2018年4月18日水曜日

だから振り込め詐欺はなくならない ・ 振り込め詐欺 正当化の論理とは?

4750万円詐欺、90歳女性ほぼ全財産失う

読売新聞電子版 20180417

 東京都品川区の女性(90)が先月、警察官や長男を装ったグループに、現金4750万円をだまし取られていたことがわかった
 女性は一人暮らしで、ほぼ全財産を失ったという。警視庁品川署は詐欺事件として捜査している。
 品川署幹部によると、女性は3月7日、警察官を名乗る男から電話で家族の名前を聞かれた。その直後に長男を名乗る男から「カバンをなくした」と金を無心する電話があった。女性が「金庫の鍵が壊れていて開かない」と言うと、修理業者の連絡先を教えられた。
 修理業者が金庫を直した後、長男の会社の関係者を名乗って自宅を訪れた男に4000万円を渡した。その後、「もっとお金がないか」と要求され、再度、別の男に750万円を渡したという。


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詐欺師たちは振り込め詐欺を ≪今の社会にあってしかるべきもの≫正当化している


振り込め詐欺に対しては警察の取り締まりやコミュニティによる注意喚起活動が強化されているにもかかわらず、被害は一向になくなりません。

上の新聞記事のようについ最近の3月にも東京の90代の女性が振り込め詐欺に5000万円近くもの驚くべき大金ををだまし取られたことが報道されています。

でもいったいなぜ振り込め詐欺はなくならないのでしょうか。その理由の一つとして挙げられることに、詐欺師たちが「振り込め詐欺を正当化している」ことがあります。

つまり、犯罪性は認めながらも、今の社会にあるべきものとして、この行為を正当化しているのです。

正当化するとは「振り込め詐欺は今の社会にあってしかるべきもの」と、存在を肯定する考え方です。

振り込め詐欺がいつまでたってもなくならないのは、このような理論を携えた強力な組織を持つ詐欺集団によって営まれているからです。

なお振り込め詐欺は最近では特殊詐欺と呼ばれることが多くなっています。でも一般的には過去から長い間使われてきた降り込め詐欺という呼称の方ががイメージしやすく、実態を掴みやすいのではないでしょうか。

そうした観点から、この記事では一貫して振り込め詐欺を使うことにします。


詐欺師のリーダーは理論武装してプレイヤーを洗脳


振り込め詐欺がなくならないのは詐欺グループの組織が強固でしっかりしているからです。

しっかりした組織をつくるには優秀な人材が必要です。特に組織の末端で電話をかけるだけの、いわゆる「かけ子」と呼ばれるプレイヤーを育てるには強い指導力を持つ優秀なリーダーが必要です。

優秀なリーダーがいてこそモチベーションの高いプレイヤーが育つのです。

振り込め詐欺グループのリーダーの条件として第一に必要なのは、この仕事を正当化するための理論武装です。これなくしては部下を育てるどころか、仕事についてこさすことさえできません。

振り込め詐欺は反社会的なれっきとした犯罪です。この行為を「社会にあってしかるべきこと」として、その正当性を理論的にきっちり部下に説明でき、説得できてこそ完全に支配下に治めることができるのです。

