2010年7月27日火曜日

大学の宣伝だらけ「電車の中吊り広告」

電車を利用する多くの人はすでに気づいていると思うが、
このところ急激に増えているのが大学宣伝のための「中吊り広告」である。

この中吊り広告、効果のある広告媒体として人気が高いが、近年は景気の影響やインターネット広告に押された従来型媒体による広告費総額縮小の影響を受けて、一時に比べやや減少傾向にあるようだ。

そうした中で減少どころか、このところ急激な増加を見せているのが、大学の宣伝広告である。

特に夏休み前の時期などは各校が競ってオープンキャンパスの案内広告を所せましと並べていて、まさに花盛りという観なのだ。

一昔前に、電車の中吊り広告が今のように「大学の宣伝広告花盛り」という状態になることなど、いったい誰が予想できたであろうか。

インターネット情報によると関東のT私立大学などは、年間10億円近い金額を広告費として投入しているというから驚きである。

これほどの金額でなくても1~2億円をかける大学はいまや少しも珍しくないのである。

まるでモノを作って販売する企業のごとく、大学がこうした状態になってきたのは、もちろんその第一には少子化による影響が大きいのだが、そのこと以前に、不必要に大学の数をやたらと増やしたことの方に、むしろ元になる大きな原因があるのではないだろうか。

それを証明するように、偏差値の高いもともとブランド力のある大学の広告は少なく、目立つのは偏差値の低い大学ばかりなのである。

しかし、今でこそなんとか広告費を捻出できているそうしたマイナーな大学も、生徒数減少に直結する収入減少から、いつまでも高い広告費を工面することは困難となり、やがて淘汰の方向へと進むことは明らかである。

そしてそれらの淘汰が終わり、残るべくして残った大学だけの社会に戻ったとき、中吊り広告の「大学の宣伝花盛り」という状態も無くなり、また本来の正常なスポンサーによる広告に戻っていくのではないだろうか。

それこそが望ましいことであり、そう言えるほど今の状態が異常なのではないだろうか。

2010年7月26日月曜日

プロ野球オールスター戦をいまだに「夢の球宴」と呼ぶスポーツニュース女子アナウンサー

年々その人気が衰えてきているプロ野球オールスター戦だが、先日の開催当日、夜のスポーツニュースで女子アナウンサーがこのゲームを指して「夢の球宴」などと、今時としては「死語」になっているとも思える言葉を使っていた。

言葉を売りものにするアナウンサーとして、この時代感覚の無さは一体どういうことだろうか。

そもそも「夢の球宴」とは何を意味するのか、当人ははっきり認識しているのだろうか。

それは言わずと知れたセパ両軍の人気選手が一堂に相集うことを指して言うのであるが、今時これがなぜ「夢の競演」なのであろうか。

いまや大リーグさえ国内で常時テレビ中継されているし、プロ野球のTV中継も以前よりずっと増えている。
しかも数年前からは「セパ交流戦」や「世界選手権大会」なども始まっており、人気選手の姿を目の当たりにすることは今や日常茶飯事にさえなっているのである。

したがって人気選手の集合など珍しくも何ともないのである。

なのになぜそれを「夢の球宴」などと言うのであろうか。

これはアナウンサーとしては大失態であり、大きく減点されてしかるべきである

世の中は進化を続けており、それゆえに時代にそぐわない言葉も時として出てくることはあるのだ。

アナウンサーとして、最も大切なことは「言葉づかいのセンス」であり、常日頃からそれを磨くことに最大の努力を払わなければいけないのではないか。

今時、オールスター戦を「夢の球宴」などと言うのは、
新幹線のことをいまだに「夢の超特急」と呼ぶようなもので、聞く側に大きな違和感を与えるとともに、なんとも言えない「おもはゆい」思いを抱かせるものなのである。

今年、レンホーさんの「一番でなければ駄目なのですか。二番じゃいけないのですか」というセリフが爆発的な人気を博したが、大衆はメディアに現れる人たちの言葉づかいに敏感である。

言葉づかいのプロであるアナウンサーは、一般大衆の師となる立場にいると言っても過言ではない。

どうかそのことについて認識を深め、研鑚に励んで欲しいものである。

2010年7月25日日曜日

外国人ブロガーの信じられないほど多い趣味の数

まず下を見て欲しい。これは「google blogger」のプロフィール欄に載せている或る米国人ブロガーの趣味の欄である。

「趣味」
Writing, reading, literature, poetry, novels, fiction, memoir, Zen Buddhism,

postpartum depression, piano, Harry Potter, Twilight series, 80s music, 90s

music, world religions, libraries,

interior design, meditation, film

adaptation, graphic novels, PSP, role-playing games, fashion, cooking, ethnic cuisine, travel, jewelry making,

alternative medicine, yoga, photography, botanical gardens, thunderstorms, butterflies, fashion


見た瞬間、思わずこちらの目を疑った。

その数、なんと「36」である。

ことわっておくが、これは或る一人のアメリカ人の趣味の数である。

わたし達日本人としては、まるで比較する術もないほど、実に驚くべき数なのである。

でも、ここに上げた例に限らず、外国人ブロガーのプロフィール欄をつぶさに見ていくと、これほどの数でなくても、20種類やそこらの趣味を並べている人たちを目にするのはそれほど珍しいことではないのである。

