2022年4月23日土曜日

アナウンサーはニュースを伝えたり番組の司会をするだけでいいのか

 


いま、言葉のプロと呼べる人たちがいるとしたら、それは誰なのでしょうか。学校の国語の教師、作家、言語学者などの人たちでしょうか。いやいや、もっと適切な人達がいるではないですか。そうです、それはアナウンサーです。

アナウンサーはテレビやラジオなど、電波を通じて言葉によって民衆と直につながっています。それもコンテンポラリーな今の言葉でつながっているのです。それ故にアナウンサーこそ、いま現在の正しい言葉の使い手であるといえるのです。 

いやな言葉を世の中から追放したい、その役目をアナウンサーに担ってほしい

ごく最近東京池袋でパパ活が元になり老人が殺されるという凶悪事件が発生しましたのは誰もが知るところです。

犯人は若い女性ですが、問題になるのはパパ活です。パパ活、なんともおかしな言葉ではないですか。意味が不明確な上に言葉として体をなしておらず、語感としても響きが下品です。したがってできることなら世の中から無くしてしまいたい言葉です。

でも無くすと言っても誰がどうしてやればいいのでしょうか。それは言葉を監督、管理する人たちの仕事でしょうが、いったいそんな人達が今の日本にいるのでしょうか。もしかして文部省の人たちでしょうか。 

メディアのアナウンサーに言葉の番人になってほしい

はっきり言って今の日本に言葉の監督や管理したりする人はいないと言ってもいいでしょう。それ故に「パパ活」のようなおかしな言葉が放置されいつまでも世の中に蔓延するのです。

パパ活だけではありません。最近若い人たちが使う言葉に「カッケー」というのがあります。これはいうまでもなく「かっこいい」を短くして語呂を変えたものです。

こちらの方もパパ活同様に下品な言葉です。こうした下品な言葉を無くすためには、言葉を取り締まる人が必要です。そうです。言葉にも番人が必要なのです。その役を言葉のプロであるアナウンサーに担ってほしいのです。 

アナウンサーが言葉の番人になって、おかしな言葉を追放してほしい 

アナウンサーは言葉に関して良い教育を受けており。それ故に聴く耳も優れていますから、おかしな言葉に対しては普通の人たちより敏感です。

したがって一般庶民がおかしいと感じているような、例えば「パパ活」や「かっけー」などの言葉についてはとっくに気づいており、追放したい気持ちは誰よりも強いのではないでしょうか。

それ故に言葉の番人の役がふさわしいのです。アナウンサーは自身が担当する番組の中に、例えば「世の中のおかしな言葉コーナー」というものでも設けて、追放したい言葉として人々に訴えてもらうのです。

言い換えればアナウンサーに世の中から追放したい言葉運動の旗手になってほしいのです。つまり、これは良くない言葉ですから、使わないようにして世の中から追放しましょう。というふうに提唱してもらうのです。

言葉のプロがそういえば、まちがいなく効果があり、世の中から次第におかしな言葉がなくなっていくのではないでしょうか。

2022年4月18日月曜日

これは知らなかった!ガラケーの名前の由来 意外な真実

 

ガラケーはスマホに押され、いまでは利用者は肩身が狭くなりました。聞くところによるとあと数年で使用中止になるといいます。

実はこの私もつい昨年5月までは愛用者だったのです。携帯会社からのたび重なるDM攻勢に負けて、ついにスマホに替えたのですが、それまで10数年間も使用し続けていたのです。

それ故に愛着もあり、いまでもあの持ちやすい手の感触が蘇ります。それ故にまもなく無くなってしまうのは一抹の寂しさを感じます。でもこの記事のテーマは無くなることに関してではありません。

 


                                 ガラバゴス諸島

ガラケーのガラが何の略か知って驚いた

読んでいたエッセイ集に「日本がIT的にはガラパゴスとは聞いていたが普段の暮らしでは感じなかった」という文章が作家伊藤比呂美さんのエッセイにありました。

この中に出てくるガラパゴスという言葉は何度か見聞きしたことはあります。でもこの文脈での意味がもう一つよくわかりません。ネットで調べてみると次のようにありました。 

 ガラパゴス 

 家電製品やアイデアなどが、日本独自の機能やサービス、制度などにこだわった結果、海外では受け入れられにくくなっている状態」を、皮肉を込めて表現した言葉です。長年外来の生物が侵入せず、生物が独自の進化を遂げた「ガラバゴス諸島」が語源です。日本でのサービスを使いやすく設計した永代電話を「ガラケー(ガラバゴス・ケータイ)」と読んだりします。 出典:コトバンク 

これを読んで、上から3行ぐらいは予想したとおりだと納得したのですが、驚いたのは4行目の終わりぐらいで、そこにはガラケー(ガラパゴス・ケータイ)」と呼んだりします。とあるのです。

これを読んで、これまで考えたこともなかったガラケーの名前がガラパゴス諸島にちなんででつけられたことを知ったのです。

 

 

2022年4月12日火曜日

山本周五郎に関して気になっていること


山本周五郎があげる・人類が生み出した5つの傑作とは
 

氏はエッセイなどで自身が酒好きなことをよく語っています。現に今回のテーマ「人類が生み出した傑作」も氏の「ぶどう酒・哲学・アイスクリーム」(ほろ酔い天国)というタイトルにお酒を持ち出したエッセイから引用したものです。

このエッセイの中で氏は下の5つを「人類が生み出した傑作」として挙げています。

でもこれら5つがモノばかりなら別段言うことはないのですが、3つのモノの他の2つは、なんと哲学の理論なのです。つまり「デカルトの認識論」および「サルトルの実存哲学哲学」というの哲学の学問なのです。

人類が生み出した傑作なら、モノのなかにいくらでもあるはずなのに、一体なぜ彼は5つの中に、あえて哲学理論2つを加えたのでしょうか。

その点が気になって仕方ありません。

 

山本周五郎があげる5つの人類が生み出した傑作 

1.酒

2.デカルトの認識論

3.アイスクリーム

4.サルトルの実存哲学

5.水爆(こいつのおかげでいまへいわなのだ) 

出典;「ぶどう酒・哲学・アイスクリーム」ほろ酔い天国(河出書房新社) 

 

氏の小説の平易でわかり易い文章から難しい哲学は思い浮かばない 

山本周五郎の小説は、普段あまり本を読まない人をでも読者になるような、万人に好まれる作品が多いのが特徴です。

その理由はテーマが誰もが興味を持つような普遍的な事柄であり、加えて文章が美しい上に、平易で分かりやすいからではないでしょうか。

では哲学の方はどうでしょうか。デカルトやサルトルの理論が果たして分かりやすいと言えるでしょうか。

それどころか大方の人にとって読んでチンプンカンプンな難解でな分かりづらい文章ばかりで、いわば読みやすくて誰もが理解できる山本周五郎の小説作品の対局にあるものなのです。

