2018年2月25日日曜日

おもしろくなくては小説ではない! ・ 私の小説作法(その2)


小説新人賞の審査員は応募作品をどのように読むのか?


この記事のシリーズ(その1)でも書いたように、小説が面白いか、そうでないかは、出だしの12ページを読めばわかります。それをよく知っているのが応募作品を最初に読む下読みといわれる審査員です。

小説新人賞はいろありますが、大手出版社による人気の高いものになると、一度の応募が1000編以上に達します。

これだけの数になると審査が大変です。数が多いだけでなく、各々の作品は400字詰め原稿用紙にして100枚~400枚もあるからです。

これらの作品はまず最初の審査で、下読み担当と呼ばれる人たちによって読まれることになります。


審査員は応募作を初めから終わりまで丁寧に読むわけではない


とはいえ、そこは慣れたもので、読み方に要領があるのです。つまりどの作品も最初の13ページと中ほど数カ所だけ力を入れて読み、あとはすべて流し読みですませるのです。

面白くて魅力ある作品は、たいてい場合最初の部分で読者を惹きつけようと力を入れて書いているものです。

したがってこの部分を読めば、あとは適当に流し読みをすれば全体の作品像が掴めるのです。

これで分かるように、読者を惹きつけるおもしろい小説というのは、最初の数ページで決まるのです。

私の中編小説(3編)の最初のページを紹介します


前回(その1)では、中編小説5編 「編む女」「ナイトボーイの愉楽」「清水さんの失敗」「直線コースは長かった」「紳士と編集長」をご紹介しました。

それに続き今回はわたしの作品の中で最も長い(400230枚)「ニューヨークウエスト97丁目」と他の2編をご紹介します。今回も書き出しの部分、最初の2ページ程度です。

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『噂・台風・そして青空』(応募外作品)



 H市への帰途、新大阪駅から新幹線に乗って、列車が西明石駅を過ぎる頃まで、砂田文夫はその日、本部の社長、小谷から聞かされた思いもよらないことについて考えていた。

いかに婚約中の仲だといえ、よりによってあの二人が三百人もの子どもたちを引率して行ったキャンプ場で、あんな破廉恥なことをするだろうか。 

いや、そんなことあるはずがない。あの二人に限って。 

とするとこの噂はいったい何なんだろう?

〈 二日目の夜、キャンプ場の食堂で、講師の浜岡康二と南三枝がやっていた

 口に出すのも憚るようなこんな噂、いったい誰が何のために流したのか?

 
 「あと約五分でH市に到着いたします」
ふいに車内アナウンスの声が耳に入り、文夫は頭を上げ、乗車して初めてまともに車内を見渡した。前方のドアの上の三号車という文字を見たあと、ふと横に目をやると、三人がけの席の真ん中を空けた通路側の席に、若くてすごくチャーミングな女性が座っているのに気がついた。

 オヤッ、あの人いつ座ったんだろう。おかしいなあ、こんな美人が近くに座っていることにも気がつかないなんて

 そうか、それほど小谷から聞いたあの二人についての噂話のことに気を取られていた訳だ。

 文夫はチラッとそんなことを考えて、少しなごり惜しい気がしたが、立ち上がって下車の準備をした。

 猛暑もやっと峠を越した八月最終週のその月曜日、大阪の本部で開かれた恒例の打合せ会議に臨んでいて、夕方から社長の小谷とホテルのバーで飲んでから、八時過ぎに帰途につき、列車が間もなくH市に着こうとしていたそのときはすでに九時を過ぎていた。

 三号車を出て出口のドアの前に立つと、列車はもうH市の駅のすぐ近くまで来ており、駅周辺の見慣れたネオンサインがキラキラと輝いていた。

 とにかく早く浜岡と南三枝に事情を聞いてみよう。でも電話で聞くにしても、こんな話を女房や子どもの前でするわけにはいかない。遅いけど、ひとまず事務所に戻ろう。そしてあの二人に電話して真相をただしてみよう。