この驚くべき数の趣味を眺めて考えさせられることは、どうやら我々日本人に比べて、彼らの趣味というものに対する概念は根本的に違っているのではないかということである。

つまり彼らが意味する趣味とは「好きなこと」とか「日常生活で回数を重ねてしばいば行うこと」それら全般をさしていて、我々日本人が履歴書に書くような、特に人に誇れるような得意なことを指して言っているのではないような気がする。

そうでないと,趣味としてこれだけ数多くのモノを並べることはとうていできないはずである。

こうした考えを少しでも立証できたらいいな、と思い

念のため英和辞典と和英辞典で趣味について確認してみた。

まずわれわれが「趣味」と聞いてすぐ思い浮かべる英単語「hobby」から調べてみた。

これに対しての訳語はまず予想どおりで「趣味、道楽、十八番、得意なこと」などというものであった。

次に、今度は和英辞典で「趣味」として調べてみた。

· 趣味

o avocation〈文〉

o favorite pursuit

o gusto

o hobby

o interest

o leaning

o like

o liking

o occupation

o one's principal relaxations

o palate(知的または美的)

o penchant〔【語源】フランス語〕

o pursuit

o schtick〈俗〉(その人の特徴をよく表す)

o shtick〈俗〉(その人の特徴をよく表す)

o shtik〈俗〉(その人の特徴をよく表す)

o taste

o trip〈俗〉(一時的に熱中する)

             以上「英辞郎」より


その結果、上記のごとく、訳語として並べられている単語の数は実に多彩なのである。

この多彩さこぞが、外国人ブロガーの趣味というものに対する概念であり、その言葉の真意をとらえていればこそ、発表する趣味の数も必然的に多くなっていくのではないだろうか。

こうした英語圏の外国人に対して、趣味といえばほぼ全員が「hobby」という言葉一つしか思い浮かべられないわたし達日本人の言葉のセンスには、はたして問題はないのであろうか。

ちなみに日本人ブロガーの趣味の欄を眺めてみると、あげている趣味の数はほとんどが二つか三つで、多くても五つか六つ、というのがたまにあるだけという状態なのである。

結論になるが、

はたして外国人ブロガーのように趣味の数は多いほうがいいのだろうかか。

それとも、その意味を凝縮して少ない数の趣味を並べた日本人の方がむしろ正常なのであろうか。

これはなかなか難しい問題で、答えを出す為には、日本語、英語共に精通した言語学者の見解を尋ねてみる必要があるようだ。



  

2010年7月24日土曜日

見て愕然!50年前とまったく同じ学生帽をかぶった男子高校生の姿



過日JRの電車で、沿線の球場で開催中の高校野球地方予選の応援に行く途中の高校生と思しき20人ぐらいの男女の学生たちと同乗した。

引率の教師らしき30年配の男性とともに、彼(彼女)らは皆出入り口のドア近くに立っていた。

男女半々ぐらいで、その内10名ほどの女生徒は、平凡ではあるがまず普通といっていいセーラー服姿で特に目立つ点はなかった。

だが男子生徒は違っていて、今時としては風変わりとも言えるそのいでたちに、当方としては大きな違和感を覚えざるを得なかった。

定番の黒のズボンに白のカッターシャツ、そこまではよくありがちで、まずいいとしよう。

問題は坊主頭の上に乗せた帽子である。

もうずいぶん長い間、男子高校生のこうした姿を目ににしたことが無かったせいか、見たときは、一瞬50年前の時代にタイムスリップしたのではないかと思うほどの驚きで、思わずわが目を疑いさえした。

それは、言わば突然ファンタジックな古き時代へタイムスリップしたとでも言うような妙な気持で、しばらく頭を離れなかった。

それもそのはずである。

なんと、彼らがかぶっていた学生帽は、50年前の、私が高校生の頃かぶっていたものと色もデザインもまったく同じものなのである。

日頃ちまたで男子高校生の姿を目にすることは別に珍しいことではない。

しかし、半世紀も前の、当時とまったく同じ色とデザインの超クラシックな黒い学生帽をかぶった男子高校生を目の当たりにするのは本当に珍しいことで、それ故に驚きもひとしおだったのである。

この50年と言えば高度急成長を挟んで日本が長足の進歩を遂げた時代で、世の中の多くのものが激しく変化し、急激な進歩を遂げてきている。

もちろん服装の進化もそのひとつである。

そうした中で、この男子高校生の50年前と同じ黒の学生帽は一体何を意味するのだろう。

いや、良いことの意味などは何もないに違いない。

こうした時代遅れもはなはだしい、いわば一言で「ダサい」と言える彼らのいでたちを許しているのは、単に周囲にいる親や教師などの怠慢によるものなのだろうか、もしそうでなければ、なにか彼らの大きな勘違いのせいなのであろうか。

つまり、彼らは言葉としてのノスタルジーとか古きよき物とかということに対してなにか大きな考え違いを犯していて、この学生帽の使用をそうした考え方の延長線上に置いていて、未だにこれを「いいもの」と考え違いしているのではあるまいか。

それ故に今の世になじまない時代遅れの過去の遺物であるということにまったく気がついていないのではなかろうか。

でももしそうであっとしても、ここで彼らばかりを責めるのではでなく、それに甘んじて何の抵抗も示さない、無知で従順なだけの高校生当人たちをも誠に情けない存在であると認識し、叱責してしかるべきではなかろうか。