デカルトやサルトルの哲学理論とはいったいどういうものなのでしょうか。

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デカルトの認識論とは 

認識論は、認識、知識や真理の性質・起源・範囲について考察する、哲学の一部門である。存在論ないし形而上学と並ぶ哲学の主要な一部門とされ、知識論とも呼ばれる。日本語の「認識論」は独語の訳語であり、日本ではヒト・人間を考慮した場合を主に扱う。 ウィキペディア

 

サルトルの実存哲学とは 

実存主義(じつぞんしゅぎ、フランス語existentialisme英語existentialism)とは、人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。

実存(existenz)の当初の日本語訳は「現実存在」であったが、九鬼周造がそれ(正確には「現実的存在」)を短縮して「実存」とした(1933年(昭和8年)の雑誌『哲学』内の論文「実存哲学」においてのことであり、可能的存在に対置してのものである)。語源はex-sistere(続けて外に立つの意)。

何の外にかといえば、存在視/存在化されたものの外に、ということである。「実存」についての語りで習慣的にまず言及されるキルケゴールが、デンマーク語で主張した「実存」は、やはりラテン語出自でExistentsである。

ドイツ語では、ラテン語からの外来語としてExistenzがあり、一方、土着の語としてはDaseinが相当する。しかし、前者のほうが日常的頽落性にもある後者よりももっと、実存の持つ、自由へ向かった本来性という様態に特化して使われている。ウィキペディア

 

小学校しかでていない山本周五郎が哲学に傾倒するのは天才だからなのか 

文学者で哲学といえば、東京大学卒業の太宰治や三島由紀夫、それに川端康成など、いずれも自死した人たちを思い出します。文学者でも哲学に傾倒する人は自殺が多いのです。それと同時に哲学好きで自殺するような人は天才肌であるともいえます。

でも山本周五郎は東大卒どころか、学校は小学校しか出ていません。それに上の3人のように自殺もしていません。それでも哲学好きなのは、東大卒にも負けないくらいの天才だからなのかもしれません。 

山本周五郎を哲学と結びつけるのは、人とその人生を深く見つめている点だろうか 

いかがでしょうか。上の2つの哲学理論の意味は理解できたでしょうか。少なくとも私にはチンプンカンプンです。でもこれは私だけではないはずです。おそらく物事に対して普通の考え方をする多くの人たちの気持ちを代弁するとすると、「むずかしくてよくわからないし、こんなことはどうでもいい」というのが正直なところではないでしょうか。

でも、山本周五郎はそうではなく上の2つの理論がよく理解できるのです。もし物事の本質を見極める上で哲学が切り離せないものとすれば、氏が万人を引きつける人間の本質をついた小説を書けるのも、哲学を深く理解しているからなのかもしれません。

 

2022年4月10日日曜日

《プレイバック(再掲載)記事シリーズ・9》

小説新人賞応募者にぜひとも伝えたいこと(その2)

全8記事・18,979文字 一挙掲載

 

(注)過去に掲載した記事のまとめシリーズです

 

 

(記事内容)

 

・私の「小説新人賞」応募奮戦記(1)

 

・私の「小説新人賞」応募奮戦記(2)

 

小説新人賞・かくも冷酷で厳しい世界

 

小説新人賞の応募作品・いったいどのように審査されるのだろうか

 

おもしろくなくては小説ではない!・私の小説作法(1)

 

小説の書き方について、多くの作家が共通して言っていること

あなたが書いた文章に誤字脱字はないですか?・誤字脱字と文学賞にまつわる忘れられない話

文章はひねり出して書くもの  

 

 

 

私の「小説新人賞」応募奮戦記(1)

40代の終りの頃私は集中的に連続3回小説新人賞に応募した。
対象はいずれもメジャー出版社による名の通った文学新人賞ばかりであった。

今回のブログではその応募準備から結果発表までの経過を「奮戦記」と題して裏話も含めて書いてみたい。

当時私は三つの小説の構想を持っており、その第一作目は応募計画段階ですでに半分ぐらい書き終えていた。

後の2作についてもプロットは出来上がっていて、一作目が終わり次第間髪を入れずすぐに執筆に当たるつもりでいた。
そういう訳で応募作品の目途は一応立っていた

とは言っても何分小説を書くのは初めてであり、果たして「メジャーな新人賞」応募にふさわしい作品がうまく書けるかどうかという不安は少なくなかったのだが、そうした気持は振り切ってとにかく執筆に全力を傾けるすることにした。


執筆計画の次はその3作品をどの文学賞へ応募するかという対象の選択なのだが、熟慮した結果まず第1作目は近々創刊号発刊が予定されている集英社の「小説すばる」が創刊号に合わせて儲けた「新人賞」に応募することに決めた。

そして2作目が講談社の「小説現代」、3作目を文芸春秋社の「オール読物」といずれも新人作家登竜門として名高い老舗出版社2社の賞に応募することに決めた。

さて計画段階でもう一つ大事な点は応募のタイミングである。

つまり作品をいつ応募するかという時期の問題である。

もっと具体的に言うと、1作目の「小説すばる」へ応募した後、2作目と3作目はその後いつ応募するかということなのだが、これについては時間をかけて大いに考えた。


というのも1作目はいいとしても、2作目と3作目を書き終えて応募するタイミングは非常に大事だと思えたからである。

なぜかと言えば、1作目を応募し終えてその後数ヶ月先の結果発表を待ってからの応募予定だと、もし1作目の結果が思わしくなく予選で落選でもしようものなら落胆して気持がなえてしまい2作目、3作目への応募意欲を失ってしまうのではないかと考えたからである。

つまり落胆して自信を無くしてしまい、それが次の作品執筆に大きなマイナス効果を与え消極姿勢に陥るのではないかと懸念したのである。

もしそうなっては3作品応募するという計画は台無しになってしまう。

そういうことだけはどうしても避けなければならない。

そして私はこう結論を出したのだ。

まず1作目を応募して、それから数ヶ月先の結果発表の期日までにあとの2作を全部書き終えよう。
そうすると結果の如何に関わらず作品は出来上がっているのであるから、後に悪影響を及ばせずにすむではないか。

そしてその計画通り、まず1作目を無事書き終えて集英社に応募し終えると、間髪をいれず2作目と3作目の執筆に取りかかった。

そうした計画のおかげなのか、2作目の「編む女」と3作目の「ナイトボーイの愉楽」という中編小説が出来上がったのは第1作目の「西97丁目の青春」の結果発表の半月ぐらい前だった。

そうしたことが気分的余裕になり、ほっと胸をなでおろし落ち着いた気持で第1作目の発表の日を待つことができたのである。

さて待ちに待った1作目の結果発表の結果は?