 車中でずっと考えていて、そう結論づけていたことを文夫はもう一度自分意言い聞かせて下車すると、足早に出口のほうへ向かって歩いて行った。 

 駅前に出ると、近距離で運転手に嫌な顔をされるのは分かっていたが、それは承知の上でタクシーに乗った。いつもなら二十分ぐらいかけて歩いて行くか、バスに乗るかのどちらかなのだが、この日ばかりは気がせいていて、とにかく早くあの二人に電話しなければと、運転手の嫌な顔など、さしたる問題ではなかったのだ。 

 タクシーは三分ほどで花川町へ着き、歩道を五~六歩進んだ所にあるビルの細い階段を四階まで駆け上がり、事務所へ入るや否や、乱れた息づかいを整えようともせず、すぐ机の上に電話に手を伸ばした。

『アボーション・福寿荘の夏』(応募外作品)


 その冬の正月三日、終着駅の大阪まで帰るはずだったのに、どうした訳か進次は神戸の三宮で降りていた。

すでに午前0時を過ぎているというのに、降車ホームは帰省から帰る人々であふれており、出口へ向かう通路も押しあいへしあいで随分ゆっくりとしか進まないせいか、右手に二つ、左手に一つの荷物の重みが次第にずしっと肩にかかってきた。

「重たいでしょう、私ひとつ持ちましょうか」かたわらを小さな手提げカバン一つ持って歩く女が恐縮そうに言った。

 「いいですよこれくらい、これでもぼく男ですから」
力にはからっきし自信がないはずなのに、進次は見栄を張ってそう答えた。

 その女とはほんの三十分ほど前に知り合ったばかりであった。
 座席がなく、出口に近い通路に立っていた進次のすぐ横に、その女も窓の方を見ながら立っていた。

 三つぐらい年下だろうか、いや二つかな。ときおり横目で観察して、そんなふうに考えながら、進次はしきりに話しかけるタイミングを計っていた。

 確か姫路を過ぎた頃であったろうか、列車がガタッと左右に大きく揺れて、進次と女の身体が窓の方に大きく傾いて、お互いが体勢を整えたすぐ後で、弾みでなのか目と目が合った。

 「よく揺れますね、この列車」 女がまた窓の方へ向き直ったとき、その横顔を遠慮がちに眺めながら進次がはにかみ口調で言った。
 「えっ、ええそうですね」不意に声をかけられたせいか、女は少し戸惑いを見せながら、チラッと進次の方を振り向いて答えた。

 さっき思ったとおり、やはりこの人ぼくより二~三歳年下に違いない。

口紅はうっすらと塗ってはいるが、それ以外は化粧をしている様子もない。ほっぺたがつやつやと光っており、まるで少女のように染まっているではないか。

それに、さっき返事をしたときも、このぼく以上にはにかんでいて、まるで純情そのものだった。ひょっとしてこの人まだボーイフレンドがいないかもしれない。

進次はそんなふうに考えて、少し期待を膨らませながら次のセリフを考えていた。
  
 真冬とはいえ、通路の隅々までぎっしりと乗客の詰まった車内は人いきれとスティームの暖房とでむせ返っていて、両側の窓は真っ白に分厚くくもっており、その上に通過する街の灯がぼおーと鈍く映っていた。


『ニューヨーク・ウエスト97丁目』 (小説すばる新人賞1次予選通過作品)


およそこの乗り物には似つかわしくないガタゴトと騒々しい音をたてながらドアの閉まるエレベーターを背後にして、修一はおもむろにズボンのポケットに手を突っ込み、ひやっとした感触を指先に感じながらジャラジャラと鳴るキーホルダーを取り出した。

エレベーターからほんの五~六歩も歩けばそこに入り口のドアがある。

エセルはまだ起きているだろうかそう考えながら色あせたドアの上の鍵穴に太い方のキーを突っ込んでせっかちに回し、続いて下の穴へもう一本の細い方を差し込んだ。

下宿人としてこの家に初めて来たとき、通りに面した一階の正面玄関にも大きくて丈夫な鍵があるのに、どうしてこの六階の入り口のドアにもさらに二つのキーがついているのだろうかと、その念のいった用心深さをいささか怪訝に思ったものだが、後になって家主のエセルにその理由を聞かされ、なるほどと思った。

ここウエストサイド97丁目はマンハッタンでも比較的アップタウンにあたるウエストサイドの一画に位置している。この地域も今から約半世紀ほど前の一九三〇年くらいまでは、マンハッタンの住宅地の中でも比較的高級地に属していて、住む人々も、上流階級とまではいかないが、その少し下に位置するぐらいの、まずまずのレベルの人が多かった。