はっきり言っておきたい。

「今や坊主頭に乗せた黒い学生帽はとてもダサくて見られたものでない」のである。

 

2010年7月22日木曜日

作家の顔は見ないほうがいい

ネット全盛の昨今では、つい見なくてもいいものまで見てしまう。

その一つが「作家の顔」である。

インターネットという便利なものがなかった時代にはすべて想像力に任せていて、姿かたちを知らない作家については、その作品からこちらの都合のいいようにイメージを思い描いていた。

だが今ではネット画像で簡単に実物像を目にすることができるため、それを目の当たりにしてしまうと、結果として作品から抱くイメージとの間にミスマッチを生じさせ、作品評価にマイナス材料を与え、読者としてのその作家への接し方が以前より消極的になったりすることがある。

今いろいろな分野で活躍する著名人の中で、およそ作家ほど「顔は見ないほうがいい」と思える職種は他にない。

容姿の整った映画俳優はもちろん、医者、弁護士、パイロット、一般のビジネスマンなどなど、ありとあらゆる職業に従事する人々で、作家のように「顔は見ないほうがいい」などと言える職種は他にはないのであるまいか。

何故なのだろうか?

それは作家と言う職業が何にも増して「知性」というものを売り物にするからではないだろうか。

それ故に読者は、接した作品の著者である作家当人の容貌に、はっきりと外に表れた知性を期待するのは当然で、いわゆる映画スターのような華やかなものでなくても、それが男性作家であれば、知性がにじみ出ているような、言わば「渋さのある」やや苦みばしったルックスを期待するのである。

そして女性作家の場合だと、そればなんと言ってもほとばしるような「知性美」ではないだろうか。

その結果、もしその期待にそぐわなければ、作品との間にミスマッチを感じて、それはやがて失望へと変わっていき、やがてその作家から遠ざかっていく原因になるのではあるまいか。

つい最近の私の経験でも、読みかけのエッセイ集で、直木賞受賞という立派な経歴を持つある女性作家の顔をネットを通して見てしまったがゆえに、その後そのエッセイ集を読み進めるのを中断してしまったということがあったのだ。

その画像に接してしまったのは、作品を読み進む中で「この作家、女性のわりには哲学的で難解な文章が多いが一体どのような容貌をした作家であろうか」というふうに感じて、その姿かたちに興味が湧き、ついネットを検索してしまったのだ。

そして結果として、期待はずれに終わったのであった。

故に、今後ともこうしたことを続けていけば、その内読みたい作家の作品の数は半減してしまうのではないかというような危惧感を抱くようになってきた。

したがって今後は「作家の顔は見ない」というをことを一つの原則として貫いていきたい。

本日こう決断を下したしだいである。



2010年7月21日水曜日

小中学生のほほえましい言い訳

塾の授業に遅れた理由について彼(彼女)らが話した、とてもほほえましい言い訳についての話2題。

(その1)

M君(小5)のレッスンに遅れた理由 
 
お母さんが「醤油の安売りがあるので学校から帰ったらスーパ  ーで買っといて」と言ったので、それを買いに行って遅れました。


(その2)

S子さん(中1)のレッスンに遅れた理由 
 
出かけようとしていたらお父さんが「自動販売機でワンカップを2本買ってきてくれ」と言ったので、それを買いに行って遅れました。



       以上 作者E.Ebisi

2010年7月20日火曜日

あなたは「ひゃっきん」なしで生きられるか?

「ひゃっきん」とカナで書いたら少し妙な感じもしないではないが、漢字で表すと「百均」となり、つまり「百円均一ショップ」のことである。

誰がつけたのか、この「ひゃっきん」と言う名前、語感と言い、その使い勝手と言い実に的を得た良いネーミングではないだろうか。

この「ひゃっきん」いつの間にか庶民の間にすっかり浸透していて、いわば「無くてはならないもの」という感すらして、今や庶民の味方として圧倒的な力をもって消費社会に君臨している。

よく「日用品のかしこい買い方」などとタイトルのついた雑誌などで目にする記事に「日用品を買うときはまず百円ショップに行ってみて、無かったら他の店を当たればよい」などと書かれており、そう紹介されるほど百円といえども、その品揃えは実に見事なのだ。

その品揃えの中で、時として「こんなにいいモノをはたして百円という安い値段で買っていいのだろうか」と、買う側をすこぶる謙虚な気持にさせるほど価値ある品物に当たることもあったりする。

今の消費社会では物を販売する「店」の形態は多種多様だが、それらの中で、「百円ショップ」のように「無くてはならない」と感じさせるものが果たして幾つあるだろうか。

デパート、スーパー、コンビ二、ドラッグストアなど、並べてみれば種類は多いが、これらを指して「無くてはならないもの」と言えるだろうか。

いや決してそうではあるまい。

つまり、あえて必要でなかったり、もしそうであっても他で代替が利いたりするのである。

デパートは年々売上が減る傾向で客離れが進んでいて、もはやなくても困らないと思われるし、スーパーは必要ではあるが、もし無いとすれば少し値段の高いのを我慢すれば、デパ地下とかコンビ二で間に合うし、コンビニは少し距離はあってもスーパーに行けば良いと考えられ、ドラッグストアは薬品では必要だが、日用品では他の店でいくらでも間に合う。

