞として使われていたようだ。

でも今は意味のとらえかたも拡大され次第に幅広く使われるようになっている。

草食系男子の生まれた背景

では草食系とは対にある肉食系とはどのように違うのであろうか。

一言で言えばそれは「守り」と「攻め」ということになるだろうか。

それ故に最近の若者は、男子が消極的で「草食系男子」、女子が積極的で「肉食系女子」などと言われている由縁である。

ではこのような草食系男子はどのような社会背景のもとに生み出されてきたのであろうか。

そしてその意味はどのように変遷し定型化されてきたのであろうか。それについて探ってみたい。

まずこうした若者が現れてきた主たる原因は社会の経済的要因によるものではないだろうか。

つまり仕事をめぐる若者の環境はこのところ高度急成長期にくらべ大きく劣化してきており、その最たるものが正規社員の減少と臨時派遣社員の増大ではなかろうか。

それによりもたらされる給与などのハンディキャップは若者(男子)の意識をマイナス方向に大きく
変えていったのである。

具体的には以下のようなことである。

・車を欲しがらない。海外旅行もしたがらない。
・姉さん女房の増加で年下の夫が多くなった
・女性に比べて男性はアフターファイブや休日を楽しく過ごしていない
・正規男性新入社員は会社依存が益々高まっている(安定志向)
このような方向へ進むのは何も自らが好んだものではなく、非正規労働者としての低賃金の身ではいたしかたない選択であるのではなかろうか。

社会の歪みが作り出したこの言葉をもてあそんではならない

したがって草食系男子を減少させて元の正常な状態に戻すのは安定した正規雇用を増やしていくしか他に道は無いのではかかろうか。

私たちはこの"草食系男子"と呼ばれる男性を単に興味の対象としての社会現象として捉えてはいけない。
これは社会の歪みが生み出したむしろ悲しむべき現象として捕らえ、その解消に勤めなけらばならないのではなかろうか。

2011年4月23日土曜日

ブログのネタの見つけ方と探し方・私の方法

開設から10ヶ月、おかげさまで私のブログへのアクセス数は月をを経るにしたがって次第に増えてきている。

常々からアクセス(お客様)あってこそのブログだと思っており、それこそが「やりがい」であり、記事更新の為のモチベーションを支えてくれるのである。

さてそうしたや「やりがい」を生んでくれるアクセス数であるが、それを獲得するために私は常日頃どういう点に留意してブログ製作に臨んでいるのであろうか。

また新鮮で魅力ある記事を書く為にそのネタ探しにはどういった方法で臨んでいるのだろうか。

本日はそうした点について、別に自慢できるほどたいしたことをしている訳ではないのだがその手の内についてご紹介することにする。

先ず私のブログのネタの探し方は大まかに言って次の7点から成り立っている。

・ 足を使って見て・聞いてまわる

不思議なものでブログをはじめて以来通勤途上や休日外出時には絶えず自分の周りの光景に注意を払っており、何を見ても先ずブログのネタにならないかどうかを考える習慣が身についてしまっているのだ。

これまで書いてきた230余のコンテンツの中でも、こうして見聞きしてきたことのネタが最も多いはずである。

・ できるだけ多くの本を読む

以前からよく通っている方だがブログをはじめたからの私の図書館通いはいっそう熱心になってきた。

このところ休日と言えばほとんどと言っていいぐらい図書館で過ごす日が多くなっている。

私がここで主に読む本は8割以上が新刊書である。

というのも何分ブログのネタは新鮮さが要求されるのでなるべく目新しい情報を仕入れる為である。

さいわい私の通っている「城内図書館」と言うところは姫路市はもちろん県内でも有数の大型図書
館であり蔵書数が多いばかりでなく、新刊書についても実に充実しているのである。

私はいつも到着するや否や新刊書コーナーに出向いてここ2〜3ヶ月以内に出た本が並べられた棚に目を通すのである。

だいたい平均してひと月に10〜15冊ぐらいこのコーナーに並んでいる本を借りている。
そしてそれらの中からこれはという新鮮で魅力あるネタを選んでいるのである。

・ 新聞やTVから(外国紙にも目を通す)

恐らくこの方法は多くのブロガーが採っていると思うが、正直言って私はあまりこれには頼らない。

ただとことんネタに困ったときにやむを得ずこの助けを借りることがある。

普段あまり頼ろうとしないのは新聞やTVの情報は多くの人が目にしており新鮮味にかけると思われるからである。

したがってこれを取り上げるときにはできる限り切り口などに気をつけてユニーク性を出すように気をつけている。

・ インターネット情報から

いったい1日にどれくらいgoogleをはじめとしたネットの検索機能を使っているだろうか。

平日はともかく休日になるとその数はゆうに20〜30回になっているのは間違いない。

その検索のプロセスで思いがけない情報に行き当たることがあり、そうしたときに限ってそれをネタにすることはあるが、あえてネタ探しのためにネットを使うことは無い。

理由は可能性は少ないにしても新聞、TVと同じことにである。

・ 他人のブログからヒントを得る

これは比較的よくある。でも直接他人のアイデアを登用することは無く、それにヒントを得た関連性のあるネタを考え出して使うことにしている。

・ ふと心に浮かんだこと

これはかなり多い。多いだけでなくこれによって書いたブログはいいものが多くアクセス率も高い。

特に寝がけや朝起きる前に浮かぶことが多い。

したがって寝具の横にメモの用意は欠かせない。

・ 過去の経験から

シルバー層ともなれば当然過去の経験は豊富である。

その経験の中から人があまりやっていないようなできるだけユニークなことをネタに使うことがある。

特に海外生活の体験は比較的良いネタになっていると思う。

以上私のブログネタ探しについての話題でした。

2011年4月22日金曜日

書評「徹子・ザ・ベスト」黒柳徹子著・講談社


聞き書きの本であろうか。

語り口調で書かれており流暢でテンポがいい。

おしゃべりを得意とする著者にはもってこいではなかろうか。

はっきり言って人気番組である「徹子の部屋」は見ていない。

でもユニセフ親善大使として長年世界中の恵まれない子供たちの為に尽くしてきたことに対しては日頃から敬意をはらっている。

この本は図書館で目にしてつい手にとってみたのだが、テンポが良い語り口に引きこまれて一気に読み終えた。

徹子の部屋の出演者の話。それらの人とのその後の友好関係について。美男美女であったという両親のこと。ユニセフ親善大使としての世界中の恵まれない子供たちとの交流。大好きな街ニューヨークの話題などなど、いずれも著者の人間味があふれる心あたたまる話で埋まっている。

読後感は「爽やかでありかつ痛快そのものである」とでも言えばいいだろうか。

癒しの一冊として是非お薦めしたい本である。

さて次は個人的な理由での感想なのだが、著者の父親黒柳守綱氏はN響のコンサートマスターであったそうだ。

そのN響の前身の楽団にいたとき、今では恒例になっている年末のベートーベン第九の演奏会を最初に始めた人が彼なのだという。

偶然にも私は昨年12月のブログに「なぜ年末にベートーベンの第九を聴くのだろうか」というタイトルの記事を載せているのだが、そのブログの中で今でこそ年末恒例になっているベートーベンの第九の演奏だが、それを始めた理由が単に楽団員の正月資金を稼ぐためにであったのだというのだ。

あの重厚な雰囲気をもつ年末の第九の演奏会がそんな軽い理由で始められたことを知り私はすっかり失望した。

そんな私の失望の念をブログに書いたのだが、あれを始めた当事者が著者のお父さんであったのだと著書の中でご自身が語っているのである。

これもなにかの因縁だろうか。まさに不思議な縁である。

まあそれはさておき、私がこの本で最も心を打たれた部分を最後にご紹介することにする。

著者が体験した戦時下での厳しい食糧難の日々を綴ったものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1日の食料は大豆15粒(229P〜231P)

戦争中、いちばん大変だったのは食べものです。
昭和18年(1943年)に、優秀な軍人だった山本五十六さんという方が亡くなったときは、文部省の命令で全校生徒が校庭に出てラジオでその発表を聞きました。
でも、その頃にはもう食べるものが無くて、お腹がすきすぎてみんな立っていられないのね。
どうしてもしゃがみこんでしまう。

余談ですが死亡が発表されたのは死んだ日より1カ月も後だったと言います。
当時はそれほど情報が操作されていたんでしょうね。
私はユニセフの活動でアフリカに行って、食べ物がない子どもたちに接するとき、ふと自分の子供の頃もこんなだったなあ、と思うことがあります。
戦争中は私もまた餓えた子供でした。戦争中、私がどんな生活を送っていたかというと、とにかく毎日空腹でした。

そして、四六時中、空襲に怯えていたせいで睡眠不足でした。
昼でも夜でも空襲警報が鳴ったらアメリカの飛行機が東京の空に現れて爆弾とか落とすんで防空壕に隠れなければなりません。
それでも子供たちは毎日学校に通っていました。お店も全部閉まっていて、何も売っていないから手に入るのは配給物だけ。

それでもはじめの頃は大豆がありました。
それを母がフライパンで炒って袋に入れてくれるんです。だいたい15粒。それが私の1日のご飯でした。
「これしかないんだから、考えて食べなさいね」と母に言われて、朝まず3粒ぐらい食べるんです。それで、あとはお水でお腹をいっぱいにしてから学校に行って、お昼ご飯に4粒ぐらい食べました。
お昼過ぎに空襲警報が鳴って、防空壕に入るでしょ。