プレイヤーたちを生まれ育った劣悪な環境による貧困が生み出した犯罪者とは言い切れません。中には親の愛を十分に受けた者もいれば、大学教育を受けた者さえいるのです。

このようなメンバーの教育指導が遂行できるのは、詐欺の世界の歴戦のつわものであることはもちろん、優れた頭脳の持ち主でなければなりません。

世間の嫌われ者になることを承知の上でこうした任務に就くのも、場合によっては数千万円にも及ぶ年収の魅力に誘われてのことなのです。

日の当たらない裏社会とはいえ、中にはこの世界にこんな人がと思われるほどの優秀な人材もいるのです。

こうしたリーダーの理路整然とまとめられた理論に基づいた説得により、プレイヤーたちは完璧に洗脳され、振り込め詐欺を正当な行為と思いこまされるのです。

かくして世間の批判や糾弾をものともしない、強力な詐欺グループが形成されるのです。


正当化によって末端のプレイヤーは老人を騙すことに罪の意識を持たなくなる


人は罪の意識にさいなまれるような犯罪性のあることには手を出さないのが普通です。

したがって当初はお金の魅力に負けて振り込め詐欺集団に入った者でも、結局は罪の意識に負けて脱退を考え始めます。

そうなると詐欺組織は早晩崩壊してしまいます。こうならないためにはメンバーに罪の意識を感じさせないことが必要になります。

そのために行われるのが正当化なのです。振り込め詐欺は実際には老人を騙してお金をとることが仕事です。

普通に考えればこれは悪事を働くことです。でもそう考えれば誰もこの仕事についてきません。

なんとしても罪の意識を持たせないことが大事になります。

そのために行われるのが正当化で、これによってプレイヤーを洗脳して罪の意識を取り去ってしまうのです。

欺す側の正当化の論理とは、「老人が所有する世の中の眠っている無益な資金を自分たちが活性化して有益なものに変えるやる」というものです。

これはひと昔前の豊田商事の海外先物取引詐欺の「世の中の眠っている資金をオレたちは活性化してやっている」という論理とまったく同じです。

このような正当化の考えがあるからこそ、プレイヤーはやめることなく、いつまでも悪の仕事の片棒を担ぐことができるのです。

振り込め詐欺がいつまでたってもなくならないのは、こうした正当化された理論に基づく高いモチベーションを維持した詐欺集団によって営まれているからです。


正当化がモチベーションの高い詐欺集団をつくる


振り込め詐欺の仕事を維持して絶え間なく成果を出すために必要なのは,なんといっても組織の高いモチベーションを維持することです。

振り込め詐欺がいつまでも続くのは、仕事が正当化されていることでメンバーのヤル気が育ちモチベーションが高まるからです。

それ故にいつまでも一定の成果を上げ続けることができるのです。

これこそがいつまでたっても振り込め詐欺がなくならない最大の要因なのです。




2018年4月16日月曜日

日本人は細かすぎるのか?


ネパール人は「ニホンジンコマカスギ!」と言っているが

上の「」内のカタカナを書き直すと「日本人細かすぎ」になります。これは漫画家・西原理恵子のエッセイ集「泥名言」に載っているエッセイのタイトルです。

タイトルを見ただけでは何のことかよく分らないのですが、内容を読み思わず笑ってしまいました。

でもおもしろいだけでは終わらず、同時に「そうかもしれない」と、共感する気持ちも生まれました。

内容は次のようなものです。著者がネパールへの旅行中、町の魚屋へ寄ったのですが、店先にはハエがたかった半分腐ったような魚が山ほど積まれており、店員はそれを荒っぽく雑におろしたものを客に売ろうとしていました。

それを見た著者が半ば驚いて「すげえおろし方だね、それにハエもたかっているし」と言ったところ、そばにいたネパール人ガイドがすぐさま「ニホンジンコマカスギー」と言ったそうです。

これを聴いた著者は、ハッと目が覚めたような気がして、その通りかもしれない、と思ったと言うのです。


日本人はいろんな面で細かすぎるのではないか


いかがでしょうか、この話は?

ネパールの魚屋でガイドに「ニホンジンコマカスギ」と言われた著者は、雑な魚のさばき方や、ハエのたかった不衛生さを指摘しただけですが、それに対して「ニホンジンコマカスギ」とネパール人に返されました。

著者はこれを単にその場の魚の問題だけでなく、日本人のものの考え方すべてを否定されたように感じたのです。

つまり、日本人はあらゆる面で細かすぎるのではないだろうか、と思ったのです。

ネパール人としては、魚のさばき方が雑だろうが、ハエが少々たかっていようが、それがどうしたというのだ、となるのです。

それゆえに、そんな小さなことにこだわる日本人は気持ちが小さすぎる。と言っているのです。

これに対して著者は、こう主張する彼ら方が正しいのではないだろうか?と感じて、深く考えさせられたのです。

著者だけではありません。読者のわたしも同様に考えさせられてしまいました。


日本人が几帳面なのは、気が小さいからなのか?


日本人がよく約束を守り、時間に極めて正確なことは世界中の人々によく知らています。それ故に日本人は信用できる、とも思われているのです。

しかしです。上に書いたように、そうした日本人の几帳面さもネパール人に言わせれば、「日本人細かすぎ」ということになるのです。

「細かすぎ」は考えようによっては「気が小さい」ともとれます。

もしそうなら、日本人が約束をよく守ったり、時間に正確なのは気が小さいからなのではないか、というふうにも考えられます。

つまり、道徳的な問題以前に、相手の気持ちを忖度した上で、約束を守ったり、時間通りに行動するだけなのではないか、とも考えられ、これ、すなわち気が小さいから、となるのです。

