2023年12月28日木曜日

エンタメ小説の書き出し2000字 シリーズ1~8  全8回 16,000文字 一挙掲載


書き出しの2000字を読むだけで

「面白いか否か」「読まれるかどうか」「売れるか、売れないか」

がわかる



(その1)


編 む 女


 「くそっ、あのカップルめ、うまくしけ込んだもんだ」


 前方わずか4~5メートル先を歩いていたすごく身なりのいい男女が、スッとラブホテルの入り口の高い植木の陰に隠れた時、亮介はさも羨ましそうにつぶやいて舌打ちした。


 「あーあ、こちらがこんなに苦労しているというのに、まったくいい気なもんだ」と、今度はずいぶん勝手な愚痴をこぼしながら、なおも辺りに目を凝らして歩き続けた。


 亮介は、これで三日間、この夜のの街を歩き続けていた。

 はじめの日こそ、あの女め、見てろ、その内に必ず見つけ出してやるから、と意気込んでいたものの、さすがに三日目ともなると、最初の決意もいささかぐらつき始めていた。 時計は既に十一時をさしており、辺りの人影も数えるほどまばらになっていた。

 この夜だけでも、もう三時間近くも、この街のあちこちを歩きまわっていたのだ。


 少し疲れたし、どこかで少し休んで、それからまた始めようか、それとも今夜はこれで止めようか。 亮介は迷いながら一ブロック東へ折れて、すぐ側を流れている淀川の土手へ出た。 道路から三メートルほど階段を上がって、人気のないコンクリートの堤防に立つと、川面から吹くひんやりとした夜風が汗ばんだ両の頬を心地よくなでた。


 「山岸恵美」といったな、あの女。城南デパートに勤めていると言ってたけど、あんなこと、どうせ嘘っぱちだろう。でも待てよ、それにしてはあの女デパートのことについて、いろいろ詳しく話していた。とすると、今はもういないとしても、以前に勤めたことがあるのかもしれない。それとも、そこに知り合いがいるとか。ものは試し、無駄かもしれないけど、一度行ってみようか。そうだ、そうしてみよう。なにしろあの悔しさを晴らすためだ。これきしのことで諦めるわけにはいかないのだ。


 川風に吹かれて、少しだけ気を取り戻した亮介は、辺りの鮮やかなネオンサインを川面に映してゆったりと流れる淀川に背を向けると、また大通りの方へと歩いて行った。


 それにしてもあの女、いい女だったなあ。少なくともあの朝までは。

 駅に向かって歩きながら、またあの夜のことを思い出していた。

 とびきり美人とは言えないが、あれほど男好きのする顔の女も珍しい。それに、やや甘え口調のしっとりとしたあの声、しかもああいう場所では珍しいあの行動。あれだと、自分に限らず男だったら誰だって信じ込むに違いない。


 すでに十一時をまわっているというのに、北の繁華街から川ひとつ隔てただけの、この十三の盛り場には人影は多く、まだかなりの賑わいを見せている。それもそうだろう。六月の終わりと言えば、官公庁や大手企業ではすでに夏のボーナスが支給されていて、みな懐が暖かいのだ。 「ボーナスか、あーあ、あの三十八万円があったらなあ」


 大通りを右折して阪急電車の駅が目の前に見えてきた所で、亮介はそうつぶやくと、また大きなため息をついた。

 一週間前のあの日の夜も、亮介はこの十三の街へ来ていた。貰ったばかりの三十八万円のボーナスを背広のポケットに入れて。

 でも、五時過ぎに職場を出て、環状線の駅に向かう時は、そうなることは露ほども予想していなかった。


 今日は梅田の行きつけのビアホールで一杯やったら、そのままアパートへ帰ろう。 歩きながら、はっきりそう考えていたのだ。それがいったいどうしたはずみで、この十三の街へ来てしまったのだろう。堺の自分のアパートとはまるで反対方向だというのに。   

 そうだ、あの人が悪いんだ。あの内田さんが。


 亮介は六時前にそのビアホールに着いて、いつものようにカウンター席に座って、揚げたてのソーセージを肴に生ビールのジョッキを傾けていた。その店のチーフ早見さんが側に来て、「ボーナス多かったですか?」と聞き、「まあね」と、亮介が答えた。


 三日前にこの店に来た時、客が少なかったこともあって、この早見さんとは一時間位も喋っていた。 「大企業はいいですねえ。六月にボーナスが貰えて。僕のとこなんか二ヶ月も遅い八月ですからねえ。おまけに額も少ないし、それに比べりゃあ橋口さんのところはいいですねよ。大手資本系列のホテルだし。さぞたくさん貰えたんでしょうねえ」

 早見さんはそんなふうに言って、ちょっと首をかしげて、拗ねるような表情を見せていた。


 実際のところ、亮介もこの日貰ったボーナスの額にはかなりの満足感を抱いていた。前々から、夏のボーナスの支給額は二.五か月分だと聞いていたので、十五万五千円の給料だと、税引きの手取りは三十二~三万てところか、そんなふうに皮算用していた。それだけに、実際に受け取った三十八万六千円という金額は以外であり、また、うれしくもあった。 このところの仕事ぶりを認めてくれたのかな。 