以上のような考えから、日常生活ではポピュラーなこうした形態の店も、百円ショップのように「価格的な面で無くてはならない」という、言わば絶対条件的なものは持っていないのである。

したがっていずれもが「無くてはならない」と言い切れないのである。

世の中の景気は依然と悪く、庶民の懐が寂しくなる一方の今の社会で「ひゃっきん」の価値はますます上がり、無くてはならないものという実感も次第に強くなっている。

こうした状況下で、最近少し残念に思うのは、百円の品物の間にいつの間にか「300円」とか「500円」とかの商品が交じり始めていることである。 

利益獲得上仕方のない方針とも考えられるが、できることなら本来の「100円均一」の精神を貫いて、今以上に他の価格帯の商品を増やさないでほしいものである。

「庶民はひゃっきんなしでは生きられない!」のだから。

2010年7月19日月曜日

WRITING(書くこと)という趣味に於ける日本と英語圏の国々との驚くべき相違

英語のwritingの日本語訳はどうなるのだろう?

こんな素朴とも思える疑問を抱いて辞書を調べてみました。

予想したとおり真っ先に「書くこと」とあり、次が「執筆」そしてその次が「作文」と続いていました。

日頃わたし達が人に趣味を問われたとき、もしそれが本を読むことなら、「読書」と答えます。

それを外国人に聞かれた場合ですと、英語で「reading」と答えるでしょう。

それでは「書くこと」を趣味とする人はそのまま「書くこと」と答えるのか、それとも「執筆」とか「作文」と答えるのでしょうか。

英語なら「writing」という答えが一つあるだけなのですが。

今回のテーマは日本語の「書くこと」と英語の「writing」という二つの単語について、言葉としての完成度も含めて、その実用価値の違いについて考えてみました。

私の他のブログでも触れていますが、「google blogger」には「投稿者プロフィール」の欄があり、当然そこには「趣味」という項目があるのですが、過日、私のブログのプロフィール欄に趣味の一つとして、あえて英語で載せてている「writing」という項目を検索のためにクリックしてみました。

するとどうでしょう、英語圏のブロガーのうち、「writing」を趣味とする、なんと「270万人」もの人々にヒットしたではありませんか。

まあ書くことを本分とするブロガーが対象なのですから、元となる数が多ければこの数字が多いのも当然と言えば当然なのですが。

ところがです。

今度は趣味の項の「writing」ををあえて「書くこと」と日本語に書き変えて検索してみたところ、出てきた数字は「13」というまるで目を疑うほどの少なさなのです。間違いでは?ともう一度やってみましたが結果は同じでした。では、今度は「執筆」ではどうだったでしょうか。

これではさらに少なく「2」という数で、最後に調べた作文が「13」というまるでその桁を疑いたくなるような驚くほど少ない数字なのでした。

これを見る限りでは、英語の「writing」に対して、日本語の「書くこと」とその他2語はまるで数字になっておらず、比較すること自体がナンセンスで、ブロガーの数の違いを云々する以前の、まったくお話にならないような状態なのです。

冷静に考えてみて、日本人とアメリカ人を初めとする英語圏の人々との間に、いわゆる学力としての「書く力」ということに関して、それほど大きな差があるとは思えません。

それなのにブロガーが趣味としたあげたこれに関する数字に、まるで比較にならないほどの大きな差がついているのは一体何故なのでしょうか。

これはなかなかの難問で、答えるのに悪戦苦闘しそうですが、ただ一つだけすぐに言えることがあるとすれば、それは「書くこと」などの日本語の単語における「言葉としての完成度の低さ」と、それ故の「利用価値の乏しさ」のせいである、ということなのではないでしょうか。

したがって英語の「writing」のような完成度の高い言葉を、使う際の選択肢として日本語の中に見出すことができず、そのために発表の機会を失ってしまっているのではないのでしょうか。

非常に不思議な現象である今回のテーマに対する答えにしてはやや苦しい見解かもしれませんが、今の私にはこれぐらいの結論しか出せません。

このブログを閲覧してくださった方々で、もしこれよりもっと適当なご意見をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非ともそれをお聞かせください。お待ちしています。

2010年7月17日土曜日

ブログ投稿数でわかるアジア国別「英語力ランキング」

私がブログを載せているこの「google blogger」は インターナショナルなブログサイトである。

したがって世界中の人々が一堂に集うブログでもある。

しかし、英語圏以外の参加者がそのプロフィールをすべて母国語で記入しているとキーワード検索で外国人のブログに行き当たることは少ない。

私はプロフィール蘭のニヶ所、つまり職業名欄の「part-time worker」」と趣味の蘭の「writing」を英語で記入してしている。

したがってこのキーワードで検索すると、このワードに関連のあるすべての外国人ブロガーがヒットするのである。

本日これを実行してみたところ私を除いて90のそれらのブログがヒットした。
うう
気になるのはそれらの国籍であるのだが、今回のブログのために、国別の数字を調べてみた。

結果は次の通りである



1位 マレーシア      17

2位 米国          16

 “ シンガポール     16

4位 英国          11

5位 オーストラリア     5

6位 インドネシア      4

7位 インド           2

 “ カナダ            2

その他の国(日本2を含む) 11       

不明              6



この数字を目にして驚くのは米国は別にして、なんと1位と2位を人口のそれほど多くないアジアの2国が占めていることである。

掲載されているブログは、私のものを除いて、そのほとんどが母国語ではなく英語で書かれているのである。

それ故にマレーシア、シンガポールのアジア2国が英語圏の国々の数を上回っていることは、なんとしても驚きである。

一体これはどういう現象なのであろうか?