そこで、身体をこう、丸めながら、考えるの。「あと8粒残ってる。このまま死ぬのなら、ここで全部食べちゃおかな。でも、生き残ったら家に帰ってから食べるものが無いな。どうしようどうしよう。
でも3粒は今食べよう。家に帰ったとき家が焼けてなくて、親が生きているといいな」そんなことを考えながら3粒食べるんです。

それから無事に家に帰って、親が生きていて「ああ、まだ大豆も5粒残っている、私は運がよかった」と思う。大豆もそのうち配給されなくなり、もっとひどいものになりました。栄養失調で身体中におできが出来ました。爪の下が腫れて膿んでくる。ひょうそという病気にもなりました。でも青森の三戸に疎開して魚を食べるようになったらすぐ治ったんです。
たんぱく質って本当に大事なのね。

黒柳徹子著「徹子ザベスト」講談社刊より

2011年4月21日木曜日

人種のるつぼニューヨークだからこそ・・・

まるで世界中の人種がすべて集まっているのかと思えるほど様々な国籍の人々が混在するアメリカ社会であるが、その中でもニューヨークは特にその傾向が顕著である。

マンハッタンをはじめその周辺には黒人居住区ハーレムをはじめチャイナタウン・ジャーマンタウン・イタリアンタウン・コレアンタウンなど世界各国の出身者がかたまって居住する地域が市内あちこちに点在している

特に古くから住民数の多いチャイナタウンなどはマンハッタンのダウンタウンの一郭にかなり広いエリアを占めていて民族衣装や中華料理の魅力もあってか、NYの人気観光スポット一つにさえなっている。

さてこうした人種のるつぼであるが故に、まるで思いも及ばないような珍しい体験に出くわすことがよくある。

路上でとつぜん白人に英語で道順を尋ねられるということ

ある日、日本の新聞が読みたくてしかたが無くなり、急に思い立って「新聞・雑誌閲覧室」がある西44丁目にある日本人協会のビルへと向かっている時であった。

地下鉄を降りて少し歩いてストリートへの角を曲がったときである。

向こうからやってきた初老の白人中年夫婦がやおら私のほうへ近づいてきたかと思うと主人の方がいきなり英語で聞くではないか。

「地下鉄の駅はまだ遠いでしょうか?」と。

どう見てもれっきとした白人で、言ってることははっきりわかったのだがとっさのことですぐ返事の言葉が出なかった。

それになぜ白人が日本人の私に英語で道順を聞くのだろう?」と妙な思いもした。

でも落ち着きを取り戻してとりあえずたった今地下鉄を降りて歩いてきた道順を丁寧に教えてあげた。

でも「なぜニューヨークまで来ている日本人にれっきとした白人が道順などを聞くのだろうか?」という疑問はその後も長く残った。

それからしばらくたって在米期間の長い知人に「人種のるつぼニューヨークではそうしたことは珍しくない」と聞かされてやっと納得した。

つまりこういうことだ。

質問した白人にとっては東洋人であろうがなんであろうが道行く人は皆英語がしゃべれて当然と考えているのである。

なぜならばニューヨークは多国籍人種混在の社会であり、道行く人はすべてこの地の住人と考えるからなのであろう。

まあたまには観光客も歩いていようが、そうした人は持ち物とか身なりで見分けているのであろう。

なにはともあれ渡米して間もない身にとっては大きなカルチャーショックを感じる出来事ではあった。

中国人や韓国人に間違えられることは珍しくない

話題はかわるが東洋人も多く住んでいるニューヨークであるが、中国人や韓国人に比べると日本人の数は少なくどちらかと言えばマイナー派である。

特に中国人とは数の上では比較にならないぐらい大きな差がある。

そのせいもあってか日本人はしばしば中国人とか韓国人に間違えられるのである。

それもそうであろう。

アメリカ人にとってこの東洋三国の人種の違いを外見から判断することは無理であろうから。

私も下宿の近くのカフェに初めていったとき、店主にいきなり「Are you a chinese?」聞かれた。

そのときは少しムカッとしたが、考えてみれば店主がそう聞くのはいたしかたないことかもしれない。

なにぶんニューヨークには日本人の10倍ぐら中国人が住んでいるのだから。

肌の色をはっきり指摘されて・・・

またこういうこともある。

肌の色が違う人々が混在しているNYでは現地の人々は露骨に相手の肌の色を指摘して憚らない傾向がある。

その裏に隠れている相手の様々な感情を知ってか知らずか、例えばこんなふうにである。

The yellow peaple, especially Japanese like you are・・・とか何とか。

これは別にYellowに限ったことではなく、彼らが言う肌の色とは中間色も含めれば5〜6色あるのだが。

これについても最初は大きな違和感を感じたが、よく考えてみれば彼らはストレートに表現しているだけで相手を侮辱しているのでもなんでもないことが後でわかり次第に気にならなくなっていったのだが。

とにかく日本人としては何かとカルチャーショックを感じることが多いニューヨークでの生活であった。

2011年4月20日水曜日

若者の「腰パン」は“チョー”見苦しい

街で時々目にすることがあるが若者がジーパンを腰から大きくずらして穿くファッション?いったいあれをなんと呼ぶのか最近まで知らなかった。

ネットで調べてみるとどうやら「腰パン」と呼ぶらしい。

でも腰から大きくずらして穿いているのになぜそれを「腰パン」と呼ぶのか少し疑問もわく。

まあそれはさておき、この「腰パン」というファッションだが、およそ過去においてこれほど見苦しい男性の服装があっただろうか。

どう考えてもそんなものは思いつかない。

したがってこの腰パンこそが男性ファッションでの史上最悪のものであると言っても過言ではないように思う。

女性についてはもうかなり前になるが女子高生の間で大流行した「ルーズソックス」というものがあった。

あれも腰パンに劣らず見苦しいものであったが、着用位置が下の方なので目線を少し上げていれば目にせずにすんだ。

だが腰パンの方はちょうど体の縦位置の中央あたりにあるので嫌がおうにも目に入ってしまう。

しかしよくもまあこんな見苦しい恰好を平気でできるものだ。

先日も街角で高校生だろうか16〜17歳ぐらいの青年のその見苦しい姿を目にした。

母親らしい人と二人づれで歩いていた。

母親の方は40年配のこざっぱりした服装の人であった。

そこで不思議に思ったのはそのこざっぱりした身なりのお母さんはなぜ息子の見苦しい服装を注意して直させないのかということである。

どうも解せないのでその後それについていろいろ考えてみた。

単に子供に甘いだけなのか、それとも美醜感覚が劣っていて気がつかないのだろうか。

いやそんなこともないだろう、本人はこざっぱりした服装をしているのだから。

などなどといろいろ考えてはみたが結局良い回答は思いつかなかった。

いったいなぜなのだろう。今でもその疑問は残っている。

とにかく父母であろうが、教師であろうが周りにいる監督すべき立場にある人たちもこんなスタイルを決して良いとは思わないはずである。

だったら是非とも積極的に注意して早く止めさせるべきである。

子供に正常な美醜感覚とファッションセンスを養わせるためにも。

2011年4月19日火曜日

あらためて年間自殺者三万人について考える・日本は世界有数の自殺大国



自殺の原因「うつ病」がトップ 次いで多いのが金銭苦

東日本巨大地震の報道で死者と行方不明者の数を併せると三万人近くなると聞き、その途方もない数の大きさに今更ながら驚かされる。

その三万人という数字を耳にしてふとわが国の年間自殺者数のことに思いが及んだ。

この方も年間の死者が三万人で数字が似かよっているからであろうか。

今の日本での3万人以上の自殺者の数を国際的に照らし合わせて見ると世界104か国中第6位で上位6%という高順位に位置しているのである(このグラフでは9位であるが最新データでは6位になっている)。

いったいわが国はなぜこうも自殺者が多くなってしまったのであろうか。

それにしてもこれだけ多くの人が自殺に走る原因というのはいったいどういうものなのであろうか。

まずトップに上げられるの近年目立って増えている「うつ病」という精神的な病気が原因の自殺である。

ご存知だとは思うがこの病気が進行すると人は厭世観から生きる希望を失って死への願望が強くなるのである。

このところの日本では「サイコバブル」とも呼ばれるほどうつ病をはじめとして精神を患う人が蔓延してきているのである。

さて第2位の原因である「金銭苦」であるが、それに陥る原因はいろいろあるのだがその中で最も多いのがギャンブルによるものである。

そのギャンブルの中で最も多いのがパチンコによるもので、これが原因で多くの人が多重債務に落ち込むのである。

パチンコやスロットはわずか20分足らずの間に1万円というお金がまたたく間になくなってしまうという実に恐ろしいゲームなのである。

一度これにはまってしまうと中毒になってなかなか抜け出せなくなり気がついた時は借金の山ができていて解決の糸口を見つけ出せなくて死の道を選ぶのである。


災害で一度に3万人もの生命が失われるということを考えれば・・

3番目の原因はうつ病などの精神病以外の健康上の悩みによるものである。

特に60歳をこえた高年齢層にこうした人々が多いようである。

やはり年をとって仕事を失うと生きがいを見つけにくくなり、それに健康悪化が加わると次第に厭世観も高まるのであろうか。

いま日本は東日本巨大地震という未曾有の災害に襲われて多くの被災者が悲嘆にくれている。

でもその一方でかろうじて生命を奪われることを免れた人たちは死と隣り合わの壮絶な体験を経たことにより生きる喜びということをひしひしと感じているのもまた間違いない事実であろう。