そう思って、普段は口やかましいだけの、課長の南に、この日ばかりは感謝した。


 亮介は今年二十四歳。 堂島川に沿った北区中島のSホテルの営業マンになって二年ちょっとたつ。 彼にとって、今回のボーナスは入社以来四度目のものだった。

 この調子だと冬は四十万は軽く越えるな、よし、仕事の方これからも手を緩めずにがんばろう。ジョッキを傾けながらそんなふうに考えていた時だった。


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エンタメ小説の書き出し2000字 シリーズ1~7


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「面白いか否か」「読まれるかどうか」「売れるか、売れないか」

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(その2) 


ナイトボーイの愉楽

 

いつもなら道夫は梅田のガード下でバスを降りて、そこから職場のある中島まで歩いて行く。でもその夜は阪神百貨店の前で南へ向かう路面電車に乗ることにした。

 始業まであと十二~三分しかなく、歩いてではとうてい間に合わないと思ったからだ。


 商都大阪にもその頃ではまだトロリーバスとかチンチン電車が走っており、今と比べて高層ビルもうんと少なく、街にはまだいくばくかの、のどけさが残っていた。

 これは道夫がちょうど二十になった時の昭和三十七年頃の話である。


 電車は時々ギイギイと車輪をきしませながら夜の街を随分ゆっくりと走っているようであったが、それでも五分足らずで大江橋の停留所へ着いており、歩くより三倍位は速かった。電車を降りて、暗いオフィス街を少し北に戻って最初の角を右に曲がると二つ目のビルに地下ガレージ用の通路があって、それを通るとNホテルの社員通用口には近道だ。


 始業まであと三分しかない。ロッカールームで制服に着替える時間を考えると、どのみち間に合わないとは思ったものの、この際たとえ一分でもと、そのガレージの斜面を小走りに下って行った。そのせいか、タイムカードに打たれて時間は九時五十九分であやうくセーフ。でも地下二階のロッカールームで制服に着替えて職場のある一階ロビーまで上がって来た時は、十時を七分も過ぎていて、ちょうど昼間のボーイとの引継ぎを終え、まるで高校野球の試合開始前の挨拶よろしく、向かい合った二組のボーイ達が背を丸めて挨拶している時だった。


 まずいなこりゃあ 引継ぎにも間に合わなくて。今月はこれで三度目か。リーダーの森下さん怒るだろうな。 道夫はそう思ってびくびくしながら森下が向かったフロアの隅にあるクロークの方へ急いだ。


 森下はクロークの棚に向かって、その日預かったままになっている荷物をチェックしていた。

 「浜田です。すみません、また遅刻して」 道夫は森下の背後からおそるおそる切り出した」


 「浜田か。おまえ今日で何度目か分かっているのだろうな」

 「はい。確か三度目だと思いますが」

 「そうか。じゃあこれもわかっているだろうな。約束どおり明朝から一週間の新聞くばり」

 「ええ、でも一週間もですか? そりゃあちょっと」

 「この場になってつべこべ言わないの。約束なのだから」


 道夫はつい一週間前も二日連続で遅刻して、罰として三日間、朝の新聞くばりをさせられたばかりだ。そしてもし今月もう一回遅刻したら翌朝から一週間それをやらせると、この森下に言われていたのだ。


 あーあ、また一週間新聞くばりか。 想像するだけで気持ちがめいり、そう呟くと森下の背後でおおきなため息をついた。


 夜の十時から朝の八時まで勤務するナイトボーイ達にとって、早朝のこの新聞くばりほどキツイ職務はない。オフシーズンで客室がすいている時ならまだしも、今のような四月の半ばだと、三百室ほどあるこのホテルの客室は毎日ほとんどが詰まっている。

 その客室のすべてに新聞を配って歩くのだ。森下リーダーを除く八名のボーイが毎日二名づつ当番で当たっており、普通だと三~四日に一回の割でまわってくる。


 まだ半月しかたっていないというのに、遅刻の罰の分も含めて道夫は今月もう六回も当たっていたのだ。それをさらに明朝から一週間もやらねばならないのだ。

 でも仕方ないか。それを承知で遅刻したのだから。そう思いながら立ち去ろうとした時、森下が言った。


「浜田、まあそんなにくさるな。もしお前が明日からしばらく遅刻しなければ最後の二日ぐらいはまけてやってもいいから」 

 「えっ本当ですか。しませんよ絶対に。じゃ五日間でいいのですね」

 少しだけ気持ちが軽くなった思いで、さっきより明るい声で答えた。

 「まあそれでいいけど。ただしお前が明日から連続五日間一分たりとも遅刻せず出勤した時に限ってだよ。いいね。 おいそれより仕事、仕事、ほらチェックインのベルが鳴っているじゃないか」 


森下のその声に促されて、振り返ってロビー手前のフロントカウンターの方を見ると、フロント係の上村さんがボーイを呼ぶベルをせわしげに押していた。

 「あれっ、誰もいないのだな。行かなくちゃ」 いつもならチェックイン担当として、ロビーには四~五人のボーイが待機しているのに、この時はみな出はらっていて、道夫以外は誰もロビーにいなかった。


「森下さん、じゃあ僕行きます。どうもすみませんでした」

 森下に向かってピョコンと頭を下げた道夫は、フロントカウンターの方へと小走りに進んでいった。カウンターの前で待っていたのは新婚らしい若いカップルとビジネスマン風の中年白人の外国人男性だった。上村さんは先客カップルの方のルームキーを道夫に渡した。