しかし年が経って建物が老朽化するに従い、どこからともなく押しかけてくるペルトリコ人が大挙して移り住むようになり、それにつれて前から古い住人はまるで追われるかのように、次第にイーストサイドのへ引っ越していった。

そして五十年たった今では、もはや上品で優雅であった昔の面影はほとんどなく、その佇まいは煤けたレンガ造りの建物が並ぶ灰色の街というイメージで、スラムとまではいかないが、喧騒と汚濁に満ちた、やたらと犯罪の多い下層階級のと化してしまったのだ。

住人の多くをスペイン語を話すペルトリコ人が占めているということで、今ではこの地域にはスパニッシュハーレムという新しい名前さえついている。
今年七一歳になり、頭髪もほとんど白くなったエセルは、口の端にいっぱい唾をためながら、いかに昔を懐かしむというふうに、こう話してくれた。

ここまで聞けばどうしてドアに鍵が多いのか修一にも分かった。つまりこの辺りは、犯罪多発地域で、泥棒とか強盗は日常茶飯事であり、ダブルロックはそれから身を守るための住人の自衛手段なのだ。

そう言えば、つい三日前にも、ここから数ブロック先の一○三丁目のアパートで、白人の老女が三人組の黒人に襲われて、ナイフで腕を突き刺されたうえ金品を盗まれたのだと昨日の朝、いきつけのチャーリーのカフェで聞いたばかりだ。

そんなことを思い出しながら、ドアを開け薄暗い通路を進み、正面右手の自分の部屋へと向かった。すぐ右手のエセルの部屋のドアからは明かりはもれていない。
 どうやら今夜はもう眠ったらしい。

今はマンハッタンのミッドナイト。昼間の喧騒が嘘みたいに、辺りは静寂に包まれている。部屋の隅にあるスチームストーブのシュルシュルという音だけが、やけに耳についた。

2018年2月23日金曜日

ニューヨーク がむしゃら奮戦記 ・ 懐かしのニューヨーク職場日誌(7)



スタットラーヒルトンホテルへ入るまで


1971年の秋、ニューヨークへ着いた時の僕は、まったく右も左もわからないストレンジャーで、地図を片手に右往左往しながら、やっと目的の知り合いの人の家にたどり着いた。

それからその日のうちに、その人がかねてより探してくれていたウェストサイドのアップタウンにあるアパートに落ち着いた。

大阪を発ってから17時間という長い飛行機の旅で、さすがにぐったりとなっていた僕は、ベッドに横たわるや否や、ぐっすりと深い眠りに落ちた。

最初に訪問したのはバークレーホテル支配人 Mr.Parker


次の日よりさっそく行動を開始。まずかねてより連絡をつけていた、バークレーホテルマネージャーのパーカー氏に会うことにした。

朝、アポイントメントをとるために電話をすると、午後の2時ごろが都合が良いので、その時間に来てくれ、とのこと。それまでに相当の時間があるので、僕はトーストとコーヒーの軽い朝食をすますと、街の地理に慣れるため、しばらくマンハッタンを散策することにした。

マンハッタンの街はまるで碁盤の目の如く整然と整っており、地図さえあれば不案内の者でも、どこへでも手軽に行けることが次第に分かってきた。アベニューとストリートできっちり区画されたその町並みは、まったく見事という他はなく、都市計画という点では、東京や大阪などは何十年もの遅れがあるのではないかと、つくづく考えさせられた。

ミスターパーカーは典型的な陽気なアメリカ人で、ユーモアを交えつついろいろ話してくれた後でこう言った。「自分のホテルはいま景気が悪く、あなたをとレイニーとしておいてあげる余裕がない。景気が上向く来年の3月くらいまで待ってもらえないか。でももし君がそれまで待てないというのなら、私が他のホホテルへ紹介状を書いてあげるから、それを持ってそちらへ行けばいい」彼は親切にこう提案してくれた。

当面は1年間しか滞在期間(後に2年間に変更になった)のない僕としては、とうてい3月まで待てないので、翌日パーカー氏が書いてくれた紹介状を持って6番街52丁目にあるホテルアメリカ―ナへ向かった。

