2010年8月27日金曜日

傑作ジョーク(5)  小学4年の女の子に聞いたとてもおもしろいジョーク

以前小学生のグループを引率してサマーキャンプにいったことがあります。

その時のバスの中でのクイズ大会でのことでした。

何人かの小学生がいかにも子どもらしいなぞなぞを出した後、ある小学4年生の女の子が出したなぞなぞを聞いて、大人の当方がその出来栄えのすばらしさに思わず「うーん」と唸ってしまいました。

その超傑作と言っていいほどのなぞなぞは以下のようなものでした。



[問題]

「あるマンションの3階のベランダで、じゃれあって遊んでいた小学3年生の男の子と5年生の女の子が誤ってフェンスをこえて下の道路へ落ちてしまいました。

女の子は左足骨折の大怪我をしました。でも男の子は手に軽い擦り傷を負っただけで大丈夫でした。

何故なんでしょうか?」



最初は4~5人の子が答えましたが全部ハズレでした。

その後は答えがわからず、みなシーンとしていました。

すると出題者の女の子が答えました。

「男の子はタマタマついていました」

2010年8月26日木曜日

デパートの「忘れ物市」その商法に疑問

類似広告
   過日大阪の地下鉄に乗った際、中吊り広告にあった梅田の或る百貨店の「大忘れ物市開催」という広告が偶然に目に入った。

8月18日のその日はちょうどその開催日に当たっており、帰り道にすぐ側を通ることもあって、興味半分でさっそく寄ってみることにした。

午後3時過ぎ、そのデパートに着き、8階の催し場に行って最初に目にしたのは、仰々しく仕切り幕が張られ、進行順路が指定された特設会場の入り口に列をつくった驚くほど多くの人の群れであった。

以前からある程度人気のある催しものではあるとは思っていたが、ことさら目新しいものでもなく、いまだにこれほどの人を集める魅力ある催しだとは思っていなかったので、その人込みには少なからず驚かされた。

しかしもっと驚いたのは特設会場の中に入ってからであった。

はっきり言って会場に入る前まで頭にあったのは、今時の忘れ物市とは、いったいどんな魅力的な商品がどれほどのお買得な値段で陳列されているのだろうという興味と期待感であった。

しかしそれは見事裏切られたのだ。

まず会場に入って一番手前の売り場は、かなり広い面積で「雨傘」の売り場が占めていた。

今時、百円ショップでさえ、かなり良い品物を取り揃えている「雨傘」なのに、なにゆえ一流デパートが、中古の雨傘にこれだけ広いスペースを割かなければいけないのだろうかと大いに疑問を抱きながらもそこは素通りして進んでいった。

その先にある売り場を確かめる為に上に掲げたプラカードに目をやってみた。

すると「毛皮」「宝石」「時計」「ゲーム機」等の文字が目に入ったきたが、当方が期待していたパソコンとカメラなどの売り場を示すプラカードはどこにも無かった。

一般的にカメラは忘れ物の中では多いものだし、それにいまや車内でパソコンを操っている人も珍しくない時代で、この忘れものもあっておかしくないと思ったのだが、しかしどこにもそれらの商品の売り場を見つけることはできなかったのである。

もっともカメラについては、デジタルカメラだけが時計売り場の近くに陳列されていたのだが、その値段はほとんどが1万円以上のモノばかりで、側を通る女性客が「なんなのよこの値段、ぜんぜん安くないじゃない、これ本当に忘れ物なの?」と呟いていたように、その価格は忘れ物ゆえの低価格とはとうてい言えず、値段的になんら客をひきつける要素は無いのである。

そんな疑問と同時にさらに湧いてきた別の疑問は、時計売り場の近くにあった毛皮売場とか宝石売場がどうしてこんなに広いのかということであった。

はたしてこの売場に陳列されたこれらの品物は本当に忘れ物であるのであろうか。

高級品である毛皮のコートとか、宝石類の忘れ物がこんなにたくさんあるものだろうか。

ひょっとして、これは忘れ物に名をかりた便乗商法なのではないのだろうか。

でも便乗商法ならそれはそれでいいとしても、売場をちゃんと区切っておき、それとわかる標識もきっちりつけておかなければならない。

もしそうしていないのなら、単に「忘れ物市」の名を語った一種の「かたり商法」であると言ってもいいのではないだろうか。

年々売上の落ち込む先細りのデパート業界だが、その失地回復のため、いまやなりふり構わず、客を欺くこうした商法を堂々と繰り広げているとしたら、これは大きな問題であるのではなかろうか。

以上が「忘れ物市」に出向いときに抱いた素朴な疑問である。

2010年8月19日木曜日

世界でいちばん遅い日本の父親の帰宅時間



インターネットに「父親の帰宅時間国際比較」というちょっと興味の湧く変わったデータ(上のグラフではない)が出ていた。

見る前からある程度予想はついていたが、やはり一番遅いのは日本の父親であった。

今や高度成長期も過ぎて低成長期に入っており、一時にように仕事も忙しくはなく、長い時間会社に拘束されることも少なくなっているはずなのに、いったい日本の父親たちはどうしていまだに帰宅時間が遅いのだろうか。

