2026年8月13日木曜日

T.Ohhira エンタメワ--ルド〈7〉進次と和子の青春グラフィティ(5)

     

                     adobe stock

    5

 それからベンチへ近づく十数歩の間に、二人の手は次第に強く握り合わされていった。

 横一列に三つ並んだベンチのうち、いちばん左に腰掛けた二人は、今度は何も言わずに手を握り合わせたまま、暗闇の中で探るように互いの目を見つめあった。 

 進次の胸がまた高鳴って、そのうち次第に息苦しいほどになってきて、もうこれ以上我慢できないと、左手で女のうなじに軽く触れながら、耳元で「キスしていい?」と、そっと囁いた。女は何も答えず目をそらして下を向いた。  

 

進次は女より頭を低くして下のほうからそっと女の唇に口をつけた。ブルッと両肩が震え、体中に戦慄が走った。身体を硬くして、わなわなと震えている女の様子が伝わってきた。 


 決して進次の唇を避けようとはしなかったが、口元はキッと閉じられたままで、その先への侵入は許さなかった。でも進次の背中に回した手には幾分か力が込められてきて、決してその行為を嫌がっていないことがはっきりわかった。

ただ慣れていないだけで、唇を開かないのはそのせいだと思った。

ぎこちないキス、まさにそれそのものであったが、進次には甘美この上なく、頭の芯がぼぉーとかすむような、まるで天にも昇るような心地よい気分であった。


 五分、いや十分ぐらいも二人は抱き合って唇をくっつけていただろうか。姿勢がやや窮屈になり、どちらからともなく身体を離した。でも手と手はまだ握り合ったままであった。


 今いったい何時だろう? 進次はふとそう思い、街頭の薄明かりの中で腕の時計を見た。暗くてよく見えなかったが、長い針は十五の少し手前にあるようで、二時を少し回った時間であることがかろうじて分かった。

 「わー、もう二時を過ぎてる。どうしよう、こんなに遅くては姉の家にもいけないし」

 握った女の手をやっと離し、進次が独り言のように呟いた。もともと姉の家には行く気はなかったのだが、電車の中で女に伝えたことをふと思い出し、辻褄あわせのために言っただけで、本当は女の同情を引きたいだけだった。


 「お姉さんの家に行かないって、それじゃあどこかに泊るんですか? 大阪までタクシーで帰るわけにはいかないでしょうし」 長いキスの後で、しばし放心したような表情を見せていた女だったが、恥じらいを含んだ小さな声で、そう聞き返してきた。

 どこかへ泊る? そうなんだ。でも1人じゃいやだから、できたら君と一緒に泊りたいんだ。返す言葉でそんな風に一気に言えたらなんと良いことだろう。でもそんなこと、まだ言えやしない。会ってまだ三時間しかたっていないというのに。いや、でも待てよ。彼女はこんなに遅くまでぼくに付き合ってくれて、おまけにさっきのキスは少しも拒みもせずに十分間も許してくれた。ひょっとして、彼女としてもこのままずっと一緒にいたいのかもしれない。


そうだ、きっとそうに違いない。その証拠に駅の待合室で誘いに応じたときは「少しだけなら」と言っていたはずなのに、二時間以上たった今でさえ、自分のほうからは少しも「帰る」などとは言わないではないか。だったらこのまま別れてしまう手はない。男だったら勇気を出して「一緒にどこかへ泊ってください」と言うべきだ。そうだ、そうしよう。


 そう思った進次は思い切り勇気を振り絞って女に言った。

 「ねえ、ぼくこのままあなたと別れたくないし、それに1人だけでどこかに泊るのもわびしいし、変なこと絶対にしませんから明日の朝までどこかで一緒に過ごしてくれませんか」

 それだけ言うにも、興奮したせいか額に汗がにじむほどで身体も熱くなってきた。


 進次のその突飛な申し出に、女は少したじろいた様子であったが、「でもわたし」と言っただけで、そのままうつむいて、その後何も言わなかった。

 「一緒にいてくれるだけでいいんです。何かしたりは決してしませんから」 

 女に不安を抱かせないようにと、さらにそう付け加えた。

 「でもわたし、外泊なんかしたことありませんし、それに着替えだって駅のロッカーの中だし」 着替えと聞いて、進次の身体がまたブルッと震えた。着替えということは服を脱ぐことだ。すると女の裸が脳裏をなまめかしい想像が駆け巡った。