小説スバル創刊号の第1回新人賞「予選通過作品」の発表は1989年9月発行の秋号であった。
その発表の秋号が売り出される日、私は期待と不安が入り混じるすごく昂揚した気分で本屋へ走った。

店頭にうず高く積まれたその雑誌をすばやく取りお金を払って外へ出た。

家に帰るまで待てるはずがなく外へ出るや否や部厚い雑誌の結果発表の記事を探してページをめくった。

はっきり言ってあせっていた。

なんとかそのページにたどりついて4ページにわたる1次予選有価者の名前の欄を目を皿のようにして探した。

だがないのだ、自分の名前がどこにもない。

そんな馬鹿な!3ヶ月もかけて死に物狂いで書いた作品なのにそんなことあるはずがない。

私は頭の中が白くなり始めるのを感じながらもう一度今度は念入りに目を通してみた。

するとどうだろう、一度目はないと思った作品名と自分の名前がはっきり出ているではないか。

えっ、本当!という疑念もまだ残っており何度も何度も見直した。

何度見直しても間違いなく名前は出ていたのである。

全応募作品1150編中第1次予選通過作品「200編」に私の作品は確かに入っていたのである。

かくして私の初めての「小説新人賞」応募作品はみごと第一次予選を通過したのであった。

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わたしの小説新人賞応募奮戦記(2) 

小説家になれると本気で思っていたのだが

 

50歳になる直前にはじめて新人賞に応募
小説新人賞に関しては様々な思い出がある。悪い思いではあまりなく、ほとんどが良い思い出である。なかでも48歳から50歳にかけての2年間のものが特に多い。


小説は30歳ごろから書いていたが、なかなか思うような作品ができず、40代半ばを過ぎた頃、やっとそれらしきものが書け始めた。
それで49歳になったとき思い切って小説新人賞に応募することにした。最初の応募先はメジャー出版社である講談社の「小説現代」にした。
新人文学賞は数はたくさんあるが、大衆小説分野でメジャーと呼ばれるものは、この小説現代と文芸春秋の「オール読物」、それに集英社の「小説すばる」ぐらいであった。
もちろん純文学を入れるともっとある。でもその頃書いていたのはいわゆるエンターティンメント系の大衆小説ばかりであったので、応募先ははじめからこの3つに決めていた。
最初からメジャーな文学賞しか狙っていなかった。そうでないと小説家デビューは難しいと思っていたからである。
さて、最初の講談社に応募するに際しては、一つの作戦を立てて臨んだ。
というのは予選を通過したときはいいのだが、もし1次予選ででも落ちたら、気落ちしてモチベーションが下がり、その後の応募に悪影響を与えると思ったからだ。
なにしろメジャーな新人賞は難関であり、予選通過者ですら応募者の15%ぐらいで、残り8割以上は落選するのだから、決して楽観はできないのである。
したがってもしはじめの応募作品が落選しても、すぐ次の作品が応募できるように1回目の応募結果が発表される前に次の作品を完成しておくようにしたのだ。
どの出版社も発表までに3ヶ月以上あるので、その準備をするにはじゅうぶん期間はあった。
最初の作品のタイトルは「編む女」で85枚の中編小説である。
それを応募し終えると、最初の作戦通り1回目の発表の1ヶ月前には2回目応募用の作品が完成し、すぐ応募した。
これも中編小説で都市ホテルを舞台にした「ナイトボーイの愉楽」という作品である。
応募先は小説現代より若干レベルが高いと言われる「オール読物」である。
これで最初の計画が終わったかといえばそうでない。ついでに3回目の応募に備えてもう1作書いておこうと思いすぐ執筆に取りかかった。
テーマは前々から考えていたものが5題ほどあったので、そのなかからニューヨークを舞台にした「マンハッタン西97丁目の青春」を選んだ。
今度は前2編と違った長編だが、経験を元にしたものであり、執筆にはそれほど苦労はなかった。
その作品を書き始めて1ヶ月ほどたったところで、1回目の応募作品の発表があった。発表の2~3日前からは、結果が気になって気もそぞろで何をするにも力が入らなかった。

メジャーな小説新人賞で連続3回予選突破
1回目の応募作の発表結果が載った「小説現代」を本屋で手にしたときは、期待と不安が交錯し、興奮したせいか体がガタガタと震えるのが分かった。
本屋で発売されたばかりの小説現代を手に手にするや否や、すぐ発表のページを探し当てると食い入るように自分の名前を探した。
多少気が動転していたせいか、文字が思うように目に入らなかった。
最初ざっと見渡した段階では自分の名前を見つけることはできなかった。応募作品は1200ぐらいあって、第1次通過作品は150ぐらいと最初に書いてあった。
これだけの通過数だと、ひょっとして自分の名前もあるのでは、と改めてはじめから食い入るように合格者名を見ていった。

そのとき初めて気がついたのだが、発表は県別になっているのだ。それに気がついてからは他のところは飛ばして、一気に兵庫県の合格者が載っている欄に目を移した。
6~7名の名前が載っていたが、その真ん中あたりに自分の名前があるではないか。
また体がブルッと震えるのが分かった。それから何度も何度も載っている名前を確認した。
念のためほっぺたをつねってみたりもした。
あったのだ自分の名前が。初めての応募で難関の新人賞の予選を通過したのだ。
それから数ヵ月たって、2回目の発表の日が来た。最初のときより少しは落ちついていたものの胸がキドキするのはそのときも同じであった。

2度目の予選通過で、ひょっとして小説家になれるかも、と思ったりした
今度のオール読物新人賞応募者は1回目の小説現代より多く1600名ぐらいいた。
これだと予選通過は厳しいかも、と半信半疑で合格者発表のページを眺めていた。
今度は県別にはなっておらずまったくのアトランダムなので見るのに時間がかかった。
それでも目を凝らして見ていくと、あったのだ。今回も名前が載っていたのだ。250名ぐらいの真ん中あたりに、ちゃんと自分の名前が載っていたのだ。
これでメジャー新人賞に2回連続して予選通過したことになる。ここへきて小説家への夢はさらに膨らんできていた。
そしてそれからしばらくしてあった3回目に応募した集英社「小説すばる」の発表の日がやってきた。
今回の応募作品は230枚の長編小説である。前回までの2作品はいずれも100枚程度の中編小説であったのだ。
やはり前回、前々回と同じように応募者は1000人を越えていた。でも1000人を少しだけ超えただけで、これまでのなかでは一番少なかった。
 さすがに3回目ともなると、落ちついて名前が探せたせいか、わずか数分で結果は分かった。
200名ぐらいの合格者の中に、また自分の名前が出ていた。
これで長編の作品も認められたことになる。
今回を入れるとはじめての応募から連続3回も予選を通過したことになる。
小説家を目指すのに、これ以上の良い出だしはない。そう言ってもいいくらい、最初から順調に進んでいたのだ。
そのときはこれで小説家への道が大きく開けた、と本気で思っていた。(以下次回)

 

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「小説新人賞」・かくも冷酷で厳しい世界


そもそもこのタイトルでブログを書こうと思ったのは、最近、五木寛之著「僕が出会った作家と作品」という本を読んだからである。

この本はここ40年間ぐらいにわたっての「直木賞」をはじめ、名だたる「文学新人賞」を受けた作者紹介と、その作品の選評集なのである。

その中には「小説現代」「小説すばる」の歴代の新人賞受賞者名も載っており、これには載っていない

 


「オール読物」を含めて、メジャーといわれる三賞すべてに過去において応募した経験のある私としては、40代終りからから50代はじめのその当時のことが懐かしく思い出され、本日のブログタイトルにしたわけなのである。