世界を見渡せば約束や時間に拘らない国民は少なくない


約束を守り時間に正確な日本人が「細かすぎる」なら、細かすぎない人とはどんな人を言うのでしょうか。

それは日本人とは反対の約束を守らない時間に大らかな人を指すのでしょうか。ではどの国の人がそれに当たるのでしょうか。

これに関して世界を見渡してみますと、どの国を見ても日本人のように時間に几帳面な人種はあまりいないようです。

時間にルーズな(大らかな)国民としてよく挙げられるのはインド人やブラジル人があります。

特にインド人は極めて時間に無頓着で、約束に遅れてくるのは日常茶飯事ですし、それだけでなくドタキャンすら珍しくありません。でも彼らはそれが悪いこととは少しも考えていないのです。

ブラジル人もしかりで、5分や10分の遅れは、遅れのうちに入らない、という感覚です。

電車やバスも遅れるのが当たり前になっており、たまに時間通りに来ると、驚いてしまうぐらいです。

インドやブラジルはともかく、先進国では時間はよく守られるのでは、と多くの人は考えると思います。

でもイギリスに限ってはそうとも言えません。イギリス人の時間間隔は日本人と比べて大きく異なる点があります。

それは、会合などでは、日本人のように開始時間の少し前に集まるのでなく、時間きっちりに会場へ入ることを良しとしており、少し前に、という発想はないのです。

つまり開始時間が10時とすると、その少し前でなく、10時きっちりに会場へ着くことをモット―としているのです。

とはいえ、これはビジネス上のことで、すべてについてがそうというわけではありません。

たとえば公共の乗り物であるバスや電車などの時間の遅れは珍しくありません。

でもそれに対して人々はすこぶる鷹揚で、いちいち苦情を言うようなこともありません。


「ニホンジンコマカスギ」は価値観の違いを考えるヒントになる


上で書いたように物事に対する良し悪しの判断は、人々の価値観によって異なってくるのです。

ネパール人の魚屋が「ニホンジンコマカスギ」と言ったのも、この価値観の違いによるものです。

ネパール人が正しいか正しくないかは別として、国際間での物事の良し悪しについての判定は価値観の尺度でなされることを、私たちはしっかり覚えておかなければなりません。


2018年4月13日金曜日

作家が面割れを嫌うのはなぜなのか?



好きな作家の顔は知らない方がいい


個人的なことですが、ある女流作家のエッセイ集を読んでいて、文章がとても気に入り、収められた作品の多くに魅了されました。

初めて読んだ作家であったため、どんな人なのかまったく知りません。

読み進めていくうちに次第に、「いったいどんなルックスの人なのだろう」と、この作家の容姿が知りたくなりました。

こんなとき便利なのがグーグル画像検索です。早速これを使って調べてみることにしました。さすがはグーグル!画面には瞬く間に10種類以上の写真が出てきました。

ワクワクしながら画面に目をやったのですが、期待に反してどの写真も魅力的とは言えず、結局失望しただけで終わりました。

その後この作家の作品は読む気が起こらないようになりました。顔を見たがゆえに作品に興味を失ったのです。

言うまでもなく、作品と顔のイメージにあまりにも大きなギャップを感じたからです。

この経験で得た教訓は次のようなことです。

「作品が気に入っている作家の顔は知らない方がいい」


作家は面割れを恐れて公共交通機関を利用しない


売れっ子作家浅田次郎は、面割れするのが嫌で、外出の際は極力電車やバスは避けてマイカーを利用するようにしているそうです。

周りからすると作家という人間観察の必要な職業の人こそ公共交通機関の利用が役立つのでは、と思うのですが。

言うまでもなく、乗り物で移動中に周りの人を観察できるからです。

何かの本で読んだことがありますが、かの有名な社会派推理作家の松本清張はこんなことを言っています。

「電車の中で前に座った人を2030分間観察すれば、本を1冊書くことができる」

少しオーバーな表現かもしれませんが、一流作家の観察力はかくも優れているのか、と、この一文を読んだときはいたく感心したものです。

話が少しそれましたが、多くの作家がこうした絶好の人間観察の機会をあえて捨ててまでも、公共交通機関を利用したくないと考えているのです。

作家はそれほど面割れに対するマイナスイメージが強いのです。要するに面割れすることは作品の売り上げにプラスにならないと考えてるのです


あの女流作家はなぜテレビCMに出ているのか?