でも必死にそれを振り払ってから、また言った。

 「着替えって、朝まで数時間一緒に過ごすだけだし、そんなのいりませんよ。そのままいればいいんだし、それに下宿の人には、今日帰るって言っていないんでしょう?」

 ラーメン屋で女が言ってたことを思い出して、今度はそんなことも付け加えて言ってみた。

 女はまた黙って下を向いた。進次も次のセリフが見つからず、言葉の代わりに女の肩をそっと抱き寄せて、またキスをした。でもさっきと違って今度はすぐ離した。 

「ねえ、いいでしょう。一緒にいるだけだから」


つづく

次回8月19日(木)




2026年8月7日金曜日

ブログ「生涯現役!!日記」 掲載 T.Ohhira エンタメワールド


小説ごとのPV数を公開します

下の表とグラフはブログ「生涯現役!!日記」へ掲載中の「T.Ohhira エンタメワールド」の記録です。表の方は各々の小説のPV数と掲載期間です。数字の集計は今回が初めてなので、ここには1回目のデータだけしか表示していません。グラフも同様です。これで見ると「マンハッタン西97丁目」とその他の作品の数字に大きな開きがありますが、掲載期間にあるように、この作品のみ2014年スタートで、その他は10年以上後の2025年掲載開始であるためです。なお、表の後ろ2作品については、掲載中と未掲載であるため、今回は数字が入っていません。今後順次発表していく予定です。


                        (No.1) 2026/8/07現在

小説タイトル

PV数

連載(掲載)期間

マンハッタン西97丁目

349714/5/28~9/21

噂 台風 そして青空

 82225/4/17~
7/10

ナイトボーイの愉楽

 61825/7/17~
10/09

直線コースは長かった

 52625/10/23~
01/08

清水さんの失敗(ナイトボーイの愉楽part 2)

 45726/01/30~
4/16

紳士と編集長

 22726/4/30~
7/02

進次と和子の青春グラフィティ


掲載中

編む女


‘26/11月~掲載予定

Total6197




2026年8月6日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈7〉進次と和子の青春グラフィティ(4)

 

                     adobe stock

               

         4                                                                   進次が女にそう聞いている最中に後ろ向きに立ってラーメンの支度をしていた主人が不意に振り向いてジロリとこちに視線を向けたので、別に悪いことを話しているわけでもないのに、それからは声のトーンを少し落として話したりした。

 「学生といってもデザインの専門学校です。服飾関係の」 女はなぜだか少し恐縮したような声で答えた。

 「へえー、デザインの学校。じゃあぼくと同じじゃないですか。電車の中で言ったでしょう。今は英語の専門学校へ行ってるって、ジャンルは違うけど二人とも専門学校の学生で。

それに歳は二つ違いでちょうどいいし。ねえ、ぼくたちはなんとなく合いそうですね。そう思いませんか」 

進次は女の目を見ながら精一杯の笑顔を作ってそう言い、相手の反応を待った。


女が笑顔を浮かべて何か答えようとしたとき、「はいお待たせ、味噌とワカメ」主人が両手に持った二つのどんぶりをカウンターの上に置いた。

そのせいで、女は次のセリフを飲み込んでしまったようだが、表情からして決して悪いものではなかっただろうと進次は確信していた。 例えばそのセリフは 「そうかもしれないわ」とか「だといいのですけで」というふうなものであったと。


 けっきょく二人はその店に四十分ぐらいも長居した。その間、誰一人として客は入ってこず、主人は退屈そうに何度もアクビを繰り返していた。

 ラーメンを食べ終わって、オレンジジューズを注文して、専門学校の学生同士ということが分かってか、二人は急速に意気投合していき、電車で出会ってからその店に入るまでに比べると、数倍も多くの会話を交わしていた。


 時計が一時十五分を指したとき、主人が外へ出て暖簾を下ろし始めた。それを見て二人はやっと立ち上がった。

「わたしも払います」という女を制して、進次の方が千四百円払って二人は店を出た。


外は前より一層人影がまばらになっており、少し風が出てきたようだったが、今しがたの温かいラーメンのおかげで寒さは微塵も感じず、頬に当たる風がむしろ心地よいくらいであった。


