2011年2月28日月曜日

多すぎるオレンジの種類・交配による品種改良はいつまで続くのか

「でこポン」1個 いくら?

多分ご存知の方は多いと思いますが右の写真のオレンジの名前は「でこポン」といいます。

なぜこの果物を引き合いに出したかというと、オレンジにしては価格が飛びぬけて高いからです。

さて皆さん、このオレンジの最高級なもので1個幾らぐらいだと思いますか?

300円ですか?それとも500円ぐらい?

いいえ、どちらもはずれです。

高級フルーツで有名な「S」という店ではこの「でこポン」1個が驚くかな1260円もするのです。(値段はインターネット「アズマム日誌」より)

これではもうオレンジの値段とは言えません。

大きさから考えるとあの高級果実である「メロン」さえも凌ぐほどではありませんか。

まあこれは「最高級品」ということで特別高い値段なんでしょうが、普通品でも500円ぐらいするといいますからオレンジにしてはいかにも高い値段ではないでしょうか。

こんな高いオレンジをいったい誰が買うのでしょうか。

上質でおいしい輸入物の「サンキストオレンジ」でさえ1個100円前後で買えるというのに・・・。

ではなぜ普通の人では手が届かないようなこんなに高い値段になってしまったのでしょうか。

それは交配による品種改良を進めた結果です。

それに沢山のお金と労力がかかったからです。

タイトルの下の写真はいま国内で販売されてみかんの種類ですが、なんとたくさんあることでしょうか。

この種類、国内の最も大きな生産地愛媛県だけでも10種を越えているといいます。

次に並べるのがそれらの名前です。

ポンカン
八朔(はっさく)
せとか
みかん
ネーブル
サンフルーツ
はるみ
マリヒメ
甘夏(あまなつ)
はるか
甘平(かんぺい)

その数じつに11種類。

愛媛県だけでこれだけですから驚くではないですか。

これを全国にして数えたらどれだけになるのか見当もつきません。

果たしてこれだけ多くのオレンジの種類は必要なのでしょうか。

種類が増えて全体の価格が下がっていくならまだしも、先ほどの「でこポン」のように価格高騰を招くだけなら、はっきり言ってまったく必要ないと思います。

今は円高で美味しい輸入フルーツが安く手に入る時代です。

そんな時代に1個500円以上もするような、国産オレンジを店頭に並べること自体がまったくナンセンスなことです。

国内ミカン生産地の品種改良に対する方向転換を望むばかりです。

2011年2月27日日曜日

高齢者の運転は高くつく・「運転免許証返納」数々のメリット

自動車保険、高齢者は値上げへ 事故増加で東京海上日動
(朝日新聞) 2011/2/25

 損害保険首位の東京海上日動火災保険は7月から、高齢者の自動車保険料を引き上げる方針を明らかにした。標準的な優良ドライバーでは、60代を年約2千円、70代を年6千円近く上げる一方、50代以下は引き下げる。高齢者の事故が増えているためという。

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高齢者の運転事故のニュースが後をたたない昨今であるが、その防止に大いに役立つと思われるのが最近報道された上のニュースである。

およそ何の値段であっても値上げというのは決して嬉しいことではないのだが、このニュースに限ってはそうも言えないところがある。

そう思えるほど最近の高齢者運転による事故が多くなっているのである。

このところの65歳以上の高齢ドライバーによる交通事故件数は2006年には99,853件を記録し、10年前の1996年と比較すると65歳以上で2.2倍、75歳以上だと実に3.3倍の高い伸びとなっている

いま事故予防策の一環として国や各自治体では運転免許を所持している高齢者に対してその返納を呼びかけている。

つまり免許証を返還して自動車の運転を卒業してもらおうという呼びかけである。

この「運転免許自主返納制度」だが、ただ返せというのではなく、返納すると「運転経歴証明書」というものが授与され、運転免許証に変わって身分証明書として利用できるほか、これを提示するだけで数々のメリットを受けることができるのである。

例えば東京都の場合だと次のような特典がある。

上野動物園、多摩動物公園、葛西臨海水族館、江戸東京博物館、などへの来館時に記念品の贈呈。

出光美術館、岡本太郎記念館、世田谷美術館などの入場割引やポストカードプレゼント。

伊勢丹、三越、高島屋などの自宅配送料無料。

はとバス定期観光コース5%割引。

東京以外の各都道府県でも様々な運転免許証返納支援事業が行われているようである。

高齢のあなた、これを機会にそろそろ運転にサヨナラを告げてはいかがですか。

インターネット「WISDOMブログ・マネー講座」参照

2011年2月24日木曜日

財布のひも(実権)を握るのは夫か妻か・世界の家庭「大蔵大臣?」事情


あなたの家庭の財布の実権は誰が握ってるのですか?

そんなことは今さら聞くにも及ばず、わが日本では全家庭の80%以上でその実権は亭主にあらず奥さんが握っているのである。

そして亭主は今や単なる月給運搬人に成り下っていて、汗水流して稼いだ給料の中から「はい、これ今月分」と言われて、なにがしの額のお小遣いを支給されるのである。

でもこれって考えてみれば随分おかしいことではないだろうか。

なぜならそのお金を稼いでくる一家の主人と言えば、多くの人がその職場においては、やれ「利益率」であるとか「経営効率」とか、さらにのは「経営手法」についての様々な知識を学んでいるはずである。

そうしたいわゆる数値に明るいはずの主人が家庭の金銭管理に当たらずに、どちらかと言えばそういう方面に暗い奥さんが一家の金銭管理にあたるというのはどうしたことであろうか。

おそらくこうした状況は日本の特異な状況なのではないだろうか。

それを実証するためにここで世界の「家庭の財布のひも事情」を眺めてみよう。

以下の記事は「地球ラジオ」というネットサイトが2009年に世界各国在住(在住経験者)の日本人にインタビューしたものである。

・エジプト N さん
エジプトで財布のひもを握っているの大多数の家庭が夫です。ごく一部の都市部に住んでいる若い人たちの家庭では、妻が財布のひもを握っているところもあるみたいですが、そういった家庭はエジプトでは本当に少ないようです。エジプトではどうして、夫が財布のひもを握っているのかといいますと、イスラム教の教えで、そのようになっているからです。つまり、イスラム教の教えが書かれた経典、コーランにそのように書いてあるからです。「家庭では夫が財布のひもをにぎるべし」というふうに。

・イギリス Kさん
フルタイムで共働き、どちらが一方がパートタイム勤務、シングルペアレント、パートナーシップ等々で状況は違ってくるのでしょうが、一般的にいって片方だけで全てを管理しているようではないようです。私の周りでは、食費、子どもの費用などは、そのつど妻が支払う形ですが、光熱費や種々の税金そして年に一度の申告(会社勤務でも状況によってする必要があります)は夫が行っています。

・アメリカ C.N さん
白人のアメリカ男性と結婚した日本女性である私の友人は、やはりご主人だけに収入があり、毎月、現金で決まった額の生活費を彼からわたされ、「これでやりくりするように」と言われるそうです。カードも作ってもらえず、「まるで大昔の日本のみたい」と、嘆いていました。

・イタリア N.M さん
イタリアはカップルともに働いていることが多いので、二人の共同の財布で食費や光熱費、ひいては家賃まで折半します。

・アルゼンチン S.Kさん
こちらでは、夫の場合が多いです。年配のご夫婦では、夫の給料の額さえ知らないこともあると聞きます。若いカップルは、共働きが多いのでそこまではいきませんが、基本的な部分は夫が管理することが多いようです。

・タイ S.F さん
母系社会タイではご主人はマスオさんです。当然、財布は奥様方ががっちり握っています。少数ですが華僑系の家庭はご主人が。奥様方は経済的に余裕があると実家や親せき、知り合いに気前よくプレゼントします。だから国際結婚した欧米系の男性は用心して財布のひもはしっかり握っています。

・フランス V.M さん
家の家計の管理は夫がしています。夫の部屋にお金を隠す場所があって、家族はそこからとりだして使っています。大事な買物は夫に相談しています。夫は買物が好きで主に夫が買物をしています。経済的な良い買物をしているようです

・トルコ J.T さん
トルコでは、断然男性が多いと思います。田舎の方に行けば行くほど、お金の工面は男の仕事、女性は必要な額をその都度、夫からもらう、というような形ではないでしょうか。田舎方面では、買い物そのものも、基本的に男性の仕事なので、奥さんは必要な物は何でもメモに書いて渡し、ダンナさんは、それを買ってくるという感じですので、お金自体が手に渡らなくても、大して不便ではないんですね。給料袋をそのまま、奥さんに渡す人、というのは聞いた事がないです。