したがって私たちは自殺という自らが命を落とすという行動に移る前に、大災害で生命を奪われることなく無事に生かされているということにだけでも感謝の念をもち命あることの喜びをかみしめ再び生きる希望を取り戻して欲しいものである。

なお上に掲げている画像はNHKで放映された自殺予防キャンペーン番組「"命"みんなで守る」の内容をまとめて最近出版された本のカバーと自殺率国際ランキングのグラフである

2011年4月18日月曜日

孫子の兵法・彼を知り己を知れば百戦危うからず・だが意外と知られていないこの後に続く文節


己を知ることの難しさ

言わずと知れた有名な「孫子の兵法」の一節である。

これは戦時の兵法訓であるのだが、これまで私たちはこれをまるでビジネス訓のように捉えてきてはいまいか。

ビジネス訓、あるいは営業訓と言い換えてもいいのだが。

つまりこれが引き合いに出されるのはいつもビジネス現場なのであり当然のごとく戦場ではない。

その場面も上司が部下に向かっての話す朝礼時などの訓話の中などが多いのではなかろうか。

私も営業の責任者であった頃はよくこれを引き合いに出して部下の奮闘を促したものだ。

でも私が人からこれについて聞くときはたいてい前段の一節、つまり「彼を知り己を知れば百戦危うからず」までであり次に続く文節についてはあまり聞いたことが無いような気がする。

次の節とは「彼を知らずして己を知れば一勝一負し、彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆うし」と続くのである。

およそ人とあい対するときそれが戦場であれ、ビジネスの交渉現場であれ相手のことを知らなければ作戦などの立てようもなくまるで勝負にならない。

したがって事に当たる前には相手についての研究が必至である。

それを知ってこそ戦略が立てられるのである。

そしてそれと共に必要なのが自分について知ることである。

先ず己を知り、そのうえで他を知る

知ってるようで知らないのが自分の能力なのだ。

特定の要因とか範囲で自分をあたかも有能であるように過大に評価したり、あるいはたった一度の失敗で自信をなくしまって自分を過小に評価してしまう。

こういったことも多いのではないだろうか。

このように自分のことですら知るのは難しいのであるから相手のこととなるとなおさらである。

それ故に孫子はそれを知ることの必要性を強調しているのだろう。

そして暗に自分のことや相手のことについて完全に知ることは不可能だと言っているのである。

そうである故に次の節で「一方のことだけしか知らなければ一勝一敗に終わる」と言っているのである。

さらに「どちらについても知らなければ戦いにはすべて敗れる」と言っている。

孫子は長い戦いの歴史を通じてのこうした例をよく観察しているのであろう。

それ故にこうしたことも現実に起り得ると警告を発しているのである。

私たちは先ず自分ことをよく知るために努力し、その能力を認めることである。

簡単そうなことだがこれがなかなか実行できないことなのである。

だからこそこれができるといつも相手に負け続けることはなくなるのである。

これが出来た上でその次に相手を知るための努力をしてこそ負けを少なくして勝ちを多くすることができるのではないだろうか。

最近よく言われる勝ち組、負け組とはこうしたことに原因があるのではないだろうか。

不況が続く今の時代こそこの孫子の名格言をじっくり見直してみるときである。

なお孫子というのは人名ではなく書物の名前で作者は春秋戦国時代、斉の国の出身の孫武という男だということである。

Link 「孫子の兵法」完全版
http://maneuver.s16.xrea.com/cn/sonshi.html

2011年4月17日日曜日

BOP(Base Of Piramid)とは?・世界で40億人の「最底辺」にいる人々は今!



ソーシャルビジネスのターゲットとしてのBOP

3月23日のこのブログで「社会起業とは何か?・いま世界の若者の熱い視線を浴びる社会貢献とは」というタイトルの記事を書いた。

この中で今の若者が社会貢献ということに対して強い関心を持っており、例えば就活の自己PRなどでもそのことについて熱っぽく口にする若者が増えてきたということについても触れた。

また2010年度の米国の大学生就職人気ランキングでこれまで抜群の人気を集めていたITの優良企業であるgoogle とかappleを押さえて「Teach for America」という人々にはあまり馴染みのない「NPO法人」が1位の座を獲得したということについても書いた。

このように今や社会貢献と言う言葉がまるで若者にとってのキーワードのごとく大きくクローズアップしてきているのである。

その彼らが目標とする社会貢献の対象として最もふさわしいのが今回のテーマになっている世界で40億人もいるというBOPと呼ばれる最下層なのである。

しかしそうした相手が対象であっても彼らが目指す社会貢献とは従来のような単なる奉仕活動ではない。

彼らの目指すところはNPOやNGOあるいはソーシャルビジネスを展開する企業の中で社会貢献をビジネスの視点でとらえた活動なのである。

つまり社会貢献をソーシャルビジネスの対象として捉え、環境や貧困問題、さらには近年問題になっているデジタルデバイド(情報格差)の解消など様々な社会的課題に向き合い、それをビジネスを通じて解決していこうとしているのである。

近年にわかに活気を帯びてきたBOP層の人々

ではその活動がなぜ年収が3000ドルまでといわれる最貧困層であるBOPを対象にして成り立つのであろうか。

これについて詳しく書かれている書物が最近日本経済新聞社より出ている。

本のタイトルは「BOP超巨大市場をどう攻略するか」といい、野村総研のスタッフが長い期間をかけて調査した結果をまとめたものである。

その調査を元に綿密な現状分析を行った結果、この層へのビジネス展開が今なぜ必要なのか、またいかにこの分野でのビジネスが有望であるのかを広い角度から総合的に論じている。

その対象国は発展途上国にあって特に人口の多いインド・インドネシア・バングラディッシュ・ナイジェリア、ケニアなどの国々である。

日本はこれまでこうした国々に対するマーケティングでは欧米諸国や韓国などに大きく遅れをとってきている。

その理由は日本の予測力の欠如から生まれたもので、今発想を大きく展開しなければ日本経済の未来は暗いものになるともこの本は警告している。

私のブログで3月の東日本大地震に関するシリーズでも載せたことがあるが、タイのスラム街での東日本震災募金で1日だけで80万円も集まったという。

この例でもわかるようにBOPと呼ばれる人々が多く集まるスラム街でもこれだけのお金が集まるということは何を物語っているのであろうか。

そうです。いまやスラム街に住む人たちの意識は大きく変わってきているのある。

募金にこれだけのお金が集まるということは、消費にしても一定のお金は支出するのである。

この本はそうした点に鋭く目を向けてもいる。

企業の海外マーケティング担当者には必読の書であるようだ。

2011年4月16日土曜日

図書館とは2種類の人々が集まる場所である

キリングタイムに余念のないオジサンたち

土日になると必ずといっていいほど通っている図書館であるが私が行くところは市内に10ヶ所ほどある市立図書館の中でも最も規模の大きい姫路城に隣接した城内図書館という所である。

周囲には多くの学校が並ぶ閑静な文教地区にあり環境としては申し分ない場所である。

この図書館の蔵書数は実に117万冊にも及んでおり、大型書店も顔負けの県内でも有数な大規模図書館なのである。

正面ゲートから50メートルほど進んで中へ入るとまずロビーがありその一角には大きな掲示板があって様々な催し物のポスターが賑やかに貼られている。

そのロビーからさらに右手の奥へ進むとまず左手に受付をはじめ図書館スタッフが執務に当たるカウンター室があり、その前に少し広めのスペースをとった新聞・雑誌コーナーがある。

長椅子も含めれば30人ぐらいは座れる比較的広いコーナーで椅子席のまわりを取り囲むように様々な新聞・雑誌類がズラリと並べられている。

今回のブログのテーマにしている図書館を訪れる2種類の人々の内まず1種類の人たちがいつもこの場所に陣取っているのである。

私はそのすぐ隣にある新刊書コーナーにはよく立ち寄るのだがこの新聞・雑誌コーナーに入ることは滅多にない。

でも新刊書コーナーからそこにいる人たちの様子はよく目に入るのだが、そのほとんどが男性で、それも若い人は皆無で大部分がシルバー世代と思しき人々である。

その人たちは新聞をよんだり、雑誌を読んだりと人それぞれだが、その中の何人に一人かは何も手にとることなく気持よさそうに睡眠をむさぼっている。

座って寝るとは言え辺りは静寂に包まれており、邪魔が入らず睡眠環境としては申し分ないのである。

まあどういう形をとっていようがオジサンたちにとっては絶好の暇つぶしの場所であるに違いない。

でもこのコーナーに来る人たちは私がいつも居場所にしている奥の方に位置する「読書コーナー」にいる人々に比べ常連が少ないようで、よく目にする人はほんの一握りで多くの人は「日替わり」のようであり、知った顔の人を目にすることはあまりない。