 「お待たせしました。お部屋の方へご案内いたします」 そう言ってそのカップルに向かって深々とお辞儀をした後、両手に荷物を持ちエレベーターへと向かっていった。

 背後に二人を従えて歩きながら思った。 しめしめ、最初のチェックインの客が新婚カップルとは、今日はついているぞ。この二人だとチップも千円は下ることはないだろう。

 頭の中に過去のデータを思い浮かべながら、そんな皮算用してほくそ笑んだ。


 およそこうした都市ホテルの客の中で、日本人の新婚カップルほで気前のいい人種はない。旅慣れたビジネスマンだと五百円までがいいとこのチェックインのチップだが、新婚客だと、部屋に荷物を持って案内するだけのこの簡単な仕事に、千円や二千円はざらに奮発してくれるのだ。それどころか、先月などは三千円というのが三回もあった。


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エンタメ小説の書き出し2000字 シリーズ1~8


書き出しの2000字を読むだけで

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(その3) 


直線コースは長かった


 桜も散り青葉が目にしみる五月に入ったばかりの月曜日のその日、

外には爽やかでこの上なく心地よい春風がふいているというのに、久夫は退社時の夕方になっても、まだむしゃくしゃした気分をもてあましていた。

   

「ちくしょう、あのパンチパーマの野郎め!」


事務所を出て、いつものように駅前のバス停に向かって歩きながらまたこみ上げてくる新たな悔しさから、腹の底から呻くような声でそう呟いた。


ついこの前までは丸裸だった歩道のイチョウの木には、いつの間にかまた青々とした葉が生い茂っており、いつもなら延々とつづくそのイチョウの並木を感慨深く眺めて歩く久夫だが、その日だけはそれもとんと目に入らなかった。


 それにしてもうまく引っ掛かったもんだ。どうだろう、あの見事な騙されぐあいは、いったいあんなことってあるのだろうか?

バス停へ向かう道を半分くらいあるいたところで、昨日の競馬場での出来事をまた苦々しく思い出していた。


その日曜日も空は澄みわたっており、風は爽やかだった。

駅前から北へ向かい、街並みが少しだけとぎれて、自衛隊の駐屯所があり、そのちょっと手前に競馬場はある。久夫がそこへ着いたのは昼少し前で、ちょうど場内アナウンスが第二レースの発走まであと五分だと伝えていたときだった。


去年本社のある大阪からこの町の支店に赴任してきて、ここへ足を運ぶのは二度目のことだった。久夫は競馬にかぎらずギャンブルはあまり好きなほうではない。それなのに日曜日のこの日、昼前からここへやってきたのは、朝起きてベランダへ出たとき、空があまりにも青く澄みわたっており、吹く風がこの上なく爽やかだったからだ。つまり、心地よい春の風に誘われてというわけなのだ。


でも、正直いうとそれだけが理由ではない。三ヶ月ほど前、職場の同僚に誘われて、さして気の進まないままここへやってきて、よくわからないまま当てずっぽうで買った第七レースの穴馬券が見事的中して、千円券一枚が九万四千円にもなったのだ。その後のレースで一万円ほど負けたが、その日の儲けは八万円以上あった。


空の青さと風の爽やかさに誘われてやってきたと言えば聞こえはいいが、実のところ、あの日の甘い汁の味も忘れられなかったからなのだ。


入場ゲートを入って観覧席の方へ向かう長い通路を歩きながら久夫は思った。ポケットの五万円、帰るまでにはなんとか倍の十万円にはしたいな、この前のような大穴が当たることはないだろう、所詮あれはビギナーズラック、今日はかたそうな馬券ばかりねらって一レースずつ確実に増やしていこう。それだとこの元手を倍にするのもそう困難なことでもないだろう。


帰りにはこの五万円が十万円になっているか、悪くないな。そうだ、五万円勝ったら今夜またあの店へ行ってみよう。〈涼子〉といったなあの娘、まだいるだろうか? それにしてもあの夜はラッキー続きだったもんだ。


観客席に向かって歩きながら、八万円勝ったあの日の夜のことをさも楽しげに思い出していた。


魚屋町は駅前の大通りを少し北へ進み、最初の交差点を渡ってから三本目の筋を左折したところの一帯にあるこの地方最大の歓楽街だ。半径三百メートルほどのこの一画だけでも、飲食店の数が三千店弱で、人口五十万の都市にしてはなんとも大きな数ではないか。


久夫は、酒は好きなほうだったが、普段はこの街にはあまり出入りしなかった。安月給の身にとって、この街のほとんどの店は懐具合からみて、いささか敷居が高かったからだ。学校回りの教材のセールスマンになって今年で三年、まだ青二才の久夫が日頃よく行く店といえば、駅前の地下にある安スタンドか、路地裏の赤ちょうちんであり、一回の勘定が三千円を超えないところ、この数年間ずっとそうだった。でも競馬で八万円勝ったその夜は違っていた。


 さてどこへ入ろうか。その街の中ほどまで来たところで久夫は立ち止まってぐるりと辺りを見渡した。三ヶ月ほど前に来た〈ダート〉という店、確かこのあたりのはずだけど、いや待てよ、もう一本向こうに筋だったかなあ。歩いていてふと思い出したその店に行こうときめ、場所もうろ覚えのそのスナックを探して歩いていた。