こう考えて思い浮かぶのは次のようなことである。

つまりマレーシア、シンガポールの2国がアジアにおいて最も英語教育が熱心で、国民の英語力はアジアの他の国々を抜きん出て優れており、それ故に国民の英語学習へのモチベーションも高く、その結果として、英語を使っての意見発表意欲も強くなり、その意欲がこうしたブログなどへの積極的参加のための原動力となるのではないのだろうか。

そのことを証明するように、この2国以外は6位のインドネシアを除いては特に目につく数字はない。

意外なことに、ここでは中国と韓国の数がゼロで、その点はいかにも寂しい。日本の(2)と言う数字も厳密に言って日本国籍の人がどうか定かでない。

この数字を見る限り、ブログ参加へのモチベーションはもちろんのこと、「書くこと」においての日本、中国、韓国の英語力は低いということを意味しているのではないだろうか。

いま日本も含めて、英語教育においては、会話力の重要性ばかりが強くが叫ばれている傾向があるが、ことネットのブログなどでの「意見の発進力」に必要とされているのは、なんと言っても確かな「書く力」であり、会話力重視もよいが、やはり必要なのは、「読む」「書く」「話す」の総合力を育てるバランスの取れた教育なのではないだろうか。

インターネットを中心にまわるこれからの世界では「書く力」の必要性はこれまで以上に強く求められているように思う。

2010年7月15日木曜日

続、傑作ジョーク2題


スズメの正しい捕まえ方

酒に浸した米粒を一にぎり庭に撒き、次にピーナツを適当な間隔で10粒ほど置いておく。

するとスズメがやってきて、米粒を食べ、しばらくするとピーナツを枕にスヤスヤと眠ってしまう。

それをそっと掴んで鳥かごに入れてやる。


輪ゴム製造機

雑誌に出ていた「内職に最適!簡易型輪ゴム製造機、発売記念特価9800円!」という広告を
見て「チャンス!」と思いすぐに申し込みました。

すると数日して小包が届き、早速開けてみると、中にはハサミと自転車のチューブのようなものと
説明書が入っていました。説明書には「ハサミでチューブを一ミリの太さに切ってください」と書いてあった。
               
                       以上 作者不詳

2010年7月14日水曜日

頭のいい人は断り方が上手

ずっと以前、桐島洋子さんの本で「料理の上手な人は頭がいい」というようなタイトルの作品を読んだことがある。
頭のいい人ほど、手際よく短い時間で見た目もよく美味しい料理を作ることができる。
ざっと言ってこうした内容であったように思うが、読んだときは大いに納得したものである。
まあ考えてみれば頭のいい人は料理に限らず何をさせても上手のことが多いのだが・・・。
今回のテーマはその「頭のいい人は~上手」シリーズの一つと言ってもいい「ことわり方上手」について述べてみたい。 
ビジネス競争が激化する一方の今の時代、どの企業も自社商品の売り込みに必死なのは当然なことである。
そうした中で昨今増えているのが電話での売り込みである。でもこの種の電話で多いのは商品の直接売込みではなく、そのための商談アポの取りつけのための電話である。
休みの日などに、この種の電話の応対に出たことの無い人など今ではおそらく一人もいないであろう.。
そう思えるほど、こうして電話は増えてきている。
こうした電話に接した際、ほとんどの人は相手の要望には応ずることなく、断りの方向へと向いていくのが普通なのだが、問題はその断り方である。
ここでかしこい人とそうでない人は大きく分かれる。
まずかしこくない人であるが、こうした人たちはまず相手のことをまったく考えないで自分本位の断り方をする。
そもそも今日の資本主義社会においては機会こそ違え、売ったり売られたりする関係で成り立っていて、いつ自分や自分の身辺の人が逆の立場に立つかわからない。いかに予期しない迷惑電話と言えども、こうした構図の今の社会ではある程度仕方ないという部分もあるのだ。
そうした今の世の中の成り立ちの構図をまったく理解せず、一方的に相手を無視したり蔑視した断り方をするのである。
具体的に言えば、黙ったまま「ガチャン」と荒っぽく電話を切ったり、あるいはザツな動詞で語気鋭く一言「いりません」とだけ言って相手の言葉をさえぎるように切ったり、
また「そんな電話かけてくるな」と怒鳴ってみたり、
まあ、そうした類の断り方である。
しかし相手も人間である。そうした断りには反感を抱く。
たとえどんな関係であれ、社会の人間関係において相手に反感を抱かすのはいわば悪い種をまくようなもので、後々の為にはいいことではない。
そうしたことを心得ているのが社会の人間関係と今の世の中の構図をよく理解した賢い人たちの断り方で、まずこの人たちは相手が誰であろうが、たとえ自分が迷惑と思っていようが、一応相手のことも尊重して決して無礼な言葉を吐いたりはしない。
ではどんな断り方をするのかというと、一例でしかないが、以下のようなものである。
「わざわざお電話ありがとうございます。あいにく当方はその件については間に合っていますので、申し訳ありませんが、お断りさせていただきたいのですが」と、
なにもここまで丁寧でなくてもいいのだが、だいたいこんな感じである。
こんな断り言葉に接すれば、今時の勧誘員は「相手にしつこく迫らないこと」をよく教育されているので、すぐに快く引き下がるのである。
とにかくかしこい人ほど相手の感情を逆なでしないように上手に断るものなのである。
断る側として、その方が後味がいいということもよく心得ているのである。

