むかし敬老、いま軽老!
以前からずっと思っている。老若男女、歳や性別などはまったく関係なく、馬鹿は馬鹿、賢い人は賢い。
だから年をとっているからと言って、ただそれだけの理由で人を敬う気持ちなどは一切もっていない。
したがって中国の孟子が唱えたという「長幼の序」のような”生じてきた順番だけを重視”する考え方には必ずしも肯定的ではない。
だってそうだろう。尊いのは年齢ではなく、歳の数だけ努力を重ねてきたその姿なのだ。
だから努力なしに、ただいたずらに年齢だけを重ねている人などまったく尊くはなく、敬いの対象にはならないのである。
でも、歳が若くても賢い人は日々それなりの努力を重ねている。だからそんな人にはたとえ自分よりうんと歳が若くても敬意を払う。
今ビジネス界では急速に実力主義が進んでいる。もう年功序列の時代ではない。
要は仕事のできる人を厚遇し、そうでない人にはただ出口だけが待っているのである。
こんな時代にあって、敬老の日にいったい何の意味があるのだろうか。
人は生きている限り、一生懸命努力しなければならない。
例え年寄りだと言って、その精神を忘れたら早晩痴呆になって、周りから疎んじられるだけである。
もう一度いう、長生きすることに意味があるのではなく、いつまでも何かの夢を追い続けて努力を重ねる姿にこそ、人として真の意味があるのである。
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