インターネット「地球ラジオ 世界まるごと質問箱」参照

以上一部の国々ではあるが「世界財布のひも事情」のご紹介でした。

2011年2月23日水曜日

難しい「知恵」「金」「暇」のバランス

もうずいぶん前になるが、「堺屋太一」著による「知恵」「金」「暇」という三つの要素について書いた本を読んだことがある。

その本によるとこの三つの要素をすべてを持ち合わせている人は非常に少なく、ほとんどの人はせいぜい二つ 持っていればいい方だという。

そして三つともすべて持っていない人は皆無であり、どんな人でも最低一つは持っているという。

では多くの人が持っている二つの要素であるが、その組合せは「知恵」と「金」、「知恵」と「暇」、「金」と「暇」というふうになる。

そしてこれらの組合せにおけるそれぞれの特徴は、
(1)「知恵」と「金」がある人は暇がない。

(2)「知恵」と「暇」がある人は「金」がない。

(3)「金」と「暇」がある人は「知恵」がないとなるのである。

これについて説明すると、まず(1)であるが、この人たちは持ち前の「知恵」を使って休む暇もなく(暇がない状態で)働いてきたから「金」があるのである。

(2)はせっかく持ちあわせている「知恵」をまったく使わず遊んでばかりいるから「暇」があっても「金」がないのである。

(3)は親の財産か何かを引き継いであくせく働かなくてもいいようなケースであろうが、せっかく持ち合わせた「金」と「暇」なのに、「知恵」がないばかりにお金を有効に生かすことが出来ず、預金通帳を見ることだけが楽しみの守銭奴とも言うべき存在であろうか。

では三つのうち一つだけしか持っていないケースを考えてみよう。

まず「知恵」だけある人だが、せっかく持ち合わせた頭脳も働くことが嫌いでは知恵を生かしようがなくまた資本がなく何も始めることができないという、まるで負のスパイラルである。

次に「暇」だけある人どうだろうか。この人たちは金もなく、知恵もなく働く意欲がなくてはどうしようもないのである。

では「金」だけあって知恵も暇もない人だが、これはもうお金をためることだけが生きがいの究極の守銭奴と言えるであろう。

最後に「知恵」「金」「暇」すべてを持ち合わせている人のことを考えてみよう。

おそらくこうした人々は知恵を使って金(資本)を惜しまず出して精をこめて働いてきたのであろう。

つまり「知恵」「金」「暇のない勤労」この三つの要素をを惜しまず使ってきたが故に、結果として投下した三つものが大きな利子をつけて戻ってきたのに違いない。

「知恵」「金」「暇」のバランス。

さてあなたはこれらのうちどれに該当しますか?

2011年2月21日月曜日

世の中はすべて「引きつけてなんぼ」である


今さら言うまでもないが資本主義社会というのは好む、好まざるに関わらず多かれ少なかれ勝ち負けの世界である。

要は強いものが勝ち弱いものは負けるのである。

そしてこの勝ち負けの割合は決して平等ではなく、概して「勝つものはいつも勝ち、そして負けるものはいつも負ける」のである。

厳しい言葉ではあるが、これが弱肉強食とも言われる資本主義の原理である。

ではこの競争社会でいつも勝つ側に立つ人とはいったい相手に対してどういうふうに臨んでいるのであろうか。

手っ取り早く言えば彼らはものごとを進めるに当たって、すべて自分のペースで展開することをモットーとしていて、常にそれを実行し続けているのである。

先月のこのブログにも取り上げたが「営業マンのバイブル」とも言われている日本を代表する広告会社「電通」の「鬼の十訓」という訓示の第5番目には次のような一節がある。

「周囲を引きずりまわせ,引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地の開きができる」

今の時代にこれを読むとやや過激な印象を抱くのは否めないが、これが作られた当時は世の中に勢いがあり、ビジネス戦士には大いに共感を持って迎えられたのであろう。

ではこれを少しソフトな語調になおしてみると、

「相手をじゅうぶん引きつけて自分のペースにもっていきなさい。まちがっても相手のペースに乗ってはいけません。もしそうであると決していい結果は招きませんよ」

というような意味あいではないだろうか。

二者間の関係と言えば何も営業マンと客に限らず、人と人のこの世の中にはいろんな種類の人間関係がある。

例えば親と子・夫と妻・上司と部下・先生と生徒・スポーツチームの監督と選手。などなど。

さてこれら各種の人間関係においては、当然のことながら2者間にはおのずと力関係というものが生じてくる。

この力関係が正常であれば世の中のものごとは良い方向に進み、不正常であれば悪い方向に進むのが常である。

では正常な力関係とはどのようなものなのだろうか。

上に並べた関係のうち、「夫と妻」だけはやや微妙であるが、あとはいずれも前者の方が力関係において上位にくるのが「正常」で、これが逆転すれば「不正常」なのである。

もしそういう状態になれば子は親の言うことを聞かなくなり、学校では授業がスムーズに進まず、スポーツのチームは連戦連敗で少しも強くなれず、また営業マンは成績が上がらずと、まるで良いことはなく悪いことずくめなのである。

であるが故になにはともあれ前者が力関係の上位にくるのは絶対的なことなのである。

さて「力」と一言で言ってもその力にもいろいろな種類がある。

ここではその力のうち、「人をひきつける力」に焦点を絞って話を展開していくことにする。

まず「先生と生徒」「営業マンと客」の二つの関係を例にとって考えてみることにする。

今学校現場で、生徒が授業中に勝手な行動をとって授業がうまく成立しにくくなっている。というようなことをよく耳にする。

端的に言えばこうしたことが起るのは先生に生徒を引きつける力が不足しているからである。

つまり、いかに知識がある先生でも、授業に入る前や授業中での生徒の「引きつけ」がうまくできていなければ授業がスムーズに運ばないのは当然ではないだろうか。

なぜなら一般的に言って生徒はあまり勉強が好きではないからである。

でも要所要所であえて授業内容から離れてでも生徒を引きつける努力を怠らない先生は、勉強嫌いな生徒相手でも何とか授業を成立にこぎつけることができるのである。

だからこそ教師には知識力のまえに生徒を「引きつける力」が要求されているのである。

では次に「営業マンと客」を例にとってみよう。

よく営業の世界では「モノを売るより人を売れ」ということが言われる。

一昔前に比べて人々の物質欲がうんと少なくなってモノ離れが進んでいる今、人に物を買ってもらうのは大変なことなのである。

そんな中にあって、商品はあまり欲しくないが、あなたが勧めるのなら買ってもいいよ。というようなケースがあるが、これはまさに客はモノではなくヒトを買っているわけで、これこそ営業マンの究極の「客の引きつけ」が成す技なのではないだろうか。

客を立ててはいても、常に優位な立場に自分を置いて,モノではなく徹底的に人となりを売り込んで客を引きつけているのである。

授業の進め方の上手な先生しかり、成績のよい営業マンしかり。まさにこれこそ「引きつけなんぼ」の世界なのである。

さてあなたは引きつける側にまわるか、引きつけられる側にまわるか?

人を引きつけるための五つの要素

・対面のときは必ず笑顔で接する。
・アイコンタクトを忘れない。
・常に相手に関心をもち、ほめ言葉を随所で使う。
・相手の発言に応答するときは必ず「そうですね」「おっしゃるとおりですね」から始める。
・電話では相手の息づかいで状況を察知する。

「士業」も楽じゃない・ここまできたのか「公認会計士」の不人気


職種別年収ランキング
(図表をクリックしてください)


朝日新聞(2/19)
 
昨年の公認会計士試験合格者のうち、過去最悪の約4割が就職できず、資格が得られない

「会計士浪人」になっていることが金融庁の調査で分かった。2006年から合格者を大幅に増やしたことや、不況が原因とみられる。金融庁は一般企業に採用を呼びかけているが、合格者の就職環境は年々悪化している。

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上の朝日新聞の記事に見るように、いま「士業」と呼ばれるいわゆる自由業に身を置く人々の職業環境は年々悪化しているようである。

上のケースは公認会計士についてであるが、昨年8月2日の「売れない弁護士」という私のブログにも書いたが、司法試験という難関をくぐってきた「弁護士」でさえ不景気のせいもあって、今や

人員過剰気味で、新人弁護士の中には「法律事務所」などへの就職さえおぼつかないことさえ珍しくないようであり、せっかく肝いりで作られた法科大学院は早くも志願者が減少という暗礁に乗り上げつつあるのだと言われている。

その「士業」であるが、いったいその種類と数はどれくらいあるのであろうか。

参考までに下に並べてみることにする。

医師・弁護士 ・行政書士 ・司法書士・税理士
公認会計士・中小企業診断士・社会保険労務士・
弁理士・土地家屋調査士 ・不動産鑑定士etc

こうして並べてみると、この分野も種類は多く、
従事する人の数も決して少なくない。

先に述べた公認会計士や弁護士は新聞報道にもあるようにこの先、人口減少の一途をたどる日本の現状から、その数の上からも明らかに過剰気味で、

新人弁護士や公認会計士にとっては事務所を構えて開業するどころか、思うように就職することさえおぼつかないのが現状なのである。

当然そうした状況下では収入の減少も避けられないだろうし、医師のような例外もあろうが今やこ
の「士業」業界にも確実に「変革の波」が押寄せているようである。

一時のように「花形職業」として持てはやされる時代はもはや去って行ったのかも知れない。

2011年2月20日日曜日

勉強時間が圧倒的に少ない日本の大学生・果たしてその原因は?