ホテルアメリカーナのセールスマネージャー・ギルフォイル氏は超ハンサム


ホテルアメリカーナは数あるNYのホテルのうちでは、ニューヨークヒルトンとともに最も新しいホテルの一つで、古いビルの多いマンハッタンで三十数階建ての、そのスマートな外観はさすがに目を見張らせるものがある。

ここで会ったのはセールスマネージャ―のギルフォイル氏であった。まるで二枚目映画スターを思わせるようなスマートな容姿の彼は、僕を快く迎えてくれ、親切にも館内をあちこち案内してくれた。

その後で僕の仕事の話になったのだが、このホテルで君をとレイニーとしておいてあげても良いが、ここは日本人客が少ないので、もっと多いホテルへ行った方が君のためにも、ホテルのためにも良いだろうと、その場で友人であるスタットラ―ヒルトンホテルのフロントオフィスマネージャーに電話してくれた。

度目に向かったのは7番街のスタットラ―ヒルトンホテル


二人の間で話はとんとん拍子に進んだらしく、二日後に僕は胸を弾ませながら、エンパイヤ―ステートビルからあまり遠くない7番街33丁目にあるスタットら―ヒルトンのフロントオフィスマネージャーである、ミスター・スレイターに会いに行った。

彼はあらかじめ友人から聞いていたこともあって、話はすんなり運び、来週よりこのホテルでルームクラークとして働くようにと、その日のうちに人事手続きを済ませてくれ、給料やその他の勤務条件も即座に決めてくれた。

こうして僕はスタットら―ヒルトンで働くことになったのだ。こちらへ来るまでに勤務の候補先として、他にもウォルド―フアストリアやホテルタフトなどを候補に挙げ、日本から連絡を取っていたが、結局これらのホテルのは仕事の話では行かずじまいだった。

NYでホテルマンとしての仕事がいよいよ始まった



初出勤の朝は澄みきった快晴であった。出勤するや否や、フロントオフィスマネジャー、スレイター氏に連れられてその部署で働くいろいろな人に紹介されたが、そのときの僕は、流石にいくぶん緊張していたようだった。

ミスタースレイターは一人一人クラークを紹介してくれた。眼鏡をかけて背の高いチーフクラークのフレディ、このホテルで三十年の経験を持つミスター・マクスード、キューバから来たというハンサムで気のいい男のアーリー、紅一点すばらしい美人のワーナーなど、みな人なつっこいアメリカ人気質をむき出しにした人たちで、少なくとも初対面の知らない外国人に対する敵意なとというものは微塵も感じさせることはなかった。

出社第一日目で、不安でいっぱいの僕にとっては、そうした彼らの態度は何にも代えられない心強さを与えてくれた

行列を前にマイペース


2000室という膨大な数の客室を抱えるマンモスホテルであるスタットラーヒルトンのフロントオフィスは、いつも戦場のようにけたたましい。でもそうした状態の中でもすべてのクラークがマイペースを守り、いたって気楽そうに仕事をしている。

忙しさでペースを乱し、顔をこわばらせた者もおらず、周りの雰囲気も、そういった時にありがちな殺気立ったものは全然感じない。すべてが自然なのである。最もこのホテルはどちらかと言えばビジネス系のホテルで、ほとんど毎日がこう言った状態なので、みな慣れっこになっているしまっているのではないか、とも思った。

とにかく皆のんびりと仕事をこなしているという感じで、すぐ目の前に並んでいるチェックインの長い行列など、さほど気にしていないように見える。もちろんこれは客の方が辛抱強く20分でも30分でも、苦情ひとつ言わず、列を乱さず自分のレジストレーションの順番がくるのをおとなしく待っているのだから、クラークにとってこれほどやりやすいことはない。

アメリカ、特にニューヨークでは行列というのはどこへ行っても珍しくない。銀行の窓口しかり、郵便局の切手売り場しかり、スーパーのキャッシャーしかりで、僕も最初の頃はまったくうんざりしたものだ。

