2018年6月29日金曜日

このエッセイ集がつまらない ・ ベストエッセイ2014&ベストエッセイ2015


作品が面白くないのは作者が悪いのか、それとも読み手のせいなのか?


期待して読んだ本がそれに反して面白くなかったことはよくあることですが今回がまさにそれです。

こうした場合、面白くない理由は、著者にあるのか、それとも読み手の力量不足なのか、ということをまず考えます。

今回の本「ベストエッセイ2014」および「ベストエッセイ2015」の2冊はいずれも一人の著者によるものではなく、76名の著者によるエッセイのアンソロジーです。

掲載された作品の全部が悪いのではなく、良いものは良いものとして認めています。

したがって良い作品もあったが全体としては良くなかった、と判断したのですが、これは読み手の力量不足とは言えないのではないでしょうか。


選ばれたものなのに面白くない作品が多いのはなぜ?


今回の本のタイトルは「ベストエッセイ2014」&「ベストエッセイ2015」というものですから、誰でも期待して読むはずです。

しかしまったくの「看板に偽りあり」で、失望だけでなく、いろいろ疑問の残る作品です。

この本にはいずれも76編のエッセイが載っています。ベストエッセイ2014&2015の名の通り、前年(201314年)に発表されたエッセイの中から優れた作品として選ばれたものばかりなのです。

おそらく膨大な数の中から選ばれたのでしょうから、読者としてはよい作品ばかりだろう、と期待するのは当然です。

それ故に期待が外れたときの裏切られた思いと失望感は大きいのです。しかも1冊だけでなく2冊なのですから。

76×2の作品のうち良かったのは僅か20作品程度


期待外れとはいえ、2冊各々の76編の中には良い作品もありました。でもその数は各10編程度ですから、ベストエッセイ集としては多いとは言えません。

では10編以外がすべて悪いかと言えばそうではありません。それ以外では約30編ぐらいは、まずまずという出来栄えの作品でした。

ということは残りの30以上の先品が面白くなかったということになります。

まったくその通りで、約半数弱の作品は駄作と言ってもいいような、どうでもいいようなテーマのつまらない作品でした。

出版社に問題があるのだろうか


エッセイでつまらない作品を読んだのは今に始まったことではありません。この作家ならと期待して読んだエッセイ集が期待外れだったことはこれまで数限りなくあります。

しかしそれらの多くは個人のエッセイ集で、今回のようなベストエッセイと銘打ったアンソロジーではありません。

個人のエッセイ集なら、小説が上手な作家も、エッセイとなるとそうはいかないのかも、と思ってあきらめがつきます。

しかし今回は違います。なにしろタイトル「ベストエッセイ2014&2015」なのですから。

期待が裏切られたのはいったい何に原因があるのでしょうか。まずその一つとして考えられる問題はこの本を出した出版社です。

これを出版したのは光村図書出版というところです。光村図書、あまり聞かない名前です。

一般的にこうした文芸書は、文藝春秋、講談社、新潮社、集英社あたりが出版するのが普通です。

でもそうではなく、光村図書というあまりなじみのないところなのです。

光村図書は教科書など地味な出版物が多い出版社です。したがって文芸書担当の良い編集者に恵まれていないことも予想できます。

こうした点からもエッセイ集など文芸書の出版には不向きなのではないでしょうか。

選考委員は立派なのだが


次に問題になるのは、掲載作品を選んだ選考委員です。選考委員のメンバーは次のようになります。

編纂委員/角田光代,林 真理子,藤沢 周,町田 康,三浦しをん

いかがでしょうか?このメンバーは、5名とも実力派の人気作家ばかりです。

エッセイの上手な人ばかりですから、選考委員として何ら遜色はありません。

ということは、選考委員の問題ではなさそうです。

純文学雑誌や日本経済新聞から選ばれた作品が多い


2冊に収録されたエッセイは発行年の前年である2013年&2014年中に新聞や雑誌などに掲載されたものの中から選ばれています。

各々の作品の後に掲載された新聞名や雑誌名が記されていますが、それらの中で目立つのは日本経済新聞と純文学系の雑誌で、一般紙や大衆文学系の雑誌が少ないのはなぜでしょう。