長時間一心不乱に本を読む人たち

では、私がいつも指定席にしている奥まった場所の窓のそばに位置する読書コーナーだが、ここには小さな簡易机の付随したパイプ椅子が20脚ほど並べてあり、奥まっている分だけ他の場所よりさらに静かで、まさに最高の読書環境と言っていい場所なのである。

ここに出入りする人々は新聞・雑誌コーナーにいる人たち比べるとうんと常連が多く私が行くと必ず目にする人も何人か居る。

そうした人たちこそが本当の本好きな人種なのであろう。

でもそうは言っても、中には読書はそっちのけでひたすら睡眠をむさぼる人の姿もまま目にすることがあり、時にはイビキが聞こえてくることさえあるのだ。

こうした人たちは巡回してくる図書館員に肩をたたかれて注意を受け、ばつの悪そうな顔をしているのを時々目にする。

冷暖房完備の心地よさとシーンとした辺りの静寂はそういう人たちでなくても睡魔に襲われついコックリコックリとなるのはいたしかたないことかもしれない。

とか云っているこの私でさえそういう状態になることはそれほど珍しくはない。

でもこのコーナーに集まる人は概して読書にはすこぶる熱心で何時間もの間静かに本に目を通している。

こうした人々の中に居ればこそ厭きることなく身を入れて活字を追うことができるのである。

本日のブログでは図書館には2種類の人、つまり入口近くの新聞雑誌コーナーに集まって暇つぶし?する人々とそれとは別の奥まった所にある「読書コーナー」で熱心に読書する人たちの姿があり、その相違点について書いてみた。

でも図書館はいいところですよ。

2011年4月15日金曜日

まるで桁が違う・差が縮まらない日米の数字あれこれ


私のブログでは現在の日本の国力をわかり易く示すために、これまで米国やその他に国々と比べたいろいろな分野における数値について「比較」とか「ランキング」という形で掲載してきた。

最近では3回にわたり、お隣の韓国と比べ日本が遅れをとっているIT関連分野についての記事を書いている。

何事においても競争があってこその発展である。

そのためには何につけてもまず上に向かって目を向けるべきである。

したがってその対象国は資本主義社会のお手本である米国になることが多い。

これまで何かにつけて引き合いに出してきた米国について今回は数の面での大きく差のついている分野について眺めて見ることにしよう。


日米で差の大きい分野・数値の比較

・弁護士の数
弁護士大国・訴訟大国と言われる米国はこの分野の数ではおよそ日本とは比較にならない。
米国では数が多い過ぎるため弁護士も仕事を得るのが大変である。

それをよく示しているのが売れない弁護士を称してアンビュランスチェイサーという言葉である。

つまり救急車を追っかけて事件現場にたどり着き仕事の糸口を見つける人という意味である。
その一方政治家で弁護士資格を持つ人の数も日本の比ではない

日本   21,2oo人
米国 1,060,000人


・ 女性国会議員の数
このところ少し増えてきた日本の女性国会議員だが、でもまだ比率からすれば米国の約半分でしかない。

日本 722人中女性54人
米国 535人中女性81人


・ 年間破産件数
一時うなぎ上りで増えていたわが国の破産件数だがここ数年は上昇も止まり、平成15年をピークに最近ではむしろ下降傾向になっている。それに比べ米国の件数はまるで留まることを知らないかのように依然として右肩上がりの状態をを続けているようである。

日本 129,500件(2008年)
米国 150万件 (2010年)


・ ホームレスの数
この数を見ればアメリカがいかに資本主義の進んだ格差の大きい社会かがよくわかる。日本はこのところ減少気味。

日本 約2万人
米国 約350万人


・ 大学の資金運用金額
アメリカのハーバード大学は大規模な資金運用部を持っておりそのスタッフだけでも170人もいるという。
それに比べ早稲田大学は3人の専任スタッフがいるだけ。

早稲田大学(日本)       1000億円
ハーバード大学(米国)   3兆5千億円


・ 殺人件数
これに関しては銃社会の米国と単純に比較することは無理があるかもしれない。

日本(100として)  100件
米国          467件


・ 軍用機の数
世界ナンバーワンと言われるアメリカ空軍だけに軍用機の数も桁違いに多い。最近ではリビアでも多国籍軍の一員として米機も大活躍した。

日本   316機
米国  2588機
            (2007統計)

・ 企業の女性役員数
この分野でも日本の遅れは目立つ、決して数の差ほど男女に能力の違いがあるとは思えないのだが、日米の経営者の意識の違いであろうか。

日本 トップ10社中一人だけ
米国 トップ20社の20%が女性)


・NPOの数
NPO先進国アメリカは数の上でも圧倒的なだけでなく各組織の規模でも日本とは比べ物にならない。

日本 3万
米国 130万


・ 国民の寄付金総額
いま日本では東日本大震災に対する募金活動がかつてなかったほどすごい勢いで全国に広がっている。
この金額が入るともっと額が増えたのであろうが、この統計での額は米国に比べるよしもない。

日本 2400億円
米国 20兆円


以上、ごく一部の分野での日米「数」についての比較でした。

2011年4月14日木曜日

世界書店事情(その2)・世界一の書店はどこだろう?

ロンドン フォイルズ書店

王室ご調達・ロンドンのハッチャーズ書店

イギリスと言えばまず第一に上げなければならないのはロンドンのハッチャーズ書店であろう。

この店は創業100年という古い歴史を持ち、皇室ご用達という栄誉にも輝く英国きっての名門書店なのである。

チャーチル元首相もこの店をこよなく愛したという。

又プロの作家の間でもこの店でサイン会を開くことが社会に認められた証しだと考えられているほど信望の熱い書店なのである。

さて日本では最近オープンしたばかりの大阪の「MARUZEN&ジュンク堂」が蔵書数200万冊で国内トップの座におどりでた。

これまでトップの座にいた池袋ジュンク堂より実に50万冊も上回っているのである。

しかしこれでもまだ世界のレベルには届いていない。

その蔵書数で世界一を誇っているのがロンドンのフォイルズ書店でなんと500万冊というとてつもない数なのである。

これはユニーク・ルクセンブルグの書店

さて次はお国変わって人口40万人のルクセンブルグだが、ここに大変ユニークな建物に入っている書店があるという。名前はエルンスター書店と言う。

この書店の建物はフロアーの表示が「+2・+1・0・−1・−2」というふうになっていると言う。

これっていったいどういうことかお分かりでしょうか?

つまりこの建物は地上3階地下2階の5層の建物なのである。

こう言うともうお分かりであろうが、0の1階を基準にして+2が3階を表し上から数えているのである。

これは実にユニークでおもしろい表示ではないか。

他にもあるのだろうか、こうした数え方をする国というのは。


ロシアの本には価格表示がない

次は大国ロシアである。
この国には再販制度は無い。したがって価格の設定は原則的に自由である。

何も再販制度が無い国はロシアだけではなく世界を見渡せば沢山の国に及んでいる。

もう一方の大国アメリカでもこの制度は無いのである。

しかしロシアが特に変わっているのは本に価格の表示が無いのである。

これは我々日本人としてはにわかに信じ難い。

価格表示がないと言うことは購買の意思決定のための一つの判断材料がないわけだ。

その都度店員さんに聞くのであろうか。これについては不明である。

またこの国の書店ではレシートを持たないと外へ出してくれなくて、それによって万引きなどを防いでいるのだと言う。まあこれも一つの盗難防止対策の一環であろう。

こうしたロシアの事情だが、ちなみにこの国の2001年の出版点数は70322点で日本を上回っているのである。

次は北欧のスウェーデン。

首都ストックホルム市内にはインタープレスと言う名前の世界の新聞・雑誌専門店があるそうだ。

そこには世界の新聞が104紙も売られていると言うが日本の新聞は日経1紙だけだったそうだ。

世界最大の発行部数を誇るわが国の普通紙がもう1紙ぐらいあってもよさそうなのだが。

アメリカでは20〜30%ディスカウントは当たり前

さてやっと順番が巡ってきたのが世界に誇る書籍大国アメリカである。

先ほども少し触れたがこの国にも日本のような再販制度はなく価格の設定は自由である。

したがって例え新刊書であっても20〜30%ぐらいのディスカウントは普通のことだと言う。

きっちりと定価販売の本を買わされる我々日本人には羨ましい話である。

アメリカの書店は日本よりずっと早くから大型化が進んでいて、売上シェアのうちの50%を大手4社が占めている。

その4社の内のひとつでニューヨークだけで15ヶ所も店舗があるハーンズ&ノーブルのユニオンスクウェアー店は各階に机・椅子の設備が豊富で、しかも3階にには大きなカフェ、4回ではトークショーや講演会が開催されており暇つぶしにはもってこいで、客の中には1日中この店で過ごす日ともいるのだと言う。