でもそうした場所の行列はある程度仕方がないにしても、ホテルの窓口となればそうではないだろう。我々日本人の感覚では絶対にそういうことはあり得ないだろう、と考える。しかし今はニューヨークの1000室以上のホテルでは、チェックインやチェックアウトの時、長い行列を作って待つということは、いわば常識になっているのではないだろうか。

また客にしてもそのことに対して、それほど強い不満を抱いている様子も見えないようだ。それが何よりの証拠に、一年間このホテルのフロントで働いている間、五つあるチェックインの窓口に、各々5~6メートルぐらいの行列ができるという状態はしばしばあったが、それが原因で客がエキサイトしてマネージャーに噛みつくといういうことは、稀にしかなかったし、そのことをコンプレイン(苦情)として書いて寄こしたということもあまり聞かなかった。

もしこれが日本のホテルであったらどうだろう。現在では2000室というホテルは、日本のどこへ行ってもないし、また日本で1000室以上のホテルで働いて経験のない僕には、このニューヨークの状態をクレイジーだとは言い切れないし、だからと言って仕方がないことだと諦めてしまうこともできない。

ただ、日本に将来こういうホテルが出現したときは、どうなるかを考えると、僕の良き仲間であったヒルトンのルームクラーク諸氏の仕事ぶりは、常に冷静で、慌てず、取り乱すこともなく、落ち着いてマイペースで仕事をしていたということが頭から離れない。

日本人客獲得大合戦


日本人エコノミックアニマル変じてトラベルアニマルと化す、という表現を最近あちこちの新聞や雑誌などで目にする。まったく今の日本人の海外旅行熱には凄まじいものがある。

日本人客が多いホテルであるということで僕はこのスタットラーヒルトンへ差し向けられた。しかし正直言ってこれほど多いとは思ってもみなかったのだが、実際フロントオフィスへ立ってみると、次々に現れる日本人旅行者の多さには、まったく度肝を抜かれる思いであった。

特に春から秋にかけてのシーズンには、連日二つも三つも日本人ツアーグループが着くこともあり、数にしても1200名は下らないようだった。こうした日本人トラベラーの急増ぶりをアメリカ人側から考えると、よくもまあ高い航空運賃を払って自分たちの国へ押し寄せるものだ、ということになりそうだ。

実際、一緒に働いていたネルソンやウィリーのように、日本人という奴は金持ちばかりだ、というように考えた者もいたようだ。同じ東洋人にしても、多いのは日本人ばかりで、他の国の人は数えるほどであるため、同じイエロー民族の中で日本人だけが何故こうも多いのか、という意識も働いて「金持ち日本」という印象がよけい彼等の頭に残るのだろう。

今やアメリカのホテルは日本人客獲得に血まなこである。ごく最近、僕が日本へ帰る二か月ほど前にも、ニューヨークにあるホテルペンガーデンというところが、宮崎トラベルというNYではかなり名の知れたトラベルエージェントを、家賃をタダにするという条件で、それまでそこがオフィスと置いていたプリンスジョーズホテルから自分のホテルへ引き寄せた、というようなニュースもあって、どこのホテルもあの手、この手で一生懸命なのである。