2010年7月13日火曜日

変ってきた日記のイメージ

自分のものも含めて、昨今のネットのブログにはそのタイトルに「~日記」とか「~diary」などとつけたものが実に多い。

少しオーバーな表現だが、まるでこれなしではブログタイトルが成り立たないのかと思わせるほど多くのブロガーがこの名前にこだわっているようである。

でもここではブログサイト上のそれらのものを対象として言うのではなく、いわゆる従来型の日記に対して,一つの提言としての筆者の日頃からの考えを述べたものである。

本などに載せられた記事の中に時々、「日記とは人に見せるために書くものではない」といった断定的でやや偏見的なニュアンスをもったコメントを目にすることがある。

そんな意見に接したときの私はいつも「エッ」と小さな驚きの声を発していて、その後すぐ「何故だろう」とその理由について探りたい気分になっている。

でも考えてみても、それに対する答えなど何も頭に浮かばず、出てくるのはそうした意見への反論ばかりである。

世に「三日坊主」という言葉があるが、その対象となるものでなぜか多いのがこの「日記」である。
では日記はなぜ三日坊主になりやすいのであろうか。

推論だが、その理由の一つは、「人に見せるものではない」という先入観に縛られていて、それ故に「評価されることがない」と考えるため、やりがいを感じないからなのではないだろうか。

したがって初めの頃こそ気合だけでやり通せても、すぐに「やりがいの無さ」からモチベーションの低下を来たし、やがてギブアップへと結びついていくのではないだろうか。

そもそも日記とは何なのであろうか。

その問いに対して「それは自分の身辺の日常の出来事の記録である」と応ずるのが従来の日記の形なのであろう。
しかし社会は大きく変わってきた。

インターネットが普及して、ブログという形で誰もが人に評価してもらう為に自分の意見を公に向かって発表できるような世の中になってきた。

こうしたトレンドの中で、同じ書くという作業を必要とする従来型の日記だけを、未だに「人に見せるモノではない」と、なぜ考え続けなければならないのであろうか。

人は本来、自分の意見を人前で発表したいものである。

それを書くことによって、つまり文章にして発表するのである。

文章も芸術のひとつである。そうである以上、人の評価なくして制作のためのモチベーションは上がらず、ましてその上達は望めない。

それ故に古いイメージの日記という形で、ちまちまと独りよがりの文章を綴っていくより、堂々と人に見せることを前提として日記を書いていく。そのほうが余程やりがいを感じ、それ故に長続きするのではなかろうか。

今の時代、自己を堂々と主張する為にも、日記はむしろ人に見せるモノと考える方がいいと思うのだが・・・。

2010年7月12日月曜日

インターネットは「モノの価値」を奪うのか?

インターネットが人々に与える影響について、いろんなメディアなどに取り上げられてきたその「功罪」についての考察では、これまでのところ「功」の部分ばかりがやたらとり上げられてきていて、「罪に関してはあまり論じられていないような気がする。

本日はその罪の一部について、自分の身辺に生じてきていることも併せて、しばし考えてみたい。

音楽のCDコレクションが趣味の一つである私は、最近こそ増やすことにあまり熱心ではないが、現在600枚あまりのそれらのCDを、常時取り出し可能なケースに収めて所有している。

内訳はクラシックが7割、ジャズ、ポピュラーオールディーズ2割、その他1割という比率である。

これらの多くのCDだが、2年位前までは休みごとに3~4枚づつケースから取り出しては聞いて楽しんでいた。しかしここ1年以上の間、まったくと言っていいほどその習慣をなくしており、ケースの中のCD群は取り出されることが無くずっと眠ったままの状態になってしまっているのだ。

その原因は私自身が音楽を聞かなくなったからなのか?

いやそういうことはまったくない。モーツアルトファンの私は、クラシックを中心に今でも毎日と言っていいほど音楽には自ら積極的にアプローチを続けている。

では何を使って音楽に接しているのかと言えば、それは言わずと知れてインターネットでである。

パソコンに良質なスピーカーを接続して、ほとんどの音楽はこれを使って聴いているのである。

利用するサイトは「YouTube」が多いが、その他あらゆる音楽サイトを有効に利用している。

今さら言うに及ばないが、「YouTube」を使うと、簡単なキー操作一つで、クラシックはおろかジャズ、ポピュラー、歌謡曲というふうにあらゆるジャンルの良質な音楽が無料で視聴できるのである。

CDだと耳から聴くだけの音楽がネットだとすべて歌手などの映像つきで聴けるのだから、これを利用しない手はないだろう。

「YouTube」だけでなく、たとえば「Windows Media player」を使えば手持ちCDの録音が可能だし、その他にも無料で聞ける優れた音楽サイトが目白押しである。