 「ねえ、温まったことだし、ちょっと港のほうへ行ってみませんか」

 次第に人影のなくなる街の様子からして、この先いくら探しても開いている喫茶店などないだろうと、その代りになるものとして、ふいに頭に浮かんできたことを、とっさに女に伝えたのだった。

 「歩いてですか?」 ラーメン屋へ入る前より、うんとハッキリした口調で女が聞いた。

 「はい。いやタクシーで」

ほんとうは三十分ぐらいかけて徒歩で行き、その間に女の手でも握って歩きたかったのだが、聞かれてとっさにそう返事してしまった。

 「ラーメンのおかげでもう寒くなくなったことだし、行ってみましょう」

 女は今度は躊躇することなく答え、話は案外すんなりと決まった。


 来た道を戻って交差点を曲がって港のほうへ通じる大通りへ出て、それほど多くない車の流れに向かって進次は手を上げた。ものの一分と立たないうちに中型のタクシーが二人の前にピタリと止まった。

「すいません港まで」 「港?港って神戸港のこと?」運転手が少し怪訝そうな声で聞いた。

「ええ、海だったらどこでもいいのですけど、とりあえず神戸港へお願いしなす」

進次は頭にチラッと須磨辺りの海岸を思い浮かべながら、そんあふうに運転手に告げた。

「この時間に神戸港にねえ」運転手はさも物好きな連中か、とでも言いたげに、少し皮肉を込めた返事をした後、おもむろに車をスタートさせた。

 車は信号にも引っかからずにスイスイと夜の街を走っていき、五分もたたず港に着いた。

 

  早くその運転手と別れたいと思っていたせいか、降りるとき、進次は値段も聞きもせず「これでお釣はいいですから」と、千円札を渡したが、ちょっともったいない気もして頭の中では、さっきのラーメン屋と併せてこれで二千四百円の出費だと、きっちり足し算をしていた。


 降りた場所から少し歩いて、二人は人っ子一人いない暗い港に立った。

 さすがに先ほどまでいた街中に比べると頬に当たる風は幾分冷たかったが寒いと言うほどのものでもなかった。

 前方の岸壁にフェリーだろうか二隻の船が暗い海をバックにぼおーっと霞んで見えていた。

「わー、なんだか霧が出てきたみたいだ」

「本当だわ。あの船かすんで見えるし、温かいですもの。でも冬の霧って珍しいわ」

女は感慨を込めるように言った。

 「暖かい冬の夜の人気のない港。霧に霞んだフェリー、何かロマンチックですねえ」

 本当は霧に霞んだフェリーの後に「そして暗い港に佇む、あなたとぼくの二人」と入れたかったのだが、それではあまりにもキザ過ぎると、進次はかろうじてそれだけ言った。

 その言葉に女は振り向いたが、今度は何も言わなかった。


 「あそこにベンチがある。行って座りましょうか」斜め前方のその位置を指しながら、進次は思い切って女の手を取った。

女は一瞬その手を内側のほうへ少し引いたが、すぐまたもとの位置に戻して、今度はそっと進次の手の平にふれてきた。


つづく

次回 8月13日(木)


2026年8月2日日曜日

「生涯現役!!日記」をまだご存じない方々へ・生涯現役!!日記 は「おもしろくてためになる」ブログですよ

 


ブログはインターネットを通じた読み物です。読み物といえば紙の本が代表的ですが、その本でよく読まれるのは「おもしろくてためになるもの」です。本を出すのは出版社ですが、その代表的な会社のひとつに講談社があります。実はこの会社のスローガンが「おもろくてためになる」であることをみなさんはご存じでしょうか。人々に本という読み物を提供する代表的な出版社がスローガンにするほど、読み物にはこの要素が大事なのです。ブログはインターネットを通じた読み物です。したがって本と同じ条件が求められます。「生涯現役!!日記」はまさにその求めにピッタリの「おもしろくてためになるブログ」なのです。


人気ブログゆえ「サイトリンク」が3つもついている

「おもしろくてためになる」と言っても、これまで「生涯現役!!日記」を読んだことがない方には、本当かどうかわかりません。でもご安心ください。それを証明するのがサイトリンクです。サイトリンクは検索サイト