これらのメジャーな出版社による新人賞の審査員といえば、今をときめく実力派の有名作家ばかりである。

でも、皆さんはご存知だろうか。

そうした審査員が実際に目を通すのは「最終予選」を通過した僅か数点の作品だけだということを。

それもそうだろう。

これらのメジャーな文学賞には毎回一千点を超える作品が応募されてくるのだから、それらの多くの作品を僅か数人の審査員が目を通すということは物理的にもとうてい不可能なのである。

では一体誰が予選段階での作品を読んで審査するのであろうか。

それは「下読みさん」と呼ばれる主にフリーの編集者・評論家・ライター、といった業界の人間を主力にする、いわゆる「下読みのプロ」が担当しているのである。

それらの人による下読みで1次予選・2次予選・3次予選と上がっていき、そして最終候補作品数点が選ばれるわけなのである。

その数点のみが審査員の作家によって読まれ、審査員間で協議され、最終的に入賞作品が決定されるのである。

だいたいこうした方式が多くの出版社における新人賞応募作品審査のプロセスである。

まあこれはこれでいいとしよう。

実は私が今回のブログのサブタイトルにしている「かくも冷酷で厳しい世界」ということについてであるが、その理由のひとつは応募原稿に対する出版社の対応のことについてなのである。

一般的に考えて応募者にとって「原稿」というモノは非常に大切なものである。

それはそうだろう。

応募する作品を仕上げるのには多くの日時とエネルギーを費やしてきているのである。

人によって違いはあると思うが、数十日、あるいは数ヶ月、中には数年のものもあるかもしれない。

頭脳とエネルギーを使い、それだけ日数をかけて完成させたモノが大切でないわけがない。

その大切な原稿がである。

出版社に送付したあと、例外はあるが一般的には受け取り通知の一つもこないのが普通なのである。

まあ大方の応募者は安全を帰すため、郵送に当たっては普通郵便を使わず、配達証明付きかあるいは書留で送っているとは思うが、受取通知も送らない出版社の大柄な態度はどうかと思う。

私自身のことを言えば、40代後半から50代はじめにかけて、たて続けに三つの出版社の新人賞を応募したことがある。

その出版社というのは「オール読物」の文芸春秋社・「小説現代」の講談社・「小説すばる」の集英社であった。

その結果文芸春秋社と講談社は「なしのつぶて」で、僅か集英社だけがハガキの受け取り通知を送ってきた。

集英社だけが丁寧だったのは、それが第一回目の新人賞公募であったので、たぶん慎重をきすための従来からの出版界の常識を超えた例外的な扱いであったのに違いない。

私は小説新人賞に応募したのは始めてであり、文芸春秋社と講談社が大切な原稿送付に対して受けとりも何もこないことについて「どうして通知がないのだろうか、本当に担当者のもとに確実に着いているのだろうか」と随分不安に思ったものだ。

つぎに「冷酷で厳しい」という二つ目の理由を述べてみる。
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それは審査結果通知に関してである。

だいたい小説新人賞は直木賞、芥川賞などの半年に一回というのを除いて、大方のものは年に一回の募集である。

それらのいずれの賞には当然のごとく締切日があるが、ほとんどの人は締め切りの一ヶ月前ぐらいまでには原稿を送るであろう。

そしてその締切日から入賞作品発表までが長く、通常四〜五ヶ月ぐらい先なのである。

したがって応募者は今か今かと発表を首を長くして待つことになる。

そしてやっとやって来た発表であるが、またもや審査結果通知などはまったくこなくて、予選通過作品が載る月の発売された雑誌を見て確認するしかないのである。

応募者としては期待と不安の入り混じったドキドキする胸を抑えながらその雑誌を見るのである。

そして応募作品のわずか1割にも満たない予選通過作品の中から自分の作品名を探すのだが、その中に自分の作品を見出せなかったときの気持はいったいどんなものだろう。

数ヶ月かけた「汗と知恵の結晶」とも言える大切な原稿の束が一瞬にして「もくずと消えて」しまったときの気持は。

そうした応募者の気持などまったく察することがないように、出版社側は個々にはなんの結果通知も送らず、「勝手に発表された雑誌を見ればいい」というその態度が応募者にはいかにも冷酷に感じるのである。

私個人としては応募した作品3点がいずれも厳しい予選を通過したのであったが、落ちた9割にも及ぶ多くの作品の応募者ことを考えて、自分自身、応募原稿に苦労してきたがゆえに決して他人ごととは思えず、そうした出版社の冷酷で厳しい態度について、その当時は切実に考えたものであった。

いずれにしても「文学新人賞応募」という世界も、また厳しいものである

 

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小説新人賞の応募作品 ・ いったいどのように審査されるのだろうか

 

ほとんどの応募作品が”下読みさん”と呼ばれる予備審査員の目に触れるだけで終わってしまうという事実

 

過去のブログでもこれまで何度か書いてきたように、私は40代後半の一時期、大手出版社募集の小説新人賞に数回にわたって応募した経験がある。

 

そうした際に私は、応募した作品はどのようなプロセスで審査が行われるかということに少なからず関心を抱いていた。

 

そしてその関心は、当然のごとく小説新人賞の審査についてのいろいろと情報を探してみたいという気持ちに変わっていった。

 

でも、そのころはまだインターネットはそれほど発達しておらず、検索サイトでそうした情報をつかむことは容易ではなかった。

 

したがって、それについてある程度信頼性のある情報を得たのは、それから7〜8年後のウインドウズ98が世に出た後であった。


そして小説新人賞の審査は、予選段階では審査員になっている作家はまったくタッチすることなく、すべて「下読みさん」と呼ばれる予備審査委員によって行われるということを知ったのである。

 

それまで私は、審査の最初から審査員である作家が作品の目を通すものとばかり思っていたので、この事実には少なからず驚かされた。


でも、よく考えてみれば、一度に1000件を超える応募作品をわずか数人の作家が読むことは困難だと気がつき、多くの「下読みさん」が手分けして作品を読んで審査するという事情も後になって理解できた。


でも気になるのはその下読みさんたちの質である。はたしたそうした人たちは応募作品を正しく評価することができるのだろうかと、その点が気がかりだった。


その後、そうした「下読みさん」についてさらに詳しく解説しているネットのサイトが見つかった。
「下読みさんの素顔」というタイトルの記事であった。


私はその記事に強い関心を抱き、まさに興味津々と言う気持ちでむさぼり読んだものだ。


その記事は「下読みさん」と呼ばれる人種がどのような人たちなのであるかについて詳しく説明してあった。


一般的には、編集者・評論家・ライターなどがその任務に当たるのだが、その他にも、下読みの仕事をしている人がたくさんいるのだとという。


例えば無名の新人作家。彼らはまだあまり売れる原稿が書けなくて収入の少なく、アルバイトとして下読みの手伝いをするのである。


こうした下読みさんによる審査について、大切な小説の応募原稿がたった一人の下読みの人にしか読まれずに判断されてしまうということに対して、不安を感じる応募者もいるかもしれない、

 