仕事の終わった後、家に帰るまでの時間をはたした彼らは何をして過ごしているのであろうか。

おそらくその多くは、同僚などと一緒に「ちょっと一杯」と、盛り場の飲み屋へと繰り出しているに違いない。

ではなぜ彼らは大事な帰宅時間を遅らせてまで、飲み屋にばかり行かなければいけないのだろうか。

実は30~50代半ばまでの頃の私もその一人であったのだが、

要するに家に帰るより、飲み屋に行ったほうが楽しいからなのであり、またストレスが発散できて、再生産のためのエネルギーを蓄える為の有効な手段だと考えるからなのであろう。

では家に帰ると、こうした楽しさが奪われストレスも発散できず、再生産のためのエネルギーを得ることができないのであろうか。

こう反問してみて、応えられるのは以下のようなことである。

仕事が終わってすぐ家に帰り、家族と触れ合う時間を持とうとしないのは、そのことに重きをおいていないからなのであり、またその重要性を理解していないからなのである。

極端に言えば、それが理解できないほど日本の父親は精神的に未熟で、自分だけが楽しければいいという方向にすぐ流れてしまうのである。

そしてもう一つの理由は、家で過ごす余暇の時間を充実させる為の趣味を持っていないのである。

それ故に仕事が終わってからすぐ家に戻ろうという動機づけができないのではないだろうか。

こうして飲み屋で過ごす時間の多い日本の父親たちだが、

本人がストレス発散のためと考えていることが、健全な家庭生活を損なうだけでなく、逆に本人の疲労を蓄える原因にもなっており、強いては女性に比べて著しく早く死亡する一因にさえなっているのではないだろうか。

あるいは夫婦として触れ合う時間を少なくしていて、それが今の日本の少子化の原因の一つになっているのかも知れない。

こんなふうにも思えてくるのだが、こうした考えは間違っているだろうか・・・。

2010年8月18日水曜日

クラシック珠玉の名曲をあなたに(その3)

ピアノ曲集(3)
サンサーンス「白鳥」




チェロの独奏曲として広く知れ渡ったサンサーンスの名曲「白鳥」ですが、今回は一味違った響きのあるピアノ演奏でお届けします。
どうか心おきなくご鑑賞のほどを。

[リンク]
http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_SaintSaens_hakutyou.htm

                        インターネットサイト「Rein Music」クラシックMIDIより

2010年8月17日火曜日

傑作ジョーク(4) ジョーク「英文和訳テスト問題」2題

次の英文を日本語に訳しなさい


問題

(1) My father is my mother.

(2) You might oh my head today’s hot fish.



答え

(1) 私の父はわがまま(我がママ)です

(2) 言うまいと思えど今日の暑さかな

2010年8月16日月曜日

電車の中でよく目にする若い女性の姿、三態

(1)ケイタイをいじってばかりの女

私が通勤で利用しているJRの乗車時間は片道40分である。

その姫路、神戸間の新快速での通勤途上で、乗車してから下車するまでの間ずっと携帯電話をいじっている若い女性の姿を目にすることはさほど珍しいことではない。

もちろん男性の中にもそうした輩はいるにはいるが、でも数は少なく、圧倒的に多いのが若い女性である。

彼女らは他のものにはいっさい目をくれず、真剣な様子でひたすらケイタイとにらめっこを続けている。

でもいたって無表情で、目を見張って驚く顔をしたり、ニッコリと微笑んだりすることはほとんどなく、時間つぶしのためなのか、ただなんとなく見ているという感じで、そうしたことが表情を通してよく伺える。

果たして彼女たちが見ているものは、着信メールなのか、、ネット情報なのか、それともケイタイ小説なのであろうか。

およそ日本の若い女性ほど、ケイタイを長い時間手にする人種は他にいるだろうか。

聞くところによると韓国人も相当長くて、日本人の倍以上の時間をケイタイの使用に当てているそうだが、その多くは通話用であって、日本の女性のようにただひたすら画面を眺めているという状態ではないらしい。

まあ韓国の人はともかく、日本の女性には、そろそろケイタイから離れて、以前よく目にした文庫本などの読書姿に、また戻って欲しいとなんとなく思うのだが。



(2)化粧をする女

いまや定番となった感すらする電車の中での若い女性の化粧だが、見慣れたせいか以前ほどでもないが、目にしたときは今でもやっぱりムカッとする。

そんな時は思わす「コラッ、電車は化粧室ではないぞ」と怒鳴ってやりたい気分になるのだが、いまだに実行したためしは無い。

そもそも何故女は電車内で化粧をするようになったのであろうか?

時間を惜しむ為か、手持ち無沙汰の為なのか、何故だかよく分からないのだが、増えてきている理由で一つだけはっきりしていることは、それを注意する人がいないからなのではなかろうか。

それ故に当人たちは周囲の乗客に対してなめてかかってるのではないだろうか。

彼女らは人がやっているから自分もと、単に浅はかな気持で真似してやっているのであって、最初こそ少し気後れしたが、周りから注意されることも無いのでいつの間にか習慣化してしまう。

まあこういった構図であるのではないだろうか。

でも、はっきり言ってこれまでのところ車中で化粧する女の中で、賢そうであったり、美人だと思う女性を見たことが無く、そうした女はみな馬鹿面をしたブスばかりであったようだ。



(3)予定表ばかり見る女

一般的に、若い女性は予定表(ノート)見るのがが好きなようだ。

これまで電車の中でそうしたものを目を食い入るようにして眺めている女性の姿には何度もお目にかかった。

その度にどうして女の人はこうも予定表を見るのだろうと不思議に思ったりしたものだ。

今だにその理由はよく分からない。

忘れっぽいからなのか?いやそれは無いだろう。男だって忘れっぽい人は幾らでもいる。

では、なぜなのか。そう考えていて、かろうじて当たっていそうな理由として気がついたのが、若い女性は予定が無ければ不安なのではないか?ということである。

それ故になんとか予定表を埋めようと努力して、その後でそれを眺めて安心する。

確信はないのだが、どうであろうか、こんな理由づけは?

