2021年5月27日木曜日

警察発表の「捜査に支障があるので認否を明らかにしない」とは?


「捜査に支障があるので認否を明らかにしない」
という発表がさいきん目立つのはなぜ?

この問題については、当方だけでなくいま多くの人が気にしているのではないだろうか。

それにしても、「捜査に支障があるので認否を明らかにしない」など、以前はあまり言っていなかったのに、どうして最近になって決まったように言い始めたのだろうか。

それに、「捜査に支障がある」というのは、どういう意味なのだろうか。

以前はなかったのに今になって急に支障が出始めたというのだろうか。

「意味わからん」とはまさにこのことだ。

この問題について老舗QAサイト「ヤフー知恵袋」といま人気の「QUORA」とで調べてみた。

 

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ヤフー知恵袋より

 

最近警察が容疑者の認否を明らかにしていないというのが流行ってますが、これは要するに有無を言わせず逮捕したってことでしょうか? 

 

回答その1

逮捕というのは 捜査の都合です。世間と隔離しないと捜査が出来ない 捜査に支障をきたす それが逮捕です。 逮捕するには裁判所の許可が必要です。逮捕令状と言います。 

逮捕令状を請求する場合にはその理由の説明が必要です。その理由に 裁判所が同意しなければ逮捕令状は発行されません。 認否を明らかにしない理由の多くは 裁判に影響するからです。 特に 重篤な犯罪の場合 裁判員裁判になります。素人が裁きます

。訓練を受けていない素人ですから 事前に聞いたり見たりしたマスコミの報道が 頭の中に残ります ほんとは 裁判所の中の出来事だけでジャッジしないといけない。事前の情報はタダの伝聞で排除しなければなりませんが なかなか素人には出来ませんから 情報を出さなくなりました。 

その次に多いのは 捜査に差し支える と言う理由です。目撃者や関係者の 発言が変わってしまう事などが予想される場合です。


回答その2

二通りあるでしょう。 一つは、容疑者自身が認否をはっきりしない。 二つは警察が捜査上支障があるので認否をはっきりしない。 認否には5つあり、自白、黙秘,否認、不知、争うです。 逮捕は令状によって容疑者を拘束できるだけです。 これは有無は関係ない。

出典:ヤフー知恵袋 

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QUORAの回答より

 

ニュースをみていて警察が認否を明らかにしない場合がありますが、どんな理由が考えられますか?

 

田村 誠志

, 弁護士 (2009年〜現在)

回答日時: 2年前 · 執筆者は1,295件の回答を行い、108.9万回閲覧されています

回答時の元の質問:ニュースを観ていて警察が認否を明らかにしない場合がありますが、どんな理由が考えられますか?

 

推測の部分もあるので恐縮ですが、私見を述べます。

記者会見などの報道対応は、警視庁なり都道府県警察なりの広報課が担当すると思いますので、広報課が刑事課から被疑者の認否について情報をもらえていて、かつその情報を刑事課および広報課が開示して良いと判断していれば、「被疑者は本件犯行を認めている」「被疑者は本件犯行を否認している」「被疑者は弁護士が来てから話しますと言っている」「被疑者は取調べに黙秘している」といった回答が記者に対してされると思います。なお、記者会見の段階で被疑者が認否を明らかにしていない場合には「(警察は被疑者の、ではなく)被疑者は認否を明らかにしていない」となるかもしれません。

しかし、刑事課から認否の情報がもらえていなかったり、情報はもらえたが開示に待ったがかかったりした場合には、広報課からは「被疑者の認否は明らかにできません」という回答が来ると思います。その場合、「警察は被疑者の認否を明らかにしていません」という報道になると思います。

認否を明らかにできない理由としては情報が広報課に来ないほかにも色々あると思いますが、共犯がいる場合などは被疑者の認否が共犯者の動向に影響を与える可能性があるため、認否を明らかにしないという対応も十分あり得ると思います。

ちなみに、以上は被疑者の認否が警察から明らかにされることの当否とは無関係な説明ですので、ご了解ください。


出典:QUORA

 

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あわせて読んでいただきたい記事
マイブログ10周年・アクセス数400越え170記事のご紹介シリーズNo.1No.9  全170記事一挙大公開  

 https://tuneoo.blogspot.com/2019/10/blog-post_5.html

 

 

2021年5月23日日曜日

日本人、中国人、韓国人・顔は違うのだろうか?