この偏りにも、面白くない作品が多い何らかの原因があるのかもしれません。





2018年6月26日火曜日

北海道を北の大地と呼ぶのはもうやめませんか




北の大地と聴いて、一瞬 どこのことか?と思った


テレビを見ているとき、出演者の誰かがふいに北の大地と言うのを聴いて、一瞬どこのこと?と思いました。

北の大地、ああそうか、北海道のことか、と気づいたのは、少したってからでした。

北の大地は以前に比べて今はあまり使われなくなったような気がします。

でもまだときたま使う人がいるらしく、久しぶりに耳にしたせいか、どこのことか、すぐには思い出せなかったのです。

はっきり言って今の時代に北海道のことを北の大地というのは、時代錯誤なのではないでしょうか。

北の大地という言葉には、海を隔てたはるか遠方の、広大な未開の地、というイメージが感じられます。これは今の北海道のイメージにそぐいません。

考えてもみてください。今や東京から飛行機に乗れば数十分で、それに既に新幹線も開通しており、1~2時間も乗れば簡単に行くことができるのです。


それに、今では地下鉄もあるし、ドーム球場もあります。

なのになぜ北の大地なのでしょうか。



北海道を北の大地と呼ぶのは、新幹線を「夢の超特急」、オールスターゲームを「夢の球宴」と呼ぶようなもの


北の大地と同じようなニュアンスを持つ言葉に、「夢の超特急」とか「夢の球宴」などがあります。

夢の超特急とは言わずと知れた新幹線のこと、また夢の球宴とはプロ野球オールスター戦のことを言います。

しかし、この二つの言葉、いま聞くとどちらも陳腐で古臭く感じませんか。

まず夢の超特急ですが、確かに新幹線が開業当時は列車としては人々を驚かすほどのスピードで、世界でも有数の速さを誇っていたかもしれません。

しかし、今や同じような列車は中国にも、韓国にも走っており、もはや何ら優位性はありません。

したがって夢の超特急という言葉はもはや死語になっています。

では夢の球宴の方はどうでしょう。これはもう夢の超特急以上に古めかしいにおいがします。

オールスターゲームはセリーグとパリーグの全選手の中からファン投票で人気選手が選ばれ、選ばれた選手でセリーグとパリーグが戦う試合です。

しかしこれがなぜ夢の球宴と言えるでしょうか。

こう言われた頃はまだテレビ中継も少なく、プロ野球選手を目にする機会が少なかった時代です。

それゆえに人気選手が一堂に会する試合を見るのは貴重なチャンスだったのです。

でもプロ野球中継が毎日放映されている今ではプロ野球選手は別に珍しい存在ではありません。

いくら有名選手が集まってやる試合でも、いまでは有難がって見る人はありません。

夢の球宴も今や完全な死語です。

北の大地はこれら二つと同列にある言葉なのです。



ネットには死語辞典というものがある


時代遅れなどで使われなくなった言葉を死語といいます。

北の大地、夢の超特急、夢の見る球宴などがこれに含まれるかどうかは定かではありませんが、これを調べる方法があります。

それは使われなくなった言葉を集めた死語辞典なるのものがネットにあるからです。

ここではまだ確認していませんが、気になる方は一度そちらで調べてみてください。

もし今はまだ載ってなくても、掲載されるのは時間の問題でしょう。



2018年6月25日月曜日

世界にはこんな珍しい国がある ・ トルクメニスタンという国を知っていますか?