つい最近も、車中での隣の女性が予定表らしいものを眺めていて、チラッと目に入ったのは、ある日付の下の「神戸花火大会見物」という文字であった。

2010年8月15日日曜日

身近な商店街にもシャッター通りの兆しが・・・


私の今の職場は神戸の中心街、元町にある。

すぐ近くには様々な中華レストランや中国物産店が所狭しと並ぶかの有名な「神戸南京町」があり、その一ブロック北に神戸で最も大きいショッピングアーケード「元町商店街」がある。

ある地方都市のシャッター街
今回のテーマはこの元町商店街にも関連することであるのだが・・・。

この元町商店街、その規模といい、知名度といい、いずれをとっても関西では大阪の心斎橋商店街や天神橋商店街などの有名商店街と肩を並べるほど、名の通った立派な商店街なのである。

しかも神戸で最も賑やかな「センター街通り」とは地続きであり、立地条件にしても申し分ない条件を揃えた商店街である。

ところがである。

ある休日の日、この長い商店街を1丁目から6丁目まで暇に任せて歩きながら、なんとなく気になるシャッター下りた商店の数を数えてみた。

木曜日であったが、もちろん休日の店もあり、念入りにそれらを除いて注意深く数えてみた。

さずがに人通りの多い3丁目ぐらいまでにはそうした商店はほとんど無く、あっても休日の看板の下がったところぐらいであった。

でも4丁目、5丁目とその数が大きくなるに連れて、人通りも徐々に少なくなっていき、その人の数に反比例するごとく、シャッターを下ろしている店の数は多くなっていくのである。

そして六丁目の神戸駅に近い商店街出口に差し掛かった時にはその数はなんと「18」にも達していた。

これはちょっとした驚きであった。

小さな地方都市の商店街ならいざ知らず、華やかな大都会神戸の、しかも有名な元町商店街にこれだけの空き店舗が出現しているなどということは今まで想像さえしていながった。

なんと、ここにも今全国の商店街で進んでいるシャッター街現象が忍び寄ってきているのである。



いま日本全国いたるところの商店街では空き店舗が軒を連ねる、いわゆるシャッター通りと言われる現象が恐ろしいほどの勢いで進んでいる。

ちなみに今、インターネットで「シャッター通り」として検索してみると、これに関する様々な情報がおびただしい数で並んでいる。

写真情報も豊富で、全国通津浦裏のシャッター通り商店街が画像で紹介されている様子は、見ていて壮観でさえあるのだ。

華やかだった高度急成長時代がが終わって、低成長の、しかも少子化の人口減少期を迎えた現在の日本をまさに象徴している現象なのではあるが、一体こちらの方の、言わばゴーストタウンとも言ってもいいシャッター街の規模拡大現象はいつ終焉を迎えるのであろうか。



     
 あなたの町の商店街にもシャッターを下ろした商店は増えていませんか?

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●あわせて読んでいただきたい記事
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2010年8月14日土曜日

もはや相撲を「国技」などと呼ばない方がいい


このところずっと続いている不祥事で、いつの間にかダーティーなイメージさえついてしまった大相撲だが、今回の大がかりな賭博事件は、それに駄目を押すような、 愛好家にとっては誠にショッキングな出来事であり、恐らくこの事件を契機に相撲ばなれするかつてのファンは相当な数にのぼることであろう。

その大相撲のことをいまだに「国技」などと呼んで囃したてている人がいるが、一体この人たちの時代感覚はどんなものなのだろうか。

「国技」つまり英語に直せば「national sports」 なのだか、

一体どこをとれば相撲をナショナルスポーツと呼べるのだろうか。

プロ野球をはじめ、このところ著しく台頭してきたサッカーや、テレビで高視聴率をあげるバレーボールとか水泳競技など、相撲をしのぐ人気スポーツは今ではいくらでもある。

そんな中で今や不祥事の温床であり、ましてや外国人力士に席捲されてしまい、今後日本人力士の中から「横綱」を出す希望のまったく無い大相撲をどうして胸をはって「国技」などと言えるのだろうか。

これこそ時代感覚の無い、いわば言葉のセンスの乏しい人たちの戯言ではないのか。

もはや「国技」という言葉自体が不要になっている感すらあり、それは人気凋落の年間スポーツ行事「国体」などと似たような響きもあり、すでに過去の遺物となっているのではないだろうか。

繰り返すが、もう「大相撲」を国技などとは、決して言わないほうがいい。

2010年8月13日金曜日

「衝撃告発シリーズ第一弾!」 それでもあなたは宝くじを買いますか? ”還元率がわずか47%という世界一えげつない日本の宝くじ"

レンホーさんの事業仕分けでもとりあげられた日本の宝くじシステムだが、ここへきてそのからくりが次第にクローズアップされてきて、そのあくどい実態について、あらためて多くの国民が驚かされている。