でも、たとえばエンターテインメント系の作品などは、誰が読んでも面白いものは面白い、誰が読んでもつまらないものはつまらない、というのが非常にはっきりとしているものなので、少なくとも、大賞候補になるような作品が下読みさんによる一次選考で落とされてしまうなどということは絶対にないと、審査担当の編集者は語っている。


一般的に言って、下読みという仕事は精神的にも体力的にも非常にハードで、中には、一回やっただけで「二度とやりたくない」と言って逃げ出す人もいるほどだ。
 

特に長編の下読みは低賃金重労働で、朝起きてから夜寝るまで、食事とトイレ以外は、ひたすら原稿を読み続けている、というような状況も珍しくない。


たとえば50枚の短編に比べて500枚の長編の場合、単純に読むのに10倍の時間がかかる。しかし、もらえるギャラは、せいぜい2〜3倍でしかない。時給に換算すればコンビニでアルバイトをしたほうが高給になることさえあるのだ。
 

そんなハードな仕事を、なぜ「下読みのプロ」として続けているのかといえば、それは出版界で働く人間として、一人でも多くの優秀な新人作家を世に送り出したい、という思いがあるからなのだ。それに未来の作家である応募者への愛があるからだ。

 

そうした彼らによってふるいにかけられた作品が二次選考(編集部内の選考会議)にあげられ、それらの作品を 編集部全員で読んで、最終選考に残す作品を選ぶのである。

 

規模の大きな賞では、そのごさらに三次選考〜が入る場合もある。


その後、最終選考(選考委員による選考会)がおこなわれるわけだが、

ここで始めて編集部内での予備選考を通過した作品のコピーが、最終選考の選考委員である、プロの作家の先生方に届けられる。


この時点で初めて、事前に公表されている選考委員の先生方に、原稿を読んでいただけることになるわけである。
 

そして選考委員が一同に会して、最終選考会が行なわれ、入選作品が決められることになるのだ。


これが大まかな小説新人賞誕生までのプロセスであるが、どうですか?このブログをお読みのあなたは「下読みさん」という予備審査員の存在についてご存知であっただろうか?



   小説新人賞の舞台裏もなかなか奥が深いものである。

 

 

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おもしろくなくては小説ではない! ・ 私の小説作法(1) 

 

タイトルも大事だが、出だしの1~2ページはもっと大事

 

面白くなくては小説ではない、これはわたしの小説に対する至上命題と言っても良いでしょう。

 

ということは自分が読むものは面白くなければ小説と認めませんし、反対に自分が著者になる小説は読者に面白いと認められるものしか書きません。

 

そのためには、読む小説を決める際はまず中身をよく吟味することが必要になります。

 

つまり読むに足る面白い小説であるかどうかを事前によく確かめるのです。

 

どうして確かめると言えば、まず出だしの部分である最初の1~2ページぐらいを注意深く読んでみるのです。

 

おもしろい小説は最初の出だしからエキサイティングな要素を含んでおり、「これは面白そうだ」と、読者を惹きつける力をじゅうぶん持っているものです。

 

なぜなら作者が「おもしろい小説だから最後まで読んでほしい」というメッセージを読者に送るために、精魂を傾けて書いているのが書き出しの部分だからです。

 

逆にこの部分に面白くて惹きつけられる要素のない小説は、いくら読み続けてもクライマックスに到達せず、「最後まで読んだが、面白くなかった」という結論に達することが多いのです。

 

おもしろい小説は最初の1~2ページにインパクトがある。これは間違いない事実です。

 

私の中編小説5編の最初のページを紹介します

 

一時期、作家を目指して小説新人賞に応募を続けていました。

 

応募する以上は良い結果を出したい。そう思って、面白くて魅力ある作品づくりに励みました。

 

その甲斐あって最初に応募した3つの作品がすべて難関といわれる有力新人賞の一次予選を突破しました。

 

ここに紹介する5編の中編小説のうち2編がそれに該当する作品です。

 

なお、その他の3編は応募外の作品です。

 

 

 

 『編む女』  (小説現代新人賞 1次、2次予選通過作品)

 

 「くそっ、あのカップルめ、うまくしけ込んだもんだ」

 

 前方わずか4~5メートル先を歩いていたすごく身なりのいい男女が、スッとラブホテルの入り口の高い植木の陰に隠れた時、亮介はさも羨ましそうにつぶやいて舌打ちした。

 

 「あーあ、こちらがこんなに苦労しているというのに、まったくいい気なもんだ」と、今度はずいぶん勝手な愚痴をこぼしながら、なおも辺りに目を凝らして歩き続けた。

 

 亮介は、これで三日間、この夜の十三の街を歩き続けていた。

 

 はじめの日こそ、あの女め、見てろ、その内に必ず見つけ出してやるから、と意気込んでいたものの、さすがに三日目ともなると、最初の決意もいささかぐらつき始めていた。

 

 時計は既に十一時をさしており、辺りの人影も数えるほどまばらになっていた。

 この夜だけでも、もう三時間近くも、この街のあちこちを歩きまわっていたのだ。

 

 「少し疲れたし、どこかで少し休んで、それからまた始めようか、それとも今夜はこれで止めようか」

 

亮介は迷いながら一ブロック東へ折れて、すぐ側を流れている淀川の土手へ出た。 道路から三メートルほど階段を上がって、人気のないコンクリートの堤防に立つと、川面から吹くひんやりとした夜風が汗ばんだ両の頬を心地よくなでた。

 

 「山岸恵美」といったな、あの女。城南デパートに勤めていると言ってたけど、あんなこと、どうせ嘘っぱちだろう。でも待てよ、それにしてはあの女デパートのことについて、いろいろ詳しく話していた。

 

とすると、今はもういないとしても、以前に勤めたことがあるのかもしれない。それとも、そこに知り合いがいるとか。ものは試し、無駄かもしれないけど、一度行ってみようか。

 

そうだ、そうしてみよう。なにしろあの悔しさを晴らすためだ。これきしのことで諦めるわけにはいかないのだ。

 

川風に吹かれて、少しだけ気を取り戻した亮介は、辺りの鮮やかなネオンサインを川面に映してゆったりと流れる淀川に背を向けると、また大通りの方へと歩いて行った。

 

 それにしてもあの女、いい女だったなあ。少なくともあの朝までは。

 

 駅に向かって歩きながら、亮介は、またあの夜のことを思い出していた。

 

 とびきり美人とは言えないが、あれほど男好きのする顔の女も珍しい。それに、やや甘え口調のしっとりとしたあの声、しかもああいう場所では珍しいあの行動。あれだと、自分に限らず男だったら誰だって信じ込むに違いない。

 

 すでに十一時をまわっているというのに、北の繁華街から川ひとつ隔てただけの、この十三の盛り場には人影は多く、まだかなりの賑わいを見せている。

 

それもそうだろう。六月の終わりと言えば、官公庁や大手企業ではすでに夏のボーナスが支給されていて、みな懐が暖かいのだ。 「ボーナスか、あーあ、あの三十八万円があったらなあ」

 

 大通りを右折して阪急電車の駅が目の前に見えてきた所で、亮介はそうつぶやくと、また大きなため息をついた。

 

 

 