やや停滞気味のアメリカのホテルビジネスにおいては、今の日本人客獲得ということは、まさに死活問題なのかもしれない。





2018年2月20日火曜日

無頼派作家 阿佐田哲也が遺した食レポのような作品・書評「三博四食五眠」 阿佐田哲也 幻戯書房


直木賞受賞の人気作家が書いた作品らしくない


初めに断っておきたいのですが、この作品がもし無名の作者によって書かれたものであれば、書評としてここで取り上げることはなかったでしょう。

なぜなら取り上げる価値がある良い作品とは思えないからです。

ではなぜ取り上げたからと言えば、直木賞を受賞し、人々によくその名を知られた人気作家の作品でありながら

あまりにもそれらしくないギャップがある作品で、その点が珍しいからです。

超ユニークなタイトルについて


まずこの本の中国語のようなユニークなタイトルですが、これはいったい何を意味するのでしょうか。

ひょっとして六字熟語かと思い、調べてみましたが、それらしきものを見つけることができず、どうやらそれではないようです。

表紙ではタイトルが二文字づつ縦書きされていますから、今度はそれを調べてみました。

でも三博,四食、五眠のいずれも、辞書を調べても答えは出てきません。いったいどんな意味なのでしょうか。今度は文字を分解して調べてみました。

まず三博について博の意味を調べてみましょう。

この場合「博」はバクと読み、かけ事を意味します。博徒、賭博、博才などの言葉を見ればそれがよくわかるはずです。

これが分かれば、著者の属性から類推すれば、後の四食、五眠は容易に理解できます。

つまり、一日に三度博打をして、食事を四回して、それを上回る五度も寝る、というような意味なのです。要は著者の日常生活を指しているのです。

なお著者が人一倍よく寝るのは、ナルコレプシーという「すぐに眠たくなる」やっかいな病気を抱えているからです。

この本はよく食べ良く寝て、ばくちに明け暮れる著者の日常を描いたものですが、三つの中でも最もウエートを置いて書いているのは「食べること」です。

したがってこの本は、今は懐かしい古き時代の「食レポ」と言ってもいいかもしれません。


阿佐田哲也 ペンネームの由来


阿佐田哲也のペンネームはよく面白ペンネームとしても取り上げられていることがあります。

どうしてついたのか、その由来がおもしろいからです。

代表作が「麻雀放浪記」であるように、この著者は無類のマージャン好きです。

その麻雀はしばしば徹夜をするぐらいです。ペンネームはここからきています。つまりマージャンで徹夜して朝だ。となるのです。


極めつけの悪文だが捨てがたい味がある


正直言ってこの作品は悪文だらけです。これが直木賞も受賞したあの大作家の文章だろうか?と初めから終わりまで疑問を感じながら読みました。

文章が下手で意味が分かりにくい箇所があまりにも多いのです。

でも捨てきれないのは、そこはかとなく人間味が溢れており、何とも言えない味があるからです。

悪文とは言葉の並びが悪かったり、意味不明の言葉があったり、言葉の誤用が多かったりするような文章です。

それだけでなく、辞書のどこを調べても出てこないような、著者が勝手につくったと思われる造語らしき言葉がしばしば出てくるのにも閉口します。

それに著者の偏った考えを堂々と主張していることが多いことも感心できません。

例を挙げればきりがありませんから、一つだけ挙げてみると次のような文章があります。

銀座や六本木には割に名の通った小上品な店があることは知っているが、焼き鳥というやつは、やはり何年も風呂に入らないような親爺が、炭の灰だらけになって焼いているような店でなければ面白くない≫ 120ページ4~6

30年近く前に亡くなった作家の作品がなぜいま出るのか?


それにしても30年近く前に亡くなった人の作品が何故今頃になって本として初めて出版されたのでしょうか。

これはあくまで推測ですが、いかに大作家が書いた作品とは言え、小説と違ってエッセイには書いた人の教養や知識が文章にモロに出るため

草稿を見た編集者が悪文だらけのこの作品の出来具合の悪さを認め、それ故に、著者の名誉のためにもと、これまで出版を控えてきたのではないでしょうか。

そうした作品が今回蛮勇をふるった一出版社によって世に出されたのです。

この作品ではありませんが、著者のある作品に対する読者の書評に次のよう文があります。


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文体は無骨である。いわゆる文学的な洗練さは、どこにもない。
いままでに文章をほとんど書いたことがない中年の男が、生まれてはじめて本当の気持ちを書こうとすると、こういった文体になるだろうと感じさせる。

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2018年2月16日金曜日

あのホテルが懐かしい ! ・ 今は無き大阪の3つの名ホテル


私が勤務した内外5つのホテルとは


これまでにもこのブログに何度か書いてきましたが、わたしは20代から40代にかけて約25年間ホテルマンとして仕事をしてきました。

その間転勤や転職もあって、関わったホテルは海外も含めて全部で5つあります。

しかし成長期にあったホテル業界の変化は激しく、5つのうち現在残っているのは2つだけで、3つのホテルは消滅してしまいました。

消えた3つのホテルは、いずれも関西では評判の高い屈指の名ホテルで、今でも往時を懐かしむ気持ちが強いのは決してわたしだけではないでしょう。

勤務したホテル5つを順番に並べてみますと、新大阪ホテル、大阪グランホテル、大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)、ホテルプラザ、スタットラーヒルトンホテル(NY)となります。