圧巻!北京の書店専門街

さて次はいよいよ私たちが住むアジアの書店である。

先ず最初はなんと言っても中国だが北京には東京神保町のような書店街があり、そこには書店ばかりが集まっている二つの大きな建物がある。

まずその一つは「籍海楼」という名前の4階建ての建物でここには書店ばかり37もの店が軒を連ねている。

もう一つは「早海楼」で「籍海楼」よりもっと多い43点もの書店が集まっている。

建物のテナントすべてを書店が占めているのである。

たくさんあるからと言って決して小規模店ばかりではなく、このうち3店は100坪以上の売り場面積がある。

次は香港に移るが、この都市のコーズウェイ・ベイという店でカフェでコーヒーの無料サービスをやっていて客の評判を読んでいる。

店側としてはコーヒーでも飲みながらゆっくり時間をかけて本を選んでもらうという狙いである。


ソウルの大型書店では文芸春秋が300冊売れる

さて最後はお隣韓国であるが、人口が日本の3分の1しかないとはいえ書店の規模では決して引けをとってはいない。

ソウルの教保文庫という書店はアジア有数の大規模店だが、日曜日など休日の混雑は尋常ではなく、いつもレジの前は長蛇の列である。

本屋が繁盛していることは教育立国韓国としては面目躍如たるものがある。

この店で日本書コーナーも設置されており、そこでは雑誌の文芸春秋だけで300冊も売れるというから驚きだ。

ちなみにこの店の日商は2500万円である。

さて最後はわが国の書店の海外進出ぶりでについて触れるが、大きな店としてはジュンク堂パリ店・旭屋香港店・紀伊国屋台湾店、同シンガポール店、同バンコク店ぐらいであろうか。

再販制度がきっちり守られていて決して価格は安くないわが国の書籍業界ではあるが、やはりこの業界の動向は国の文化水準を表す大きな指標となるだけに今後とも書籍業関係者のご奮闘を祈るばでかりある。

2011年4月13日水曜日

We Never Forget 311&911・今世紀日本と米国で起った未曾有の天災と人災

3.11東日本大地震
3.11東日本大地震
3.11東日本大地震

9.11東日本大地震
白煙をあげる福島原発



2001 9.11米国同時多発テロ

9.11米国同時多発テロ


9.11米国同時多発テロ
9.11米国同時多発テロ
片や「2011.3.11」そしてもう一方は「2001.9.11」いずれも「1」が多い7つの数字。

そうです。これは先月日本で起った巨大津波を伴った未曾有の大地震と今世紀の初頭に米国で起ったまるで戦争を思わせるような「同時多発テロ」の二つの天災と人災の日付です。

偶然とは言え、覚えやすいきっちり10年間隔のこれら二つの数字の取り合わせはいったい何を物語っているのでしょうか。

間違いなく「決して忘れられてはなならい」というメッセージを送るための強いインパクトを私たちに与える数字なのです。

           We Never Forget 311&911.

                2011.3.11 東日本大地震
                2001.9.11 米国同時多発テロ

2011年4月12日火曜日

クラシック珠玉の名曲をどうぞ・ビアノ演奏曲ベスト20

選りすぐったピアノ演奏曲を20曲お届けします。どうぞ心おきなくお楽しみください


クラシックLink集(20曲)


カッチーニ     アヴェマリアhttp://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Caccini_avemaria.htm

ウェバー      舞踏への誘いhttp://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Weber_butouhenokanyu.htm

バダジェフスカ   乙女の祈りhttp://classic-i.com/midi_player/classic/cla_Badarzewska_otomenoinori.htm

グノー       アヴェマリアhttp://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Gounod_avemaria.htm

シューベルト    セレナーデhttp://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Schubert_serenade.htm

シューマン     トロイメライhttp://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Schumann_traumerei.htm

ショパン      ノクターン2http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Chopin_nocturn2.htm

サンサーンス    白鳥http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_SaintSaens_hakutyou.htm

モーツアルト   トルコ行進曲http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Mozart_toruko.htm

モーツアルト   ピアノソナタ第15ハ長調http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Mozart_psonata_Cdur.htm

ヘンデル   私を泣かせてくださいhttp://nocturne.vis.ne.jp/midi/handel/lascia_chio_piamga_pi.html

ベートーベン    エリーゼのためにhttp://classic-midi.co/midi_player/classic/cla_Beethoven_elise.htm

ベートーベン    バイオリンソナタ「春」http://nocturne.vis.ne.jp/midi/beethoven/vio_sonata_spring1_pi.html

グリーグ      ソルヴェイグの歌http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Grieg_solv.htm

メンデルスゾーン  歌の翼に乗せてhttp://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Mendelssohn_utanotubasa.htm

ビゼー    アルルの女(メヌエット)http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Bizet_arur.htm

マスネ   タイスの瞑想曲http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Massenet_taisunomeisou.htm

リスト   愛の夢3番http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Liszt_ainoyume.htm

ハイドン   ピアノソナタ第34番ホ短調第1楽章http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Haydn_psonata34_1.htm

バッハ   G線上のアリアhttp://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Bach_air_Gstring.htm


インターネット
・Reinmusik classic MIDI collection
・Classical Music MIDI Nocturneより抜粋

2011年4月11日月曜日

当世「店員」事情・今や「呼び込み」は必須条件


街は呼び込みサンでいっぱい

商店街はよく通る方だが、最近はどうも歩きづらい。

というのも近頃ではあちこちにやたらとチラシ配りや呼び込みに当たる人たちが立っているからである。

特に駅前のメイン商店街となるとその数も半端ではなく、10メートルぐらいの間隔でそうした人たちが間断なく立っていることも最近では珍しくない。

まあ「チラシ配り」はなにも今始まったことではないが、一方の商店の「呼び込み」はこのところ次第に多くなっている。

つい一昔までは店員さんと言えばどちらかと言うといわゆる「待ち」の仕事であり、お客さんが来店したときだけ応対すればよかったのだが近頃ではその事情は一変しており今では「呼び込み」が職務の必須要素になっていると言っても過言ではないようである。

したがっていまや店員の職務は決して待ちの仕事などとは言えなくなっているのである。

そういった街のあちこちで見かける「呼び込み」の人たちであるが、よほど訓練を受けているのか概して声が大きくしゃべり方も素人の域を脱っしていて実に上手な人が多いのである。

それに態度にしても恥ずかしそうで気後れしたようなそぶりなど少しも無く、みな堂々としている。

これはもう「呼び込み」という職種が一つの職業分野としてしっかり定着してきていて、それに対する正しい指導が機械的に成されるようになっているからに違いない。

そうでなければこれほどの堂々とした態度や上手なしゃべり方は出来ないはずである。

理想的?な呼び込みとは?

そうしたことが気になってネットで呼び込みについて検索してみた。

すると一つの面白いブログに行き当たった。

これがなかなかの傑作なのでここで引用させてもらうことにする。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そう言えば、昔呼び込みのバイトでコツを聞いたとき

「5回言え」と教わった。
具体的にはこういうことになる。
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、いらっしゃいませーー」
この時、3つ目の「いらっしゃいませ」までデクレッシェンド(だんだん弱く)。その後クレッシェンド(次第に強く)。結果的に、声のトーンは「凹」という様な形になる。
教えてくれた人に言わせると、「人間の印象に残って、かつ繰り返しによる不快感を覚える一歩手前ギリギリのライン」とゆーことになるのだが、個人差もあるだろうしそこのところはマユツバである。ただ、実際色んな場所で呼び込みを聞いていると、これに類する発声になっていることは結構多い気がする。マニュアルでもあるんだろうか。
先日、某所のマツモトキヨシでこんな呼び込みをしていた。
「マツモトキヨシ、マツモトキヨシ、マツモトキヨシ、マツモトキヨシ、マツモトキヨシでございまーーすっ!」
なるほど、トーンは同じだ。文章で書くとさっぱり伝わらないのが若干問題だけど。
根拠があるもんなのかどうかは知らないが、結構普遍的な呼び込み方なのかも知れない。
インターネット 呼び込みのコツ「不倒城」より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

"新"呼び込み心得五カ条

ところで「呼び込み」という攻めの姿勢が必須となってきた今の店員さんにとって職務上の必要条件とはどんなものになるだろうか。

以下店員の「呼び込み心得」として5項目を挙げてみた。

一つ  声が大きくよく通ること
一つ  店の前に立って物怖じせず堂々と呼び込みができること
一つ  毎日呼び込みで誘い入れる客の人数の目標を定め、その達成に向けて頑張ること。
一つ  演技力を磨くこと
一つ  他の店の呼び込みをよく観察・研究すること

とまあざっと以上のようなモノである。

呼び込み担当諸氏のご健闘を心より祈る。

2011年4月10日日曜日

日本とはこんなに違う!・世界書店事情(その1)



ドイツ書籍業学校で授業を受ける生徒たち
  いま日本国内の書店といえばほとんどの都市で大型書店が中小の書店を飲み込んでしまい私の住む姫路市では

駅前のメイン商店街でさえ以前は7軒もあった書店が進出してきた大型店の影響をもろに受けそれらすべてが消滅してしまうという誠に酷い状態になっている。

これは何も私の市だけでなく、こうした状態はいま日本全国の都市に及んでいるのである。

さて国内のこうした状態はさておき、外国での書店の事情はどういうものなのであろうか。

やはりあちらでも同じように大型化が進んでいるのであろうか。

以下最近読んだ「世界の書店をたずねて」という本から抜粋した海外の書店について日本と違った珍しい点などをご紹介することにしよう。

ドイツ書籍業学校

さてドイツといえば活版印刷術を発明したグーテンベルグの生まれた国である。

そのせいもあってか、なかなかユニークな出版文化が育っている国のようである。

その最たるものが「ドイツ書籍業学校」という書籍業(書店)を営む人のための専門学校の存在ではないだろうか。

その学校はフランクフルトにある。

ここを出たマイスターの資格を得た者だけが書籍・書店業に携わることができるのである。

そうした専門教育を受けた人々によって経営されていることもあって、日本の書店の返本率が38.5%なのに対し、ドイツは5〜10%程度なのだそうである。

その理由のひとつが中世のギルドの伝統を受け継いだ「書籍業学校」を業界団体の書籍業組合が設立し、短期研修を含めて年間延べ1000人が学んでおり、ここでの教育により、読者の要望や知識欲を汲み取って、「本を選ぶ能力」が備わった出版人が育っていることが返品率の低い理由の一つになっているのだという。