大学生の勉強時間

少し古いが1990年のある調査によると、日本の大学生は授業以外に、自宅や図書館などで一日平均1.8時間しか勉強しないのに対し、アメリカの大学生は7.6時間(つまり日本の4倍) も勉強するのだそうだ。

また、日本の大学生の多く(48%) が「大学生活で一番大切なのは友人との付き合い」と考えているのに対して、アメリカの大学生の多く (50%) が 「講義、ゼミ、実験などが一番重要」 と考えていることも分かった。

このようにアメリカの学生に比べ圧倒的に少ない勉強時間であるが、その後少し改善されて2008年の調査では「勉強第一」と答えた日本の学生は27.6%になった。

それでもまだアメリカの学生とはまだ20%以上の開きがあるのである。

       インターネット「大学生の勉強時間」参照


こうした日本人学生の少ない勉強時間を云々する前にいったいこのことは何を意味しているのかについてを考えてみよう。

つまりアメリカの学生と違って日本の学生が勉強しなくても許される背景にはどういうことが潜んでいるのかという点についてである。

それは一言で言って日本の大学における卒業の門の広さである。

よく言われているようにアメリカの大学が「入りやすくて出にくい」のに比べ、日本の大学は「入りにくくて出やすい」のである。

したがって日本の大学生は入るまでは学習についてそれなりの苦労はするが、いったん入ってしまうと卒業に対する危機感などまったくないので、それまでの勉強に対する態度をとたんに緩めてしまい、遊びやバイトという安易な方向に流れてしまうのである。

それに対してアメリカの学生は入学に際して門戸を広げて入りやすくしてくれている大学に感謝する反面、極端に出口を狭められている卒業ということに対して非常に危機感を抱いており、そのために入学した後も緊張感を維持して勉学に励むのである。

今でこそ日本の大学も一流どころでは卒業に厳しい条件をつけてきつつあるが、

まだまだ大半の学生は勉学に対する緊張感が欠けており、のんべんだらりと毎日を過ごしている者が多いのではないだろうか。

今ここで別に難しいことを言うつもりはない。

ただ、今一度「学生の本分は勉強にある」という原点に立ち、最高学府で学ぶにふさわしい人間として、真摯な態度で勉学に対峙して欲しいものである。

2011年2月19日土曜日

休眠ブログ急増中!・あなたのブログが「墓場行き」にならないように。

ブログのサーフィンをやっていると、長期間にわたって更新のなされていない、いわゆる「休眠ブログ」なるものにしばしば出くわす。

こちらとしてはタイトルに引かれてそのサイトを訪問したのだが、出てきた記事と言えば数ヶ月前、

あるいは1年以上前に更新されたきりの古くてカビの生えかかったような記事なのである。

ある調査期間のデータによると驚くなかれ!全体の「7割」以上ものブログが長期間まったく更新されていないという。

報道番組のニュースほどでもないが、ブログの賞味期限は非常に短い。

したがって新鮮さを保つためには更新こそが命なのである。

言い換えれば更新されないブログはもはやその生命を失っていると言えるのである。

では何故これだけ多くのブログが休眠状態になってその命を失っていくのだろうか。

その原因の一つにはブログサイトを持つプロバイダーなどの安易で過剰な宣伝がある。

これらプロバイダーはブログのことを誰でも簡単に始められると誘ってはいるが、継続の大切さとか困難さにはまったく触れれはおらず、ただいたずらに間口を広げて参加者を募っているだけなのである。

ということは、ブログの主催者自信の展望があいまいなのである。

もししっかりとした展望を持っての展開であるのなら、ブログ記事を長期にわたって掲載し続けることとの困難さはじゅうぶんに予測できることであり、

したがってその展開に当たってはじゅうぶんに戦略を立てた上での参戦であると思うのだが、いかんせん決してそうではないのである。

ズバリ言ってブログが続かない理由は次の2つの要因ではないだろうか?

(1)ネタがない。ネタが続かない。

(2)思ったようなアクセスがなく、書く意欲がわかずモチベーションが保てない

(1)について言えば、およそブログにとって「ネタ」ほど大切なものは他にない。

 より多くの読者に支持されるのは何と言っても「新鮮で魅力あるネタ」である。

 これなしで読者に支持され多くのアクセスを得ることは困難である。

(2)については、およそブログを継続させる為のモチベーション維持のために、アクセス数ほど大切なものはない。

まさにアクセスあってのブログで、それこそが更新のための最高の活力になるのである。

極端な言い方をすると「アクセスなくしてブログ更新の意欲は生まれない」ということである。

したがってブログ継続に必要なのは何をおいてもアクセス数なのである。

それゆえにブログの書き手はは何が何でもこのアクセス数を上げる為の努力を怠ってはならない。

つまり絶えず新鮮なネタを用意していつも読者のほうを向いて魅力ある記事を書き続けるだけなのである。

どうかあなたのブログが休眠などにはならず末永く継続することを切に祈る。

インターネット PCinfo「Webアクセス向上委員会」ブログ継続の難しさ (参照)

2011年2月17日木曜日

「ダークダックススタイル」でどうぞ・「立飲みバー」っていいところですよ


気がついてみると私が飲みに行く店と言えばいつの間にか「立ち飲み屋」が主流になってしまっている。

アメリカやイギリスのように「バー」と言えばすなわち「バー」であって、カウンターの前に立って飲むのがオーソドックスでスタンダードなスタイルである。

そのスタイルが遅ればせながらようやく日本でも定着しつつあるようだ。

ところで立飲み屋の「ダークダックススタイル」ってご存知だろうか。

中年以上の人だと知っていると思うが「ダークダックス」とは往年の人気コーラスグループの名前である。

彼らがステージで歌うときのスタイルがやや斜めに構えて立っていたことから、それほど広くない満員の立飲み屋で一人一人のスペースを狭めるために否応なく斜めに構えて飲むことをこう呼ぶようになった(知る人ぞ知る)のである。

まあ「袖すりあうも他生の縁」ではないが、それが立飲み屋のいいところでもある。

期せずして隣の人と体が触れ合うほどの距離にいれば何となしに親しみもわいてきて、まるで旧知の友のごとく気軽に会話を楽しめる雰囲気が涌いてくるのである。

「ダークダックススタイル」とは誰が考えたのか知らないが、なかなかユーモアセンスあふれるネーミングである。

ところで皆さんは禁煙バーっていうのをご存知でしょうか。

いまや人の集まるあらゆる施設には禁煙の波が怒涛のごとく押寄せているが、喫茶店やレストランならいざ知らず、仕事を終えた人々の最大の憩いの場所である酒場までが禁煙の対象になるとは思わないのが大方の考えなのだが、実はそうでもないのである。

その最大の憩いの場である酒場にも禁煙の波はじわじわと押寄せているのである。

JR姫路駅から近いお溝筋という通りに「A」という立飲みバーがある。

この店は以前は酒屋さんでその一画に立飲みコーナーが設けられていたのだが、1年程前に酒屋の方は廃業して店舗を改造して「立飲みバー」として新たに開業した店である。

この店は酒屋の「立飲みコーナー」の時から禁煙の看板を掲げそれを見事に貫いてきた例外無しの100パーセント禁煙の店なのである。

普段は愛煙家の人もこの店に入るとタバコ1本取り出そうとしないのである。

他種の店ではともかく、「飲屋」での禁煙というのはなかなか実施が難しいものだと思う。

それを時代の風潮にかんがみあえて実行に踏み切った店の経営者は大変勇気のある人でまさに尊敬に値する。

この店に習って今後こうした店が増えてきたらいいのだが。

なにはともあれ「ノースモーカー」の私としては今後とも禁煙立飲みバー「A」が益々発展するようにと心より願う次第である。

2011年2月16日水曜日

人口問題への新たな暗雲?か・「セックスレス」夫婦が増えている.The sexless couple has increased in Japan.