これらのホテルのうち前3つはホテルマン時代の前半に、後の二つは後半に勤務しました。

五つのうち現在残っているのは、リーガロイヤルホテルとスタットラーヒルトンから名前が変わったホテルペンシルバニアの2つだけです。

前述のように新大阪ホテル、大阪グランドホテル、ホテルプラザの3つは廃業し建物も解体され今では姿を消しています。

3つのホテルはなぜ消えてしまったのか


勤務した5つのホテルのうち3つのホテルが消えてしまったのは何としても残念なことです。

いずれも当時は名実とも大阪を代表する高級ホテルでしたが、ホテル急成長期にあったことで、新旧ホテルの競争は激しく、新しくできたホテルにその座を奪われ撤退を余儀なくされたのです。

ここではそれら3つがどんなホテルであったかをご紹介することにします。

新大阪ホテルは日本屈指の歴史を持つ大阪の名門ホテル


新大阪ホテルは「大阪に賓客のための近代的ホテルを」という関西財界のスローガンをもとに昭和10年(1935年)大阪中之島に誕生しました。

開業以来、国賓・皇室をはじめ国内外のお客様をお迎えする、西日本一のホテルとしての地位を固めました。

このホテルは米国の建築家ライト氏が設計した帝国ホテル(旧館)の外観や様式をまねて建てられたものです。

営業終了に当たっては、その格調ある建物を保存するか、それとも取り壊すかが、有識者も交えて議論されましたが、結局取り壊すことになり、その後できた系列の大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)がその伝統を引き継ぎました。

私は研修で数ヶ月間このホテルで働いたことのありますが、天井の高い建物内部の格調ある雰囲気や、まるで迷路のように入り組んだ地下スペースなどを今でもよく覚えています。

大阪グランドホテルには若かりし頃の作家・森村誠一が勤め
ていた


大阪グランドホテルは、新大阪ホテル傘下のホテルとして1958年(昭和33年)に同じく大阪中之島に開業しました。

大阪グランドホテルがあった場所は、水の都大阪を象徴する土佐堀川にかかる渡辺橋のたもとです。

大阪のビジネス街の中心に位置するだけに、近隣には朝日新聞社、電通、三井物産など有名企業がひしめいていました。

また同じビル内にフェスティバルホールが併設されており、公演がある時は出演者や観客にも親しまれたホテルでした。

また大阪で最も外国人客の多いホテルとして知られていました。

このホテルでは20代の半分以上の期間勤務しました。勤務期間が長かったことと、ホテルマンとして最初に働いた職場であることもあって、5つのホテルの中で最も印象深いホテルです。

このホテルにはもう一つ特筆しておきたいことがあります。それは、かの有名な推理小説作家である森村誠一氏が、若かりし頃このホテルに勤めていたことです。

まだ作家になる前でしたが、氏はこのホテルのフロントオフィスに勤務していたのです。

大阪グランドホテルを退職してからは東京へ移り、都市センターホテルやホテルニューオータニで勤務しています。

その後ホテルマンの職を辞し、作家になってからはホテルでの経験を生かし、「高層の死角」という江戸川乱歩賞を受賞した小説を生み出しています。

大阪グランドホテルは建物、設備とも老朽化したこともあって、2009年に 同地に新たな朝日新聞社のビルが建設されるのを機に50年以上の営業にピリオドを打ち閉館になりました。

ホテルプラザは異業種の朝日放送がつくったハイランクなホテル


ホテルプラザの特質は、なんといっても朝日放送という異業種の会社がホテル業界に進出して造ったという点です。

しかも並みのホテルではなく、大阪の迎賓館と言われるほどの最高級ホテルとして、当時大阪ナンバーワンであった大阪ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)をライバルとして強く意識して運営されました。

このホテルの経営陣がまたすばらしく、最初の社長には元住友銀行頭取の鈴木剛氏が就任しています。

しかし親会社の朝日放送の影響を受け、同業他社に比べ人件費が高く、それが経営の足を大きく引っ張り、経営の重荷になって、1999年に惜しまれつつ廃業となりました。

私は大阪万博開業1年前の1969年に大阪ロイヤルホテルからこのホテルの転職し、その後研修のためにNYのスタットラーヒルトンへ向かいましたが、帰国後に復職し、その後10年ほど勤務しています。



