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それからベンチへ近づく十数歩の間に、二人の手は次第に強く握り合わされていった。
横一列に三つ並んだベンチのうち、いちばん左に腰掛けた二人は、今度は何も言わずに手を握り合わせたまま、暗闇の中で探るように互いの目を見つめあった。
進次の胸がまた高鳴って、そのうち次第に息苦しいほどになってきて、もうこれ以上我慢できないと、左手で女のうなじに軽く触れながら、耳元で「キスしていい?」と、そっと囁いた。女は何も答えず目をそらして下を向いた。
進次は女より頭を低くして下のほうからそっと女の唇に口をつけた。ブルッと両肩が震え、体中に戦慄が走った。身体を硬くして、わなわなと震えている女の様子が伝わってきた。
決して進次の唇を避けようとはしなかったが、口元はキッと閉じられたままで、その先への侵入は許さなかった。でも進次の背中に回した手には幾分か力が込められてきて、決してその行為を嫌がっていないことがはっきりわかった。
ただ慣れていないだけで、唇を開かないのはそのせいだと思った。
ぎこちないキス、まさにそれそのものであったが、進次には甘美この上なく、頭の芯がぼぉーとかすむような、まるで天にも昇るような心地よい気分であった。
五分、いや十分ぐらいも二人は抱き合って唇をくっつけていただろうか。姿勢がやや窮屈になり、どちらからともなく身体を離した。でも手と手はまだ握り合ったままであった。
今いったい何時だろう? 進次はふとそう思い、街頭の薄明かりの中で腕の時計を見た。暗くてよく見えなかったが、長い針は十五の少し手前にあるようで、二時を少し回った時間であることがかろうじて分かった。
「わー、もう二時を過ぎてる。どうしよう、こんなに遅くては姉の家にもいけないし」
握った女の手をやっと離し、進次が独り言のように呟いた。もともと姉の家には行く気はなかったのだが、電車の中で女に伝えたことをふと思い出し、辻褄あわせのために言っただけで、本当は女の同情を引きたいだけだった。
「お姉さんの家に行かないって、それじゃあどこかに泊るんですか? 大阪までタクシーで帰るわけにはいかないでしょうし」 長いキスの後で、しばし放心したような表情を見せていた女だったが、恥じらいを含んだ小さな声で、そう聞き返してきた。
どこかへ泊る? そうなんだ。でも1人じゃいやだから、できたら君と一緒に泊りたいんだ。返す言葉でそんな風に一気に言えたらなんと良いことだろう。でもそんなこと、まだ言えやしない。会ってまだ三時間しかたっていないというのに。いや、でも待てよ。彼女はこんなに遅くまでぼくに付き合ってくれて、おまけにさっきのキスは少しも拒みもせずに十分間も許してくれた。ひょっとして、彼女としてもこのままずっと一緒にいたいのかもしれない。
そうだ、きっとそうに違いない。その証拠に駅の待合室で誘いに応じたときは「少しだけなら」と言っていたはずなのに、二時間以上たった今でさえ、自分のほうからは少しも「帰る」などとは言わないではないか。だったらこのまま別れてしまう手はない。男だったら勇気を出して「一緒にどこかへ泊ってください」と言うべきだ。そうだ、そうしよう。
そう思った進次は思い切り勇気を振り絞って女に言った。
「ねえ、ぼくこのままあなたと別れたくないし、それに1人だけでどこかに泊るのもわびしいし、変なこと絶対にしませんから明日の朝までどこかで一緒に過ごしてくれませんか」
それだけ言うにも、興奮したせいか額に汗がにじむほどで身体も熱くなってきた。
進次のその突飛な申し出に、女は少したじろいた様子であったが、「でもわたし」と言っただけで、そのままうつむいて、その後何も言わなかった。
「一緒にいてくれるだけでいいんです。何かしたりは決してしませんから」
女に不安を抱かせないようにと、さらにそう付け加えた。
「でもわたし、外泊なんかしたことありませんし、それに着替えだって駅のロッカーの中だし」 着替えと聞いて、進次の身体がまたブルッと震えた。着替えということは服を脱ぐことだ。すると女の裸が脳裏をなまめかしい想像が駆け巡った。
でも必死にそれを振り払ってから、また言った。
「着替えって、朝まで数時間一緒に過ごすだけだし、そんなのいりませんよ。そのままいればいいんだし、それに下宿の人には、今日帰るって言っていないんでしょう?」
ラーメン屋で女が言ってたことを思い出して、今度はそんなことも付け加えて言ってみた。
女はまた黙って下を向いた。進次も次のセリフが見つからず、言葉の代わりに女の肩をそっと抱き寄せて、またキスをした。でもさっきと違って今度はすぐ離した。
「ねえ、いいでしょう。一緒にいるだけだから」
つづく
次回8月19日(木)