(google,Yahoo!.Bingなど)がこれは読者の役に立つと認めたものだけにつくものです。検索をかけるとサイトタイトルのしたに目次のような項目がズラッと並ぶのです。サイトによって異なりますが、たいていは6~8ぐらい大項目が並びます。これらの項目はブログに核とも言っていい中心をなす人気記事を紹介するものです。


サイトリンクを見ると「面白くて役に立つ」情報が同時にみつかる

したがってブログの内容をよく知らない人でもサイトリンクから入ると間違いなく「おもしろくてためになる」コンテンツに達することが出来るのです。「生涯現役!!日記」には、こうしたサイトリンクが、google,Yahoo!,Bingの3つのサイトについているのです。googleとYahoo!は同系列ですから内容が似通っていますが、Bingはマイクロソフトが独自に選択したもので、また別の味わいがあります。いずれにしても、サイトリンクからブログに入れば「おもしろくてためになる」記事にたやすく到達できること請け合いです。


「生涯現役!!日記」へのアクセスはサイトリンク経由が便利

ブログを見る目的は人それぞれでしょうが、たいていは「面白い読み物に出会いたい」や「役に立つ記事を探したい」などが多いのではないでしょうか。ではそうしたとき人はどのようにターゲットを探すかというと、多くの人は検索サイトに頼るのではないかと思います。つまりgoogle、Yahoo!、Bingなどの検索枠に「ブログランキング」とか「お悩み事(頼み事)に関するキーワード」を入力して答えを探すのです。


サイトリンクとは

サイトリンクは、ユーザーの役に立つと Google が判断した場合にのみ検索結果に表示されます。サイトの構造が原因で Google のアルゴリズムが適切なサイトリンクを見つけられない場合や、サイトリンクとユーザーのクエリとの間に関連性がないと思われる場合、サイトリンクは表示されません。 

・・・・・・・・・・・・

googleサイトリンク

生涯現役!!日記

Blogger.com

http://tuneoo.blogspot.com

78作品の中の《ベストの中のベスト》 · この15名の作品が特におススメです · ・松永K三蔵 「押せども引けども雨後菜ぬ扉」小説家 · ・ERIKO 「世界の日常を旅する」モデル ...

生涯現役日記 おすすめ お役立ち ...

ブログ「生涯現役日記」は 単に自身の日記を綴るだけでなく、読者の皆様 ...


小説新人賞応募者にぜひとも ...

まずは第一次予選「1割の壁」を突破したい · 書き出しが良く(おもしろく ...


2024

生涯現役!!日記 · はてなブックマーク · 2024年12月29日日曜日 ...


1月 2025

生涯現役!!日記 · はてなブックマーク · 2025年1月28日火曜日 ...


ブログは「おもしろくてためになる ...

google・bloggerに載せている私のブログ「生涯現役日記」は、開設から ...


7月 2026

生涯現役!!日記 ; 2026年7月9日木曜日. NotebookLM 記事分析シリー ...


tuneoo.blogspot.com のすべての検索結果を表示 »





Bingサイトリンク

生涯現役!!日記


23 時間前 · 1960年の正月三日、四国の実家から大阪の下宿へ戻る途中の英語専門学校生・山中進次(21)は、混雑する列車内で服飾専門学校生の針谷和子(19)と偶然出会う。 進次は一目惚れし …

tuneoo.blogspot.com の検索結果のみを表示 


Yahoo!のサイトリンク

生涯現役!!日記

Blogger.com

http://tuneoo.blogspot.com

78作品の中の《ベストの中のベスト》 · この15名の作品が特におススメです · ・松永K三蔵 「押せども引けども雨後菜ぬ扉」小説家 · ・ERIKO 「世界の日常を旅する」モデル ...
