二月の終りで、まだ時折冷たい北風が吹いているのに、久しぶりに踏み込んだこの街を行き交う人の数は思ったより多く、辺りはかなりの活況を呈していた。やはり今の世の中景気がいいんだろうか?バブルとか何とかで。


次の筋を左に折れると、すぐ左手に見覚えのある茶色っぽいレンガ造りのビルがあった。ああ、あそこだ。確かあの四階だったな。ビルの中へ入り、壁に貼った案内板で念のためフロアを確認してからエレベーターに乗ってボタンを押した。

ダートというあの店の名、ひょっとして競馬のダートと同じ意味なのだろうか。


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エンタメ小説の書き出し2000字 シリーズ1~8


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(その4) 


下津さんの失敗

    ナイトボ-イの愉楽(part2)


 

 浜田道夫が二十一歳になったその年の七月は何年に一度かというような、すこぶる涼しい夏で、月の終りになっても熱帯夜だとかいう、あのむせかえるような寝苦しい夜はまだ一度もやってきていなかった。

 もっとも週のうち六日間を快適な全館冷房のホテルで過ごす道夫にとっては、その熱帯夜とかもさして気になる代物でもなかったのだが。

 とにかく涼しい夏で、巷ではビアガーデンの客入りがさっぱりだと囁かれていた。


 そんな夏のある夜のこと、道夫は例のごとくまたエレベーター当番にあたっていて、切れ目なくやってくる客を乗せては、せわしげにフロアを上下していた。


 あと十分もすればその当番も終りになる十一時少し前になって、それまで間断なく続いていた客足がやっと途切れ、ロビーに立ってホッと一息ついた。


 エレベーター前から広いロビーを見渡すと、人影はもうまばらでフロント係がボーイを呼ぶチーンというベルの音だけがやけに周りに響きわたっていた。

 十一時か、チェックインあとどれぐらい残っているんだろう。今夜はしょっぱなからエレベーター当番で、まだ一度もあたっていないんだ。十二時まであと一時間の勝負か。たっぷりチップをはずんでくれるいい客に当たるといいんだけど 

所在なさそうにロビーを見渡しながら胸の中でそうつぶやいた。


 二~三度連続して気前のいい新婚客にでも当たらないかなあ。

 またそんな虫のいいことを考えながらさらに二回エレベーターを上下させ、一階に下りてきたときは十一時を三分ほどまわっていた。待っているはずの次の当番、下津の姿はまだなかった。


  「チェッ、下津さんまだ来てない。二~三分前に来て待っているのが普通なのにほんとにあの人はルーズなんだから、来たら文句のひとことふたこと言ってやらなければ」 

そうつぶやいてまた時計に目をやり、道夫が少しいらつき始めた十一時六分すぎに、やっと下津がもう一台のエレベーターから降りてきた。


 「オッ、すまんすまん浜田、さっきチェックインに当たった新婚客が大阪の観光についてねほりはほり聞くもんで、つい説明に手間どってしまって、本当にすまんな、明日仕事が終わったらコーヒーでもおごるからな」 下津に先まわりされてそう言われ、結局ひとことの文句も言えず、「いいですよ」と心にもない妥協のセリフを残すと、そそくさとロビーの方へ歩いていき、入り口ドアの前の待機場所へ戻ると、そこへいた後輩の小山とともにチェックインの客を待っていた。


二~三分たってから、まず身なりのいい中年の日本人男女、続いてビジネスマン風の浅黒い色をした外人男性の二人ずれと、相次いでタクシーから降りてきた。


 「浜田さん、今日まだチェックインに当たってないんでしょう。あの二組の客のうちどちらがいいですか?まず浜田から先に選んでいいですよ」 客を値踏みしながら小山が殊勝なことを言った。


 「オッ、そうか。すまんな小山、じゃあ先に入ってきたきた日本人の方」

 「やっぱりねえ、そうだと思いましたよ。あの中年のカップル、身なりはいいし、なんとなく夫婦には見えないし、チップをはずむタイプのですよ、あれは」

 「どうかなあ、でもそうだと嬉しいよ。もっともあの中近東系の二人の外人よりはどう見ても脈がありそうだけどな」 肘で小山のわき腹あたりをつつきながら小声で答えた。


 間もなく鳴ったチーンという音で、「じゃあな」とひと言残し、道夫の方が先に動いた。

 フロントカウンターの前まで進み、「いらっしゃいませ」と普段よりずっと深々とカップルに向かって頭を下げ、フロント係から鍵を受け取り男の客のやや大型の旅行カバンを手にすると、二人を先導してゆっくりとエレベーターへ向かった。


 それにしてもこの二人、どうゆうカップルなんだろう? 

 ついさっき交代したばかりの下津の運転するエレベーターの中で、胸の部分が大きくカットされた黄色の派手なワンピース姿の女性の方へチラッと目を向けながら思った。


 男の方は五十歳ぐだいだろう。白っぽいスーツがバリッと決まっていて、なかなか貫禄があるな。女とは二十歳ぐらいも違うみたいだし、やはりこの二人夫婦じゃない。


 「十一階です。どうぞ」 エレベーターが止まり、下津が客に会釈しながら言った。

 カップルが降りて、道夫も荷物を持ってすぐしたがった。降りぎわに下津が道夫の肩にそっと触れてニタッと意味ありげな笑みを浮かべた。下津がなにを言いたいのかわかっていた。