マイブログに名前を聞いたことがない国からアクセスがあった


私のブログはgoogle bloggerを使っています。

bloggerは世界中の人が使っているブログサービスですから国別のアクセス数が分かるようになっています。

数日前何気なくアクセスのあった国名を見ていると、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシアなど常連の国に混じって聞いたこともないような国名がありました。

その国の名はトルクメニスタンと言います。

データには、この国から6件のアクセスがあったことが示されていました。

珍しい国からのアクセスと言えば、数か月前にリトアニアがありましたが、この国に関してはバルト三国と呼ばれることもあって、その名前は何度か聞いたことがあります。

しかし今回のトルクメニスタンは初めて聞く名前です。いったいどこにある、どんな国なのでしょうか。

世界には現在196もの国があると言います。200近くもあるわけですから、たまには知らない国があっても不思議ではないかもしれません。


トルクメニスタンとは?

 
トルクメニスタンは、中央アジア南西部に位置する共和制国家。カラクム砂漠が国土の85%を占めており

国民のほとんどは南部の山沿いの都市に住んでいて、豊富な石油や天然ガスを埋蔵する。

西側でカスピ海に面し、東南がアフガニスタン、西南にイラン、北東をウズベキスタン、北西はカザフスタンと国境を接する。

人口は566.3万、首都はアシガバート。   

ウィキペディアより             


トルクメニスタンはテレビでも紹介された謎の国


前述のように世界には200に近い国があります。これだけ数があると中には謎とか、不思議と思えるもような珍しい国もあります。トルクメニスタンはまさにそうした国に当たります。

トルクメニスタンが謎の国と呼ばれるのは、長い間鎖国のような状態を続けて入国が許されていなかったからです。

そうした状態が北朝鮮によく似ているため、中央アジアの北朝鮮とも呼ばれていました。

そうした状態がやっと溶け、日本のテレビに入国許可が下りたのも2014年のことで、テレビ東京系列の池上彰の番組で放送されました。

この国に入って最初に目を見張るのは白色を基調としたその建物の美しさです。

首都アシガバートはまるで白い街と言っていいような、街中が見渡す限り真っ白な建物で埋め尽くされています。

しかもいずれもがギネス認定の巨大なもので、世界一大きな星形の建物や世界一の屋内観覧車など、大きいだけでなく外観の奇抜な建物がズラリと並んでいます。

それに驚くべきは、これらの建物はすべて総大理石という豪華さなのです。


首都アシガバートの美しい白い街並みと七色に輝く夜の風景


トルクメニスタンの首都アシガバートの新市街は目を見張るほどの美しさです。

見渡す限り真っ白な建物で埋め尽くされており、その光景は見る人の目をくぎ付けにして
しまいます。

上述のようにこれらの建物の素材はすべて大理石という豪華さですが、これらはすべて遠く中国や南米のチリなどから、はるばる輸入されたものです

美しいのは白の街並みだけではありません。

さらに美しいのは、こうした建物の夜のライトアップです。

そのライトアップも単色のものではなく、赤・青・緑・紫・ピンク・黄・白という順番で次々に色を変えていき、まるで筆舌を尽くすほどの美しさです。


(参照) HUFFPOST















































2018年6月22日金曜日

させていただく、という表現にうんざり


させていただく シンドロームが蔓延したのは何故なのか


この項のタイトルにあえてシンドローム(症候群)という言葉を使ったのは、何かにつけて「させていただく」という言葉を使う人は言語感覚が麻痺しており、一種の病的状態にあると言っても良いからです。

はっきり言って「させていただく」と言う言葉を耳にする度にうっとうしく感じうんざりした気分になります。

「させていただく」という表現ををいちばんよく使うのはテレビのバラエティー番組に出てくる芸能人です。

彼(彼女)らは、相手に対して何かにつけて「させていただく」という言葉を臆面もなく発しています。

たぶん、こう言っておけば当たり障りがない、と思っているに違いありません。

つまりこう言って相手を立てたつもりになっているのです。

これこそ芸能人特有のへりくだりの姿勢(根性)そのものです。

でも当人はこれをへりくだりとは考えず、謙虚な姿勢だと思っているのです。

つまり謙虚な姿勢=相手に好感を与える、と計算した上でのことなのです。

テレビでのこうした芸能人の姿を言語センスの乏しい視聴者がマネして、次第に巷に蔓延してきたのです。.