比較的売れていると言ってもいいある中堅の女流作家のテレビCMを最近しばしば目にします。CMとしては珍しい寝具の一つである枕を宣伝するものです。

このCMで初めて知ったのですが、この作家のルックスは庶民的な人なつっこさを感じるもののお世辞にも美人とは言えません。

作風から凛とした知的な容貌を想像していた当方としてはいささか期待外れです。

でもこの人はなぜテレビのCMに出るのでしょうか。テレビの視聴率が1%100万人ということを知った上でのことなのでしょうか。

1%が100万人にもなると、おびただしいほど多くの人々が彼女の容貌を目に焼き付け、作品に触れるたびにルックスを思い浮かべます。

その結果作品のマイナス評価に繋がることは明らかです。

CM出演に、このデメリットを上回るほど大きなメリットがあるとは思えません。

まさか収入だけが目当てだとは考えられませんが、こんな犠牲を払ってまで、なぜCMに出るのか理解できません。

テレビに出演する作家が多くなったが


お笑い芸人から作家になった又吉直樹の影響があるのかもしれませんが、ことのところテレビ番組へ出演する作家が目立ちます。

良く目立つ人を上げると、羽田圭介、湊かなえ、角田光代などです。

言葉を選ぶのが上手な作家だけに番組での発言内容にはそれなりに魅力的なものもあります。

でも作家の本領はあくまで作品で発揮されるべきですから、こうしたテレビ番組でのたび重なる発言はあまり感心できません。

なぜならルックスも含めてテレビでの印象が少なからずイメージ形成に影響するからです。

そのイメージは必ずしも作品と一致するとはいえず、逆にそれに逆らう場合もあるかもせれません。

古い考えかもしれませんが、作家に対しては常にある種の神秘性を抱いていたいと思っています。読者がルックスを目にしたせいで、それが崩れることは悲劇です。






2018年4月9日月曜日

書く人は読む人 ・ 世の中で最も本を多く読むのは小説家


小説家が読む本の山

小説家はなぜ本をよく読むのか?


おそらく小説家ほどよく本を読む人種は他にいないでしょう。

もちろん小説家でなくても本をよく読む人はいくらでもいます。世の中には本の虫と呼ばれるような本好きな人もおり、そうした人の中には月に数十冊の本を読破している人は珍しくありません。

しかしそうした本好きの人と比べても小説家の方が読書量は勝っているのです。

でも小説家はなぜ本をよく読むのでしょうか。

理由は大きく言って二つあります。一つは本が好きだからです。好きこそものの上手なれ、と言う言葉があるように、人は好きなことに対しては時間を費やすのを惜しまないものです。

小説家はなにより本を読むのが好きです。それゆえに普通の人が驚くほどの数の本を読むのです。

二つ目の理由は本を読まないと小説が書けないからです。

小説を書くにはテーマが必要になります。もちろん小説家になるぐらいですから、小説のテーマはある程度は事前に用意できているでしょう。

したがってデビューして2~3作程度は、用意したテーマと持ち前の想像力だけで作り出すことができるに違いありません。

しかし、小説家は2~3の作品だけ世に出せば良いのではなく、小説家であり続けるためには、コンスタントに作品を生み出さなければなりません。

でもいかに小説家だといえ、用意できるテーマには限度があります。したがって、ある程度書いたら種が尽きてしまいます。

そうなれば新たなテーマを探さなければならないのです。そのために必要なのがたゆまぬ読書なのです。

これによってあらたな小説のテーマを見つけたり、その糸口をつかむのです。そのために読書が必要なのです。

ちなみに人気小説家(故)有吉佐和子は124時間を3等分し睡眠時間の8時間を除いて、執筆と読書にそれぞれ8時間づつを充てていました。

つまり毎日8時間を読書に費やしていたのです。


小説家にとって読書は仕事のうち


私たちにとって読書は楽しみの一つです。もちろん難しい学術書や経済書などは頭をひねりながら読むこともありますが、多くの場合、読書は楽しいゆったりとした気分をもたらしてくれます。