 彼もこういうカップルのチェックインが大好きなのだ。

 彼はつい三日ほど前にも道夫にこう話していた。 

 「なあ浜田、チップはその日の運ということもあるけど、腕の良し悪しも大きいよ。例えばよくある夫婦らしくないカップルのチェックインに当たった時だ。客としては例え相手がボーイだとはいえ、浮気現場を見られているようなもんだから、なんとなくオドオドしていて、態度がぎこちない。まずこのぎこちなさを解かなければいけないんだ。こんな客を前にした時、俺はできるだけ明るく振舞う。そしてカップルの女性の方に向かって



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(その5)


紳士と編集長

 

 その初老の紳士が話しかけてきたのは、僕が駅前バス停前の、地下街入り口のコンクリートの囲いにもたれて、その月発刊されたばかりの雑誌の目次に目を通している時だった。おおかたの月刊雑誌と同じサイズでA5版のその雑誌は、厚みこそ週刊誌並ではあったが、〈リベーラ〉という名前にどことなく知的な雰囲気を漂わせていて、目次を読む段階ですでに僕をすっかり魅了していた。

「あのすいませんが」

その紳士はセリフこそ月並みであったが、すこぶるトーンのいい上品な声でそう話しかけながら僕のすぐ横に立っていた。

「はい。なんでしょうか」

クリーム色の薄手のスーツを粋に着こなしたその身なりのいい紳士にチラッと目をやって、わずかな警戒心を抱きながら、僕もまた月並みの返事をした。

「今お読みのその雑誌、今月発刊されたばかりのリベーラですね」

「ええそうですが、それがどうか」

警戒心は少ないものの、見ず知らずの人からの思わぬ質問に、やや当惑気味にそう答え、あらためてその紳士に視線を送った。

六十を少し超えているだろうか、頭髪はほば半分くらい白く染まっているが、黒とまだらになったその髪が妙に顔立ちとあっていて、それがこの人の風貌をより魅力的に見せていた。

「いかがですかその雑誌。おもしろいですか?」

さっきより少し表情をくずして紳士がまた聞いた。

「ええまあ。中身はこれからですが目次を読んだかぎりではなかなかおもしろそうですね。それにこの表紙とか装丁とかもこれまでのものにないユニークさもっていて」

何者かはわからなかったが、そこはかとなく上品さを漂わせているその紳士に、僕はもうすっかり警戒心を解いていて、思ったまま正直に感想を述べていた。

「そうですか。それを聞いてわたしも大変嬉しく思います。実はこの雑誌なんですが」紳士がそう言って次の言葉をつなごうとした時、目の前に僕の乗るバスがやってきた。彼はどうやらそのバスでないらしく、それに乗るんですかと、問うようなまなざしで

僕を見ていた。

「では僕はこのバスに」そう言いかけて、バスの方へ一歩踏み出してから思った。 

どうしよう、あの人まだ何か話したそうだし、このままこれに乗ってもいいものだろうか。バス一台遅らせて話を聞いてみようか。でも次のバスまで三十分もある。今日は少し疲れているし、さらに三十分も待つのキツイな、やっぱりこれに乗ろう。あの人にはまた会えるだろうし、話は次に機会に聞けばいいんだし。

そう結論を出して、今度は彼に向かって会釈しながらはっきり言った。

「あのう、僕このバスに乗りますから、いつもだいたいこんな時間にここから乗りますので、また次にお会いしたときに」

僕のその言葉に、彼は少し名残惜しそうな表情を見せたが笑顔はくずさず、「はい。じゃあその時に」と言って、ゆっくり頭を下げていた。

バスが発車して駅前を左の折れてからも、まだその紳士のことが気になっていた。  「実はこの雑誌なんですが」で途切れた、いや途切らさせてしまったあの言葉、いったい後にどういうことが続くのだったんだろうか?それにしても全身に漂わせいたあの上品な雰囲気、人口六十万のこの地方都市にだって、あの歳のあんな人はめったにいるもんではない。ああ言って別れたんだから、近いうちにまた会えるには違いなきけど、こんな気持ちになるんだったら、例え三十分待つにしても次のバスにして、話の続きを聞けばよかったのかも。

そんな後悔じみたことを考えながら、ふと気がついて手にしたままのリベーラの表紙をまじましと眺めていた。

その次の日、昨日とほぼ同じ時刻にバス停にやって来て、今度はスタンドで買ったスポーツ紙を読みながら立っていた。十分ほど待って昨日乗ったバスがやって来て、ぼく以外の数名を乗せて発車した。そこへ行く前から、今日はたとえ一~二台やり過ごしてもあの人の話を心ゆくまで聞いてみよう。と決めていただけに、次のバスを待つことになんだ苦痛めいたものは感じなかった。でもそれにも限度があった。そこでおおかた三十分ちかく立っていたのに、いっこうに昨日の初老の紳士が現れるけはいはなく、僕は少しソワソワしはじめていた。昨日、別れ際に確かに言ったはずだ。「いつもだいたいこの時間にこのバスに乗りますから、お話は次にお会いしたときに」と、そして彼も「はい。じゃあその時に」と答えていた。

それを今日だと思うのはこちらの勝手なんだけど、でもまあいいか、もし今日会えなければまた明日ということもあるんだし。

まそんなふうに考えながら、昨日は話の腰を折って、自分の方から先にバスに乗ってしまったというのに、一夜明けただけの今日は、その話の続きを聞くために、今度はあっさりバスをやり過ごしてまで、くるという何の保証もないのに彼のことを熱心に待っている。そんな自分が我ながら滑稽に思えてきて、思わずニタッとした照れ笑いを浮かべると、それをスポーツ紙の紙面に投げかけていた。