 ユーチューブで「日本人、中国人、韓国人の見分け方」を見たが 

YOUTUBEに「日本人、中国人、韓国人の顔の見分け方」という動画があった。インドネシアで現地のいろいろな層の人に、3者の違いについて尋ねるという内容のものだった。

少し期待して見たのだが満足のいくような応えは皆無だった。

インタビューを受けた大抵の人が肌の色の微妙な違いとか、髪型の違い、あるいは体格の違いなどについて述べていたが、確信的なものはなかった。

結局のところ、彼らにもよくわからないのだ。とすれば3者には決定的な違いはないのかもしれない。

もし、これがひと昔前だったら、服装の違いで見分けられたかもしれない。それは経済力で優位にあった日本人は圧倒的に服装が良かったからだ。

しかし今は経済的にも完全に両国に追いつかれていて、3者に服装の違いはまったくないと言っても過言ではない。

要は顔立ちだけでなく服装にも違いはなくなったのだ。これで見分けろと言われても、所詮無理なことではないのか。

 

NYAre you chinese?と訊かれたことを思い出した 

若い頃NYに住んでいたことがある。トレイニーとしてNYのホテルで働いていたのだ。

住んでいた下宿屋の近くに「チャーリーのカフェ」という店があった。

ほとんど毎日訪れていたのだが、その店のマスター、チャーリーが、何度目かに訪れたとき、突然「Are you chinese?」と訊くではないか。

それに対して、やや声を荒げて「No, I’m Japanese」と応えていた。声を荒げたのは少し腹が立ったからだ。

なぜ腹が立ったかと言うと、当時は日本と比べて中国や韓国は経済的にうんと下位の国で、そんな国の人と同等に見られるのがイヤだったからなのだ。

でもチャーリーが日本人を中国人に間違えるのはなんの不思議もない。なぜならNYには大きななチャイナタウンがあってそこには10万人を超える中国人が住んでいるのだ。

それに対して日本人の居住者はわずか1万7千人程度でしかなかった。

当時のアメリカで外国人としてメジャーなのは中国人で、日本人はマイナーな存在だったのだ。

 

3者に決定的な顔立ちの違いはない

日本人は変な優越感からか、我々の顔は中国人や韓国人と同じではない、と思いたがる傾向があるようだが、果たしてそうだろうか。そう思うのは単なる錯覚ではないのだろうか。

たとえば日本に住んでいる中国人、韓国人にそれぞれ5人づつ登場してもらい、「この中に日本人が3人混じっているから見つけて」と言われたとする。

仮に回答者が5人いたとすると、各々は見つけようと必死になり、なんとか適当な3人づつを指名するに違いない。

でも「この中に日本人は一人もいない」と指摘できる人は皆無であるに違いない。

それはそうだろう。10人全員が日本人にも、中国人にも、韓国人にも見えるからだ。

 

日本の立場が弱くなるほど、中国人や韓国人に間違えられることが増える

上述したようにニューヨークで日本人が中国人によく間違えられるのは、NYでは日本人より中国人の方がメジャーだからである。人は何事においてもメジャーなものを優先するのだ。

いまや日本を凌駕するような勢いのある中国や韓国は、経済的にも日本よりメジャーな雰囲気を持つようになっている。

とすれば、今後日本人が中国人や韓国人に間違えられることが今以上に増えてくるのではないだろうかか、と心配になってくる。

 

 

 

2021年5月19日水曜日

村上春樹・ノーベル賞以前に芥川賞も逃したのは何故?

 村上春樹の芥川賞落選は不可解でミステリアス!

毎年のように候補に上がりながら、いまだにノーベル賞を受賞できない村上春樹だが、その理由についてはっきり語ることができる人はおそらく皆無ではないだろうか。

それ以前に芥川賞のことを忘れてはならない。それは今世紀が誇るこの偉大な作家は、なんと芥川賞の受賞歴もないのだ。

日本を代表する文学賞である芥川賞。村上春樹に与えられずして、いったい誰に与えられるというのだろうか。これほど不可解なことはない。

1979年と1980年の二度候補に上がったものの、いずれも反対の撰者に押し切られて受賞を逸しているのである。

では、その時の撰者は誰で、選評とは一体どのようなものであったのだろうか。

下に掲げたのが著書「走ることについて語るときに僕の語ること」で述べている芥川賞落選に対する思いと、ウィキペディアに掲載された芥川賞候補作品及び撰者と選評である。

 

芥川賞について村上春樹が語っていること 



 

…『風の歌を聴け』 と『1973年のピソボール』 は芥川賞の侯補になり、どちらも有力候補と言われたのだが、賞は結局とれなかった。でも僕としては正直なところ、どっちでもいいやと思っていた。とればとったで取材やら執筆依頼やらが続々舞い込んでくるだろうし、そんなことになったら店の営業に差し支えるんじゃないかと、そっちの方がむしろ心配だった。…」。

 

      (注)「店」とは村上春樹が当時経営したいた「ジャズバー」のことである。

 

   出典:「走ることについて語るときに僕の語ること」村上春樹著

 

 

村上春樹・芥川賞候補作品の撰者と選評

 

第81回芥川賞
(1979年7月発表)

『風の歌を聴け』

候補のみ

丸谷才一の選評。「もしもこれが単なる模倣なら、文章の流れ方がこんなふうに淀みのない調子ではゆかないでせう。それに、作品の柄がわりあひ大きいやうに思ふ。」

瀧井孝作の選評。「外国の翻訳小説の読み過ぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。(中略)しかし、異色のある作家のようで、わたしは長い目で見たいと思った。」

大江健三郎の選評。「今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向付けにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。」

第83回芥川賞
(1980年7月発表)

1973年のピンボール

候補のみ

大江健三郎と吉行淳之介が支持に回ったものの、井上靖中村光夫らは拒否した[69]

その後村上が長編小説を仕事の中心に構えたこともあり、彼の作品が三度芥川賞の候補に選ばれることはなかった(芥川賞は中編、短編が対象のため)。

村上がのちに世界的な作家へ成長したことにより、二回にわたる取りこぼしはしばしば芥川賞に対する批判の的となる。

 出典:ウィキペディア

2021年5月15日土曜日

おもしろいのは関連記事

 

関連記事とは?