一部のインターネットサイトでは、そのタイトルに「ヤクザもたじろぐ悪徳錬金術」などというような過激なキャッチフレーズをつけて、その実態について詳しく紹介している。

いったい日本の宝くじはどうしてこのようなひどい状態になってしまったのであろうか。

庶民は宝くじを買うことを称して、よく「夢を買う」などと表現しているようであるが、

いまのひどい実態を直視するならば、決してそのような甘いことを言っては居られないのではなかろうか。

ではなにがそんなにひどいのか具体的にのべてみると、まず第一に挙げられるのがその「テラ銭」の額の大きさである。

テラ銭、分かりやすく言えば主催者側が取る手数料とか、コミッションのことです。

このテラ銭の率が実に53%という驚くべき高率で設定されているのである。

と言うことは、賞金に還元されるのは差し引き47%で、実に半分以下という少なさなのである。

一体、誰が、どうして、いつ、このような「あくどくてえげつないシステム」を決めたのであろうか。

これでは庶民に対して[夢を売る]どころか、「絶望」を売っているだけではないのか。

宝くじはどちらかと言うとギャンブルとは呼べない。

しかし、この高額な率のテラ銭は他の公営ギャンブルよりひどいのである。

ちなみに代表的なギャンブルの還元率を並べてみる。

競馬、競輪、競艇・・・・約75%

toto・・・・約50%

パチンコ、スロット・・・・約80%

これを見る限り、totoはやや高いが、競馬、競輪、競艇、などの代表的な公営ギャンブルでさえテラ銭は25%で宝くじの半分でしかないのである。

そして色々と問題は含んでいるが、庶民の身近なギャンブルであるパチンコ、スロットの還元率がじつに80%もあるのである。

こうして見ると、いかに宝くじの還元率が低いかがはっきり分かるのである。

こうしたひどい状態では、庶民としてはもいかに派手でセンセーショナルなコマーシャルを流されようが、宝くじ売り場には次第に足を運ばなくなるではなかろうか。

2010年8月12日木曜日

読書意欲を失ってしまう下手な翻訳作品

海外の文学作品でものを言うのは、なんと言ってもその翻訳者の力量である。

いかに高名な作家の作品であろうとも、翻訳者次第で良くもなり悪くもなったりするものなのである。

立派な出版社の作品だから、まず大丈夫だろうなどと安心して読み始めたりすると、これが大きな当て外れで、とんでもなく下手な翻訳作品に出会ったりするのはよくあることだ。

およそ翻訳者と呼ばれる人たちは、少なくても2カ国以上の言語に通じていなければならないのだが、単に通じているだけでなく、その国語力においては並外れた力量を備えていなければならないのである。

つまり、日本人の翻訳者が英語の文学作品を翻訳するとすれば、英語の力はもちろんのこと、それ以上に必要なのが国語としての日本語の優れた読解力と表現力なのである。

翻訳という作業のパターンには一般的に言って、直訳、意訳、翻案という3種類のものがあるようだが、力量の無い翻訳者であれば、翻案というのは別にして、意訳の力が不足しており、必然的に文学作品には不向きな直訳パターンに向かわざるを得ないという事情がある。

そのため、出来上がった日本語の文章はギスギスしており極めてぎこちなく、全体的に味気ない文体に終わってしまっているのである。

それはまるで機械翻訳のごとく、定型的で応用力の乏しい文章であり、読み手をただイライラと落ち着かさなくさせるだけのまずい表現に終始しているのである。

そんな文章に出会った時には、翻訳に素人の読者でさえ、いったい元の原語の文章はどうなっているのだろうかと、思わず考え込んでしまうのである。

そんなまずい翻訳の作品を世に出してしまう出版社も考えもので、何故中途段階で気づいて翻訳者を交代させたりしないのであろうか。

それが大手出版社であればあるほど、そうした点が大いに不可解に思えるのだが。

実は今回このテーマでブログを書くことになったのは、最近私自身が2度連続して、極めて下手な翻訳作品に出会ったからであり、結果として2冊とも途中で読むのを中断してしまった悔しさからなのである。

いずれも代表的な大手出版社から出されている作品だが、関係者の名誉のために、ここでは大所高所の見地から、作品名と著者名と出版年度だけを挙げるに留めて、注意を喚起しておきたい。


(作品その1) エミール・ゾラ著 「居酒屋」 1974年

(作品その2) ジャック・ケルアック著 「路上」 2007年

2010年8月11日水曜日

サイコバブルとは何なのか?

林公一著「サイコバブル社会」という本を読んだ。

ある意味で現代を象徴しているとも思える今の社会における「心の病蔓延現象」をテーマとした本である。

一時アメリカで一大ブームを起こしたのが、メンタルクリニックにおけるカウンセリングだったが、それに似た現象が約20年遅れで今日本にやってきているのだ。

なんとこの十年間でうつ病患者の数と、それに伴う抗うつ剤の販売高が倍増したという。

また、これまでには名前すら聞かなかった「アスベルガー障害」とか、「PTSD」であるとかの新しい名の心の病の定義づけも進んできている。

高度成長期を終え、低成長経済社会に入った今の日本が抱えるニートとかフリーターの増加にともない、社会的に不安定な状態に置かれた若者たちの苦しみや悩みが原因となる様々な心の病の急激な増加。

またそれに連動するように心療内科やメンタルクリニックの数が著しく増加してきて、それらの互いの要因が相乗効果となって、心の病の数を爆発的と言っていいほど増やしてきている。

その結果が、今のサイコバブルというような奇妙な社会現象を引き起こしているのではないだろうか。

本来心の病はいわゆる精神病と呼ばれる分野の病気で、過去においては決して人前で堂々と言えることではなく、むしろ恥ずべきものと思われ、その病名はずっと隠されてきていたのである。