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(その6)


1970 ・ 進次と和子の青春グラフィティ              

               

その冬の正月三日、終着駅の大阪まで帰るはずだったのに、どうした訳か進次は神戸の三宮で降りていた。すでに午前0時を過ぎているというのに、降車ホームは帰省から帰る人々であふれており、出口へ向かう通路も押しあいへしあいで随分ゆっくりとしか進まないせいか、右手に二つ、左手に一つの荷物の重みが次第にずしっと肩にかかってきた。

 「重たいでしょう、私ひとつ持ちましょうか」かたわらを小さな手提げカバン一つ持って歩く女が恐縮そうに言った。

 「いいですよこれくらい、これでもぼく男ですから」

力にはからっきし自信がないはずなのに、進次は見栄を張ってそう答えた。

 その女とはほんの三十分ほど前に知り合ったばかりであった。

 座席がなく、出口に近い通路に立っていた進次のすぐ横に、その女も窓の方を見ながら立っていた。

 ―三つぐらい年下だろうか、いや二つかな― ときおり横目で観察して、そんなふうに考えながら、進次はしきりに話しかけるタイミングを計っていた。

 確か姫路を過ぎた頃であったろうか、列車がガタッと左右に大きく揺れて、進次と女の身体が窓の方に大きく傾いて、お互いが体勢を整えたすぐ後で、弾みでなのか目と目が合った。

 「よく揺れますね、この列車」 女がまた窓の方へ向き直ったとき、その横顔を遠慮がちに眺めながら進次がはにかみ口調で言った。

 「えっ、ええそうですね」不意に声をかけられたせいか、女は少し戸惑いを見せながら、チラッと進次の方を振り向いて答えた。

 ―さっき思ったとおり、やはりこの人ぼくより二~三歳年下に違いない。口紅はうっすらと塗ってはいるが、それ以外は化粧をしている様子もない。ほっぺたがつやつやと光っており、まるで少女のように染まっているではないか。そにれ、さっき返事をしたときも、このぼく以上にはにかんでいて、まるで純情そのものだった。ひょっとしてこの人まだボーイフレンドがいないかもしれない― 

進次はそんなふうに考えて、少し期待を膨らませながら次のセリフを考えていた。

  

 真冬とはいえ、通路の隅々までぎっしりと乗客の詰まった車内は人いきれとスティームの暖房とでむせ返っていて、両側の窓は真っ白に分厚くくもっており、その上に通過する街の

灯がぼおーと鈍く映っていた。

 「あのー、どちらまでいらっしゃるのですか?」

 車内アナウンスが、「次の停車駅は明石です」と伝えた後、進次が二度目の口を開いた。

 さっきから女の行き先を考えていて、神戸だろうか、それとも大阪だろうか? いずれにしても早く会話を進めないと、この先の進展はないだろうし、ましてや次の明石などで降りられたのでは一巻の終わりではないか。そう思って少し焦って聞いたのであった。

 「三宮なんです。芦屋まで帰るんですけど、これあそこでとまらないでしょう。私鉄ももうないし、三宮からタクシーで帰ります」

 さっきほどのためらいは見せなかったものの、女はまだ幾分かの恥じらいを含ませながら、今度は進次の目を見て答えた。 

 再び問いかけに応じてくれたことに気をよくした進次であったが、三宮で降りると聞いて、焦る気持ちに拍車がかかった。

 ―どうしよう、三宮だとあと十五分ぐらいしかない。もうすこし話して、せめて名前と電話番号だけでも聞いておこうか。でも教えてくれなかったらどうしよう。これまた一巻の終わりではないか。できることなら今夜中にもっと話し合って一気に仲良くなりたい。この人だって、さっきの応え方からして、けっしてぼくのことを嫌がっているようでもない。いやそれどころか、恥じらいながら答ええた様子からして、むしろ好感を抱いてくれたのではないだろうか。そう思って進次は今度は意を決して切り出した。

 「へえー、三宮なんですか。それじゃあ同じですねえ。ぼくもそこで降りるんです。いや、下宿は大阪なんですけど、今夜は灘の姉の家へ寄る予定なんです」

 灘に姉がいるのは事実だった。でも小さな子どもが二人いて、もうとっくに寝てしまっているのは知っていて、今夜寄るつもりなど毛頭なかったのだが。

 進次は女にそう告げて、とりあえずほっとした。少なくともあと十五分ポッキリでこの女と別れることだけは避けられたのだと。

 進次の降りる駅が三宮だと聞いて、女は「えっ、そうなんですか」と短く応えただけだったが、表情にはそれまで見せなかった明るい笑みを浮かべていた。

 それから十五分の間、進次はなんとか間を繕おうと、自分のことを中心にしゃべっていた。

 つまり、歳は二十一歳で、大学を二年で中退して、今はアルバイトをしながら英語の専門学校へ通っていること、大阪の叔母の家に下宿していて、四国の実家からの帰途であること、アルバイトが夜勤なので昼間の英語学校では居眠りばかりしていること、などというふうに,いわば自己紹介を兼ねて真面目に話したつもりだった。