これは返品率が異常に多い日本の書籍業界にとって羨ましい話で、大いに参考にしたい点ではないだろうか。

パリの書店では入店時に持ち物チェックがある

ではドイツに替わってフランスの書店事情はどうなのだろうか。

万国共通の書店の悩みといえばそれは万引き対策であるらしいのだが、パリの書店ではなんと入店時に持ち物チェックがあるという。

まるで学校の持ち物検査のようだが、これが一定の効果を上げているという。

日本だとさすがにここまでやっているところはないようだが、最近では「万引き防止ゲート」なる設備を採用するところが増えているらしい。

なおパリには日本のジュンク堂が進出していてパリ在住の日本人の心強いみかたになっている。

買った本にブックカバーをつけてくれるのは日本だけ

またフランスでもドイツでも同じだが、購入した本にブックカバーをかけてくれるようなサービスなどまったくなく、どうやらこれだけは日本の専売特許らしい。

また最近では日本の書店でも多くで設置されている椅子のついた読書コーナーだが、これが海外では日本に比べてうんと充実しており椅子にしても日本のような主に木製のベンチではなく、すわり心地のいいソファ系の椅子が多いそうである。

日本のようなブックカバーのサービスなどにお金をかけず、多分こうし方面に投資を回しているのであろう。

本日はドイツ、フランスの事情のみにとどめておくこととし、アメリカをはじめ他の国々については次回に譲ることにする。

参考文献「世界の書店をたずねて」能勢仁著(郁文塾)

2011年4月9日土曜日

書評「無頼化する女たち」・水無田気流著(洋泉社)


大の新書ファンで新刊にはいつも気を配っているつもりであったがこの本だけは見逃していた。2009年の発行だからもう2年も前に出た本ではないか。

遅ればせながら言わせてもらうと、この1年ぐらいの間に読んだモノ100冊余の中でも間違いなしに五指に入る好著である。

先ずこのすばらしい本の著者に最敬礼!

「ミナシダキリュウ」と読むそうだがこのユニークなペンネームはどうだろう。また由来はどのようなものなのだろうか。

この本の良いところはテーマに対する考察の鋭さもさることながら、なんと言っても著者の言葉づかいにおける感性の鋭さと熟練された巧みなレトリックである。

こういったサブカルチャーなどという比較的新しい分野においては、そのテーマが新鮮であるだけに使われる語彙もまた新鮮でかつ斬新であるのが望ましい。

著者は詩人として数々のメジャーな賞を受賞しており、さすがに言葉づかいにかけては卓越した才能を持っているようである。

この分野の書き手の作品としては過去に三浦展の「非モテ!男性受難の時代」とか雨宮処凛著「ロスジェネはこう生きてきた」あるいは湯浅誠著「反貧困」などを読んできたが、それらの作品と比べてもこの作品は一歩抜けている観がある。

特に見出しタイトルのコピーは抜群に優れており例えば46ページに良い男の条件としてあげている「求む!札束と花束を背負ったいい男」というキャッチコピーは思わず「うーん」唸ってしまうぐらい見事なものだ。

3章まではサブカルチャー論、4章以下では社会のありようなども説かれていて記述はやや難解になり、一種の哲学的書物の様相すら呈している。

この人が詩人であるということもあってか、読んでいてふと明治の名歌人「与謝野晶子」を思い出した。

では私の感想はこれぐらいにしてこの本に関するネットに載った他の書評をいくつかご紹介することにする。

(その1)

名前からはわかりにくいですが、著者は女性で詩人でもある方です。以前にも『黒山もこもこ、抜けたら荒野デフレ世代の憂鬱と希望』という新書を紹介したことがありました。

本書は「無頼」というあまり日常ではそれほど使わない言葉を軸にして、この数十年の「ニッポン女子」について語られています。

このような言葉を選択するところに詩人の感性が表れているのかもしれません。本書の目次は以下の通りです。

ライブドアブログ「精神科医が説く自己成長へのヒント」より


(その2)

本書で特に面白いのは、第四章の「サバイバル・エリートと婚活現象」。勝間和代女史が、マネータブーと出世タブーの二つを打破し、自身をロールモデルにしたサバイバル・エリート像を構築したと、筆者は指摘する。

しかし、勝間女史のリスク・リテラシー論からは自己責任論の匂いを発散させている。このことに異を唱えたのが、香山リカ女史だった。

筆者は、この二人のことを「伝道師」と「治療師」と的確に述べている。
 
そして、重要なのは、勝間・香山論争からこぼれおちる、「しがみつかざるを得ないが、<勝間和代>にはなれない人たちが多くいること」で、彼らこそがサイレント・マジョリティだと、指摘していることだ。
 今の日本には、とにかく「安心」したい人で溢れている。その明確な指針がキャリアアップだったり、お金だったり、結婚だったりしている。だから、勝間本のような自己啓発書のブームと婚活ブームは、コインの裏表だと喝破している。

ネット Parsleyの「添え物は添え物らしく」より

2011年4月8日金曜日

日本はなぜ「婚外出生率」が異常に低いのか・国の未成熟度を示すあるデータ

「婚外出生率」という言葉を目や耳にしたことはありますか?


あまり耳慣れない言葉だが、「婚外」つまり未婚のシングルマザーによって出産された子供の数の全出産数に対する割合のことである。


実は最近、水無田気流著「無頼化する女たち」という本を読んでいて、その中で著者が日本の「婚外出生率」が諸外国と比べて異常に低いことに触れおり、

こうした問題をなおざりにしている「わが国の文化と福祉の未熟度」について批判的に書いていた。


著者が指摘したその事実に関心が湧き今回のブログのテーマとした訳である。


日本ではこうした子供のことを非嫡出子(法律用語)などととんでもなく古めかしい言葉で言い表しているようだが、一般的にこの婚外出生の率は先進国で高く開発途上国では低いとされている。


ではまず次のデータを見ていただきたい。


これは先進国を主体とした世界の国々の婚外出生率を挙げたものである。

データ(1)国別婚外出生率


スウェーデン 55.3%、
デンマーク  44.6、
フランス   42.6、
英国     39.5、
米国     33.2、
アイルランド 31.8、
カナダ    28.3、
オランダ   24.9、
ドイツ    23.4、
スペイン   17.0、
イタリア    9.6、
日本      1.7%、


このデータを目にして驚くべきことは他の国々に比べた日本の数値の異常とも言える低さなのである。


ご覧になってわかるとおり、他の多くの国々ではすべてが二桁でそれらの中には50%前後に迫っている国も珍しくない。


そうした中でわが国だけが著しく低くその数値はわずか2%弱なのである。


具体的にその数字を眺めてみると2003(平成15)年の出生数1,123,610人のうち、98.07%は嫡出子(法律上の婚姻をした夫婦間に出生した子)であり、非嫡出子は21,634人と、全出生数の1.93%にすぎない。


いったいこれは何を物語っているのであろうか。


では次に国別の出生率ランキングを見てみよう。


データ(2)国別出生率

アメリカ     2.04、
フランス     1.89、
デンマーク    1.76、
スウェーデン   1.71、
イタリア     1.29、
日本       1.29


ここでもまた日本は最下位だが、ご覧のように婚外子の少ないイタリアと日本は少子化が進んでいることもわかるのである。


もっともイタリアは少ないと言っても婚外子の率は日本の5倍以上もあるのだ。

さて話を核心に戻そう。


以前毎日新聞の社説に次のような記事が載ったことがある。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

スウェーデンでは生まれてくる赤ちゃんの5割、フランスでは40%が婚外子だが、日本は2%弱だ。法定相続分が嫡出子の半分になるなど社会的な差別があるからだ。結婚の形はとらないが子供がほしい。そういう男女を支援するためにも、婚外子の差別を解消すべきだ。
(毎日新聞05年4月20日社説の一部抜粋
 論説委員 稲葉康生)

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・


非嫡出子などという古めかし法律用語も使われているが、つまり婚外出生児のことである。


上のようなことがもし婚外子を減らしている大きな原因だとすれば一刻も早く是正しなければならない。


この他にも要員はたくさんあり、すぐに欧米並みの高い水準まで持っていくことは困難だろうが、何とか婚外子を守る社会環境を少しでも良くしていき、わが国がこの面でもより成熟した国家へと変
身をはかっていくことを心より願う次第である。


インターネット「未婚の母をあたたかく迎える社会を」参照

2011年4月7日木曜日

同窓会はお好きですか・ネットの「同窓会支援サイト」登録者数に見る愛校心とは

インターネットに「この指とまれ」という同窓会支援サイトがあるが、もうかなり前からあるにもかかわらず依然としてその人気は衰えていないようである。

時々そのサイトを開いてその後の動向などについて眺めているが、このサイトへのメンバー登録者数はその学校(特に高校)の偏差値が高いほど多いというはっきりとした傾向があるようだ。