『ナイトボーイの愉楽』  (オール読物新人賞1次予選通過作品)

 

いつもなら道夫は梅田のガード下でバスを降りて、そこから職場のある中島まで歩いて行く。でもその夜は阪神百貨店の前で南へ向かう路面電車に乗ることにした。

 始業まであと十二~三分しかなく、歩いてではとうてい間に合わないと思ったからだ。

 

 商都大阪にもその頃ではまだトロリーバスとかチンチン電車が走っており、今と比べて高層ビルもうんと少なく、街にはまだいくばくかの、のどけさが残っていた。

 

 これは道夫がちょうど二十になった時の昭和三十七年頃の話である。

 

 電車は時々ギイギイと車輪をきしませながら夜の街を随分ゆっくりと走っているようであったが、それでも五分足らずで大江橋の停留所へ着いており、歩くより三倍位は速かった。

 

電車を降りて、暗いオフィス街を少し北に戻って最初の角を右に曲がると二つ目のビルに地下ガレージ用の通路があって、それを通るとNホテルの社員通用口には近道だ。

 

 始業まであと三分しかない。ロッカールームで制服に着替える時間を考えると、どのみち間に合わないとは思ったものの、この際たとえ一分でもと、そのガレージの斜面を小走りに下って行った。

 

そのせいか、タイムカードに打たれて時間は九時五十九分であやうくセーフ。でも地下二階のロッカールームで制服に着替えて職場のある一階ロビーまで上がって来た時は、十時を七分も過ぎていて

 

ちょうど昼間のボーイとの引継ぎを終え、まるで高校野球の試合開始前の挨拶よろしく、向かい合った二組のボーイ達が背を丸めて挨拶している時だった。

 

 まずいなこりゃあ 引継ぎにも間に合わなくて。今月はこれで三度目か。リーダーの森下さん怒るだろうな。 道夫はそう思ってびくびくしながら森下が向かったフロアの隅にあるクロークの方へ急いだ。

 

 森下はクロークの棚に向かって、その日預かったままになっている荷物をチェックしていた。

 

 「浜田です。すみません、また遅刻して」 道夫は森下の背後からおそるおそる切り出した」

 

 「浜田か。おまえ今日で何度目か分かっているのだろうな」

 

 「はい。確か三度目だと思いますが」

 

 「そうか。じゃあこれもわかっているだろうな。約束どおり明朝から一週間の新聞くばり」

 

 「ええ、でも一週間もですか? そりゃあちょっと」

 

 「この場になってつべこべ言わないの。約束なのだから」

 

 道夫はつい一週間前も二日連続で遅刻して、罰として三日間、朝の新聞くばりをさせられたばかりだ。

そしてもし今月もう一回遅刻したら翌朝から一週間それをやらせると、この森下に言われていたのだ。

 

 あーあ、また一週間新聞くばりか。 想像するだけで気持ちがめいり、そう呟くと森下の背後でおおきなため息をついた。

 

 

下津さんの失敗ナイトボーイの愉楽(part2)  
浜田道夫が二十一歳になったその年の七月は何年に一度かというような、すこぶる涼しい夏で、月の終りになっても熱帯夜だとかいう、あのむせかえるような寝苦しい夜はまだ一度もやってきていなかった。

 

 もっとも週のうち六日間を快適な全館冷房のホテルで過ごす道夫にとっては、その熱帯夜とかもさして気になる代物でもなかったのだが。

 

 とにかく涼しい夏で、巷ではビアガーデンの客入りがさっぱりだと囁かれていた。

 

 そんな夏のある夜のこと、道夫は例のごとくまたエレベーター当番にあたっていて、切れ目なくやってくる客を乗せては、せわしげにフロアを上下していた。

 

 あと十分もすればその当番も終りになる十一時少し前になって、それまで間断なく続いていた客足がやっと途切れ、ロビーに立ってホッと一息ついた。

 

 エレベーター前から広いロビーを見渡すと、人影はもうまばらでフロント係がボーイを呼ぶチーンというベルの音だけがやけに周りに響きわたっていた。

 

 十一時か、チェックインあとどれぐらい残っているんだろう。今夜はしょっぱなからエレベーター当番で、まだ一度もあたっていないんだ。

 

十二時まであと一時間の勝負か。たっぷりチップをはずんでくれるいい客に当たるといいんだけど 

 

所在なさそうにロビーを見渡しながら胸の中でそうつぶやいた。

 

 二~三度連続して気前のいい新婚客にでも当たらないかなあ。

 

 またそんな虫のいいことを考えながらさらに二回エレベーターを上下させ、一階に下りてきたときは十一時を三分ほどまわっていた。

待っているはずの次の当番、下津の姿はまだなかった。

 

 「チェッ、下津さんまだ来てない。二~三分前に来て待っているのが普通なのにほんとにあの人はルーズなんだから、来たら文句のひとことふたこと言ってやらなければ」

 

 

 

 『直線コースは長かった』

 

桜も散り青葉が目にしみる五月に入ったばかりの月曜日のその日、

外には爽やかでこの上なく心地よい春風がふいているというのに、久夫は退社時の夕方になっても、まだむしゃくしゃした気分をもてあましていた。

   

「ちくしょう、あのパンチパーマの野郎め!」

 

事務所を出て、いつものように駅前のバス停に向かって歩きながらまたこみ上げてくる新たな悔しさから、腹の底から呻くような声でそう呟いた。

 

ついこの前までは丸裸だった歩道のイチョウの木には、いつの間にかまた青々とした葉が生い茂っており、いつもなら延々とつづくそのイチョウの並木を感慨深く眺めて歩く久夫だが、その日だけはそれもとんと目に入らなかった。

 

 それにしてもうまく引っ掛かったもんだ。どうだろう、あの見事な騙されぐあいは、いったいあんなことってあるのだろうか?

 

バス停へ向かう道を半分くらいあるいたところで、昨日の競馬場での出来事をまた苦々しく思い出していた。

 

その日曜日も空は澄みわたっており、風は爽やかだった。

 

駅前から北へ向かい、街並みが少しだけとぎれて、自衛隊の駐屯所があり、そのちょっと手前に競馬場はある。

久夫がそこへ着いたのは昼少し前で、ちょうど場内アナウンスが第二レースの発走まであと五分だと伝えていたときだった。

 

去年本社のある大阪からこの町の支店に赴任してきて、ここへ足を運ぶのは二度目のことだった。

 

久夫は競馬にかぎらずギャンブルはあまり好きなほうではない。

それなのに日曜日のこの日、昼前からここへやってきたのは、朝起きてベランダへ出たとき、空があまりにも青く澄みわたっており、吹く風がこの上なく爽やかだったからだ。

 

つまり、心地よい春の風に誘われてというわけなのだ。

 

でも、正直いうとそれだけが理由ではない。

三ヶ月ほど前、職場の同僚に誘われて、さして気の進まないままここへやってきて、よくわからないまま当てずっぽうで買った第七レースの穴馬券が見事的中して、千円券一枚が九万四千円にもなったのだ。

その後のレースで一万円ほど負けたが、その日の儲けは八万円以上あった。

 