それは仕事時間ではなく余暇にするものだからです。

そんな読書も小説家になるとまったく事情が異なります。小説家の読書は必ずしも余暇にするものではなく仕事時間にもなされます。

つまり1日10時間が仕事時間なら、その10時間の中にも読書が組み込まれるのです。

これは一般に人には考えられないことです。もし普通の人が仕事中に読書をすれば、それはサボタージュと見なされ、ペナルティを課されてしまいます。

ところが小説家はそうではありません。もちろん自由業であるということもありますが、もっと大きな理由は読書も仕事のうち、と見なされるからです。

なぜ読書が仕事のうちかと言えば、それが本業である小説のネタ探しになるからです。

世の中で小説家が最も本をよく読む人種であるのは、こうした理由があるからです。

浅田次郎は子どもの頃から1日1冊を死守している


多くのベストセラーを生み出している人気作家浅田次郎は本をよく読む人としても有名です。

氏は子どもの頃から1日に1冊の本を読むことを日課にしており、65歳を超えた今でもそれを実行しています。

つまり50年間以上も1日1冊の本を読み続けてきたことになりますから、これまでに読んだ本は十数万冊という膨大な数になります。

ひとことで十数万冊といっても、これは地方都市の図書館の蔵書数にも及ぶほどのすごい量です。

このすごい読書をこなすために氏は毎日午前中に執筆を終え、昼過ぎから夕方までの4~5時間を読書に充てています。

もちろんこの時間は仕事と見なしていますから、その態度は執筆時間と変わらないほど真剣そのもので、真摯な態度で本と対峙しているのです。

この真剣さあってこそ、ベストセラーになり得るようなすばらしいテーマを見つけ出すことができるのではないでしょうか。


小説家の蔵書は地方都市の図書館並み


浅田次郎のように子供のころから1日に1冊を読み続けている例のごとく、小説家の読書量は半端なものではありません。

と言うことは、当然のごとく所有する蔵書の数も膨大な数であるに違いありません。

いったい小説家はどれくらい本を所有しているのでしょうか。

小説家の中で最も蔵書が多いと言われているのが、今は故人となった井上ひさしで、その蔵書は驚くなかれ20万冊にも及びます。

これがどれほどの量かと言えば、町の本屋さんは到底及ばず、地方都市の図書館の書棚と同じくらい、と思っていただければ良いのではないでしょうか。

つまり、氏の自宅には図書館並みの書庫が備えられているのです。

井上ひさしの蔵書の量には及びませんが、評論家・立花隆の蔵書も相当なもので、仕事場としているビル3階の書庫には7万冊の蔵書が並んでいるといいます。

これは7~8年前のことですから、おそらく今では10万冊を越しているのではないでしょうか。

これほど多くの本を揃えるとなれば、費用の方もまた大変な額になるはずですが、その額たるや毎月の本代はコンスタントに15万円ぐらいと言いますから驚きです。

立花隆だけではありません。女性では珍しい経済評論家の勝間和代も同様に毎月15万円ぐらいを本代に充てていると言います。
 







 




2018年4月6日金曜日

40年前、NYから日本の職場へあてた手紙 ・ 懐かしのニューヨーク職場日誌(6)

机の中から出てきた40年前の手紙


机の中を整理していると、むかし勤務していた職場の社内報が出てきました。

今から40年以上前のもので、ちょうどニューヨークに職場留学していた頃のもので、中身を読んでみると、現地から日本へ送った懐かしい手紙が「ニューヨーク便り」という形で載っていました。

本日のブログではこの手紙をご紹介することにします。


Dear Friends                              

五月に入ったニューヨークは、朝晩まだ多少の寒さは残っていますが、街を行く人々もようやく分厚い冬のコートを脱いで、華やかな春の装いに着かえたようです。

日本の五月と言えば、目に映る青葉が鮮やかで、風薫る一年中でいちばん快適な季節のようですが、ここニューヨークでは一ヶ月ぐらい遅れた六月ぐらいがそれにあたるようです。

さて私が大阪を発ったのは、今は懐かしい、あの万博が終わった昨年の十月末でした。

あれからすでに六か月、環境、風土、あらゆるものが違うニューヨークでの生活がようやくしっくりと身についてきた感じです。

こちらに着いて二~三か月目に感じた、あのどうしようもないほど強烈なホームシックも今は消え、とにかく一人でのんきな生活を送っております。


客室2000の超マンモスホテルはざら


私が現在働いているスタットラーヒルトンホテルは、言うまでもなくヒルトン系のホテルの一つで、かの有名なエンパイヤ―ステートビルからあまり遠くない、七番街三十三丁目にあります。

客室数2100という超マンモスホテルで。規模の上ではニューヨークヒルトンに次ぐ二番目のホテルですが、ニューヨーク客室が2000室前後のホテルは、このほかにも、ニューヨーカー、アメリカーナ、ウォルド―フ・アストリア、コマドールと、並べべているときりがないぐらい沢山ありますから私のいるスタットら―ヒルトンが図抜けて大きいというわけではありません。