へりくだりと謙虚は同じではない
 

させていただくという表現には少なからずのヘリ下り感があります。

この表現を使う人は相手より自分を下に置こうと思っているのです。

別の言い方をすると、こうすることによって相手に優越感を抱かそうと考えているのです。

そうするのは何らかの魂胆があってのことです。つまり、こうすることによって自分が何かで得をしようと企んでいるのです。要は下心があってのことなのです。

一方謙虚の方はどうでしょうか。こちらはあくまで礼儀にかなってのことです。

つまり相手の気持ちを害さないようにするため、出しゃばらないという態度を重視して、控えめな言葉づかいや態度をとるのです。

もちろんヘリ下りのような下心がないのは言う迄もありません。


国語力がある人は「させていただく」は使わない
 

上で言語感覚の麻痺とか言語センスの乏しさという表現を使いましたが、これを言い換えると国語力に問題がある、とも言えます。

つまり、「させていただきます」という表現を使う人は、国語力が未熟で劣っているのです。

それを証明するように国語力が優れていると思われるテレビ局などのアナウンサーがこうした表現を使っていることはほとんどありません。

入社に際して厳しい国語力の試験をパスした人たちだからに違いありません。


「させていただく」を使う人は言葉づかいのセンスがない


人はセンスが良い、とか、センスがある、などの言葉をよく使います。

こうした言葉がよく使われるのは概して服装などの外観に対してのことが多いようです。つまり目に見えるものに対して使われるのです。

では見えないものに対したはセンスと言うことがば通用しないのかと言えば、決してそんなことはありません。

見えないもののひとつである言葉遣いにもセンスは立派に使えます。

つまり言葉のセンスが良いとか、反対に悪いとかと言う風に使うのです。

服装のセンスが良いというのは、服装の外観が自分と周囲によくフィットしていることです。

ではセンスの良い言葉がどうかと言えば、対象とのバランスがとれた使いかたです。

その対象が人であれば重要なのは敬語の使いかたです。これが上手に使える人がセンスが良く、そうでなければセンスが悪いのです。

そのセンスの悪さを表しているのが「させていただく」と言う表現です。

なぜこの表現がセンスが悪いかは、感覚の問題ですから言葉だけでは言い表せません。言葉の感覚を磨くために必要なのは学習です。

それに最も効果的なのはたゆまぬ読書ではないでしょうか。


国語教師は「させていただく」をどう教えているのか


いつも思うのですが、今のように「させていただく」と言う表現が蔓延してきたことに対して、世の国語教師はどう考えているのでしょうか。

人に正しい言葉づかいを教えることは国語教師の大きな役目です。いったい今の国語教師はその役目を果たしているのでしょうか。

いや、それ以前にいま巷に蔓延している「させていただく」現象に対して、「おかしい」と言う問題提起を投げかけているのでしょうか。

そしてそれを是正するための努力を払っているのでしょうか。

世の国語教師に真剣に考えていただきたい問題です。


2018年6月18日月曜日

嘘つきは泥棒の始まり・でも嘘はなくならない




人間社会には嘘はつきもの


・嘘から出た実
・嘘つきは泥棒のはじまり
・嘘八百
・嘘も方便
・嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる


上に並べたのは嘘がつくことわざの代表的なものですが、これらの他にも、格言や名言などまで範囲を広げれば、嘘がつくものは数限りなくあります。

それほど嘘は人間社会と密接に結びついているのです。

嘘が世の中の多くの話題をつくっている


最近の世の中は嘘が蔓延しています。森友問題、加計問題、日大アメフト問題、それに海を隔てたトランプ問題など、いずれも渦中にある人たちによるウソの発言が波紋を呼んでいます。

