聞き書きの本であろうか。
語り口調で書かれており流暢でテンポがいい。
おしゃべりを得意とする著者にはもってこいではなかろうか。
はっきり言って人気番組である「徹子の部屋」は見ていない。
でもユニセフ親善大使として長年世界中の恵まれない子供たちの為に尽くしてきたことに対しては日頃から敬意をはらっている。
この本は図書館で目にしてつい手にとってみたのだが、テンポが良い語り口に引きこまれて一気に読み終えた。
徹子の部屋の出演者の話。それらの人とのその後の友好関係について。美男美女であったという両親のこと。ユニセフ親善大使としての世界中の恵まれない子供たちとの交流。大好きな街ニューヨークの話題などなど、いずれも著者の人間味があふれる心あたたまる話で埋まっている。
読後感は「爽やかでありかつ痛快そのものである」とでも言えばいいだろうか。
癒しの一冊として是非お薦めしたい本である。
さて次は個人的な理由での感想なのだが、著者の父親黒柳守綱氏はN響のコンサートマスターであったそうだ。
そのN響の前身の楽団にいたとき、今では恒例になっている年末のベートーベン第九の演奏会を最初に始めた人が彼なのだという。
偶然にも私は昨年12月のブログに「なぜ年末にベートーベンの第九を聴くのだろうか」というタイトルの記事を載せているのだが、そのブログの中で今でこそ年末恒例になっているベートーベンの第九の演奏だが、それを始めた理由が単に楽団員の正月資金を稼ぐためにであったのだというのだ。
あの重厚な雰囲気をもつ年末の第九の演奏会がそんな軽い理由で始められたことを知り私はすっかり失望した。
そんな私の失望の念をブログに書いたのだが、あれを始めた当事者が著者のお父さんであったのだと著書の中でご自身が語っているのである。
これもなにかの因縁だろうか。まさに不思議な縁である。
まあそれはさておき、私がこの本で最も心を打たれた部分を最後にご紹介することにする。
著者が体験した戦時下での厳しい食糧難の日々を綴ったものである。
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1日の食料は大豆15粒(229P〜231P)
戦争中、いちばん大変だったのは食べものです。
昭和18年(1943年)に、優秀な軍人だった山本五十六さんという方が亡くなったときは、文部省の命令で全校生徒が校庭に出てラジオでその発表を聞きました。
でも、その頃にはもう食べるものが無くて、お腹がすきすぎてみんな立っていられないのね。
どうしてもしゃがみこんでしまう。
余談ですが死亡が発表されたのは死んだ日より1カ月も後だったと言います。
当時はそれほど情報が操作されていたんでしょうね。
私はユニセフの活動でアフリカに行って、食べ物がない子どもたちに接するとき、ふと自分の子供の頃もこんなだったなあ、と思うことがあります。
戦争中は私もまた餓えた子供でした。戦争中、私がどんな生活を送っていたかというと、とにかく毎日空腹でした。
そして、四六時中、空襲に怯えていたせいで睡眠不足でした。
昼でも夜でも空襲警報が鳴ったらアメリカの飛行機が東京の空に現れて爆弾とか落とすんで防空壕に隠れなければなりません。
それでも子供たちは毎日学校に通っていました。お店も全部閉まっていて、何も売っていないから手に入るのは配給物だけ。
それでもはじめの頃は大豆がありました。
それを母がフライパンで炒って袋に入れてくれるんです。だいたい15粒。それが私の1日のご飯でした。
「これしかないんだから、考えて食べなさいね」と母に言われて、朝まず3粒ぐらい食べるんです。それで、あとはお水でお腹をいっぱいにしてから学校に行って、お昼ご飯に4粒ぐらい食べました。
お昼過ぎに空襲警報が鳴って、防空壕に入るでしょ。
そこで、身体をこう、丸めながら、考えるの。「あと8粒残ってる。このまま死ぬのなら、ここで全部食べちゃおかな。でも、生き残ったら家に帰ってから食べるものが無いな。どうしようどうしよう。
でも3粒は今食べよう。家に帰ったとき家が焼けてなくて、親が生きているといいな」そんなことを考えながら3粒食べるんです。
それから無事に家に帰って、親が生きていて「ああ、まだ大豆も5粒残っている、私は運がよかった」と思う。大豆もそのうち配給されなくなり、もっとひどいものになりました。栄養失調で身体中におできが出来ました。爪の下が腫れて膿んでくる。ひょうそという病気にもなりました。でも青森の三戸に疎開して魚を食べるようになったらすぐ治ったんです。
たんぱく質って本当に大事なのね。
黒柳徹子著「徹子ザベスト」講談社刊より
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