 そんな進次の話を女は頷きながら黙って聞いていたが、昼間は居眠りばかりとくだりでは、クスッと声を出して笑ったので進次は前にもましてホッとした。


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(その7)

噂・台風・そして青空 

 

H市への帰途、新大阪駅から新幹線に乗って、列車が西明石駅を過ぎる頃まで、砂田文夫はその日、本部の社長、小谷から聞かされた思いもよらないことについて考えていた。

いかに婚約中の仲だといえ、よりによってあの二人が三百人もの子どもたちを引率して行ったキャンプ場に夜の食堂で、そんな破廉恥なことをするだろうか。 いや、そんなことあるはずがない。あの二人に限って。 するとこの噂はいったい何なんだろう。

〈 二日目の夜、キャンプ場の食堂で、講師の浜岡康二と南三枝がやっていた

 口に出すのも憚るようなこんな噂、いったい誰が何のために流したのか。

 

 「あと約五分でH市に到着いたします」

ふいに車内アナウンスの声が耳に入り、文夫は頭を上げ、乗車して初めてまともに車内を見渡した。前方のドアの上の三号車という文字を見たあと、ふと予期に目をやると、三人がけの席の真ん中を空けた通路側の席に、若くてすごくチャーミングな女性が座っているのに気がついた。

 オヤッ、あの人いつ座ったんだろう。おかしいなあ、こんな美人が横に座っているのに気づかなかったなんて・・・。

 そうか、それほど小谷から聞いたあの二人についての噂話のことに気を取られていた訳だ。

 文夫はチラッとそんなことを考えて、少し惜しい気がしたが、立ち上がって下車の準備をした。

 猛暑もやっと峠を越した八月最終週のその月曜日、大阪の本部で開かれた恒例の打合せ会議に臨んでいて、夕方から社長の小谷とホテルのバーで飲んでから、八時過ぎに帰途につき、列車が間もなくH市に着こうとしていたそのときはすでに九時を過ぎていた。

 三号車を出て出口のドアの前に立つと、列車はもうH市の駅のすぐ近くまで来ており、駅周辺の見慣れたネオンサインがキラキラと輝いていた。

 とにかく早く浜岡と南三枝に事情を聞いてみよう。でも電話で聞くにしても、こんな話を女房や子どもの前でするわけにはいかない。遅いけど、ひとまず事務所に戻ろう。そしてあの二人に電話して真相をただしてみよう。

 車中でずっと考えていて、そう結論づけていたことを文夫はもう一度自分意言い聞かせて下車すると、足早に出口のほうへ向かって歩いて行った。 

 駅前に出ると、近距離で運転手に嫌な顔をされるのは分かっていたが、それは承知の上でタクシーに乗った。いつもなら二十分ぐらいかけて歩いて行くか、バスに乗るかのどちらかなのだが、この日ばかりは気がせいていて、とにかく早くあの二人に電話しなければと、運転手の嫌な顔など、さしたる問題ではなかったのだ。 

 タクシーは三分ほどで花川町へ着き、歩道を五~六歩進んだ所にあるビルの細い階段を四階まで駆け上がり、事務所へ入るや否や、乱れた息づかいを整えようともせず、すぐ机の上に電話に手を伸ばした。

 「はい、浜岡でございます」 

 受話器の奥から、何度か聞いたことのある老女の上品な声が響いてきた。浜岡の母親の声だった。まだ一度も会ったことはなかったが、その品にある耳障りの良い声を聞く度に、文夫は物静かで知的な風貌の老女の姿を想い浮かべていた。

 「夜分申し訳ございません。真剣塾の砂田です。浜岡君、いらっしゃるでしょうか」

 月曜日だと、八時半にレッスンを終え,もう戻っているはずだと、文夫は時計を見ながら、頭の中では浜岡のレッスンスケジュールを確認して、そう尋ねたのだった。

 浜岡康二、二十九歳。文夫が代表をしている「真剣塾」に入ってきて今年で二年目。

 大学時代に父親を亡くしていて、今は母親と二人暮し。 姉が一人いるが、すでに嫁いでいて九州の大分に住んでいるという。文夫の学習塾に講師として入ってきた時は二十七歳で、その歳にもかかわらず既に履歴書には過去五つもの職歴が記されていた。

 「五年間で5ヵ所ですか、よくお変わりになったほうですね」

 面接のとき自分とは一回りほど下の、なんとなく気弱そうな浜岡に向かって文夫はそう尋ねた。

 「ええ、5ヶ所のうち2ヶ所がつぶれたりして運もなかったものですから」

  浜岡は、ややメリハリに欠ける声でボソッとした調子で答えていた。

 「あいにくですが、康二は只今留守でございます。あのう、本人からお伝えしていませんでしたでしょうか。今月から、塾が終わった後で、深夜二時まで別の仕事を始めたのですが」

 「塾が終わって別の仕事を? いいえ、聞いていませんが。それ、最近お初めになったのですか」   「はい、十日ぐらい前からです。いえ、私は反対したのですけど、本人が結婚資金の足しにするためにどうしてもと言って、あなた様には、前もってお伝えしておくように申しつけたのですけど」  「へー、十日前から、深夜二時まで。それでどんなお仕事を?」