それが新しい姿に生まれ変わった精神科医の元で、その病気は現代病という名のもとに美化され、若者たちの間でさえ、避けて通ろうというような風潮はもはや無く、例えば「トラウマ」という心的外傷を意味する言葉などは、病名とは言えむしろかっこいいカタカナ言葉として受け入れられ、何のためらいもなく気軽に使われているのである。

今や心の病はかってのような暗いイメージは伴っておらず、むしろそれは社会の先端を走る者にとっての「一歩進んだ形の心の状態」として捉えられているのではないだろうか。

そして、そういう状態に持っていったのは、果たして患者本人なのか、それともこの分野における規模拡大競争下での精神科医たちの宣伝効果によるものなのか、いまその判定を下すのは難しい。

いずれにしても、当事者である精神科医がバブル状態と呼ぶぐらいだから、それはいつかははじけて、またもとの正常な状態に戻る日が来るのではないだろうか。

サイコバブルとは、決して歓迎することのできない異常な社会現象であり、無くなるものなら早く無くなってしまった方がいいのではないか。

2010年8月10日火曜日

8月は過去を偲んで過ぎていく

およそ8月ほど過去を偲んだり懐かしんだり、また邂逅したりして過ごす月は他には無い。


8月6日の広島原爆投下記念日に始まり、9日の長崎の同記念日。

12日の日航ジャンボ機墜落による犠牲者合同慰霊祭。

続いて15日の終戦記念日。

そしてその記念日の前後にまたがる今は亡き人たちをこの世に迎えるお盆。

さらには古きよき時代へのノスタルジーを揺り動かす甲子園球場の全国高校野球選手権大会。

またこのお盆のシーズンには普段より長めの休日があり、人々が帰省する郷里では、多くの学校の同窓生たちが学生時代を偲んで同窓会を開催するのも習わしになっている。

このように息つく暇も無いほど、この月に集中して過去とのつながりを断ち切れない催しが連続的に続いており、この月ほどわたし達が連日にわたって過去を偲んだり、また懺悔やお祈りにくれたりする期間は他にないのである。

それだけに一年で最も暑いこの8月だが、その日々は意外と速く過ぎていくような気さえする。

また郷愁や邂逅に通じる古きよき時代への思いからか、失いかけていた貴重なモノを再び心に取り戻せた、と感じる期間であるようにも思う。

この暑い8月の広島、長崎の原爆記念日とそれに続く終戦記念日。

未曾有の死者を出した日航ジャンボジェット機墜落事故の合同慰霊祭。

さらにはお盆休みの帰省先の故郷で行われる古きよき時代を偲ぶ同窓会。

これらの8月の一連の行事と催しごとは、とかく心を失いつつあるわたし達に再びあたたかい人とのつながりを思い出させてくれ、これからの人生にやさしさと憂いを取り戻させてくれるのである。

またこの8月には各テレビ局が競って戦争記念特集番組を組んでおり、戦時中の悲惨な生々しい光景を私達一人一人が反省と自戒の念をもって、目にすることができるのである。

戦争は悪であると認めながら、少しでも油断したら、またたやすくその渦中に身を沈めてしまいそうになる混沌とした現在の世の中だが、そんな気がする時こそ、この8月に私たちが胸に描く熱い思いをしっかりと受け止め、実生活において、その発露を見いだしていきたいものである。





2010年8月6日金曜日

増税か国債発行か、あなたはどちらを選びますか?


民主党菅総理が急激に人気を落としたのが消費税増税を口にしたためであった。
だが、下の表を見れば菅総理ならずとも国家の責任ある立場にいる政治家なら誰だってこの問題は避けて通れないのではないだろうか。



                   インターネット「google 画像」より

それほど日本の消費税は諸外国に比べて低い税率のまま据置かれているのである。

したがって菅総理でなくても、総理と名がつけば、誰であろうとこの問題には真剣に対峙しなければならないはずで、「10%に上げることを検討する」云々を口にしただけで、人気を著しく落とすということ自体がおかしな現象であるのではないだろうか。

もう長い間、その財政において歳入不足に直面している日本が、いまだに5%の消費税率で済ませていることこそが大きな間違いなのであり、とっくに税率を上げていなければならなかったのではないだろうか。

そうしながったが故に、このところもまるで天井知らずのごとく増え続けているのが国債乱発による財政赤字なのである。

今、ギリシャ問題に端を発して、世界の財政赤字に対する目は厳しさを増すばかりで、日本とて、もはや安閑としている場合ではなく、一刻も早く歳入アップのために、実施について遅きに失した感がある消費税増税は、今すぐにでも実行しなければならないのではないか。

そうでなければまた国債を発行し続けて、果てしなく財政赤字を増やすだけなのである。

刻々と恐ろしいほどその数値をあげていく「財政赤字カウンター」を見るのは、国民としてはもうイヤなのだ。

2010年8月5日木曜日

クラシック珠玉の名曲をあなたに(その2)

ピアノ曲集(2)
ウェーバー「舞踏へのお誘い」


1819年に作曲されたこの作品はウェバーのピアノ曲の中では最も有名であり、最愛の妻カロリーネに捧げられたものである。
ワルツふうのすばらしいメロディは、軽快な中にもこの上ない気品と甘美な香りを漂わせている。


[リンク]
http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Weber_butouhenokanyu.htm