セックスレスになる原因
昨年10月のこのブログで「性生活に力点をおかない日本人の生活スタイル」というタイトルの記事を載せた。

はっきり言って格調ある「グーグルブロガー」とかでは公序良俗の観点から「セックス」などという不穏当なタイトルのついた記事はどちらかと言えば敬遠されがちな傾向がある。

だが私は問題の重要性にかんがみあえてそのタイトルで記事の掲載に踏み切った。

さいわい私の意図するところを理解してくれる人が多くアクセス数の多い記事の一つになった。

その記事でも取り上げたように、概して日本人は欧米人に比べてセックスに対して淡白であり、平均的な夫婦間のセックス回数にしても国際的に見てかなり低い位置にあるようだ。

具体的な数値をあげれば、欧米人の50%ぐらいの回数でしかないとも言われている。

それが事実だとすれば実に嘆かわしいことではないか。

その回数の低さがやがて「セックスレス」の増加へと進展していくことはものの道理としても当然なことである。

驚くかなかれ、いま「セックスレス」状態にある夫婦は全体の40%にも達しているとも言われている。

わが国はいま空前の少子化時代を迎えている。

その少子化現象にこうしたセックスレス夫婦がさらに輪をかけるようになって果たしていいものだろうか。

そもそもセックスレスに至った原因とは何なんだろうか。

・ 草食系男子と揶揄されるようにもともと日本人男性の精力が弱いからなのか

・ 仕事のストレスが多く、そのために性欲が減退すのであろうか

・ 奥さんが子育てと家事で疲れはて、夜の勤めまで体力が持たないのであろうか。

・ 奥さんの主人を惹きつける魅力が足りないせいなのか。

まあそうした理由はともかく、男と女のしかも夫婦の関係でありながら「セックスレス」などということ自体がナンセンスであり理解に苦しむことなのだが、でもそれが現実だとすれば日本人そのもののありようが問われているようでもあり、軽はずみにその解決策を論じる場合でもないような気もするのだが・・・。

まあそれはともかく、いま空前の少子化と高齢化の「ダブルパンチ」に見舞われている日本としては、この先期待するのは子供の数の増加だけである。

したがって子供(人口)増加の妨げになる夫婦の「セックスレス」というような現象だけは一時も早く解消して、再び戦後のような勢いのある「産めよ増やせよ」というような風潮を少しでも取り戻して欲しいものである。

2011年2月15日火曜日

これは不思議!・公営施設でなぜ図書館だけが無料なのだろうか?


私の住む姫路市では60歳を越えると「高齢者福祉優待カード」なるものが送られてくる。

これは市が運営する公共施設への無料優待カードなのである。

ではその公営施設にはどんなものがあるのだろうか。

その施設の名前を列挙してみると、

・世界遺産国宝姫路城(国)
・市立動物園
・ 市立水族館(現在休館中)
・ 市立美術館
・ 市立文学館
・ 市立姫路科学館
・ 市立温室植物園
・ 考古園(市立日本庭園)

などなどで、これらの施設は普通だとすべて入場料が必要である。

数年前に私にもこのカードが送られてきたのだが、正直言ってこれまでほとんど利用していない。

なぜだろう。

タダだからいつでも行けるという意識が生まれるせいだろうか。

しかしである。

同じタダの施設でも、当然ながら優待カードには入っていない「図書館」には毎週1度以上は必ず行っているではないか。

ここまで考えて、私はハタと気がついた。

図書館!そうだこれも市が運営している公営施設なのだ。

でも何故図書館だけが最初からタダなんだろう?

このことについて何故これまで気づかなかったのだろう。

図書館と言えば上に挙げた他の場所より運営のためにはずっとお金のかかる施設であるのに、その利用料がまったくタダであるということは、考えてみれば実に不思議なことではないか。

いったい何故なんだろうか。

それに私の場合だと上に掲げた施設のように利用料をタダにしてくれてもまったく行かないというのに、もともとタダである図書館だけは何故よく行くのであろうか。

普通タダだと有り難味がなくなんとなく遠ざけるのが人情なのだが。

この疑問が私の中で次第に大きく膨らんできたのである。

とは言え私自身の力では疑問解決の糸口さえ見出すことは出来ず、ここぞとばかりインターネットという強力な助っ人にに助力を仰ぐことにした。

以下ははそれに関する質疑応答である。

(質問)公共施設の中で何故図書館だけが無料で利用できるのでしょうか。

(回答1)
図書館法で、公立図書館はお金をとってはいけないと決められているからです。

私設図書館は有料の場合があります。

(回答2)
ドイツでは、美術館・博物館の類は、週末無料ですね。

あんなに、困窮した旧東ドイツを抱えていても、

それくらいの文化水準は保っています。

結局、そのお国柄の文化成熟度によるのではないでしょうか。

図書館だけが無料なのではなくて、

他の施設も無料化できることが望ましいのでは?

って……ちょっとまともな回答からずれちゃいました^^;

(回答3)
無料ではありません、本代、図書館職員、非常勤職員の人件費、建物維持費、空調費、水道光熱費など税金で負担させられているのです、昔の人は言いました「ただより高いものはない」と〜〜〜〜

(回答4)
高速道路で言われているように受益者負担なら平等でしょうが、無料という事は利用しない人、利用できない人も税金として同じ金銭的負担をしている訳です。

無料でも道路と違って こちらの方は そんなに議論されませんね。

インターネット「お気軽Q&A」より

以上いろいろな意見がありました。

これらを踏まえた上で私自身の意見を述べてみると、要は読書(書物を読むこと)ということを「教育の基本要素」としてとらえ、それをを義務教育と同レベルに置いて、人間として基本的になさねばならぬものと考えての費用の公費による負担なのではなかろうか。

すなわち教育という観点に立っても、図書館の位置づけがそれだけ大きくて重いのではないだろうか。

その意に沿い、私としては今後とも感謝の気持を忘れずに有難く図書館を利用させていただくことにする。

2011年2月14日月曜日

ジャパニーズの「スリーS」とは?・なげかわしいほど低い日本人の英語力

とある街角で大学生と思しき男性二人づれに観光客らしい白人の外国人が駅への道筋をたずねていた。

「おい、お前しゃべれるか」

「うーん、でもお前がしゃべれよ」

とかなんとか譲りあいながらも、そのうちの一人が仕方なくしゃべり始めた。

「ストレイトゴー、ゼアリズ ステーション レフトサイド・・・」

ざっとこんな調子です。

果たして通じたかどうかは定かではなかったが、アメリカ人らしきその中年の男性は微笑みながら去っていった。

外国人に道をたずねられる。

ますます進む国際化社会において、今では誰もがいたるところでこうした場面に出くわすものと思われる。

でも悲しいかな、大学生である先ほどの彼ですら、この程度の英語力しかないのである。

これまでに少なくとも7〜8間年も英語を学んできたにもかかわらずである。

果たしてこれを嘆かわしいと言わずに何と言えるであろうか。

いや、嘆かわしいを通り越してむしろ腹立たしいと言ったほうがいいかもしれない。

でもこれは決して彼ら大学生だけの問題ではない。

今ではほとんどの人が中学、高校を通じて6年間も英語を学んでいる現在の日本で、こうした場面ですらすらと答えられる人はわずか数%しかいないというのが現実の姿である。

日本人の英語べた。このことはいまや国際社会にも広く知れ渡っている事実である。

その証拠に国際会議などに出席した日本人が「ジャパニーズ」のスリーエスなどと言われて外国人からよく冷やかされるそうだ。

「スリーS」

つまりだんまりを決め込むsilence(サイレンス)。

タヌキ寝入りのsleep(スリープ)。

照れ隠しでやる愛想笑いのsmile(スマイル)。

この三つを称して「日本人のスリーS」と言うそうである。

非常のよく出来ているとはいえ、当事者にとっては誠にしまらない話ではないか。

こんな屈辱的なことはない。

「ノーモアージャパニーズスリーS」

そのためにも国際社会で通じる確かな英語力育成は急務であり、また避けられない課題でもある。

2011年2月12日土曜日

ブラックジョーク傑作集(その1)


