風こそなかったが外は身の縮むような寒さである。
コートの襟を耳まで立て、両手をポケットに深々と突っ込み、私は小走りに地下鉄の駅へと向かった。
それまでの午後の出勤ではずっと各駅停車のローカルを利用していたのだが、流石にこの日は八十六丁目まで来るとエキスプレスに乗り換えた。
なんと言っても朝の十五分は貴重である。
午前八時、私はこのホテルに来て初めて早出出勤の職場に立ったのだが、その喧騒には驚ろいた。
二千室の客室をもつこのホテルの朝はまるで戦場のようにけたたましい。
大きな荷物と一緒に各フロア—から宿泊客が出発の為いっせいに一階のロビーに下りてくる。
何百人という客があちこちで輪を作って談笑する声がワーンという一つの塊になって広いロビー全体を包んでいる。
そんな喧騒の中でフロントデスクのカウンターに立った私は、前から左右からと間断なしに渡される膨大な量の部屋のキーを必死になってキーボックスに収める作業を繰り返した。
このめまぐるしいだけの単調な作業がその朝わたしに割り当てられた仕事であった。
それでも十時をまわった頃になると流石に出発客も減りはじめ、それまで怒涛のごとく押寄せてきていたキーの波も少しずつ途切れるようになってきていた。
この日私が職場についたのは仕事の始まる八時ぎりぎりで、仕事の前にモーニングコーヒー一杯ですら飲む余裕はなかった。
キーの収納が一段落したところで、チーフのマックにことわってコーヒーブレイクをとることにした。
この職場では昼の五十分の休み以外に午前と午後に各二十分ずつのコーヒーブレイクが認められていて、各々が仕事の状態を見ながら適当な時間にとることになっていた。
でもコーヒーブレイクと言っても別に皆がコーヒーを飲むわけではなく、その過ごし方もいろいろあって、ロッカールームのソファで休む者、しばしの間外へ散歩に出かける者、そしてコーヒーショップで遅い朝食をとる者と皆それぞれであった。
この日朝から何も食べていなかった私は、ロビーの隅にあるコーヒーショップへ行き、好物のチーズバーガーとコーヒーを注文した。
楕円形の長いカウンター席には私と同じように遅い朝食をとっている宿泊客らしき人々がまだ十数人も残っていた。
隅のほうの席へ座って中をぐるっと見わたした私の目に、カウンターが大きくカーブした左斜めの席の二人の日本人の姿が入ってきた。
そのうちの一人は確か一時間ほど前にフロントカウンターの私のところへやってきて「東京から来ている近藤誠二という人のルームナンバーを教えて欲しい」とたずねた男だ。
とすれば隣の人がその近藤誠二さんなのか。
そう考えながらぼんやりと二人の方を見ていた。
すると先方のほうも私のことに気づいたらしく、先ほどの男がニコッとして会釈した。
つられて私も頭を下げた。
私がまだチーズバーガーを口にしているとき、二人は席を立って出口に向かって歩いていた。
一人がキャッシャーで支払いをしている間に会釈した方の男がツカツカと私のほうへ寄ってきて言った。
「先ほどはありがとうございました」 そう言って丁寧に頭を下げた。
「どういたしまして」 私がそう言い終るか終わらない内に、その男は「こちらにはいつからお勤めになっているのですか?私は今日のように日本からきた人を迎えにちょこちょここのホテルへ来るのですが、お目にかかるのは初めてですね」と言った。
「日本から来て勤め始めてまだ一ヶ月です」
私がそう答えると、男はポケットから名刺を出して渡した。
N商事ニューヨーク支店、山崎憲一とある。
「こちらへ着てもうすぐ二年になります。仕事でよくあちこち行きますので今ではニューヨークのことはかなりよく分かっているつもりです。何かこちらのことで分からないことがありましたらいつでも私のオフィスへお電話ください」
山崎はにこやかな表情でそう結んだ。
流石は一流商社マンで如才がない。
年令は私より二〜三歳上のたぶん三十を少し越えたぐらいに違いない。
頭髪は七三にきちっと分け、メタルフレームのメガネをかけて、キリッと口元の締まったその表情からはいかにも「やり手商社マン」ということが伺えた。
この日の出会いをきっかけにして、私と山崎とのニューヨークでの楽しい交遊がはじまったのであった。
to be continued
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