2011年2月1日火曜日

私の「小説新人賞」応募奮戦記(その1)



40代の終りの頃私は集中的に連続3回小説新人賞に応募した。

対象はいずれもメジャー出版社による名の通った文学新人賞ばかりであった。

今回のブログではその応募準備から結果発表までの経過を「奮戦記」と題して裏話も含めて書いてみたい。

当時私は三つの小説の構想を持っており、その第一作目は応募計画段階ですでに半分ぐらい書き終えていた。

後の2作についてもプロットは出来上がっていて、一作目が終わり次第間髪を入れずすぐに執筆に当たるつもりでいた。

そういう訳で応募作品の目途は一応立っていた。

とは言っても何分小説を書くのは初めてであり、果たして「メジャーな新人賞」応募にふさわしい作品がうまく書けるかどうかという不安は少なくなかったのだが、そうした気持は振り切ってとにかく執筆に全力を傾けるすることにした。

執筆計画の次はその3作品をどの文学賞へ応募するかという対象の選択なのだが、熟慮した結果まず第1作目は近々創刊号発刊が予定されている集英社の「小説すばる」が創刊号に合わせて儲けた「新人賞」に応募することに決めた。

そして2作目が講談社の「小説現代」、3作目を文芸春秋社の「オール読物」といずれも新人作家登竜門として名高い老舗出版社2社の賞に応募することに決めた。

さて計画段階でもう一つ大事な点は応募のタイミングである。

つまり作品をいつ応募するかという時期の問題である。

もっと具体的に言うと、1作目の「小説すばる」へ応募した後、2作目と3作目はその後いつ応募するかということなのだが、これについては時間をかけて大いに考えた。

というのも1作目はいいとしても、2作目と3作目を書き終えて応募するタイミングは非常に大事だと思えたからである。

なぜかと言えば、1作目を応募し終えてその後数ヶ月先の結果発表を待ってからの応募予定だと、もし1作目の結果が思わしくなく予選で落選でもしようものなら落胆して気持がなえてしまい2作目、3作目への応募意欲を失ってしまうのではないかと考えたからである。

つまり落胆して自信を無くしてしまい、それが次の作品執筆に大きなマイナス効果を与え消極姿勢に陥るのではないかと懸念したのである。

もしそうなっては3作品応募するという計画は台無しになってしまう。

そういうことだけはどうしても避けなければならない。

そして私はこう結論を出したのだ。

まず1作目を応募して、それから数ヶ月先の結果発表の期日までにあとの2作を全部書き終えよう。

そうすると結果の如何に関わらず作品は出来上がっているのであるから、後に悪影響を及ばせずにすむではないか。

そしてその計画通り、まず1作目を無事書き終えて集英社に応募し終えると、間髪をいれず2作目と3作目の執筆に取りかかった。

そうした計画のおかげなのか、2作目の「編む女」と3作目の「ナイトボーイの愉楽」という中編小説が出来上がったのは第1作目の「西97丁目の青春」の結果発表の半月ぐらい前だった。

そうしたことが気分的余裕になり、ほっと胸をなでおろし落ち着いた気持で第1作目の発表の日を待つことができたのである。

さて待ちに待った1作目の結果発表の結果は?

小説スバル創刊号の第1回新人賞「予選通過作品」の発表は1989年9月発行の秋号であった。
その発表の秋号が売り出される日、私は期待と不安が入り混じるすごく昂揚した気分で本屋へ走った。

店頭にうず高く積まれたその雑誌をすばやく取りお金を払って外へ出た。

家に帰るまで待てるはずがなく外へ出るや否や部厚い雑誌の結果発表の記事を探してページをめくった。

はっきり言ってあせっていた。

なんとかそのページにたどりついて4ページにわたる1次予選有価者の名前の欄を目を皿のようにして探した。

だがないのだ、自分の名前がどこにもない。

そんな馬鹿な!3ヶ月もかけて死に物狂いで書いた作品なのにそんなことあるはずがない。

私は頭の中が白くなり始めるのを感じながらもう一度今度は念入りに目を通してみた。

するとどうだろう、一度目はないと思った作品名と自分の名前がはっきり出ているではないか。

えっ、本当!という疑念もまだ残っており何度も何度も見直した。

何度見直しても間違いなく名前は出ていたのである。

全応募作品1150編中第1次予選通過作品「200編」に私の作品は確かに入っていたのである。

かくして私の初めての「小説新人賞」応募作品はみごと第一次予選を通過したのであった。

                      以後は後日のブログへ続く

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