これらに加えて、大きな社会問題となっている振り込め詐欺。これこそ嘘が生み出す大きな犯罪です。


嘘と詐欺の関係


犯罪の一種にサギがあります。振り込め詐欺、寸借詐欺、結婚詐欺など、その種類は多様ですが、これらすべてが悪質な犯罪行為です。

こうした詐欺のもとになるのがウソです。つまりこれらのサギは嘘をついて人を騙すことによって成り立ちます。

ということは嘘がなければこれらの犯罪は成立しないことになります。

これで分かるように人がつく嘘こそ、多くの犯罪を生む原因になるのです。


詐欺は小説、映画の格好のネタになる


上述のように、いま世の中を騒がしている森友、加計問題、日大アメフト問題などは、いずれも関係者のウソが問題の発端になっています。

いずれもがマスコミに大きく報道され、人々の関心の的になっています。

人々がこうした問題に大きな関心を抱くのは、いずれも嘘が根底にあるからです。

要するに嘘は人々の興味を誘う格好の対象なのです。言い換えれば面白いこと、とも言えるのです。

面白いがゆえに、嘘はよく小説や映画のテーマに取り上げられます。

最近の映画でも大竹しのぶ主演の「後妻業の女」がありました。これは老人を騙す結婚詐欺の話ですが、とても面白い作品でした。

では小説では、どんな作品があるでしょうか。数々ある中で、特に忘れがたいのはシドニーシェルダンの「明日があるなら」です。


シドニーシェルダンの小説「明日があるなら」に出てくる詐欺の話


ベストセラーになった小説「明日があるなら」には名詐欺師が登場します。

その手口は見事なもので、これだったら誰でも騙されてしまうのでは、と思うほどの凄い手口です。

ここでは作中で使われた二つの詐欺の手口をご紹介します。

なお、この話は以前にもこのブログで取り上げたことがあります。



詐欺の手口(その1) ・みごとに騙された宝石店

ある宝石店にすごく珍しい高価な宝石が陳列されていました。その宝石は世界にひとつしかないという貴重なものです。

主人公の詐欺師はある企みをもって数万ドルもするその宝石を買うことにしました。

詐欺師はそれを購入してしばらくたって再び宝石店に出向き、無いことをを承知の上で、店主に「同じものをもう一つ欲しい」と伝えまいた。

当然のごとく「あれ一つだけで同じ物はありません」と店主が応えました。

先刻そのことは承知しており、詐欺師は店主に対してある提案をしました。

「どうしてもあれと同じものがほしいので、新聞に広告でも出して探して欲しい。値段はいくら高くてもいいから何としても探して欲しい」

値段はいくら高くてもいいと言うセリフに店主は食指を動かされ、早速広告を出して探すことにしました。

広告に提示された買取価格は驚くほど高価格であった。

その広告を確認した詐欺師は、今度は入念に変装をして先日その店で購入した宝石を携えて、別人になりすましてまた宝石店へて向かいました。

そして宝石をまんまと二倍の値段で売却したのです。

そしてホテルへ戻り、急いで身支度をするとチェックアウトして空港へ向かいその街を去ってしまったのです。



詐欺の手口(その2)・ ニセ札印刷機


主人公のところにある男が訪れてきました。

部屋には印刷機らしいものと、その機械の上には濡れた100ドル紙幣が何枚もべたべた張られていました。