つまり偏差値の高い学校ほど登録者が多く、偏差値が低い学校ほど少ないのである。

以前の私のブログ(2010/10/19)に「愛校心の強弱は偏差値の高低に準ずる」という記事を書いたが、理由はまさにこのことにあるのである。

つまり偏差値の高い学校の卒業生ほど愛好心が強いのは学校に対して良い思い出が多いということである。

それは良い友達のことであり、よい先生のことであり、さらに現在の自分のステータスを築く為の基礎を作ってくれた教育の場としてなどの良い印象ばかり残っているのである。

では偏差値の低い学校がどうかと言えば、まったくこの逆なのである。

これについてのはっきり示す数値データは先ほども触れた私のブログに載せてあるのでご覧になって欲しい。

人はよく教育熱心な親を捕まえて、教育ママとか教育パパなどと言って揶揄するが、こうした同窓会サイトの数字を見るだけでも、子供の教育に関心をもって熱心にわが子を託す場所を選択することがその後の人生にいかに大きな影響を与えるかは歴然としている。

私はあいにく偏差値の高い学校は出ていない。

したがって私の卒業校のこのサイトの登録メンバーは極めて少ない。

それだけでなく愛好心が希薄なのか、同窓会もそれほど開催されない。

これについて若いときはそれほど感じなかったが、シルバー年令に達している今となっては一抹の寂しさを感じざるを得ない。

以上のような理由でこの「この指とまれ」という同窓会支援サイトの登録メンバーは多いに越したことはない。

このブログをご覧の皆様にもすでに登録済みの方は多いとは思うが、もしまだの方は一度このサイトご覧になってご自分の出身高等学校のメンバー数を調べてみてはいかがでしょうか。

その数を他の学校の数字と比べることにより出身校の客観的評価がわかるはずですから。

Link 「この指とまれ」
https://yubitoma.or.jp/

2011年4月6日水曜日

福島原発報道でよく使われる・「建屋・たてや」という専門用語

原子炉建屋
連日報道されている東日本大地震の福島原発関連ニュースに接していて、なぜか強い違和感を感じて落ち着かない気持にさせられるのが「建屋」という用語を耳にするときである。

違和感だけでなくなにか古めかしくて語感もよくないように感じる。

こんなふうに思うのは私だけであろうか。

これまでまったく耳にしたことのない「たてや・建屋」というこの語句であるが、土木関係の専門用語だという。

ちなみにネットの土木用語辞典で調べてみると、

たて‐や 【建屋】 機器・設備を格納した建物。「原子炉—」 とある。

私たちは日頃専門外の一般の人に対してはなるべく業界の専門用語は使わないようにというの

が常識であると教えられてきたのだが今回の報道ではそうしたルールは完全に無視されたかのように「建屋」という一般人にはまったく馴染みのない言葉が頻繁に使用されているのはいったいどうしたことでであろうか。

言葉によっては専門用語であっても抵抗なく受け入れられるものも場合としては無いこともないが、なぜかこの「建屋」という用語には聞いていて違和感を感じざるを得ない。

それに「原子炉建屋」というふうにこの用語を使用する当事者であるニュースキャスターとかアナウンサーは使用に際してなぜこの言葉の意味とか由来を説明しないのであろうか。

これまでのところアナウンス上でそうした説明など聞いたことがない。

もし私がその立場だと、たとえば 「原子炉建屋の建屋というのは土木用語なのですが、言い換えるとすれば原子炉棟とか原子炉管理棟などが適当でしょうか」というふうに説明を加えるのだが。

そうは言ってもこの「建屋」という用語に何の違和感も抵抗も感じない人も世の中には多いとは思うが、要は言葉使いはセンスの問題であって語感の受け止め方は人それぞれではある。

でも万人にわかりやすい説明をするのがアナウンサーの本分だとすればやはり説明なしに専門用語を無造作に使用するのが賢明なことだとは思えない。

どうか関係諸氏におかれましてはこうしたことに関して今後はご配慮いただきたいと思うのだが・・・。

2011年4月5日火曜日

選挙運動にインターネット利用が禁止されている国は先進国では日本だけ

おりしも統一地方選挙に向けた候補者の選挙運動のさなかであるが、東日本大地震の影響を受けてさすがに鳴り物入りの派手な選挙戦が控えられているのは当然といえば当然なことである。

したがって従来のような選挙カーによる運動も大幅に減っているようである。

それに代わってこうした時にこそ有効だと考えられるのがインターネット利用による選挙運動なのだが、なんと日本ではこれは法律で禁じられているのである。

でも考えてみればこれは随分おかしな話ではないか。

TVさえ普及していなかった時代に作られた法律に基づいてこれが禁止されているということがである。

しかもインターネットの出現は第二の産業革命とも言われいまや世を挙げて「IT社会」の実現が叫ばれている中でなぜ選挙運動にだけにネット利用が禁止されなければいけないのだろうか。

いま世界に目を移してみれば、ほとんどの先進国でインターネットを使った選挙運動はごく当たり前のごとく行われている。

それも米国などでは1990年代のはじめに始まっていてスタートしてからもう20年近くも立っているのである。

したがって日本が今すぐ始めたところで20年遅れになるのである。

何もこれは米国だけではなく、イギリス、フランス、ドイツといずれの欧米の先進国でもとっくに取り入れているのだ。

欧米だけではない。

いまIT関連で何かと比較されているお隣の韓国でももう10年ほど前からスタートしているのである。
こうした国際情勢に中でなぜ日本だけがこの分野で取り残されているのであろうか。

これを取り入れることによって選挙にかかる費用を大幅に節約できることはじゅうぶんわかっているはずなのに、なぜ実行に踏み切らないのであろうか。

いま従来の方法で選挙をやると一回につきハガキ代やポスターなどの費用に参院で570億円、衆院で800億円の巨費がかかると言う。

巨額の財政赤字を抱えたわが国としては少しでも赤字を減らさなければならないはずで、この経費などは削るにはもってこいの好材料ではないのだろうか。

にもかかわらずいつまでたっても実行に移そうとしない政府の態度は理解に苦しむ。

一部では実行に踏み切るのは時間の問題だと言う声もあるが、どうせやるのならなぜ早くやらないのか。

このところ欧米諸国どころか、お隣の韓国に比べても遅れをとることが多いわが国のIT関連の政策には失望するばかりである。

「良いことはすぐ実行に移す」

なんとか日本の政治家諸氏もこれがモットーになるように頭のスイッチを切り替えて欲しいものである。

 

2011年4月4日月曜日

ますます進んでいる・若い女性のオッサン化現象

「オヤジギャル」という言葉が流行語大賞を取ったのは1990年のことというからもう20年も前のことである。

これはあるマンガの主人公のまるで「おやじ」のような行動をとる若い女性キャラクターをモデルにしたものであるが、


それに端を発して20年後の今ではその言葉は「若い女性のオッサン化」と言う表現に変容し、サブカルチャー分野での一種の社会現象としていま大きな注目を浴びるようになってきている。

こうした若い女性のオッサン化が進んでいると言われる今の社会現象の中で、いるいわゆる「オッサン女子」とも呼ばれるのはいったいどのような女性を指しているのであろうか。

ネットに載っているそれについての一つの定義?をご紹介しよう。

「オッサン女子」とは、休日はスッピン、ジャージで過ごし、好物は酒とつまみのするめ、塩辛など、エステで自分磨きをするよりも家でダラダラとテレビでも観ていたい、オシャレなレストランよりも居酒屋に行くほうがいいなど、世間の女の子の常識とはかけ離れた実体を持つ女の子たちを示します」

という実に見事なオッサン女子の定義でした。

私自身こうした女性のオッサン化現象と思われるシーンにこの1年の間でもしばしば出くわしている。

以前のブログでも書いたことがあるが、具体的には次のようなものである。


(その1)駅のホームで缶チューハイやビールを立飲みする女たち

ここ半年以内に人込みのする駅のホームで缶ビールやチューハイを立飲みする女性の姿を3回目撃した。

1度目は平日の夕方6時半頃JR神戸駅下りホームで中年女性が電車を待ちながら缶チューハイをラッパのみしていた。

周囲をまったく気にすることなく悪びれず実に堂々と飲んでいた。

2度目も同じく神戸駅下りホームでやはり平日で時間もほぼ同じ時刻。

今度は前回より少し若い30代前半ぐらいの女性が缶ビールをちょびちょび飲んでいた。電車がくるとそのまま缶を持って乗り込んでいった。

3度目は土曜日の11時ごろJR姫路駅東海道線上りホーム。

今度は20代後半と思しきOLふう2人連れの女性が手にした缶チューハイに時々口にやりながら電車を待っていた。電車に乗ってからも楽しそうに話しながらそれを飲んでいた。


(その2)歩道で道を譲らない女

JR三宮駅近くの路上であった。

当方は少し酔っ払っていたのだが、それほど広くない歩道で向こうからきた若い女性にぶつかりそうになり、酔いも手伝って少し雑な言葉で「どけよ!」と言ったところ「テメーがどけよ、このやろう!」と返ってきてたまげてしまった。