こちらの有名ホテルがほとんどそうであるように、このスタットら―ヒルトンもまた、大変古いホテルです。聞くところによると五十年前に建ったそうですから、その建物の様子は想像していただけると思います。

高さは21階で、ホテルプラザ(大阪の勤務先)よりやや低いだけですが、長年、風雨とスモッグに晒されてきた外観は見るからに煤けていて、日本のホテルのような華やかさはありません。

数多くあるニューヨークのホテルの中で、近代的なスマートさを誇っているのは、比較的最近建ったニューヨークヒルトンとアメリカ―ナぐらいです。

しかし建物が古くても内部は改装に改装を重ねていますから、それほど古さは感じませんし、設備についても一部の点を除いては、それほど近代的ホテルにひけをとってはいないようです。

この点は昨年欧米視察旅行を終えられた鈴木社長がプラザメイト(社内報)誌上でおっしゃられていた通りだと思います。

サービスの悪いニューヨークのホテル


ニューヨークのホテルについては、すでに皆さまお聞き及びでご存じだとは思いますが、一般的にサービスは極めて悪いようです。

常にフロントの前にはチェックイン客の長い列、フロントクラークのつっけんどんな態度、レストランのサービスの悪さ、etc, プラザの皆様には全く考えられないようなひどいサービスがごく平然となされています。

サービスをする方がする方なら、お客様の方も、まったくそうしたものに甘んじているようで、こうした状況の中でもお客様からのコンプレイン(苦情)は意外と少ないようです。

今のアメリカ人は、はっきり言ってサービスの味を忘れてしまっているようであり、またそのようなものは期待しても無駄だと、最初からあきらめきってしまっているようにもみえます。

そんな人たちが日本に行ってプラザのようなホテルに泊まると、そのサービスの良さを感嘆しないはずがないと思います。

そちらにいる時、外国人客がアンケートに、「すばらしいホテルだ。設備、サービスもさることながら、スタッフが特に素晴らしい」と書いているのをよく読みましたが、こちらへ来て、その外国人客の気持ちがよくわかるような気がします。

特にスタッフが良いというのは、アンケートの言葉を借りないまでも、事実だと思います。


こちらのホテルで働いている人たち(マネージメント部門は除く)は、はっきり言ってあまりレベルの高い人はいないようで、ウェイター、メイド、キャッシャー、ベルボーイなどのほとんどは学歴のない南米、プエルトリコなどから来た人で占められているようです。

私のいるフロントオフィスにしても、二十名ぐらいいるクラークの大半は、他に別の仕事を持っていたり、学校に通っていたりする人で、日本のように本当にホテルが好きで、将来を目指してその仕事を学ぶ、という姿勢は、こちらの人には見当たりません。

「パンのために働く」やや使い古された言葉ですが、そういう人があまりにも多いようです。

大学卒の人もそれほど珍しくなく、ほとんどの人が高校は出ているという日本のホテル従業員と比べて、スタッフの質という点で、アメリカのホテルは大きく差をつけられているようです。


キャリア30年のベルキャプテン


日本のホテルと比べて、こちらのホテルにはいろいろと変わった点がありますが、中でも面白いことは、お客様の荷物を運んだりするベルボーイのほとんどが、年配の人で占められており、日本のホテルのような二十歳前後の人がほとんどなのとはまるで対照的なことです。

そのベルボーイにも階級があり、それはユニフォームの袖についている星の数であらわされます。一つの星が5年を意味し、二つあれば10年、三つなら15年となり、あるベルキャプテンなど星が6つもついており、30年もこの仕事を続けているのです。

さすがにその人あたりになると、ベルキャプテンといえ大変貫禄があり、周りの人たちからも尊敬されています。

時にはステータスの高いアシスタントマネージャーとあまり変わらないぐらいの扱いを受けることもあるようです。

普通のベルボーイにしても、星が二つや三つ付いている人はざらにいて、星のついていない若い人を見つけるのは稀です。

年配のベルボーイというのは、ある意味では物知りで、落ち着きがあって大変良いのですが、フロントクラークにとってはなかなか扱いにくいものです。

特にチェックイン以外のことではあまり動いてくれないのには閉口します。

チェックインの時は、ほとんど固定給がない彼らにとって、それは必ず収入につながる、いわば飯の種なので、こちらが呼ばないまでもやってきますが、その他のこととなると、まるで動こうとはしません。