手持ちCDの出番がほとんどなくなってしまったのはこういう訳からなのである。

つまり、インターネットがCDコレクションの出番をなくしてしまい、強いてはその価値を奪ってしまったと言えるのである。

それ故に600枚入ったCDケースは本来の目的では少しも利用されること無く、今や部屋のインテリアと化してしまっているのだ。
 
こうした現象はなにもCDに限ったことではなく、今や実に多くのモノに及んでいる。

その代表格は本好きの人たちの家の書棚に積まれた書籍ではなかろうか。

書棚の本と言えばすぐぎっしりと並べられた文学全集が目に浮かぶが、それらの全集に収められた名作と呼ばれる古い作家の作品のほとんどが今では「青空文庫」というインターネットサイトに収められており、いつでも気軽に、しかも無料で読むことができるのである。

また新しい作品についても「グーグルブックス」というサイトやその他数々の電子書籍サイトを使えば、かなりの作品の無料での読書が可能になっているのである。(有料だとその数は言うに及ばない)

こうした本の類ではこの他にも百科事典、美術全集、歴史全集、写真集などというあらゆるジャンルの書籍がネットサイトで利用が可能で、そうした物を活用すれば特に従来からのペーパー書籍を必要とすることもないのである。

もちろん今でも紙の本にはそれなりの良さがあり、インターネットがすべてそれらの価値を奪ったとは言えないが、今やこの領域も少しずつ侵食されつつあると言うのもまた事実なのではなかろうか。

またこんなこともある。

ネットオークションは今や万人が利用する一大マーケットとなっているが、ここで私自身が参加してその価格について痛感したことを述べてみる。

まず[その1]。知り合いに頼まれて参加したネットオークションでのことである。出品したアイテムは「美空ひばり歌手生活30周年記念レコード集5枚組み(解説書付)」という今から30年以上前に発売されたモノでありそれなりの価値はあるだろうと思い、希望開始価格1万円という条件で出品してみた。

こちらとしては、それなりに古い物だし、故人ではあるが、日本を代表する大歌手であった人の作品集であり、安く見積もっても2~3万円の値がつくのは容易なことだろうと皮算用していた。

しかしである。待てど暮らせど一向に値段がつく気配は無く、じりじりしながら待っていた当方の期待とは裏腹に、ついに締め切りの1週間が来ても入札はゼロであったのである。こちらが「価値あり」と見込んだモノを、見事に無価値化してくれたという一幕。

[その2]。これは直接ネットオークションに参加したのではないが、値段を見て大いに落胆したという話である。

田舎の知り合いの家を訪問したとき、床の間に大きくて立派な鹿の角が飾ってあった。

聞くと、山から出てきた鹿が畑に落としていったモノだと言う。

当方としては価値あるモノだと思って、「立派なモノですねえ,こんな立派な角、なかなか得がたいでしょうね」などと、内心ではこれだと少なくとも5万円はするだろうと思いながら、そう言って帰り、すぐにオークションで値段を調べると、なんと、似たようなものについていたた価格は3500円也で、またや大きく落胆。

[その3]。これは自分自身のことであるが、ある時フリーマーケットに珍しい手動タイプライターが出ており、しかも有名メーカー製の新品に近いもので値段はなんと2千円。

これを買わぬ手は無いと即座に購入。「これは儲けた」、と内心ホクホクで早速オークションサイトで値段を検索してみると、これがまたもや大きな期待はずれで、何台か出品されていたモノがすべて4~5千円。

まあ買値の倍はあったのだが、こちらとしては少なくとも発売当時の新品の値段の5~6万円ぐらいは軽く上回るのでは、と思っていたのだが・・・。

というふうなインターネットオークションでの価格についての失望談であり、価値についての当方の思惑がネットにより、見事に打ち消されてしまったという話なのである。

今回の投稿は少し長くなったが、総じて「物の価値を奪う」という、ネット功罪の「罪」について述べてみた。

2010年7月9日金曜日

いつまでも喜んでばかりいられない「長寿国世界一」

日本が世界一の長寿国と言われ始めてもう随分長くなる。

何故日本が世界中のどの国にも抜かれることなく、これほど長い間「長寿国世界№1」として君臨できたのであろうか。

欧米などに比べて老人福祉や医療が特に進んでいる訳でもないこの日本が、というふうに考えてみればこれはとても不思議なことのように思えてくる。

統計上はともかく、現実の姿として、果たして本当にそうなのだろうか、もしそうだとしても、基礎となる数値の設定とか計算方法が世界の基準に対して同等に扱われているのだろうか。
 
あまりにも長きにわたり「世界一長寿国」と呼ばれ続けている故に、ついこんな疑問もわいてくる。

そもそも「長寿」という言葉には「健康で長生き」というニュアンスが含まれているように思うのだが、でもそれとは裏腹に現在の日本には「健康で」と呼ぶにはほど遠い、いわゆる「寝たきり老人」と呼ばれる人たちが150万人以上もいるという現実がある。