              インターネットサイト「Rein Music」クラシックMIDIより

女性のスカート着用率低下と独身男性増加の因果関係


女子高生や20前後の若い女性の極端に短いスカートは別にして、一般的に女性のスカート姿は一時に比べてこのところ著しく減少している。

一言で言って、近ごろの女性はスカートをはかなくなっているのである。

今も昔もたいして代わり映えしない男性の服装に比べてこうした女性の著しい服装の変化はいったいどんな意味をもっているのであろうか。

またそれによって男性はどんな影響を受けているのであろうか。

これについて、ここでは今回のテーマである「独身男性増加」という問題に関連づけて考えてみようと思う。

今や異常な勢いで上がり続けている独身男性の比率だが、一体その原因はどこにあり、またどうしたらそれを改善できるのであろうか。
近ごろ「草食男子」などという、言わば弱くなった男性を象徴するような言葉が流行っているが、この言葉のように今日の独身男性は本当に女性に対して、その本能として意味において淡白になってきているのであろうか。

いや、風俗業界やアダルトビデオ業界が特に衰えを見せていないことから考えても、決してそうは思えない。

では変わったのは何なのかと言えば、それは女性の男性に対する意識なのではないだろうか。

つまり今の女性は、対男性ということにおいて、あらゆる面で極端に強くなってきており、その結果いわゆる「媚び」を売らなくなってきているのである。

つまり男性の気を引くために、よりセクシーに見せたり、積極的に誘惑的な態度を見せたりはしなくなってきたのである。

原因は色々あると思われるが、もっとも大きな理由は、経済力をつけた女性が増えるなかで、草食男子と呼ばれるように、女性たちに魅力的だと思わせる、いわゆる「強い男性」が少なくなってきているからなのではないだろうか。

その結果、女性は男性を意識しなくなり、強いては次第に遠ざけるようになっているとも言えるのである。

つまりこうした要因で、今回のタイトルのような二者間の因果関係が成立するのである。

今の世の中には驚くほど多くのニートとかフリーターとか呼ばれる男の人たちがいる。

こうした人々は当然のごとく経済力も無く、女性にとってはもはや魅力的な対象ではない。

したがって当然のごとく、こうした男性に対して女性は冷淡になり、次第に相手にしなくなり、強いては無視するような冷淡な態度に出てゆく。

相手に女性と感じてもらう必要が無くなり、女性らしく装うともしなくなる。

当然、セクシーさも必要なくなるので、服装にしても男性が好むスカートを着用しようという気も起こらなくなる。

スカートをはかない女性は、外見的にはなんとなく女性っぽさを減少させており、それがますます男性を遠ざける要因にもなり、次第に男女の接触のチャンスは少なくなっていく。

つまり魅力の乏しくなった男性を意識しない女性が増え、そして一方の男性としてはそうした女性を本来の女性として認められなくなり、次第に距離をおくようになる。

その結果、婚期を逸して未婚のままズルズルと歳を重ねていくのではないだろうか。

年毎に非婚率の高くなる昨今の我が国の男女の関係においては、女性がスカートをはく必要性を感じないような、実にいびつな構図になっているとのである。

こうした状態を打破するには、男性が奮起して、女性に軽んじられたり、なめられたりしないように、再び「魅力ある確固とした男性像」を取り戻していくための努力をするしかないのではあるまいか。

独身男性諸氏の奮闘を祈る。

2010年8月4日水曜日

駅のホームで缶チューハイやビールを立ち飲みする女たち

屋外の公衆の面前での女性の大胆な行動に驚かされたことはこれまでにもしばしばあった。

例えば
・自転車に乗ってくわえタバコで疾走する女

・街頭を胸を大きく肌けて闊歩する女

・ 大声で罵倒しながら男性の膝を蹴りまくる女

ごく一例にしか過ぎないが、これらの一連の行動は、一昔前ならおよそ想像もできなかったような大胆極まりないものである。

しかし今やこうした行動を、当の女性たちは躊躇したり羞恥心をもったりすること無く、ごく平常な精神状態で行っているような感さえある。

ごく最近のことだが、こうした行動をさらにエスカレートさせたような、言わば過激と言ってもいいような女性 たちの姿を3度連続して目にしたのは、まさに驚きのほかのなにものでもなかった。

その驚きの光景とは、公衆の面前での女性たちのアルコール飲料の「立ち飲み姿」なのである。

今どき、立ち飲みバーなどで豪快にビールなどをあおる女性の姿を目にするのは別に珍しいことではない。

しかし、駅のホームなどの公衆の面前でのそうした光景となると話は別である。しかも連続3回もである。

その内訳はこうである。

一回目は、あるウィークデイの夕方、JR神戸駅、神戸線西行きホームでの中年女性の缶ビールの立ち飲み姿。

この女性、物怖じすることなく実に堂々と飲んでいた。

2回目は別の日の同じ時刻の同じ場所で、今度もやはり中年女性のカンチュ―ハイの立ち飲み姿。

前回の女性よりやや若く、この人も周りを気にしている様子などはまったくなかった。

そして3回目は、ある暑いウィークデイ昼前の姫路駅神戸線東行きホームでのこと。 

若い女性の2人連れが談笑しながら手にしたカンチューハイを飲みながら電車を待っているではないか。

この二人も実に堂々としていて、こうした場面に慣れているようにさえ見えた。

これらの光景は、3回とも当事者である4人の姿が実に堂々としていて、人目を憚ったり、遠慮したりする様子は微塵も伺えなかった。

男でもウィークデイに公衆の面前となると、アルコールを手にするのを憚るのが普通なのに、彼女らのまさか!とも思わせる姿を昨今目にするようになってきたのが、世の中の非常に変わってきたところであり、今のこうした風潮に対しては驚きを通り越してむしろ恐ろしささえ感じてくるのである。