男が不思議そうに訊ねました

「あれはいったい何ですか?」

「あああれねえ、先ほどあの印刷機で作ったばかりの100ドル札ですよ。まだ乾いてなくてねえ。ああして干しているんですよ」

「へえ、あの機械でつくった100ドル札・・。」

男はそう言いながら印刷機のそばへ近づいていき、100ドル札と機械を交互に眺めていました。

席に戻ってくると男はこう言いました。。

「それにしてもいいできですな。本物とまったく区別がつかない」

「気にいってくれましたか。どうですか。あれが乾いたら1枚進呈しますから、外で使ってみたらいかがかですか」

しばらくして男は乾いた100ドル札を手にして早速タバコを買いに外へ出ました。そして満面に笑みを浮かべて戻ってきました。

「タバコ店でもまったく疑われませんでしたよ。ほらこれタバコのおつり」男はそう言って釣銭をテーブルに広げて見せました。そして店主にこう言ったのです。

どうですか。私にあの印刷機を譲ってくれませんか。値段はお望みの金額で構いませんから。

主人公は男の言い分を飲んで100万ドルでその印刷機は売却しました。

そしてすぐさま事務所をたたみ姿を消してしまいました。

その機械というのは今はもう出回っていない古い複写機で、上に張っていた100ドル札は本物を水で濡らしただけだったのです。

2018年6月14日木曜日

マイブログ・2018年5月のアクセス数はアズユージャル


マイブログ「生涯現役日記」・2018年5月のアクセス数


わたしのブログ「生涯!!現役日記」はスタートしたのが2010年6月ですから、先月(5月)で丸9年が過ぎました。

期間最終月に当たる5月のアクセスは4255とアズユージャルなごく平均的な数字でした。またこの間の総アクセス数は437,632です。

しかしこの数字はどう評価されるのでしょうか。9年間のトータルとしての437,632及び月間4,255という数字は、一般的なブログのアクセス数としてはどのように位置づけされるのでしょうか。


他人のブログアクセス数の確認は難しい


常々思うのですが、世の多くのブログはなぜアクセス数をはっきり表示しないのでしょうか。

ブログの多くにはアクセスカウンターのサービスが付いていて、その表示は簡単にできるはずです。

ブログを読んでいて、良いとか悪いとかの判断はできても、そのブログのアクセスの数を知ることは簡単ではありません。

もちろんアクセスカウンターを付しているものなら、それを見れば簡単に数を知ることはできます。しかし、なぜかアクセスカウンターの付いたブログは少ないのです。

いたって簡単につけることのできるに、なぜこれほど少ないのか、理由は定かではありません。

これは推測ですが、アクセスカウンターをつけていないブログが多いのは、アクセスが少ないブログをが多いことを意味しているのではないでしょうか。


何故アクセス数をはっきり表示しないのか


つまり、あまりにもアクセスが少なくて、その少ないアクセスを読者に知られるのが嫌で、アクセスカウンターをつけるのを躊躇っているのではないか、と思うのです。

ブログを運営する人にとって最も気になるのがアクセスの数です。したがって容易にそれが分かるアクセスカウンターはブロガーなら誰もがつけたいと思っているに違いありません。