はたして統計ではこの「寝たきり老人」をどのような形でとらえているのであろうか。

もしこれらの人々の数をそのまま含めた上で「長寿世界一」というのであれば、それには大いに疑問が湧く。

 なぜなら世界には、日本のように多くの寝たきり老人を抱えた国はどこにもないからである。

それ故に一部を除いて世界の多くの国がその数値を統計に含めていないのである。

日本人は島国根性のせいか、何かにつけて「世界一」ということに対してこだわりを持っているようだが、こんな不公平な数値をそのまま加えた「長寿世界一」など何の意味があるのだろうか。

この「世界一」を誇る前に、まず不名誉な「寝たきり老人世界一」を恥じて、それを改善していく努力をすることこそ、今何より大事なことではなかろうか。

もうそろそろ根拠の乏しい「長寿国世界一」にサヨナラしてもいい時ではないだろうか。

そんなことを考えていたら、民主党事業仕分けでのレンホーさんの「1番じゃなければ駄目なのですか?2番じゃいけないのですか?」という名セリフをふと思い出した。

2010年7月7日水曜日

男性の新しいファッションなのか?・首に吊るした名札


ここ数年来の傾向として、昼時のオフィス街などを歩いていると、首から名札をぶら下げて歩いているビジネスマンの姿をやたらと目にする。

首に吊るしている名札とは「IDカード」つまり身分証明書なのだが、

事故防止の為オフィスへの出入室者をチェックする為、このIDカードの携帯は今多くの会社で採用されている制度なのだが、いつの間にかそのスタイルは「首に吊るす」のが定番になってきていて、従来のように安全ピンなどで胸に取りつける方式は今やほとんど目にしなくなっているようである。

まさか小学生でもあるまいし、大の大人の男が猫も杓子もなぜこうした名札をぶら下げて、恥ずかしげもなく街頭を闊歩するのだろうかとしばし考えてみたのだが、どうやらそれは最近のノーネクタイ奨励運動に大いに関係があるように思えてきた。

今の世の中がいかに省エネ奨励のクールビズ時代だとはいえ、長年ネクタイに慣れ親しんできたサラリーマンにとって、カッターシャツの首周りに何もないのはなんとなく寂しいもので、ネクタイとは言わずとも、なにかそれらしきものを首から垂れ下げたいという、いわば習慣からの願望がまだなんとなく残っているのだ。

一時「ループタイ」といって単にひも状ものを首から吊るすのが中年世代の間で流行ったことがあった。

つまりその名残が今の吊り下げ型IDカードになったのではないだろうか。

従来のループタイのようないわゆる「地味さ」という感じはなく、ある程度太さのあるカラフルなストラップのついたIDは、ノーネクタイでなんとなく締まりの無さを感じる首周りの恰好のアクセサリーとなり、それが多くのサラリーマンに支持されている原因なのではなかろうか。
 
それにこのIDカード、トラップの太さと色にもよるが外見的にも決して不恰好ではなく、概して割合と様になっている姿が多いように見うけられる。

こうした状況から考えると、特にノーネクタイが多い夏場ほどこの傾向は今後も強くなり、ストラップの太さと色はますます多様化していき、この傾向は今後次第に定着したものとなり、決して一時の流行として消滅していくものでもないと思うのだが。

少なくとも各企業が社員にIDカードのを携帯を義務づける限りは。

2010年7月6日火曜日

「見た目年齢」へのこだわり

「年齢詐称」という言葉があるが、似たようなものに「学歴詐称」という言葉もあるせいか、単に年齢をサバを読んで公表するだけのことを意味するにしては、言葉自体の響きが重く、これを使うだけで

その対象者はすでに「犯罪者」と見なされるような厳しい響きを持っており、なにか大仰でどちらかと言えばなじみにくい言葉である。

一時外国のスポーツ選手がこれで話題になったが、こうした出場資格取得のための詐称はもちろん悪いことであり、時としては犯罪性もあるに違いない。

でもこの年齢詐称という言葉、その多くの場合で自分の年齢を実年齢より若く公表することに対して使われているようで、芸能人などのいわゆる「見せる」ことを商売にする世界ではそれほど珍しいことでもないようである。

若さが仕事に有利な条件となるこうした世界では、そうしたことがありがちなのは、ある意味では当然で、人情的にも許せる行為であり、このことを強く批判したり、また犯罪性のあることとしてとり上げるのもどうかと思う。
 
芸能人に限らず、人間誰しも歳をとるに従って若さへの願望は強くなるのは自然なことで、いわゆる「見た目年齢」へのこだわりが次第に出てくるものだ。

こうしたこだわりを強くもつ人ほど、実際に見た目年齢が実年齢に比べて若く、一般的な同年齢者と比べて、心身ともにハツラツとしていることが多いものだ。

このことはつまり「見た目年齢へのこだわり」は若さへの強い願望であり、また若さを維持する為の強力なモチベーションともなっているからなのであり、巷で生涯現役ということが次第に強く叫ばれてきている昨今にあっては、こうしたこだわりはむしろ貴重なことであり

他人に迷惑がかからない範囲で年齢を若く公表することは推奨されてもいいぐらいで、何も声高に批判する必要は少しもないのではあるまいか。

何を隠そう、当年68歳の私自身最近では10歳若く年齢を公表することが多いのである。

こうした時の私は決して「年齢詐称」などと言う言葉は意識せず、自分のことを「実年齢否定主義者」とでもいうふうに思っているのである。