太った婦人がアヒルを連れて酒場に入ってきた。

「ダメじゃないか、こんな所にブタなんか連れてきたら」

「何よ、この酔っ払い。どうしてこれがブタに見えるのさ」

「今、俺はアヒルに話しかけたんだ」


修学旅行中、金沢の兼六園を訪れた時、

池の看板に「鯉の餌 10円」と書いてあった。

彼は10円玉を投げていた。


昨日、僕のおじいちゃんはボケ防止の本を

買ってきて真剣に読んでいた。

そして今日もまたその本を買ってきて読んでいた。


付き合って2ヶ月の彼女に「今日は誰もいないから」と言われ家に呼ばれた

行ってみたら本当に誰もいなかった


Aは結婚の報告をするために上司に会いに行く途中,

同僚のBに会った。

B「ようA、どこ行くの?」

A「今度結婚することになったんで、上司に報告しようと思ってさ」

B「マジ?俺も今度結婚するんだ。

俺も今報告に行こうと思ってたんだよ。じゃ一緒に行こうか」

AとB「失礼します」

上司「おう!!どうした二人そろって?」

AとB「実は今度・・・僕たち結婚します」


インターネット「ブラックジョーク集」(はぴはぴだいありー)より

2011年2月11日金曜日

復活させたい・「火の用心」の夜回り

相変わらず冬になると火事のニュースが急激に増えてきて、それにともなう痛ましい焼死者の報道が後をたたない。

その犠牲者と言えば当然のごとく逃げ遅れる可能性が高い高齢者が多いようだ。

かつて経験したことのない現在の未曾有とも言っていい高齢化社会では、

火事に対しての注意の喚起はことさら重要なのではないだろうか。

そこで提案したいのはかつて「子ども会」などでよく行われた「火の用心の夜回り」の復活である。

私も子供時代に何度も経験したことがある。

凍えるような寒い冬の夜、拍子木を手にしてグループを組んで暗い夜道を歩いてまわったものだ。

そのとき皆が声を合わせて一斉に言ったセリフは今でも鮮明に覚えている。

「火の用心、マッチ一本火事のもと」チョンチョン(拍子木の音)。

「火の用心、お餅焼いても家焼くな」チョンチョン。

今この「火の用心の夜回り」復活を望んで止まない。

またTVで夜の時間帯のCMでもこの様子を流すのはいかがだろうか。

スポンサーを消防庁にして。

2011年2月10日木曜日

インターネット・「ググる」「ブログる」「サーフる」

私が1年365日毎日欠かさず行うことと言えば食事、睡眠のほかはエクササイズの為の「ウォーキング」と「インターネット」を含んだパソコンの操作である。

この二つの次によくすることは読書なのだが、これは毎日とはいかず時々スキップする日がある。

この三つのことをやるための時間数を多い順に並べれば(1)パソコン(2)読書(3)ウォーキングとなる。

毎日やっているウォーキングと時々スキップする読書の順位が入れ替わるのは、ウォーキングが1日30分に対して、

読書は土日に集中して行うこともあってトータルで週に7〜8時間は費やすからである。

だが読書時間とウォーキング時間を併せてもまだ勝ち目のないのがインターネットをはじめパソコンに費やす時間である。

少なく見積もってもこれに費やす時間は1日2時間は下らないのである。
したがって週に14時間として、ゆうに読書時間の2倍にもなるのである。

では何故パソコンにかける時間がそれほど多くなるのであろうか。

それは一言で言ってパソコンの操作は種別が多いからである。

タイトルに挙げているように、私は毎日インターネットを使って「ググる」「ブログる」「サーフる」という三つの作業を行っている。

上に挙げた三つの言葉はスラングのパソコン用語なのである。

それについて説明すると、まず「ググる」は検索サイトを使ったリファレンス(サーチ)作業である。

この「ググる」と言う用語の由来は言わずとしれた検索サイトナンバーワンの「グーグル」をもじったものである。

ご存知の方も多いと思うが、グーグルには個人の検索記録(履歴)を保存する機能があり、いつでも過去の記録を閲覧できるシステムが付随されている。

かつて私は自分の検索記録をワードなどに記入していたものだが、いまはそれをやめてこの検索履歴に記録を一任している。

ちなみに最近1週間の検索履歴に目を通してみると毎日10件前後の項目を検索していることが確認できた。

次は「ブログる」であるが、これは読んで字のごとくネットサイトにブログを書くことである。

私は「グーグルブロガー」というサイトにブログを載せていて、ほぼ1週間に5回のペースで更新を続けている。

1回のブログの長さは400時原稿用紙にして平均3枚ぐらいだから字数にして1200字あまりである。

これにかかる時間は執筆から掲載を終えるまで約1時間強である。

週にすれば6時間はかかっているだろう。

もっともネタ探しの時間を加えればそれ位ではすまないのだが。

最後は「サーフる」であるが、この言葉は前の「ググる」と「ブログる」に比べればあまり聞きなれてないかもしれない。

はっきり言って三つの内では最も耳新しい言葉である。

これは何のことかというとインターネットを「サーフ」すること、つまり「ネットサーフィン」のことを言うのである。

わたしは人のあまり知らない珍しいネットサイトを探すのが好きで、一時は内外の「300」あまりの優れたサイトのコレクションをやったことがある。

そうして集めたものをさらに「ベスト100」とか「ベスト30」さらには「ベスト10」というふうに段階的に収斂していき別のリストに収めている。

最後の「ベスト10」にあるものなどはおそらく知っている人は少ないだろうと思われる貴重なサイトがそろっている。

以上、私のインターネット「ググる」「ブログる」「サーフる」についての話題でした。

何はともあれ現在の私はインターネットどっぷりの毎日なのである。

2011年2月9日水曜日

これはおもしろい!・日常生活に見る日米「さかさま事典」

アメリカで生活してみるとよくわかるのだが、日米両国での生活の場面でまったく逆になっている事柄について気づくことがよくある。

その中でも面白いのは、例えば日本では前垂らしにセットされているトイレットペーパーだがアメリカでは後ろ垂らしになっていることが一般的なのである。

これは日本人から考えると非常に使いにくく不便に思うのだが、当人たちはいたって平気なのである。

また日曜大工で使う「のこぎり」だが、日本では引くときに力を入れるのに、アメリカでは逆に押すときに力を入れるのである。

このように日米でまったく逆になることは多々ある。

文化の違いと言えばそれまでだが、考えてみれば何故これほど見事に逆になっているのだろうか。

比較文化論的見地からもまことに興味のわくテーマである。

以下それらの中から主なものを列挙してみることにする。

                             日本    アメリカ
名前        山田一郎   Ichiro Ymada
車の通行    左側通行   右側通行
おつりの数え方 引き算    足し算
手招き     手のひら下  手のひら上
救急電話    119     911
採点のマーク  正 ○    正 チェック印
          誤 ×    誤 ○
家の方向    南向き    東西向き
日付       年月日    月日年
鼻のかみ方   両手でかむ  片手でかむ
食事       食器を手で持つ  ナイフ、フォーク
                      を運び食器は動かさない

床屋の洗髪   前向き       うしろ向き
野球審判の
カウント     ストライクから   ボールから
公衆トイレ    多い        非常に少ない
赤ちゃんの寝かせ方 仰向け   うつ伏せ
自電車のブレーキ  必ずある   ないものが多い
                     (ペダルを反転 させて止める)

エレベーター    すぐ閉ボタンを押す  誰か乗る人が
                          いないかと開ボタンを押す用意をしている

仕事が暇なとき   仕事しているふり   暇まるだし

小学校の転校生  静かに先生の言う   リラックスして
初めての授業    ことを聞いてさない   マンガでも読んでいなさい。

以上ごく一部ではあるが国民性も現れ、いろいろおもしろい面もありますね!!

脇阪 昭著「日米逆の発想」(学生社)参照

2011年2月8日火曜日

私の「小説新人賞」応募奮戦記(その2)・中編小説「編む女」で「小説現代」へ挑戦

2月1日のこのシリーズ(その1)では「小説すばる」の新人賞に私の小説処女作「西97丁目の青春」を応募して、それが見事1次予選を突破し、その後2作目3作目も書き終えそれらを「小説現代」と「オール読物」に応募予定にしている。

というところまで書いた。

では応募1作目が難関の1次予選を突破したことに対してその頃の私の心境はどうだったかを書いてみる。

以前のブログ「小説新人賞・かくも冷酷で厳しい世界」でも触れたが、一般的にこの世界は応募者に対して非情に冷たい一面がある。

そのことは例えば応募者が長い時間をかけ精魂を込めて書いた応募原稿の扱い方に対して特に感じられるのである。

一般的に賞を主催する出版社側は送られてきた応募原稿に対して「受取通知」というものを出さないのである。

もっとも応募者としては原稿が確実に届くように「書留」などを利用して送っているに違いない。

しかしそのようにして送ったとしても当人としては大事な原稿が確実に担当者の元に届いているかどうかは少なからず不安に思うものである。

それもそうだろう。

新人作家を夢見て数ヶ月、あるいはそれ以上の多くの日数をかけて一心不乱に精魂を傾けて書いた大切な原稿なのである。

それに対して受取通知ひとつ出さない出版社の不遜な態度を無礼で冷酷であると思うのは当然ではないだろうか。

しかも数ヶ月先の予選通過の発表に万一自分の名前を見出せなかったらどうだろう。

果たして自分の作品は審査員に正しく読まれ評価されたのだろうか、そうでなく何かの手違いで読まれずに終わったのではないだろうか。

などという応募者の憶測を生む可能性はじゅうぶんあるのだ。

こうした応募者の心情を考えれば受取通知一枚ぐらいは送ってきてしかるべきではないだろうか。
熱心な応募者の一人として私自身はこのことを強く思うのである。

でもこの件はこれぐらいにして、次は私の小説第2作目「編む女」について書いてみよう。

「編む女」という小説は私が前作にも増して力をいれて書いた作品である。

20代半ばの私の実体験をもとに書いたものだが、手前味噌にはなるが大変ユニークな体験だけに、テーマとしては小説にうってつけで、書きようによっては非情におもしろい作品になるのではと並々ならぬ期待を持って執筆に及んだのである。

そして大きな期待をもって「小説現代」への応募に至ったのだが、その結果報告などについては次回にまわすとして、

以下その作品の冒頭の一部分を紹介させていただくことにする。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小説「編む女」