でもそれにはある程度のアクセスがあってのことで、期待に反してあまりにもアクセスが少ないと、アクセスカウンターを断念せざるを得ないのです。


ブログはアクセス数こそが大事なはずだが


ブログを公開すると、そのアクセス数を知りたいのは人情です。なぜならアクセスこそがブログの評価そのものだからです。

ブログは自分の意見に対する世の中の反応や評価を問うものです。したがってそれがどのようなものであるかを知りたいのは当然のことです。

ブログの評価がなされるのがアクセスです。つまりアクセスが多ければ評価が良く、少なければ悪いことを意味するのです

したがってアクセスの意味するところを知っていれば、これが気にならないはずがありません。

このアクセスを簡単に知ることができるのがアクセスカウンターなのです。

とは言え、アクセスカウンターをつけなくても、本人はブログに管理サイトによってアクセスの数を知ることはできます。

問題はカウンターがないと他人がアクセス数を知ることができないことです。


アクセスが多いほどブログ継続のモチベーションは上がる


物事を継続してやり続けるために必要なのはヤル気です。このヤル気を出すために必要なのが動機付けとも言われるモチベーションです。

モチベーションは多くの場合上がるとか下がるという表現で使われます。上がるが良い状態で、下がるが悪い状態であることは言う迄もありません。

ブログを継続するためにはモチベーションが上がる必要があります。

こうなるために大切なのがブログのアクセス数です。アクセスが上がれば、それに連れてモチベーションも上がるのです。

ブログを継続するのは簡単なことではありません。期間が長くなればなるほど継続が困難になっていきます。

その原因はマンネリやネタ不足に陥ることです。それを突破して継続させる力になるのが、アクセスの数なのです。


ブログが消えていくのはアクセスが少ないから


いま日本にはいったいどれぐらいのブログがあるのでしょうか。驚くべきかな、その数は実に1700万件弱にも及んでいます。

しかしこれはブログ総数であって、現在稼働しているアクティブブログは20%弱の300万件余に過ぎません。

これで分かるように高い志を抱いて開設されたブログも、その80%以上が、やがては更新されない休眠ブログになっていくのです。

その原因の多くが期待したアクセスを得ることができなかったからです。それ故にブログ継続のためのモチベーションを維持することができなかったのです。


おびただしい数の休眠ブログ


上述のように、1700万件にも及ぶブログのうち、実に80%以上の1300万件以上は休眠ブログと呼ばれるか稼働していない(更新のない)ブログと化しています。

こうしたブログは死んだことになりますから早晩ブログの墓場へ葬られて消滅していきます。

新たにブログを開設しようと考えている方は、ブログの世界のこうした厳しい現実を直視して、失敗のないように臨んで欲しいものです。

2018年6月10日日曜日

思わず笑ってしまった ・ あるケチな老人の話


喪主の老人が葬儀社との交渉で言ったこと


これは光村図書から出ている「ベストエッセイ2015」に載っている作家の麻生鴨氏が「交渉」というエッセイの中で書いていることです

氏の祖母の葬式へ出席したときのことです。

無類のケチであることを自他ともに認めている喪主である祖父が葬式の費用について、葬儀業者と値引の交渉していました。

その交渉内容は驚くべきものでした。


≪交渉・その1≫お棺は段ボール製でも良いからなるべく安いものを


ケチな祖父は「燃やしてしまう棺桶に高級な木製はもったいないから段ボール製の安いものにしてほしい」と言いました。

段ボール製の棺桶とは聞いて驚きますが、果たしてそんなものがあるのでしょうか?

調べてみますと、段ボール製の棺は実際にありました。

エコ棺とも呼ばれているもので、材料になる森林資源を3分の2に抑えて、残り3分の1は段ボールを使用しています。

段ボールとは言え、強度や外観は木製のものとほとんど変わりません。

しかし、いまのところ需要が少ないため値段は木製のものと比べて特に安いとは言えません。

エコ棺のメリットは、エコの名の如く、1回の火葬で使用する灯油は従来のものの半分で、しかも燃焼時の有毒ガスを3分の2も減らすことができます。

ヒト用のものに比べてペット用のものは比較的普及が進んでいるため、価格もリーズナブルな数千円台のものが多いようです。

祖父は値段が木製のものと変わらない、と聞いてしぶしぶ諦めたようです。



≪交渉・その2≫霊柩車はもったいない、代わりに自宅のバンを使ってもいいか



ケチな祖父が次に持ち出したのは霊柩車です。

短い距離を走るだけなのに霊柩車の値段は高すぎる。代わりに家のバンを利用することはできないか。

これには葬儀社の人も返事に窮したようでしたが、結局、葬儀社からは「そんな例は過去にもないし、規約にもないのでご要望には応じかねる」と丁寧に断られました。


≪交渉・その3≫祭壇も花も もったいないから要らない



祖父は祭壇は必要ないと言います。それに花もすぐ捨ててしまうので、もったいないから要らないと言います。

これについては、できるだけ質素にするからと言って、なんとか納得させました。


≪交渉・その4≫お坊さんのお経は長さを半分にして金額を負けてほしい、それが無理なら声を小さくして、その分安くしてほしい


最後に祖父が言ったことは、ケチの面目躍如とも言えるような、驚くべきことです。

なんとお坊さんのお経の値段を値切るのです。それも単に負けてくれ、と言うのではなく、お経の長さを半分にして、その分値段を安くしてくれ、と言うのです。

これには葬儀社もあきれてしまいましたが、お経が全部やってこそ成り立つもので、半分だけでは意味がない、と突っぱねられました。

祖父はそれでも負けてはおらず、それが無理ならお坊さんのお経の声を小さくして、その分お布施に値段を安くしてくれ、と言うのです。

これには皆、腹を立てるのを忘れて大笑いしてしまったということです。

ケチもここまでくるとユーモアになる、としか言いようがありません。


(参照)麻生鴨 「交渉」光村図書「ベストエッセイ2015」収録