2026年7月30日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈7〉進次と和子の青春グラフィティ(3)

 

                     adobe stock


                                      3

 二人はそれからすぐ横手にあったコインロッカーに荷物を入れ、まだ幾分のよそよそしい雰囲気を漂わせながら夜の三宮の街へと出て行った。

 外へ出るとすぐ正面にタクシー乗場があって、その前の長蛇の列を尻目に、二人は左手に広がる繁華街へと向かっていった。


 「よかったですね、あの列に並ばずに。五〜六十メートルはありましたよ。あれだとたとえ中ほどでも三~四十分はかかるだろうし、ぼくなんかとても耐えられそうもありませんよ」 歩きながら女のほうへ少し間隔を詰めてから進次が言った。

 「ほんとうに凄いわ。タクシー待ちのあんな長い行列見たのは始めてだわ」

 「ぼくもですよ。でももう二~三時間もすれば空きますよ。今度行ったらすぐ乗れたりして」

そう言った後で、もう二~三時間もすれば、というセリフに対して女がどう反応するかが気になった。

別に意識してわざと言ったわけではなかったが、駅構内で誘ったとき、女は「もう遅いですし、少しだけなら」と応えたはずで、それだとこの二~三時間というのにも当然なんらかの拒否反応を示すはずだと思えたからだ。


 でも進次のそうした思惑をよそに、女はそのことに何の警戒心も見せることなく、「だといいのですけど」と答えただけだった。

歩きながら進次に胸は次第に高鳴ってきた。

 それはこうした場合、たいていの男が思い描く「あわよくば」とでもいう微かな期待感からに違いなかった。


 駅前の横断歩道を渡り、正面の私鉄の駅の玄関前を右へ曲がると前方に繁華街が広がっている。進次は以前何度か足を運んでいて、この辺りが終電の発った後でもかなりの賑わいを見せるのをよく知っていた。

特に金曜と土曜の夜ともなると終夜営業の店も珍しくなく、行く場所に事欠くことはないと思っていた。しかし土曜とは言え、まだ正月三日のこの夜の様子は普段とはすっかり違っていて、人の数もネオンサインの輝きも普段と比べうんとまがらで、およそ大都会の夜の盛り場という趣はなかった。


 「人少ないですねえ、まだ開いている喫茶店あるかしら」

 以前は入ったことのある駅寄りの二軒の店が立て続けに閉まっており、三軒目を探して歩いているとき、女が少し不安そうな声で言った。

そう言われるまでもなく、進次にしても最初の二軒の店の閉店は大きな誤算で、この先開いている店があるという確証など少しもなく、女以上に不安な気持ちを募らせていた。


こんな様子だと女が今にも「わたしやっぱ帰ります」とでも言い出しかねないと思ったからだ。

 「ねえ、ラーメン食べませんか? 少し寒くなってきたようだし、あったまりますよ」

 前方十メートルくらい先にかろうじて明かりがついているラーメン屋の看板をふと目にした進次が不意に女に言った。

一月にしては随分暖かい夜であったが、電車のスチームに長い間暖められた身体も先ほどから夜風に当たって少しずつ冷えてきていて、女も寒がっているのではないかと思い、とっさに思いついて出た言葉であった。

 

「ラーメンですか。ああ、あそこのお店ね。そうねえ暖かそうだし行きましょうか。喫茶店も見つからないようだし」

女が応じてくれてホッとしたが、進次としては静かなムード音楽でも聴きながら、ゆっくりと語り合いたいのがいちばんの望みであった。でもあてもなく喫茶店を探して歩くより、この際どこでもいいからひとまず腰を落ち着けて、時間を稼げばいいではないか、その後のことはラーメンでも食べながら考えればいいのだから、というふうに思ったのだ


その店の前まで来て、湯気で少し曇ったガラス戸を開け、「どうぞ」と女を先に入らせた。カウンターだけの住人ぐらいしか入れない小さな店であったが、客は1人もなく、五十がらみの店主と思しき男の人が隅の方で所在なさげにテレビを観ていた。 


 「はいいらっしゃい、何にしましょう?」 二人が腰を下ろすや否や、男の人は立ち上がり壁のメニューに手を掲げながら、せっかちに注文を聞いた

 醤油に味噌、それにワカメとキムチ。四品しかないメニューのうち、進次は味噌ラーメン女はワカメラーメンを注文した。

 頼んだ品が出てくるまでのしばしの間、何から話そうかと考えていた進次だが、まだ女の名前を聞いていないことに改めて気がついた。

 「電車の中でも言いましたね、ぼくの名前は、でももう一度言います。山中進次、二十一歳です」

「ゴメンナサイ。わたし言うのを忘れてて、中谷和子、十九歳です」

 「ふーん、やっぱり十九ですか。多分それくらいだと電車の中でも思っていたんです。それで今は学生ですか?」


つづく

次回 8月6日(木)