こうした気持ちになるのは決して私だけではなく、他の多くの人たちも同様であると思うのだが。

今やビル工事現場で働く女性とか、ダンプカーの運転をする女性だとかを目にすることさえさほど珍しくない時代なのだが、たとえ世の中がどう変化しようとも、屋外の公衆の面前での女性の「立ち飲み姿」だけは「どうか勘弁して欲しい」と、一男性として願わざるを得ないのである。

そもそも、これまではそういった場所でグイッと酒をあおるのは、マナーの悪い男性の専売特許である思っていて、この分野にかくも早く女性が参入してくるなどとは夢にも思っていなかった。

しかし、いわば神聖?とも思っていた男性の領域をいとも簡単に侵してくるのが、最近の女性たちなのである。

今や男のすることならなんでもするというふうにも見える女性たちの、これが現実の姿なのであろうか。

2010年8月3日火曜日

若者はコンプレックスをトラウマとかん違いしてはいないか?

サイコバブルとか言って、心的な病をなにかとあげつらう風潮のある今の世にあって、若者が好んで使うものの一つに「トラウマ」という言葉がある。

先日も夜のテレビニュースの頭髪治療をテーマにしたトピックスで薄毛に悩む若者がインタビューに応えて言っていた。

「今回の薄毛対策の治療を受けて以来、もうトラウマはなくなりました」

それを聞いた当方は少なからず違和感を覚えた。

以前から思っていたのだが、今の若者はこのトラウマという言葉を安易に使いすぎるきらいがある。

はたした当人たちはこのカタカナ言葉の意味をはっきり理解した上で使っているのであろうか。

いや、その安易な使い方からして決してそうと思えない。

ニュアンスからしてどうやら彼らはこのトラウマをコンプレックスという言葉と同列の意味で使っているのではないだろうか。

コンプレックス、つまり劣等感というような意味なのだが、単にその言葉を使って言い表したいことを、やや新鮮な響きのあるトラウマという言葉に言い換えているだけではないのだろうか。

彼らとしては、ただ流行に乗って使っているだけで、トラウマの言葉としての真の意味などは考えることはないのである。

こうした若者にぜひ知っておいてほしい。

トラウマとはコンプレックスのように、何かと対比して初めて気づかされるような劣等感情を表す言葉ではなく、過去に於いての心を傷つけられるような悪い経験によって押しつけられた精神的外傷のことを指して言うのである。

したがって冒頭の若者のように、「薄毛対策治療を受けてからもうトラウマはなくなりました」というのは、明らかに言葉の誤用であると思われる。

もしそうでなく、真の意味でのトラウマという言葉として使うのなら、この若者は前々からその薄毛について、人からからかわれたり非難されたりしていて、そのために傷ついていた、などというような理由を前もって挙げておき、それがトラウマになっていると説明しておかねばならないのである。

たとえ若者と言え、流行に乗った安易な言葉の誤用は避けたいものである。

それを防ぐ意味でも、英語を置き換えたカタカナ言葉をかっこいいと考えて安易に使う場合に、えてしてこうしたミスが起こり易いということも併せて覚えておいて欲しい。

2010年8月2日月曜日

傑作ジョーク(3)

能登半島で観光バスの女性ガイドさんから聞いたタコに関するおもしろいジョーク2題


(その1)

ガイドさん : ほとんどの人はタコには8本の足があると思っているようですが、実はそのうち2本は手なのです。それを見分ける方法を皆さんはご存知ですか?

客全員   : 知りませーん!

ガイドさん : それを見つけるにはゲンコツでタコの頭をコーンと殴ります。するとタコは痛い!
         と叫んで8本のうち2本を頭に上げます。その上げた2本が手です。       
            

(その2)

ガイドさん : 皆さんはタコが蛸壺に入るとき、頭から入るのか、それとも足から入るのか、どちら
         か知っていますか?

客全員   : 知りませーん!

ガイドさん : それはその日の気分次第で、頭から入った  
         り、足から入ったり・・・

売れない弁護士

鳴り物入りでスタートした法科大学院だが、その草創期の卒業生の新人弁護士が、実社会でなかなか仕事にありつけなくて困っていると最近のメディアがよく報じている。

だが、実際にそうなのだろうか。

法科大学院開学以来、ここ数年で一定数の弁護士が増えたとはいえ、国内の弁護士総数は2万9千人あまりで、まだそれほど大きく増えたという実感はない。

一方、弁護士大国と言われるアメリカはどうだろうかと言うと、なんと106万人という桁違いの数で、実に日本の約35倍もの数なのである。

人口が倍ということを割り引いても17~8倍である。

一体この差は何なんだろう。

それについて考える前に、ここで少し観点を変えて、日米の経済規模の差はどうなのかと、それを表す代表的な経済指標のうちGDPについて眺めてみた。

2007年度の統計によると、日本の一人当たりGDPが3万4千ドル、それに対してアメリカは4万6千ドルであり、その差は思ったほどでなく、けっこう肉薄しているのである。

