前回までのあらすじ
本部社員の間で広がっているというH市の塾講師に関するとんでもなく不謹慎な噂について、真相解明に乗り出した砂田文夫は、当事者の一人南三枝が事情聴取の席で口にした本部社員浅田と木島の名前。その二名について木島はともかく浅田の方がなぜか脳裏に残って離れなかった。それもそうだろう。この浅田とH市の講師の間には少なからずの遺恨があったからだ。ここ最近だけ見ても、浜岡康二と南三枝が本部でのサマーキャンプの打ち合わせ会議出席のため、新幹線乗車券の手配に当たったのが浅井だが、隣り合った席が取れなかったと言って、なんと別々の車両の席を取っていたのだ。これについて砂田は、まだ2週間前なのにそんなはずはないと、難なく隣り合った席を取り直したのだ。それに幾度となく聞いた南三枝の話では、浅田はH市にある塾のスーパーバイザーという立場をいいことに、月に1度は必ずH市の塾を巡回しており、その際は必ず南三枝が担当する教室にやってきて、あれこれうるさいほど指示するだけでなく、業務終了時には、「仕事の話があるから付き合ってくれ」と、南三枝が断ったにかかわららず、しつこく付け回す、まるでストーカーのような行為を繰り返していたのだ。それだけではない。H市の塾の1周年記念祝賀会の席での浜岡康二との激しい口論もあったではないか。ひょっとして今回流された噂は、申し出を断られた南三枝と、激しい口論の末、浜岡康二にスーパーバイザーとしての面目を傷つけられた事に対する復讐なのではないだろうか。二人の失脚をも狙って。
6
我ながらよくもあれだけ冷静な処置ができたものだ。文夫が後々までそう思ったあの事故に遭遇したのは、祝賀会の二日後の月曜日の朝だった。
祝賀パーティの席で、浅井と講師たちの間でちょっとしたトラブルがあったものの、文夫としては、その年最後の教室をやっと開設まで辿りつかせることができて、それに生徒数も第一段階の目標である500名を突破こともあって、久しぶりに満足感に満ちたゆったりとした気分で日曜日を過ごし、さあ年度末にもうひとふんばりだ、と気合を込めて出勤したあの朝のことだった。
その頃の文夫は、いつも九時少し前に事務所へ着いていた。事務員の沢井多恵は九時十分ぐらいにやってくるので、事務所へはいつも文夫が一番に入っていた。
その朝、入口の鍵を開けるときはまだ気づかなかった。顔に異様な圧力を感じると同時に猛烈な勢いでガスの臭いが鼻先に迫ってきたのは、ドアを開けて部屋に一歩踏み込もうとしたときだった。
いや、匂うなんてものではなかった。これまで嗅いだことのないような凄く濃厚なガス臭がブワッと顔に吹きつけてくるような、それほど強烈なものであり、文夫はとっさにポケットのハンカチを取り出して口を覆った。それからとった一連の行動を後で思い出したとき、我ながら心底ゾッとした。
ガスだ! そう思ってハンカチで口を覆った直後、文夫はもう部屋の中へ入ってガス器具のほうへ走っており、ガス栓を閉めると、今度は道路側の四つの窓を全部開け、その後すぐに外へ飛び出した。入ってから出るまで、僅か二~三十秒、その間ハンカチで口を覆ったまま、まったく息ををせず、まるで生きた心地がしなかった。
階段を駆け下りて外へ出て、やっと口からハンカチを外して大きく息を吸い込んだが、まだ何がなんだかさっぱり分からなかった。
ガス栓はいっぱい開かれていて、火のついていないストーブからシューシューと音を立ててガスが噴出していた。
いったいこれはどうしたことなのだろうか。なぜこんなことが?そう考えるのが精一杯で、それ以上のことには考えが及ばなかった。
文夫にしても、事務員の沢井多恵にしても、火の元には普段からじゅうぶん気をつけている。
土曜日の退室時に栓を閉め忘れるようなことは断じてない。
混乱した頭はまだ納まっていなかったが、文夫は二日前の土曜日の退室時のことを思い出そうとした。
あれは夕方六時頃だったか、「塾長、そろそろ時間ですね」と沢井多恵が言い、「そうだな、そろそろ出かけようか、歩いていけば丁度いい時間だろう」と文夫が答え、「塾長、すみませんががストーブの栓お願いします」と、ストーブから比較的近いソファに座ってその夜の祝賀バーティの予定表に目を通している文夫に多恵が言ったのだ。
あのとき、「ああいいよ」と応えてすぐ腰を上げ、まずストーブのスイッチを閉にして、それから二~三歩歩いてガスの元栓を閉めたはずだ。いや、はずではない。二つとも確実に閉めたのだ。
そのときの指の感触だっていまだに思い出せる。それからドア近くにあるロッカーからう上着を取り出し、既に外で待っていた多恵とともにパーティ会場へと向かったのだ。
そして昨日は日曜日。誰も事務所へはやってこない。なのにどうしてガスの栓が開いていたのか。泥棒だろうか? 盗みに入ったものの、お金もその他のめぼしい物が何もなかったので、腹いせにやったのだろうか?
いや、そんなことはないだろう。さっきチラッと部屋を見たけど、別に物色された形跡はなかったようだし。とすればいったい誰が?
文夫は歩道のイチョウの木に背をもたせかけ、ときおり顔をあげて四階の事務所に目を向けながら、つい今しがたの動転した気持ちから、やや落ち着きを取り戻して、この思いがけない事故について、あれこれ考えていた。
「塾長、どうされたんですか。そんなところにボンヤリ立って」
斜め後ろのほうからふいに聞き覚えのある声がして、振り向くと沢井多恵が、すがすがしさの中に少し怪訝そうな表情を浮かべて立っていた。
「ああ沢井くん。 よ、よく来てくれた」
「よく来てくれたなんて、おかしいですわ、塾長。今はいつもわたしが出勤してくる時間ですよ」
「そ、そうだったね。いや、さっきまで気が動転していたもので、つい」
沢井くん、実は大変なことがあったんだよ。ほら四階の事務所の窓を見てごらん。ドアを全部開け放っているだろう」
「えっ、ええ。でもどうしてなんですか?」
文夫に促されて四階を見上げたあと、多恵がさっきより更に怪訝そうな表情で尋ねた。
「ガスだよ。ガスが充満していたんだよ。部屋いっぱいに」
「ガスが? それガス漏れなんですか?」
「ガス漏れなんてものじゃない。栓が完全に開け放たれていて、ぼくが部屋に入ったときはシューシューと音を立ててすごい勢いで噴出してたんだよ」
「ど、どうしてそんなことが」
多恵の顔は怪訝な表情から驚きの表情に変わっており、それだけ言うと、睨むように文夫の顔を正面からじっと見た。
「どうしてそんなことが、そうなんだ。ぼくもさっきからそのことばかり考えていたんだ。土曜日に君と事務所を出る前、君にたのまれてぼくがストーブのスイッチとガスの元栓を閉めたね。それは出る前に君も確認しているはずだ。それでもガスの栓が開いていたということは、土曜の夜から今朝までの間に誰かが事務所に入ってガスの栓を開けたんだ。乱れていない部屋の様子からして泥棒ではない誰かが」
「でも塾長、いったい誰がそんのことを」
驚きの表情から今度はしかめ面に変わって、今にも泣き出しそうな声で多恵が言った。
「それなんだ。ぼくもさっきからそればっかり考えていたんだ。 誰が、いったい何の恨みで?」
つづく
次回 5月29日(木)