こういうのは外国人ルームクラークとしての私にとってはまことになりにくいことです。

それでもチーフクラークぐらいに言ってもらうと、ようやく動いてくれますが、その時間のかかることと能率の悪さはこの上ありません。



まだまだスマートさの足らない海外日本人旅行者


話は少し変わりますが、今や世界のどの主要都市に行ってもそうだと思いますが、ニューヨークもまたすごい日本人ラッシュです。

日本にいるとき海外旅行者が大変多いとは聞いていましたが、まさかこれほどとは思いませんでした。

ビジネスに、観光にと、私のいるスタットら―ヒルトンに来る人達だけでも、5月に入って連日200人は下りません。

距離的には日本に比べてずっと近いはずのヨーロッパのどの国をもはるかに抜いて、現地人(アメリカ人)に次いで2番目の多いのが日本人なのです。

その点、こちらのホテルで働いて給料をもらっていても、何か胸を張りたくなることがあります。どうだ、この日本の勢いは!と。 

でもこうして大量に日本からやって来る人を目のまえにしても、時には悲しくなることもあります。

というのは、最近はずいぶんスマートになってきたと言われる日本人旅行者も、私がこちらのホテルへ入ってから6か月間接してきた感じでは、まだまだ貧弱でやぼったい印象が強いからです。

これは何も体格や服装からばかり言うのではありません。例えば海外旅行は初めてという団体の人はともかく、ビジネスでこちらへきて、しかも一流会社の重要ポストにいるような人でも、ホテルについてチェックインをスマートに行える人は稀にしかいないようです。

たいていは、日本のものとさして変わらないレジストレーションカードをどう書くかわからなかったり、クラークから滞在期間やその他の質問を受けても、2~3度繰り返してもらわないと分からないようです。

もっともそうした人たちのために私のような日本人が雇われているのかもしれませんが、観光客ならいざ知らず、少なくともアメリカで何らかのビジネスをやるために来た人なら、やはりもっと堂々とした態度と、チェックインぐらいは簡単にこなせるスマートさがほしいと、私は常々思っています。

今やニューヨークの街のどの電気店の前を通っても、ソニー、パナソニックなどのスマートな電化製品が、こちらの製品を圧倒して陳列されている時代です。

今はこうした電気製品に反比例しているように見える日本人の海外での姿も、あと数年もすれば本当に洗練されたスマートな姿になることと、わたしは確信しています。

まだまだ書きたいことは山ほどありますが、それは次の機械に譲るとして、では皆様サヨウナラ。







2018年4月3日火曜日

これは知らなかった! ・ 警察官や自衛官は雨が降っても傘を差さない


警察官や自衛官は傘を差してはいけない、のは何故なのか?


何かの本に「中国人は戦争にも傘を持っていく」と書いてあったのを読んで笑ってしまったことがあります。

戦場という死地とも言われるような恐ろしい場所に赴くのに、傘という日常生活で使うものを持参するという能天気さが面白いからです。

今回のテーマはこの傘に関連したことです。

これは自身が自衛官の経験がある作家・浅田次郎氏がエッセイに書いていたことですからまず間違いありません。

氏のあるエッセイに「自衛官や警察官は雨が降っても傘を差さない」とありました。

読んだときは、警察官や自衛官と言えども同じ人間だから雨ば降れば濡れるのは同じことなのに、傘を差さないのはなぜだろう?と不思議に思いました。

でも、しばらく考えていると、何となくその理由が分かるような気がしました。

自衛官や警察官は、職務がら常に非常時を想定していないといけません。

非常時とは自衛官は戦争勃発時を、警察官は犯罪発生時を意味し、何時その場面に遭遇するかわかりません。

ということは常にその場面に備えておかなければならないのです。


傘を差さないのは、非常時の適切な行動のため


警察官や自衛官が非常時に備えるためには、身体が身軽でなければいけません。なぜなら、そうでないと非常時には俊敏な行動がとれないからです。

そのためには、手が自由に使えるように、できるだけハンズフリーの状態を保たなければなりません。

でも傘を持つと片手がふさがり、いざというときに両手が使えず行動が制約されます。

そうならないためには、たとえ雨が降っていても傘を持つことはできないのです。

というわけで、警察官や自衛官は、どんなときでも傘を携行しないのです。


「傘を差してはいけない」という法律があるのか?