その迫力に負けて私の方が道を譲った。

見たところこぎれいな身なりをしていてそんな罵声を吐くような女性には見えなかったのだが。


(その3)山陽電車神戸駅ホームでの光景

少し酒に酔ったような若い女性がベンチに座っている中年男性に「このやろう!」「このやろう!」と罵声を何度も浴びせながらその膝を蹴りまくっていた。男性は何の抵抗もせず黙っていた。

以上これらすべてのことはこの1年以内に目撃したことである。

この他にもこれに類したことは多々あるが、それはまた別の機会に譲ることにする。

とにかく最近の女性の中にはこれが女のすることかかとこちらを驚かす行動を堂々と平気でやっているのである。


(その4)立飲み屋に若い女性客が増えてきた

さて少し話の方向は変わるが、私は仕事の帰りに平均して週に2〜3回「立飲み屋」に通っている。

前にもブログに書いたことがあるが、立飲み屋は長居しないので健康的にも良く、安月給のサラリーマンにとって懐にも優しい恰好の飲屋なのである。

その立飲みで最近目立って多くなっているのが女性客である。

それも若い女性が多いのである。

これが普通の居酒屋などだと女性客など別に珍しくもないが立飲み屋だと少し事情が違ってくる。

なぜなら立飲み屋にはトイレの設備がないところがほとんどであり女性にとってはいたって不便であるからだ。

それだけでも普通の女性は嫌がるはずである。

もちろん大都市などにはあえて女性客を意識したバー風の洒落た内装を施した立飲バーなどもあるが、私の町にはあいにくそうした店はなく、いわゆる客が肩寄せあって飲むごく普通の立飲み屋である。この肩を寄せ合いはすかいになって並ぶのは近頃ではダークダックスタイルとも呼ばれている。

まあそれは余談だがこういった店にくる若い女性客がさほど珍しくなくなってきているのである。

この前などすぐ側に居た二人づれの女性客は「これで今日3軒目よ」と豪語している始末である。
げに恐ろしき女性パワーかな。

女性のおっさん化現象もここまで来ているのである。

インターネットFC2「スロー速報」参照

2011年4月3日日曜日

いけてる!・ネットのカラオケサイトご紹介

東日本大地震被害者への応援歌
      素敵なカラオケをどうぞ!

3月のブログではテンポラリーに東北大震災の記事を多く載せた関係で普段より掲載数が増えてしまいました。

それを調整する意味で、本日は日曜日ということもあり、息抜きも兼ねてカラオケなどいかがでしょうか。

本日は私がいつも利用しているナツメロ満載のネットサイト「ふくちゃんの音楽室」のご紹介します。

この中で特に昭和・戦後の歌2はおすすめです。

いろんな種類の曲が含まれている中でこの分野だけでも歌詞つき演奏曲が269曲もあり、きっとあなたの良いカラオケ簡易練習台になることでしょう。

素敵なメロディに合わせて是非1曲どうぞ!

Link 「ふくちゃんの音楽室}
http://www.fukuchan.ac/music/music.html

2011年4月2日土曜日

お気づきでしょうか?・いま日本はITをはじめ多くの分野で韓国に追い越されているという事実!に

IT分野で次々と韓国に遅れをとっている日本

先月のこのブログに日本と韓国を比較したIT関連で二つの記事を書いた。

その一つは3月26日の「世界市場のシェアで韓国に大きく差をつけられている・made in Japanの携帯電話」というもので、この分野での韓国25%のシェアに対して日本は4%でしかないということについての記事である。

そしてもう一つは3月28日の「韓国が第1位、日本はなんと17位・2010年電子政府国際ランキング」といういう記事で、電子政府というIT分野での達成率で韓国が米国を抜いて第1位と大躍進したのに比べ、日本はなんと17位で先進国の中でも大きく出遅れているということについて書いている。

そして本日あらたに付け加えたいのは本年度2011年から韓国の公立学校では「電子教科書」が取り入れられることになったということである。

これは小中高生に電子教科書用のCDロムが配布され紙の教科書に代わってパソコン画面による電子教科書を使用して授業が進められることになったのである。

では日本でのこれに対すると取り組みはどうかというと、今からまだ4年先の2015年に実現を目指してやっと準備段階に入ったばかりなのである。

アブダビの原発受注でも韓国に破れる

また韓国と比べた次のような話もある。

今わが国では東北大地震の影響で発生した福島原子力発電所の放射性物質漏洩が世界をも巻き込んだ大問題になっている。

日本は現在アメリカ、フランスに次いで世界第3位の原発大国である。

ところが昨年12月にUAEのアブダビで原子力発電所建設の受注があったのだが、日本勢は圧倒的な技術力で受注できると信じていたのにもかかわらず、あとから参入してきた韓国にその受注をあっさり持っていかれてしまったのである。

このように次々と明らかになる韓国に比べた日本の凋落ぶりはいったいどうしたことなのだろうか。

韓国のサムスン1社で日本の家電メーカー全社の合計を凌ぐ利益をあげている

また、これまでの私のブログでは触れてはいないが、日本の家電業界はもうずいぶん以前から液晶テレビを初めあらゆる商品で韓国に連戦連敗を続けている。

ある報道では韓国のサムスン1社で日本の全家電メーカーの利益額を上回っているとも伝えている。

これは驚くべき話ではないか。

サムスン1社にパナソニックや東芝、シャープなど日本のすべての家電メーカーが束になってかかっても及ばないというのである。

にわかには信じ難い話ではあるがどうやら単なるデマでもなさそうである。

いったいいつの間にこういった酷い状態になってしまったのであろうか。

もちろん多くの部品を日本から輸入して、技術も日本を真似たものが多いのも事実である。

それに価格的にもウォン安を背景に日本製品よりかなり有利な低価格を設定している。

そういった事実があるにしろ、韓国といえば日本の3分の1しか人口のない小国である。

そんな国にやすやすと負け続ける今の日本のふがいなさは誠に情けない。

今韓国では大学生は3ヶ国語を話すトライリンガルは珍しくないと言われている。

そうした学生たちが企業に入りその優れて語学力で欧米諸国をはじめ世界中にに韓国製品の強力な売り込み作戦を展開しているのである。

それに比べて日本と言えば英語さえまともにしゃべれる学生も少ないのである。

これでは世界を相手にした営業活動の差は歴然としており、こうした基本的なことからして日本は韓国に遅れをとっているのである。

こうしたことを許した原因はいろいろあるが、その一つはこのところ長期に渡って続いて日本を代表する総理大臣の度重なる入れ替わりではないだろうか。

こうしたことで政府のふがいなさを攻めるのは簡単だが、それを許してきた国民にも大いに責任があるのである。

今私たち日本国民はこの際韓国をライバルとしてはっきりととらえ、強い目的意識の元に打倒韓国を目指し再びこうした分野での強い日本を取り戻さなければならない。

それ以外に国力回復の道はない。

参考文献 「ソーシャル社会が日本を変える」アスキー総合研究所
インターネット 2ch「ブラブラブラウジング」参照

2011年4月1日金曜日

良い姿勢を保ちたい・背をピンと伸ばせば身長が3センチ高く見える

偶然だとは思うが先月読んだ本の中に姿勢について書いているものが2冊あった。

その1冊は「4分5秒で話は決まる」 山川碧子著(朝日新書)であり、もう1冊は「プロアナウンサーが伝える技術」 石田顕著(PHP新書)であった。

まず1冊目の本はイメージコンサルタントという立場の著者が第一印象をよく見せるために姿勢の大切さについて述べているのだが「それほど上背のない人でも背筋をピント張って姿勢を正せば背丈は実際より3センチ高く見える」と姿勢を良くすることのメリットについて書いている。

もう1冊の方は元アナウンサーであった著者が良い声の出し方について述べているのだが「肩を開いて胸を出し背筋を伸ばして話すといい声がでる」と力説しているのである。

お二人とも職業を通じてのプロとしての意見を述べているだけに説得力はじゅうぶんにあった。

姿勢については普段から人一倍気にかけている私だけにこのお二方のご意見にはじゅうぶん共感が持てた。

若い頃から私が特に姿勢に気をつけるようになったのは昨年100歳で亡くなった母の影響によるものである。

子供の頃、特に食事中に多かったようだが、少しでも姿勢を崩して食べていたりすると、決まって母は「姿勢が悪い」と言ってピシャリと私の背中を叩くのである。

今のように椅子のテーブルではなく、座敷テーブルでの食事なのでついつい背を丸めたり膝を立てたりするのだが、母は決してそれを見逃しはしなかった。

いったい何度母ににそう言って背中を叩かれただろうか。

そのおかげで私は社会に出てからもずっと良い姿勢を保つ習慣が出来たのである。

166センチと背の高くない私にとって先ほどの著者が言うように姿勢をを正せば3センチ高く見えるとすれば合計170センチ近くになるのだから、まず日本人としては平均的で背丈に関してコンプレックスを持たなくてもよくなるではないか。

本当だとすれば非常にありがたいことである。

まあそれはそうとして私としてはこれからもずっと背筋をピント伸ばしアゴを少し引き常によい姿勢を保っていたいと思っている。

それが健康の為にも良いことだと信じている。