およそ国家の勢いを表すいろいろな数値というものは、その経済規模に準じて現れることが多い。

そういう観点に立てば、どう見ても日米のいちじるしい弁護士の数の差はとても不思議に思える。

その経済規模から考えて、大所帯のアメリカの弁護士の生計が成り立っていて、うんと小世帯の日本の弁護士が、たとえ新人とは言え、その生計を脅かされているのはなぜなのだろうか。

どうやらこれについて答えを出すには、別の観点から考える必要がありそうだ

もしかしてこれは、日米の「社会の成熟度の差」が原因なのではないだろうか。

言い換えれば「文明度の差」とも表現することもできるのだが。

つまり、弁護士を必要とするシチュエーションは「争いごと」においてなのだが、日本人は極力そうした場面から遠ざかろうとする傾向があり、言わば「争いごとに積極的に対峙して弁護士介入も辞さない」というような考えに立つことが少なく、こうした面ではまだ民度の低い社会に住んでいるのである。

すなわち、根本的に性善説の社会に住んでいて、アメリカのように「目には目を」とか「歯には歯を」という立場に立つことが少ないのである。

したがって、争いごとは白黒の決着をつけないまま終わらせてしまうため、仲裁役の弁護士などの出る幕を奪ってしまっているのである。

こうした観点から考えて、争いごとに面と向かわない日本人の精神風土を変えない限り、弁護士の出番が大きく増えることは無いのではあるまいか。



こうした状況が続く限り、仕事を増やす為には弁護士自らが努力を払うしか方法が無いのである。

たとえば英語に「アンビュランスチェイサー」という言葉があるが、これはアンビュランス(救急車)をチェイス(追っかけ)して何らかの事件現場へたどり着き、そこで仕事の糸口を探すというアメリカの売れない弁護士を称していう言葉なのだが、争いごとと事件の多いアメリカの弁護士でさえ、ここまで努力を払っているのである。

仕事の無い日本の新米弁護士もこうした彼らの姿勢に学んで、みずから仕事獲得への道を開拓していくことこそ、争いごとの現場に立つ身としての実力をも高めていくことになるのではあるまいか。

たかが3万人弱では、まだまだ日本に弁護士が多すぎるとは言えない。

陰ながら、新米弁護士諸氏の奮闘を祈る。

2010年8月1日日曜日

クラシック珠玉の名曲をあなたに(その1)

(ピアノ曲集1)
カッチーニ 「アヴェマリア」

アヴェマリアというのは聖母マリアへの祈祷文を曲にしたものだが、いくつかあるうちでこのカッチーニのもの以外では、「グノー」と「シューベルト」の作品が特に有名である。

今回のカッチーニの曲はこの二曲よりずっと後になって人気の出てきたもので、ロマンチックな甘い香りを漂わせたすばらしい旋律は、きっと聞く人を魅了して止まないに違いない。

[リンク]
http://classic-midi.com/midi_player/classic/cla_Caccini_avemaria.htm


                                      インータネットサイト「Rein Music」クラシックMIDIより

JR西日本に何が起こっているのか?


おそらくJR西日本を利用している多くの人は、このところずっと続いている電車の遅延には、もはや驚きを通り過ごして今やあきれ果てていることであろう。

一体、1ヶ月間に何回ぐらいの遅延があるのだろうか?などと、近ごろではその回数を数えるのも馬鹿らしいと思えるほどなのである。

まるで「反省も何もあったものじゃないではないか!」と言っていいほど、日々繰り返えされる遅延はひどいものなのである。

これについて一体運行責任者は何を考えているのであろうか。

一度テレビへでも出て、それについて釈明して欲しいと思っている人は多いと思うのだが・・・。

連日車内に流されるお詫びの放送も最近では怒りを通り過ぎて、むしろ滑稽にさえ聞こえてくる。

性懲りも無く流されるアナウンスだが、その遅延の理由についても理解に苦しむことがしばしばある。

それらの理由で最近多いのが、


 ・人身事故のため

・安全警報ブザーが鳴らされたため

 ・線路内に人が立ち入ったため

 ・架線にモノが引っかかったため

 ・踏み切りが異常信号を点滅したため

 ・遮断機が折れたため


などであるが、人身事故を除いてどうもこれらの理由はもっともらしいものを並べてはいるが、なんとなく疑わしく、でっち上げられたモノではないかという感じさえする。

なぜなら過去においてはこうしたことが遅延の理由に挙げられたことはほとんど無かったからである。

遅延が多くなったことの原因として予想されるのは、福知山線の大事故以来、運転に従事する人やそれを取り巻く内部の人たちが、とにかく事故に過敏になっており、走行中にちょっとした異変を感じた時は、その理由を考える前に、まず列車のスピードを落としたり、あるいは止まったりするようにと、うるさいほど上から教育されているのではあるまいか。

したがって運転手は極度な神経過敏に陥っており、かん違いも含めてちょっとしたことにすぐ反応してしまい、それが正常な運転を妨げ、強いては遅延の原因となっているのではあるまいか。

これでもか、これでもか、とでも言うほど、日々繰り返される電車の遅れを目の当たりにしている乗客としては、もはやそうとしか思えないのである。


先月の朝日新聞「天声人語」に面白いジョークが載っていた。読んでいない人のためにここで紹介する。


連日の電車の遅れに業を煮やした乗客が駅員に詰め寄った。

「こんなにいつも電車が遅れるのなら、時間表なんか要らないじゃないか」

すると駅員

「でも時間表がなければ、遅れたかどうか分からないですから」