2018年2月13日火曜日

嘘つきでなければ小説家になれないのか ・ 小説家はみな嘘つきなのか


君は嘘つきだから小説家にでもなればいい


上の見出しは作家・浅田次郎のエッセイ集(写真右)のタイトルです。

嘘つきといえば人々が真っ先に連想するのは詐欺師なのでしょうが、ここでは小説家と言っているところが味噌です。

つまり嘘つきイコール小説家と言っていることになります。

浅田氏は数々のエッセイを書いていますが、作品の中で自分のことを嘘つき呼ばわりしていることが幾度となくあります。

まるで嘘つきであることを誇らしく思っているようにも感じます。

でも氏が言わんとする事はよくわかります。つまり、嘘つきだからこそ、次々とテーマを見つけ新しい小説を生み出すことができるのであって

そうでなければこれほど多くの作品を書くことができない、と暗に言っているのです。


小説は嘘と想像力によるフィクション


小説はフィクションです。したがって書いている内容のほとんどは作りごとです。この作りごとのために嘘が必要になるのです。

なぜなら小説家が自分の体験を元にした小説しか書けないとしたら、生み出せる作品はたかが知れているからです。

恐らく、多くても数冊書いたら終りになるでしょう。

でもこれでは小説家として生計を立てていくことはできません。

もちろん売り上げ何十万冊というべストセラーでも出せば一挙に数千万円ぐらいは稼ぐことができますが、そんなことは万に一つもありません。

たいていは1刷りだけの2~3万冊で終わりになります。

これだと印税は200300万円程度ですからサラリーマンの1年間の年収にも満たないほどです。

したがってサラリーマン並みの普通の生活を送るためには、少なくても1年に2冊以上をコンスタントに書いていかなければならないのです。

これを達成するためには自分の体験だけを題材にしていてはとうてい無理です。

そこで必要になるのが嘘つきの才能なのです。つまり虚構による小説のテーマを創り出す力です。

良くも悪くも小説とは嘘と想像力の産物の他の何物でもないのです。

自分の体験だけでは継続して小説を生み出すことはできない


小説家と登竜門としてよく知られているのが芥川賞と直木賞です。

いま活躍している小説家の多くがこのどちらかの受賞者です。

ではこの賞を取った作家の数はどれぐらいなのでしょうか。

これまでの芥川、直木賞の受賞者は優に300名を超えます。これほど数が多いと名前も覚えきれません。

もちろん受賞後に人気作品を多く出している人なら、その限りではありませんが、そうした人はごく一握りしかいません。

残りはどうなのかと言えば、受賞後の作品が続かず、名前すら忘れられてしまう人たちが大半を占めるのです。

でも栄えある芥川、直木賞を受賞した才能ある小説家なのに、何故作品が続かないのでしょうか。

小説を書く才能があっても、嘘がつく才能がなければ長続きしない


大方の作家は処女作とも言われる最初の作品では自分の体験をテーマにしています。なぜならそれが最も小説が書きやすい方法だからです。

でも作家も人の子ですから体験が無尽蔵にあるわけではありません。

ということは小説にするテーマは遅かれ早かれ尽きてしまいます。となると他でテーマを見つけなければなりません。

このとき必要になるのが嘘つきの才能です。

しかし、いかに芥川、直木賞を受賞した有能な作家だとはいえ、皆が嘘つきの才能を持っているわけではありません。

というより、持っているのは少数派と言った方が良いでしょう。

ということは作家と言えども、この才能を持っている人は少ないのです。

せっかく立派な賞を受賞したのに、後の作品が続かない小説家が多いのはのはそのためなのです。

そのせいでせっかくの受賞を生かせず、あえなく小説家からの脱落を余儀なくされるのです。

嘘つきの上手な小説家だけが生き残ることができる


嘘つきを自認する浅田次郎は超売れっ子作家です。

こうなれたのはストーリーテラーとして優秀であるだけでなく、無類の嘘つきだからです。

浅田氏だけではありません。はるか昔に芥川賞か直木賞を受賞して、今も売れる作品を書き続けている作家は、皆、嘘つき上手な人ばかりなのです。

これから作家を目指す人は、この点を深く心に刻んでおく必要があります。