空の青さと風の爽やかさに誘われてやってきたと言えば聞こえはいいが、実のところ、あの日の甘い汁の味も忘れられなかったからなのだ。

 

 

 

『紳士と編集長』

 

 その初老の紳士が話しかけてきたのは、僕が駅前バス停前の、地下街入り口のコンクリートの囲いにもたれて、その月発刊されたばかりの雑誌の目次に目を通している時だった。

 

おおかたの月刊雑誌と同じサイズでA5版のその雑誌は、厚みこそ週刊誌並ではあったが、〈リベーラ〉という名前にどことなく知的な雰囲気を漂わせていて、目次を読む段階ですでに僕をすっかり魅了していた。

 

「あのすいませんが」

 

その紳士はセリフこそ月並みであったが、すこぶるトーンのいい上品な声でそう話しかけながら僕のすぐ横に立っていた。

 

「はい。なんでしょうか」

 

クリーム色の薄手のスーツを粋に着こなしたその身なりのいい紳士にチラッと目をやって、わずかな警戒心を抱きながら、僕もまた月並みの返事をした。

 

「今お読みのその雑誌、今月発刊されたばかりのリベーラですね」

 

「ええそうですが、それがどうか」

 

警戒心は少ないものの、見ず知らずの人からの思わぬ質問に、やや当惑気味にそう答え、あらためてその紳士に視線を送った。

 

六十を少し超えているだろうか、頭髪はほば半分くらい白く染まっているが、黒とまだらになったその髪が妙に顔立ちとあっていて、それがこの人の風貌をより魅力的に見せていた。

 

「いかがですかその雑誌。おもしろいですか?」

 

さっきより少し表情をくずして紳士がまた聞いた。

 

「ええまあ。中身はこれからですが目次を読んだかぎりではなかなかおもしろそうですね。それにこの表紙とか装丁とかもこれまでのものにないユニークさもっていて」

 

何者かはわからなかったが、そこはかとなく上品さを漂わせているその紳士に、僕はもうすっかり警戒心を解いていて、思ったまま正直に感想を述べていた。

 

 

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小説の書き方について、多くの作家が共通して言っていること

 

これまで10作の小説を書いてきた。そのうち1作だけが長編で、あとはすべて100枚前後の中編小説である。

 

それら10の作品の中から最初に書いた3作を小説新人賞に応募した。

 

応募対象は講談社、集英社、文芸春秋社でいずれもメジャーな出版社が主催する新人賞である。

 

そして結果は3作すべてが厳しいと言われている予選を通過した。われながらこれは快挙だと思っている。

 

初めての応募で、しかも最初から3回連続で予選を通過するということは稀なことだとも言われている。


このことは生涯を通しての、私が胸を張って自慢できることのひとつである。


さて、小説を書くということに関して、まだその経験のない人にとっては、「それはとてつもなく困難なことだ」と思っている方が多いのではないかと思う。


たとえ文章を書くことが好きな人でも、こと小説となると別問題で、実行に移すとなれば少なからず躊躇して、簡単には行動に踏み切れないのではなかろうか。


実はこの私も最初はそうだった。


したがって、それを克服するために、これでもか、これでもかというぐらい、いろいろな小説の書き方に関する指南書を読んだ。

 


ここで今も手元にあるそれらの本の書名を挙げてみることにする。

 

・ベストセラー小説の書き方 「ディーン・R.・クンツ著・大出 健訳」 朝日文庫

・ロマンス小説の書き方 「ヘレン・B・バーンハート著・池田志都雄訳」 講談社
・ミステリーの書き方 「ローレンス・トリート編・大出 健訳」 講談社
・推理作家製造学 「姉小路 祐著」 講談社
・対談 小説作法 「中野孝次編」 文芸春秋社
・小説の書き方 「野間 宏編」 明治書院
・小説の書き方 「井上光晴著」 新潮選書
・物書きになる方法 「山本祥一朗著」 三一書房
・まだ見ぬ書き手へ 「丸山健二著」 朝日新聞社
・小説読本 「吉行淳之介著」 集英社文庫


これらはすべて小説を書くための指南書であるが、小説に限らず、例えばノンフィクションであるとかの他の分野のものを入れると私の書棚にあるものだけで、おそらくこれの2倍には達するであろう。

さて、これら多くの指南書であるが、説明の順番やプロセスには若干の違いはあるが、小説の書き方について、これらの本のすべての著者が共通して力説していることが一点ある。

それはこういうことである。


テーマであるとかストーリーやプロットについて考えることは当然必要だが、あまり考えすぎず、

 

大まかな構成が決まったら細部にまで考えをめぐらすことなく、まずは書き始めること。

 

そうして書き始めると最初の一文が次の一文を呼び、知らぬうちに次へ次へとどんどん書き進んでいけるものだ。そして、ある程度まで進んだら、不思議なことに、書き手の不安な気持ちをよそに、主人公が勝手に動き始めて、勝手にスートリーを展開させていくことがよくあるのだという。

 

言うならば、主人公をはじめ、登場人物が勝手に動いてストーリーを展開してくれるのだ。

 

このことについては文章で説明しても、理解してもらうのが難しいと思うのだが、要は机の前で、ああでもない、こうでもない、と考えてばかりしていないで、思いついたことをどんどん書き進めていくことの重要性を説いていることと、それによって起こる思いがけない相乗作用について述べているのである。

 

そしてさらに著者たちは口をそろえてこう言う。


「完成した作品は考えていたストーリーとは少し違ったものになったりすることもあるが、結果としては満足できるものになった」と。

 

要するに小説は樹木が枝葉をつけていくように、しっかりとした幹さえあれば、その後は枝が枝を呼んで葉をつけて、最後には自然に立派な木に成長するということなのではなかろうか。


こうしたことは、私自身も小説を書いていて実感として味わったことが幾度もある。


かく言う私も、こうした机上の空論ばかりでなく、できたら一冊でもベストセラー小説を世に出してみたいものだ。

 

 

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2015年7月21日火曜日

あなたが書いた文章に誤字脱字はないですか? ・ 誤字脱字と文学賞にまつわる忘れられない話

文豪夏目漱石にも誤字脱字はあった

 

文章には誤字脱字はよくあることです。言い換えれば文章には誤字脱字はつきものと言ってもいいかもしれません。

出版社や新聞社に必ず校正部員や校閲部員がいるのを見ればそれがよく分かります。

とはいえ、この誤字脱字も場合によっては単なるミスではすまないこともあります。

たとえば文学賞の最終選考に二つの作品が残ったとします。どちらも甲乙つけ難い傑作です。でも入賞作を1点だけ選ばなければなりません。

この場合、作品の内容では優劣が決められないとすれば、何を基準に決めれば良いのでしょうか。

それには決して良い方法とはいえませんが、「アラ探し」もひとつの方法です。つまりミスを探すのです。

とはいえ、最終候補に残ったような作品には言葉づかいなどの、文章上のミスなどまずありえません。

では誤字脱字はどうでしょうか。

文豪夏目漱石でさえ誤字脱字は少なくなかったと言われています。漱石でさえそうなら、文学賞応募レベルの作品に誤字脱字がないとは限りません。

ということで選考委員は必死になって二作品の誤字脱字を探しました。

すると、かろうじて一つの作品の方に送り仮名のミスを一ヶ所見つけ、それを理由にもう一つの作品を最優秀作にした、という話を聴いたことがあります。

これこそまさに致命的なミスの他の何物でもありません。

 

文学作品の誤字脱字は大目に見られる?