では、警察官や自衛官には「傘を指しては行けない」というは法律で定められているのでしょうか。

これについては、法律ではありませんが、服務規程などの内規によって決められているようです。

具体的に言いますと、警察官や自衛官は職務上で着用できる衣類や装備品は職務規定によって決められていますが、その中に傘は入っていないのです。

以下がこれに関連する服務規程の内容です。

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(警察官の服務規程)

23 警察官は、制服等を着用した場合は、次に掲げる事項を守らなければならない。

(1)喫煙しながら、又はズボンのポケットに手を入れたまま歩行するなど、見苦しい態度をとらないこと。

() 職務上必要がある場合のほか、傘など職務に支障を及ぼすものを携帯しないこと。

() 公共の乗り物に乗車するときは、他の人を立たせて腰を掛けないこと。
      

2018年4月1日日曜日

トレンディ(trendy)でないと遅れているのか?



trendy・トレンディの意味

・最新流行の
・時代の先端をいっている

(例)トレンディーなファッション、トレンディーな街

                 (出典)デジタル大辞泉

トレンディでなければいけないのか?


トレンディは上の説明のように、流行をはじめとして、時代の先端について行くことを言います。

とはいえ、インターネットを中心にIT化が急速に進む今日では、時代の先端について行くのは簡単なことではありません。

それだけでなく、いわゆる時代の先端と言われることに対しては素直に受け入れ難いこともあります。

例えば昨年(2017年)に流行語大賞になったものに「インスタ映え」がありますが、個人的に言えば好きではありません。

流行語大賞ですからトレンディであるに違いありませんが、共感できなければ受け入れることはできません。

では、こうした受け入れを拒否する場合を、トレンディでないと言うのでしょうか? もしそうであるなら「それでけっこう」と開き直るしかありません。

流行語大賞でも分かるように、トレンディとは世の中の傾向を見て人が判断することです。

その判断が適当かどうか、正しいのか正しくないか、については誰もはっきりとは分からないのです。


グーグルトレンドでいま話題になっているトレンディなワードがわかる


ご存知の方は多いと思いますが、検索サイトグーグルにはグーグルトレンドというツールがあります。

これは、いまGoogleでどんな単語がどれだけ検索されているかという傾向をグラフで表しているもの20065に公開されました。

これには最新の検索ワードがランキングングの形で載っていますから、これを見ればいまどんな単語(言葉)が話題になっているのかが一目でわかります。

つまり居ながらにしてトレンディな言葉を知ることができるのです。


トレンディの対極にある語に注目


上述のようにトレンディとは流行の先端を行くことです。

では反対にトレンディでないとどうなのでしょうか。流行に遅れていることになるのでしょうか。

これを考えるためにはトレンディの対極にある言葉、つまり反対語を知ると良いでしょう。

トレンディの反対語としては、

時代遅れの
・ダサい
・すたれた
・定番の
・普遍的な
・古風な
・てっぱん

などが挙げられます。

上から三つは文字通りの反対語ですが、注目すべきは4番目以降の4つワードです。

これら4つには反対語にありがちなネガティブな響きはありません。

つまりトレンディが流行の先端であっても、そうでないことが遅れていることにはならないことをこれら4つの言葉が表しているのです。

例えばこう言い表してみればよくわかります。トレンディの最新のファッションに対して、

・定番のファッション
・普遍的なファッション
・古風なファッション
・てっぱんファッション

とうふうになり、ネガティブな感じはまったくありません。

ということはトレンディでなくても遅れているとは言えないのです。


トレンディでなくても遅れているとは言えない


例えば洗練されている、という言葉を考えてみてください。

この言葉の反対語はダサい、とか、野暮ったいとか田舎臭いなどになり、いずれもマイナス要素を含んだネガティブな言葉ばかりです。

したがってこうした人は世間から疎んじられる対象になります。

一方トレンディの反対語の方はどうでしょうか。

上述したように数多くあるもののうち、定番、普遍的、古風、てっぱん、などに限って言えば、洗練去れているの反対語のようなネガティブな響きはまったくないのです。

したがってトレンディでないことは、必ずしも遅れていることにはならないのです。


トレンディな人は新しもの好きのおっちょこちょいか


トレンディは最新流行の、とか、時代の先端を行く、などの意味ですが、いずれも普遍的なものではなく、時の流れとともに変化しているものです。

言い換えれば一時期だけの傾向ということもですます。

ということは、いずれ変わっていくことですから、気に沿わなければ無理して採り入れなくても良いのです。

上述したようにトレンディでなくても遅れていることにはならないのです。

流行の先端を行っていると言われたいばかりに、トレンディに振り回されている人はひょっとすればオッチョコチョイなのかもしれません。