「くそっ、あのカップルめ、うまくしけ込んだもんだ」

前方わずか4〜5メートル先を歩いていたすごく身なりのいい若い男女がスッとラブホテルの入口の高い植木の陰に隠れたとき、亮介はさも羨ましそうに呟いて舌打ちした。

「あーあ、こちらがこんなに苦労しているというのにまったくいい気なもんだ」と、今度は随分勝手な愚痴をこぼしながら、なおも辺りに目を凝らしながら歩き続けた。

亮介はこれで三日間この夜の十三(じゅうそう)の街を歩き続けていた。

はじめの日こそ「あの女め見てろそのうちに必ず見つけ出してやるから」と意気込んでいたものの、さすがに三日目ともなると最初の決意もいささかぐらつき始めていた。

時計はすでに十一時をさしており、辺りの人影も数えるほどまばらになっていた。

この夜だけでも、もう三時間近くもこの街のあちこちを歩き回っていたのだ。

「少し疲れたしどこかで少し休んでそれからまたはじめようか。それとも今夜はこれで止めようか」

亮介は迷いながら一ブロック東へ折れて、すぐ側を流れている淀川の土手へ出た。

道路から三メートルほど階段を上がって人気のないコンクリートの堤防に立つと、川面から吹くひんやりとした夜風が汗ばんだ両の頬を心地よくなでた。

「山岸恵美といったな、あの女。城南デパートに勤めていると言ってたけど、あんなことどうせ嘘っぱちだろう。

でも待てよ。それにしてはあの女、デパートのことについていろいろ詳しく話していた。

とすると今はもういないとしても、以前に勤めていたことがあるのかもしれない。それともそこに知り合いがいるとか。

ものは試し、無駄かも知れないけど一度行ってみようか。そうだ、そうしてみよう。

何しろあの悔しさを晴らすためだ。これしきのことで諦めるわけには行かないのだ。

川風に吹かれて少しだけ気を取り戻した亮介は、辺りの鮮やかなネオンサインを川面に映してゆったりと流れる淀川に背を向けると、また大通りの方へと歩いて行った。

「それにしてもあの女、いい女だったなあ。少なくともあの朝までは」

駅に向かって歩きながら、亮介はまたあの夜のことを思い出していた。

とびっきり美人とは言えないが、あれほど男好きのする顔の女も珍しい。

それにやや甘え口調のしっとりとしたあの声。

しかもああいう場所では珍しいあの行動。

あれだと自分に限らず男だったら誰だって信じ込むに違いない。

すでに十一時をまわっているというのに、北の繁華街から川ひとつ隔てただけのこの十三の盛り場には人影は多くまだかなりの賑わいを見せていた。

それもそうだろう。六月の終りと言えば官公庁や大手企業ではすでに夏のボーナスが支給されていて、みな懐が暖かいのだ。

「ボーナスか、あーあ、あの三十八万円があったらなあ」

大通りを右折して阪急電車の駅が目の前に見えてきたところで、亮介はそう呟やくと、また大きなため息をついた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以後次回へ

2011年2月6日日曜日

それでは人は話を聞いてくれませんよ!・本を読まない人の話はつまらない

どちらかと言うと人前で話すのは嫌いな方ではない。

以前営業会社の所長をやっていた頃は朝の朝礼でいつも部下に向かって何か話さなければならなかった。

その話題なのだができるだけ過去において聞いたことのないような新鮮なものにしたいといつも心がけていた。

なぜなら人は誰もが知っているようなありふれた話など少しも聞きたくもないだろうし、どうせ聞くのなら何かハッとするようなフレッシュな話題を期待しているからである。

したがって国内のテレビで放送されていたり、新聞で報道されたような事柄はなるべく避けて、もし新聞に頼るとなら人があまり読んでない英字新聞などに出ている話題を選ぶことにしていた。

でも圧倒的に多いのは本から得た話題であったように思う。

そのほうが聞く人の耳には新鮮に響くようで、毎朝私の話を当時の部下である所員たちは喜んで聞いていてくれていたようである。

したがって何も朝礼のネタだけが目的ではなかったが本はできるだけ多く読むように心がけていた。

では今回のタイトルにも上げてある「本を読んでいない人の話がつまらない」のは何故なのだろうか。

以下私自身が普段から思っているその理由を下に列挙してみることにする。

・ TVで見たり新聞で読んだりしたことがあるような誰もが既に知っている内容の話題が多いので「新鮮さ」がなくてつまらない。

・ ボキャブラリーが貧弱でハッとさせるようなフレッシュな言葉が出てこない。

・ 話にストーリー性がとぼしく組み立てや展開もまずい

・ 自分自身の体験を通してないため話が他人事のように聞こえ客観的で聞くものに共感や感動を与えない。

・ 話し手に話題について自信が持てないのでメリハリに欠け迫力もない

とにかく本を読まなくては
以上5項目のうちでも特に最初の2項目が決定的なマイナス要素だと思っている。

私は人に話すときの言葉の使用には相当気を使ったいる。

なぜなら私自身が人の話に感銘したり感動するのは話し手のボキャブラリーの多様さと新鮮さであるからである。

間違っても陳腐であったり古くて手垢のつきまくっているような表現は避けなければならないと常日頃から思っている。

したがって私はスピーチに当たっては次のことを実行するようにしている。

人前で話すときの心得5か条

・ じゅうぶん相手をひきつけて話し始める

・ 気合を込め、迫力と抑揚のきいた話し方をする

・ 話題は新鮮で魅力的なものを選ぶ

・ ボキャブラリーに気をつけ、古くさい手垢のついたような表現は聞き手を惹きつけないと心得る

・ 笑顔でゆっくりと自信をもって話す

私は常日頃から、人の話というのには金を払ってでも聞きたいものと、金を貰っても聞きたくないものの二種類があると思っている。

どうせ人前で話すなら人を惹きつけるおもしろい話をしなければ話す価値はなく、話し手、聞き手両者にとって時間の無駄でしかないのだ。

したがって私自身としては今後も人前でおもしろい話ができるように本だけは読み続けていこうと思っている。

2011年2月5日土曜日

なぜ日本人はアメリカが最も好きで・台湾人は日本がいちばん好きなのか?

統計によれば日本人の好きな国ははアメリカが一番で次がイギリス、そして3番目がスイスとなっている。

では何故アメリカが一番好きなのだろうか。

これは心情的に考えてみれば非常に不思議な
ことである。

なぜならアメリカは太平洋戦争下で唯一日本だけに原爆投下というひどい仕打ちをした国であるからである。

にもかかわらずその国を憎みもせず、ましてやビラブド(最愛の)国としてあげる心情は他の国の人々から考えるととても不思議なことで理解できないのではないだろうか。

でも好き嫌いの情は理屈ではない。

なぜだと言われても好きなものは好きなのである。

それは人に対してであっても物に対してでも同じである。

それについていちいち明確な理由などあげることはできないのである。

でも私個人としてはアメリカを好きな理由はそれなりに挙げることはできると思う。

それは以下のようなものである。

アメリカが好きな理由
・ 開拓者魂にあふれていて勇気がある
・ 正義の為には犠牲をいとわない
・ どんなときでもユーモア精神を忘れない
・ 知性がある
・ 相手を助ける優しさを持っている
・ Yes,Noがはっきりしていて妥協を許さない

等などである。

ではそのアメリカ側は世界の国のうちどの国が好きなのだろうか。

そのランキングを次に挙げてみる。

これで見るとアメリカ人のほうもけっこう日本が好きなのである。

しかも現在は4位だが過去には1位であった時もあるのだという。

まさに相思相愛というところだろうか。

他に日本を好きな国はどこだろうか。

これについてネットで調べてみると、驚くべきか、実に喜ばしい事実に接したのである。

何と「台湾人」は世界中で日本がいちばん好きだというのである。

それも実に52%もの多くの人が日本を挙げており、2位の米国の8%を大きく引き離しているではないか。

これは喜ばしい反面大いに驚かされる事実でもある。

 世界の国でにそんなに日本を好きな国があったなんて。

以下そのことを紹介するインターネットの記事を載せてみる。

2010年03月23日

「台湾人の好きな国」 1位 日本…52%

台湾住民の5割が日本を「最も好きな国」としていることが、日本の対台湾窓口、
交流協会台北事務所の世論調査で分かった。

植民地統治下で日本語を学んだ世代に加え、日本の大衆文化を愛する「哈日族(ハーリーズー)」
(日本大好き族)と呼ばれる若者が多い台湾の「世界一」とも言われる親日ぶりが裏付けられた。

調査は「台湾における対日世論調査」の題目で、昨年12月から今年1月まで、
20〜80歳までの男女約1000人を対象に実施され、日本への印象や日台関係などについて聞いた。

この中で「最も好きな国」として日本を挙げた人は52%で、2位米国の8%を大きく引き離した。3位は中国で5%だった。

一方、「最も親しくすべき国」は中国が最も多く33%。中台関係が急速に発展する中、
経済パートナーとしての中国を重視する姿が浮き彫りになった。日本と回答した人は31%で、2位だった。
                   (2010年3月23日19時11分 読売新聞)

台湾に行きたいわん!