 

上のような話がある反面、新人文学賞の選考では誤字脱字は決定的なミスとはみなされない、とも聴きます。

いや、「聴きます」というような他人ごとではなく、これについては私自身が直接体験したしたことです。

40代の頃、私は大手出版社のメジャーな新人文学賞に立て続けに3回応募しました。

ターゲットは講談社、文芸春秋、集英社でした。

一作だけでは厳しい予選を通過するのは無理と思い、「下手な鉄砲もなんとか」で発表を待たず連続して3回応募したのです。

自信はからきしありませんでした。ところがです。驚くなかれ3作とも難関と言われる一次予選を突破したのです。

あの時はまさに天にも昇るような感激でした。

3作品のうち、1作品は2次も突破したのですが結局それで終わりました。


でも今日の話はそんなことではありません。

実は後になってこの3作品に大変なミスがあったことが分かったのです。

どんなミスかと言いますと誤字脱字が大量にあったのす。

その頃の私は仕事も含めて文章を書くのにワープロを利用していました。

ところが当時のワープロはお粗末なもので、キーボードの文字配列にしても今のものと違って左からABC・・・という風にアルファベットの順番どうりに並んでいたのです。

忘れもしません、キャノンが初めて発売したワードボーイという製品でした。

若い頃から英文タイプのキーボードに慣れていた私にとって、これは使いづらいことこの上ありません。

応募した3つの小説はそのワープロを使って書いたものです。大量の誤字脱字が出たのはそのせいかもしれません。

誤字脱字は一つの文章に一つか二つあっても恥ずかしいことなのですが、そのときはひとつの作品だけでも実に30箇所以上あったのです。

ということは三作品あわせれば100箇所近くあったことになります。

そうなのです。中編小説三作品併せて320枚の原稿用紙に合計110箇所の誤字脱字があったのです。

これは信じられないことです。なぜならそれらがすべてメジャーといわれる文学新人賞の予選を通過した作品だったからです。

つまり 「よくもまあ、これだけ誤字脱字が多い作品が厳しい予選を通過したものだ」 と思ったのです。

因みに三つの文学賞とも応募作品は1000点以上あり、中でも文芸春秋のオール読物は1700編もありました。

その中で一次通過は1割程度です。その狭い門を誤字脱字だらけの三作品がすべて通過したのです。これはまるでミステリーのような話ではありませんか。

その後私は長い間その理由について考えました。

誤字脱字も当然選考理由の一つであるはずなのに、何故あれだけ大量のミスが見過ごされたのか、その理由が知りたかったからです。

でも誰に聴くこともなく 「小説などの文学作品は誤字脱字より中身の方が優先される」 という結論に達したのです。

 

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2020年3月27日金曜日

文章はひねり出して書くもの

 

作家が締切りに苦しめられるのはなぜか

 

〆切本という本があります。左右社という出版社から出ている〆切にまつわる作家たちのエピソード

 

を集めたエッセイ集です。

 

これには多くの作家たちが〆切にまつわる話を書いていますが、そのほとんどは苦しめられた話です。

 

そうなのです。〆切とは作家にとって苦しめられるだけのもので、年から年中これと闘い続けているのです。

でもなぜ作家は〆切に追われ、苦しめられているのでしょうか。

 

その答えは簡単です。引き受けた原稿がなかなか書けないからです。

書くことのプロである作家でさえ、簡単に文章が書けることはないのです。

 

大抵はいやいやながら、なんとかして作品になるような文章をひねり出そうと、いつも〆切に急かされ悪戦苦闘しながら書いているのです。

 

 

作家といえども文章がスラスラ出てくることはない

 

書くことのプロであるはずの作家がいつも締切りと闘い続けているのは執筆に気が乗らなかったり、アイデアが浮かばなかったりして原稿がなかなか書けないからです。

 

作家だからといっていつも文章がスラスラ出てくるわけでもないのです。それどころかいつも頭を絞って文章をひねり出していることのほうが多いのです。

 

出版社から仕事を引き受けたのはいいのですが、なかなか手がつけられずに気がつくといつも締切が迫っている、というのがお決まりのパターンと言っても過言ではないのです。

 

 

文章とは苦しみながら書くもの

 

ある朝、一人の物書きが出版社から頼まれたエッセイを書こうと机の前に座りました。でもすぐ執筆には入りません。タバコを吸ったり、お茶を飲んだりしながら、まずウォーミングアップのあれこれから始めます。

 

でもタバコは2本、3本と増え、お茶も2杯、3杯とお変わりしていきますが、肝心のペンの方はいつまでたっても握りません。

 

そうするうちに昼がやってきたのでランチにし、その後眠気が襲ってきたので昼寝をし、気がつくと2時近くになっているではないですか。

 

いかん、いかんと気を引き締めてやっとの思いでペンを取りました。そしてなんとか最初の1行を書きました。続いて2行目、3行目と進みたいものの、どうしても次の文章が出てきません。

 

 

気が向かなくても無理してでも書かなければいけない

 

作家は書くことの才能があるはずです。でもいつも書いているとネタ切れで書くことが無くなってしまいます。その結果、いつも何を書こうかと、題材探しばかりに時間を費やすようになります。

 

ああでもない、こうでもない、とあれこれ考えているうちに時間はドンドン経過します。そして何も書けないまま昼が過ぎ、やがて夕方になり、そして気がつけば外が暗くなりかけており、それでも何も書けないことに気がついて愕然とするのです。

 

ものを書くことが仕事の作家なのに、こんなことが珍しくないのです。

 

ものを書くことには常に困難さが伴うからです。でも無理をしても書かなければなりません。なぜなら〆切があるからです。

 

 

締切りがなければ物書きの仕事は成り立たない

 

物書きにとって〆切はイヤなものです。いつも苦しめられるばかりで、嬉しいことはなにもないからです。

 

では〆切がなければどうなのでしょうか。はたして仕事はかどるでしょうか。

 

答えはノーです。はかどるどころか、いつまでたっても手がつけられず、原稿は一向に進展することはありません。

 

それを食い止めるのが〆切なのです。締切があるからこそ、物書きはいやいや執筆を始め、苦しみながら無理をして文章をひねり出しているのです。

 

 

気がつけばそれなりにまとまった文章が書けている

 

〆切に迫られて苦しみながら無理をしてひねり出した文章でも、気がつけばなんとか終わりに達しているものです。

 

でも無理してひねり出したものなので出来が悪いのでは、と心配になります。

 

恐る恐る読み返してみると、心配には及ばず、なんとかまとまった形になっているではないですか。

 

そうなのです。文章は無理してひねり出しても、書く人が書けば、それなりの形におさまるものなのです。