 「パン屋さんなんです。朝までに作るパンの仕込みの仕事らしいんですけど」

 「へえー、浜岡君がパン屋さんへ、それは知

りませんです。 いえ、こんな時間にお電話しましたのは、ちょっと急用がありましてね。でもお帰りになるのが深夜二時では遅すぎて連絡も難しいし・・・。


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エンタメ小説の書き出し2000字 シリーズ1~8


書き出しの2000字を読むだけで

「面白いか否か」「読まれるかどうか」「売れるか、売れないか」

がわかる



(その8)


ニューヨーク WEST 97 ストリート


およそこの乗り物には似つかわしくないガタゴトという騒々しい音をたてながらドアの閉まるエレベーターを背後にして、修一はおもむろにズボンのポケットに手を突っ込み

ひやっとした感触を指先に感じながらジャラジャラと鳴るキーホルダーを取り出した。

エレベーターからほんの5~6歩も歩けばそこに入り口のドアがある。

「エセルはまだ起きているだろうか」そう考えながら色あせたドアの上の鍵穴に太い方のキーを突っ込んでせっかちに回し、続いて下の穴へもう一本の細い方を差し込んだ。

下宿人としてこの家に初めて来たとき、通りに面した一階の正面玄関にも大きくて丈夫な鍵があるのに、どうしてこの6階の入り口のドアにもさらに二つのキーがついているのだろうかと、その念のいった用心深さをいささか怪訝に思ったものだが、後になって家主のエセルにその理由を聞かされ、なるほどと思った。

ここウエストサイド97丁目はマンハッタンでも比較的アップタウンにあたるウエストサイドの一画に位置している。

この地域も今から約半世紀ほど前の1930年くらいまでは、マンハッタンの住宅地の中でも比較的高級地に属していて、住む人々も、上流階級とまではいかないが、その少し下に位置するぐらいの、まずまずのレベルの人が多かった。

しかし年が経って建物が老朽化するに従い、どこからともなく押しかけてくるペルトリコ人が大挙して移り住むようになり、それにつれて前からの古い住人はまるで追われるかのように、次第にイーストサイドの方へ引っ越していった。

そして50年たった今では、もはや上品で優雅であった昔の面影はほとんどなく、その佇まいは煤けたレンガ造りの建物が並ぶ灰色の街というイメージで、スラムとまではいかないが、喧騒と汚濁に満ちた、やたらと犯罪の多い下層階級の街と化してしまったのだ。

住人の多くをスペイン語を話すペルトリコ人が占めているということで、今ではこの地域にはスパニッシュハーレムという新しい名前さえついている。

今年71歳になり、頭髪もほとんど白くなったエセルは、口の端にいっぱい唾をためながら、いかにも昔を懐かしむというふうに、こう話してくれた。

ここまで聞けばどうしてドアに鍵が多いのか修一にも分かった。つまりこの辺りは、犯罪多発地域で、泥棒とか強盗は日常茶飯事であり、ダブルロックはそれから身を守るための住人の自衛手段なのだ。

そう言えば、つい3日前にも、ここから数ブロック先の一○三丁目のアパートで、白人の老女が三人組の黒人に襲われて、ナイフで腕を突き刺されたうえ金品を盗まれたのだ、と昨日の朝、いきつけのチャーリーのカフェで聞いたばかりだ。

 そんなことを思い出しながら、ドアを開け薄暗い通路を進み、正面右手の自分の部屋へと向かった。すぐ右手のエセルの部屋のドアからは明かりはもれていない。

 どうやら今夜はもう眠ったらしい。

今はマンハッタンのミッドナイト。昼間の喧騒が嘘みたいに、辺りは静寂に包まれている。部屋の隅にあるスチームストーブのシュルシュルという音だけが、やけに耳についた。(つづく)

それにしても今夜のエセルは静かだ。

このアパートへ来てしばらくの間は彼女が喘息持ちだとは知らなかった。ましてや深夜に激しく咳き込んで下宿人を悩ますなどとは思ってもみなかった。


もしそうだと知っていたのなら、月250ドルの下宿代をもっと値切っていたはずだし、さもなくば、部屋の防音をもっとよくチェックしたはずだ。


エセルの寝室は壁ひとつ隔てたすぐ隣にある。壁はそこそこの厚みがあり、声や物音が筒抜けになるという訳でもないが、リビングルームに面して隣り合わせて並ぶドアの隙間から迂回してくるものが意外と大きい。


それでも越してきて4~5日ぐらいは何事もなかった。辺りのただならぬ気配に目を覚まさせられたのは、一週間経つか経たない日の深夜であった。


目を覚ます前、夢の中で人が咳き込んでいるのを長い間聞いていた。そしてそれ

がドアの方へ 移動して一段と大きくなったところで目を開けて起き上がった。


 リビングルームの方からエセルが激しき咳き込んでいるのが聞こえた。

断続的な咳の間には、苦しそうな呻き声も入っていた。 

これはほっておけない。 そう思った修一はベッドを抜け出してリビングの方へ歩いていった。


中入るとソファに座って激しく咳き込んでいたエセルが振り向いてチラッと見たが、またすぐうつむいてゴホンゴホンと咳き込んだ。


「どうしたのエセル、だいじょうぶかい?」そう聞きながら、とりあえずこうした場合は背中でもさすってあげるしか方法はないと思った。女性とはいえ、だらりと肉がたるみ、ぶよぶよとした老女の背中をさするのは決して心地よいものではなかった。 


ニューヨークへ着いて早々、しかもこんな深夜に、いったいなんたることだ。眠くてたまらない眼をこすりながら修一は胸の中でそうつぶやいた。