この台湾ほどではなくてもインドも日本を大好きな国として常時1位から3位の上位にあげているのだ。

中国や韓国にはあまり好かれていないようだが、上にあげた3国のような国もあるのだから、何だか嬉しくなり、また日本人として勇気もわいてくるような気がする。

ありがとう。台湾とインド、そしてアメリカの皆様

2011年2月4日金曜日

「フィッシュストリー」はおもしろい・The Fish Story is interesting.


最近「フィッシュストーリー」という映画がが人気になっているという。

「フィッシュストーリー」とはいったいどういう意味があるのだろうか。

字のとおりの「魚の物語」ということではどうもなさそうである。

そこで英和辞典を引いてみると「Fish Story」とは「ほら話」(釣師の手柄話)とある。

また、同義語には「tall talks」(大口)があると出ている。

さらにインターネットサイトを調べてみると以下のようなことも出ている。

「fish story」
ほら話、おおげさな話、つくり話。釣り師が自分のフィッシングを実際より誇張して言いがちなところが語源らしい。

ロシアには、「釣りの話をするときは両手を縛っておけ」という諺があるそうです。両手を自由にさせておくと、両手を広げて示す魚のサイズがどんどん大きくなってしまうからだ、そうです。

「大きさを示す手の幅がだんだん広がってくる」

何だかおもしろいですね。

ではいったいこのフィッシュストリーの語源はどんなふうに出ているのでしょうか。

それについて探ってみると、


fish story
出典:『Wiktionary』 (2009/07/26 07:21 UTC 版)
語源
From the tendency of fishermen to exaggerate the size of their catch

というふうになっていた。

つまり「釣師」というのはとかく自分の釣り上げた魚についてはそのサイズを誇張して言う傾向があり、そのことが発展して「fish story」がほら話の代名詞として使われるようになったというのである。

ではそのフィッシュストーリーの話のうち傑作と思われるものを一つご紹介することにしよう。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

友人のジョージとある村の宿屋で、談話室に入り腰をおろすとそこでパイプタバコを吸っていた老人と自然に会話が始まった。

しばらくして会話が途切れ、私たちがぼんやりと部屋の中を見渡していると暖炉の上の方に取り付けてある剥製の「鱒」の入ったガラスのケースが目についた。

すると老人は私たちの視線を追っかけて、「ああ、あれだね。ちょっとした奴だろう」と言った。
ジョージが重さを聞くと「18ポンド6オンスさ。釣ったのは16年前のことさ。



川に大きな鱒がいると言うんで、じゃあこのわしが捕まえてやろうと思って出かけていって捕まえたのさ。今じゃあまり見ることのない大きさだだね」

そういい終わると老人は去っていった。
老人がいなくなって私たちだけになっても、見れば見るほど見事なその魚にしばらくの間見とれてい
た。
そのとき、ちょっと一杯やりに宿屋へ立ち寄った地元で配達の仕事をしている男がビールジョッキを

手にドアのところまでやってくると私た私たちににつられて魚を見た。

「たいした大きさだね」とジョージが話しかけると、男はビールを口にやってから言った。

「もちろんさ。でも捕まえたときのことは知らないだろう。俺がこの鱒を釣ったのはかれこれ5年ほど前のことでな」と言うのである。

「えっ、じゃあ釣ったのはあんたかい」と私が聞くと

「そうだとも、あの金曜の午後、開門のすぐ下流のところでな。しかも針で釣ったんだよ。26ポンドあったな」

そして5分後にまた別の男がやってきた。

しばらく男は何も話さなかったが、ついジョージが男にかまをかけて「どうやってあの鱒を捕まえたのか話してくれないか」と語りかけた。

(ここでもう私とジョージは地元の連中がその鱒の手柄話を勝手にでっち上げて楽しんでいるらしいと察していたのである)

男は「なんだって、いったい誰がこの俺が釣ったと言ったんだ」と聞き返したが、「いや直感でそうじゃないかと思ったんだ」と答えると「そうだよ。まさに俺が釣ったんだよ」と大いに話に乗ってきた。

男はさらに話を続けて、「釣り上げるのに30分もかかってな、おまけに竿も折られた。家に帰って目方をはかると34ポンドあった」と語った。

(もうここまでくると一種のゲームのようなものだ。みなが暗黙の内に承知しあってやっているのだ)

彼が去ると宿屋の主人が部屋に入ってきた。

連中の話をすると主人は非情におもしろがり、3人は声をあげて大笑いした。

その後主人は客に呼ばれて出て行った。

再びじっと鱒を見たが、見るほどにすばらしいものだった。ジョージが興奮して椅子の背の部分に立ち上がってよく見ようとすると椅子が滑って大きく動きあわててしがみついた鱒のケースが凄まじい音を立てて床に落ちてしまった。

私はビックリして駆け寄りながら「魚は大丈夫だろうな」とあわてて叫んだ。「大丈夫だと思うよ」ジョージはそう言ってまわりを見たが、決して大丈夫ではなかったのだ。

鱒はケースとともに粉々にくだけてしまい、私たちは一瞬、「剥製の魚」が粉々にくだけるとはなんとも不可解だと思った。

しかし実は不思議でもなんでもなかったのである。

その鱒は「石こう」製であったのだ。

Written by Jerome K Jerome(1859〜1927)
高校英語「New Crystal  ⅡB」より

2011年2月3日木曜日

「一ヶ月一万円生活」というTV番組が大人気・いま「節約生活」はトレンドなのだろうのか?

テレビで「一ヶ月一万円生活」という超節約食生活体験を紹介する番組がロングランを続けており、いつも安定した視聴率をあげているようである。

私も数回見たことがある。

そうした節約生活の反面、レストランで2000円以上もするような高級ランチをごく普通の女性が気軽に注文しているという現実もある。

またこうした食物資のあふれた時代にもかかわらず、ごく最近、大阪府豊中市では60代の姉妹が餓死しているのが死後数ヶ月 後に発見されるという悲惨な出来事もあった。

このようにいま食生活をめぐる世間の様相は混沌としていて一様ではない。

しかしながらお金のあるなしに関わらず世の中は少しずつ節約方向に流れてきているのは事実であるようだ。

冒頭に挙げたTV番組にしてもそうした生活を支持する人が多いからこそ高視聴率でロングランを続けるのではないだろうか。

反面「高級ランチ」の売れ行きがいいというのは、いま年金受給者を中心に比較的豊かな高齢者が多く、普段は質素な生活が身についているそうした人たちも、たまに家事から解放されたいと願いもあって、時々友人たちと連れ立って息抜きにささやかな「贅沢」を味わっているに過ぎないのではないだろうか。

それを表すように私がいつもの土日に図書館へ行くとき側を通るこの町でも比較的大きな部類に入る和食レストランがあるのだが、外から窓越しに中の様子を伺ってみると、いつも客の6〜7割ぐらいは高齢者でなのである。

特に女性客グループが多いようである。

したがって高級ランチが流行っている原因は暇があり少しだけ豊かになった高齢者が多くなったからではないだろうか。

ちなみにその店のランチは2000円前後である。
まあそれはそれでいいとしよう。

話しは変わるが高度急成長が終わった頃から日本のサラリーマンの給料はそれまでは年々10%前後も上がっていたというのに、昇給がぴたりと止まり、もう20年ぐらいその額に大きな変動はなく、むしろ多少なりとも下がっているところさえあるのが少なくないというのが現状である。

食費1ヶ月1万円?
ただ物価が安定しており、それに家族の一員に比較的豊かな高齢者が含まれていたりして、雰囲気的には生活に困窮している様子はまったく伺えない。

でも、急成長時代に比べると、皆生活は堅実になっており、むやみに物を買わなくなっているのではなかろうか、

それに一家の主人が以前のように小遣いを使わなくなり、休日の過ごし方にしてもなるべくお金のかからないレジャーを楽しむ方向へと変わってきているのではないだろうか。

こうした物を買わなかったりレジャーにお金をかけなくなっている今のトレンドが不景気に輪をかけているという説もある。

でもこれが「成熟社会の姿」なのではないだろうか。

かつてのわが国のようにいま急成長期にある中国などと比べて今の日本の消費生活スタイルが違うのは当然なことであるのではなかろうか。

余談になるが3年ほど前になるが私が勤めていた会社で、あるパートタイムの若い既婚女性であるが給料日の昼休みには必ず銀行に両替に行って封筒に数十個の500円硬貨を詰めて持ち帰ってくる人がいた。

「それいったいどうするの?」と興味半分に聞いてみると、これ主人のお小遣いなの、一日ひとつづつこれをあげるの、お小遣いは一ヶ月15000円だけど一度に渡すとすぐ全部使ってしまうから500円硬貨30枚に換えてきたの」と答えるのである。

それを聞いた私は「若いのになかなか堅実でしっかりしているな」とおおいに感心したものだ。

総じて言えば給料がドンドン上がっていく高度急成長のような時代はもう2度と望めない。

でも物価の安定した今はそれほどの食費をかけなくてもそこそこの生活は可能である。

それに国としても財政赤字を増やしてまで経済成長ばかり追わなくてもいいのだし、借金を作らない節約生活こそがむしろ国をリードする生活パターンだとも言え、小資源国に住む私たち日本人の今後の生活スタイルではないのだろうか。

2011年2月2日水曜日

本を読まなくなった日本人・でもこの「読書量ランキング」は信じ難い


                                   (注)読書量ランキングは最後に載っています


最近通勤電車の中で本を読む人がめっきり減っている。

本ばかりではなく新聞を読む人もあまり見かけない。

私は姫路、神戸間往復1時間20分を通勤電車内で過ごしているが、これを読書に当てるとかなりのページ数を読み進むことができる。

行動が制約されている車内での時間の活用法としては読書が最適だとずっと思っている。

それなのに最近本を読む人の姿をあまり見無くなったのは何故だろう。

紙の本でなく「iphone」などに搭載されている電子書籍に切り替えたのであろうか。

本は読んでいなくても携帯電話を眺めている人はやたらと多くなっている。

そうした人の中には新しく組み込まれた「電子書籍」を読んでいる人も多くなっているのだろうか。

それとも新聞などをネットのサイトで読んでいるのであろうか。

以前だと車内の網棚をぐるっと見渡せば必ずどこかに読み捨てられた新聞とか週刊誌が乗せてあったのだが、最近はそうしたものすら目にすることもなくなった。

要するに人々はもはや紙の活字媒体を利用しなくなっていきつつあるのだろうか。

「電子書籍」に切り替えた人がいるのは確かだろうが、でも総体的にはやはり読書人口そのものが減っているのもまた確かなようである。

それは書籍業界の売上高の推移からも、本屋の数の減少からもはっきり伺える。

だがズバリ言って読書量減少というのは国にとっては大きなマイナスである。

今というよりむしろ将来の日本にとってのマイナスなのである。

最近いい作品を矢継ぎ早に出している人気作家「浅田次郎氏」も言っている。

「学校へ行けなくても大丈夫。本さえ読めば学問はじゅうぶん身につけることができる。本読みこそが勉学の基本であるのだから」

まさにその通りで、本を読むということそれ自体が何らかの学習につながっているのである。

したがって本を読まないということは大切な学習の機会を失っているとも言えるのである。

私は去年6月のブログに「読書を趣味と言っていいのだろうか」というタイトルのブログでこう書いている。

「本は趣味としてとらえるより学習としてとらえたほうがいい。

なぜならば趣味というジャンルに読書をおくと、気が向けばやりそうでなければやらなくてもいいというような安易な気持が生まれ、結果的には読書離れにつながると思うからである。

したがって読書は趣味ではなく学習としてとらえ、好き嫌いではなく必ず取り組まなければいけない必須なこととした方が、結果として読書習慣が身につき、また本を読む力もつくのである」

このようなことをその時のブログに書いたのである。

この考えは今もまったく変わっていない。

さて下に載せてあるのは韓国の新聞「朝鮮日報」に取り上げられた「世界の読書量ランキング」である。

ただしその「信憑性」については素直に言って少なからず疑問がある。

理由は日本が「ワースト2」になっていることに対する反感もあるが、1位になっているインドを含めて「識字率の低い国」が上位に来ていることがどうも解せないのである。

それにランキング下位にある日本、アメリカ、イギリスなどは他の国と比べて圧倒的に本の出版点数が多いのである。

にもかかわらずどうしてこれら3国がこんなに下位にくるのであろうか。

まあその辺はどうか割り引いて考えていただき、このデータの真偽はともかく、日本人の読書量を考える際の皆さんの判断材料の付随的な参考資料として欲しい。

読書量国際比較

順位 国名 時間
1 インド 10.7
2 タイ 9.4
3 中国 8.0

4 フィリピン 7.6
5 エジプト 7.5
6 チェコ 7.4
7 ロシア 7.1
8 スウェーデン 6,9
8 フランス 6,9
10 ハンガリー 6.8
10 サウジアラビア 6.8
12 香港 6.7
13 ポーランド(世界平均) 6.5
14 ベネズエラ 6.4
15 南アフリカ 6.3
15 オーストラリア 6.3
17 インドネシア 6.0
18 アルゼンチン 5.9
19 トルコ 5.9
20 スペイン 5.8
20 カナダ 5.8
22 ドイツ 5.7
22 アメリカ 5.7
24 イタリア 5.6
25 メキシコ 5.5
26 イギリス 5.3
27 ブラジル 5.2
28 台湾 5.0
29 日本 4.1
30 韓国 3.1

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インターネット「デジタル/シゴト/技術」より

2011年2月1日火曜日

私の「小説新人賞」応募奮戦記(その1)



40代の終りの頃私は集中的に連続3回小説新人賞に応募した。

対象はいずれもメジャー出版社による名の通った文学新人賞ばかりであった。

今回のブログではその応募準備から結果発表までの経過を「奮戦記」と題して裏話も含めて書いてみたい。

当時私は三つの小説の構想を持っており、その第一作目は応募計画段階ですでに半分ぐらい書き終えていた。

後の2作についてもプロットは出来上がっていて、一作目が終わり次第間髪を入れずすぐに執筆に当たるつもりでいた。

そういう訳で応募作品の目途は一応立っていた。

とは言っても何分小説を書くのは初めてであり、果たして「メジャーな新人賞」応募にふさわしい作品がうまく書けるかどうかという不安は少なくなかったのだが、そうした気持は振り切ってとにかく執筆に全力を傾けるすることにした。

執筆計画の次はその3作品をどの文学賞へ応募するかという対象の選択なのだが、熟慮した結果まず第1作目は近々創刊号発刊が予定されている集英社の「小説すばる」が創刊号に合わせて儲けた「新人賞」に応募することに決めた。

そして2作目が講談社の「小説現代」、3作目を文芸春秋社の「オール読物」といずれも新人作家登竜門として名高い老舗出版社2社の賞に応募することに決めた。

さて計画段階でもう一つ大事な点は応募のタイミングである。

つまり作品をいつ応募するかという時期の問題である。

もっと具体的に言うと、1作目の「小説すばる」へ応募した後、2作目と3作目はその後いつ応募するかということなのだが、これについては時間をかけて大いに考えた。

というのも1作目はいいとしても、2作目と3作目を書き終えて応募するタイミングは非常に大事だと思えたからである。

なぜかと言えば、1作目を応募し終えてその後数ヶ月先の結果発表を待ってからの応募予定だと、もし1作目の結果が思わしくなく予選で落選でもしようものなら落胆して気持がなえてしまい2作目、3作目への応募意欲を失ってしまうのではないかと考えたからである。

つまり落胆して自信を無くしてしまい、それが次の作品執筆に大きなマイナス効果を与え消極姿勢に陥るのではないかと懸念したのである。

もしそうなっては3作品応募するという計画は台無しになってしまう。

そういうことだけはどうしても避けなければならない。

そして私はこう結論を出したのだ。

まず1作目を応募して、それから数ヶ月先の結果発表の期日までにあとの2作を全部書き終えよう。

そうすると結果の如何に関わらず作品は出来上がっているのであるから、後に悪影響を及ばせずにすむではないか。

そしてその計画通り、まず1作目を無事書き終えて集英社に応募し終えると、間髪をいれず2作目と3作目の執筆に取りかかった。

そうした計画のおかげなのか、2作目の「編む女」と3作目の「ナイトボーイの愉楽」という中編小説が出来上がったのは第1作目の「西97丁目の青春」の結果発表の半月ぐらい前だった。

そうしたことが気分的余裕になり、ほっと胸をなでおろし落ち着いた気持で第1作目の発表の日を待つことができたのである。

さて待ちに待った1作目の結果発表の結果は?

小説スバル創刊号の第1回新人賞「予選通過作品」の発表は1989年9月発行の秋号であった。
その発表の秋号が売り出される日、私は期待と不安が入り混じるすごく昂揚した気分で本屋へ走った。

店頭にうず高く積まれたその雑誌をすばやく取りお金を払って外へ出た。

家に帰るまで待てるはずがなく外へ出るや否や部厚い雑誌の結果発表の記事を探してページをめくった。

はっきり言ってあせっていた。

なんとかそのページにたどりついて4ページにわたる1次予選有価者の名前の欄を目を皿のようにして探した。

だがないのだ、自分の名前がどこにもない。

そんな馬鹿な!3ヶ月もかけて死に物狂いで書いた作品なのにそんなことあるはずがない。

私は頭の中が白くなり始めるのを感じながらもう一度今度は念入りに目を通してみた。

するとどうだろう、一度目はないと思った作品名と自分の名前がはっきり出ているではないか。

えっ、本当!という疑念もまだ残っており何度も何度も見直した。

何度見直しても間違いなく名前は出ていたのである。

全応募作品1150編中第1次予選通過作品「200編」に私の作品は確かに入っていたのである。

かくして私の初めての「小説新人賞」応募作品はみごと第一次予選を通過したのであった。

                      以後は後日のブログへ続く

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