関連記事とは、Webサイトのメインコンテンツ(主にニュースやコラムなどの読み物コンテンツ)下やサイドバー(PC表示の場合)に表示される、メインコンテンツと関係がありそうなコンテンツのことを指します。複数個のコンテンツがウィジェット形式で提供される場合が多く、メインコンテンツと同一ドメインのコンテンツもあれば外部コンテンツが混じる場合もあります。 出典:とりもち 

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「筒香レイズから戦力外通知」(ヤフーニュース)に関連した興味をひく記事はこれ!

5月12日ヤフーニュースの大リーグ筒香選手のレイズからの戦力外通知のニュースは本人には気の毒だが非常に興味のわく記事だった。

なにしろ年俸にして7億円弱にも及ぶ大型契約だっただけに、レイズが被った損失も大変なものだったろうと同情する気持ちが起こるのだ。

でもこのニュースより、もっとインパクトのあり興味のわく話題がこの記事の「関連記事」として取り上げられていた。それが次に掲げる記事である。

それにしても関連記事はどうしてこれほど興味深いのだろうか。その理由はずばり、関連記事に取り上げられるものは、報道した結果、反響が強く読者から支持されたものばかりだからである。

要はアクセスの多かった人気記事だからなのだ。

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筒香戦力外通知の関連記事(その1)

米メディア特集「ヤンキース史上最悪の12の契約」 ワースト1位は日本人

  ワースト1位に選出されたのは、阪神からポスティングで移籍した井川慶氏

 

 レッドソックスがワールドシリーズを制覇して幕を閉じた今季のMLB。すでにストーブリーグが熱を帯び始める中、そのレッドソックスに地区シリーズで敗れたヤンキースが敢行するであろう大型補強に注目が集まっている。これまでも数々の大補強を行ってきたピンストライプの名門だが、米メディアではヤンキースの過去の失敗補強ワースト12を格付けし、日本人メジャーリーガーが不名誉な選出を果たしている。

 ニュージャージー州最大のニュースサイト「NJ.com」は「MLBホットストーブ ヤンキース史上最悪の12の契約」として特集を展開。1901年創立の名門の歴史で不名誉なワースト1位に選出されたのは、なんと井川慶氏だった。

 井川氏は2006年12月に、2600万ドル(約29億5300万円)のポスティング費に加え、5年2000万ドル(約22億7000万円)+出来高の契約を結び、阪神からヤンキースに移籍。だが、2年間で16試合に登板(13試合に先発)し、2勝4敗、防御率6.66という成績に終わり、残りの3年間はメジャー登板なし。マイナー生活を余儀なくされた。

「なぜ、ヒドかったのか?」という記事中の寸評には「イガワはメジャーで2年間の惨めなシーズンを送った。彼はさらに2年間3Aで過ごし、最終年はほとんど2Aにいた。GMのブライアン・キャッシュマンは日本の球団にイガワを売却しようとしたが、イガワが移籍を拒否した。すべてはレッドソックスがダイスケ・マツザカ争奪戦で、ヤンキースを制した際の条件反射的な出来事だった。マツザカの補強もボストンにとって、そこまで奏功しなかったわけだが」と指摘している。

Full-Count編集部)

出典:Full Count

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関連記事(その2)ヤフーニュース

戦力外通告を受けた筒香の貢献度はメジャー1054選手中1023位


 5月11日(日本時間12日)にタンパベイ・レイズの40人選手登録を外されて、事実上の戦力外通告を受けた筒香嘉智。

 今季はここまで26試合の出場で打率.167、ホームランなしと不振に苦しんでいた。

 筒香の打撃不調を示すデータはたくさんあるが、貢献度を表すWARに注目してみたい。

 WARとは「Wins Above Replacement」の略で、代替可能選手に比べてどれだけ勝利数を上積みできたかを計算したものだ。その計算式は複雑で、メジャーリーグでは算出方法が若干異なるBaseball-Reference版(rWAR)とFangraphs版(fWAR)の2つが主流である。

 今季の筒香のWARは、rWARが-0.6で、fWARは-0.5。0が代替可能選手と同レベルなので、WARがマイナスの筒香は代替可能選手以下の働きしかできていなかった。筒香を起用するよりも、マイナーから代わりの選手を昇格させた方がチームへの貢献度は高いとの評価を出されてしまった。

 野球データ分析専門サイトのFangraphsでは、今季のfWAR選手のランキングが掲載されているが、筒香は1054選手中1023位と大きく低迷。

 WARは打撃だけでなく守備や走塁を含めて計算されるが、筒香をベンチに置くメリットはデータ的にはなにもなかった。

 

出典:ヤフーニュース 2021/5/13

2021年5月12日水曜日

時代小説の名手 藤沢周平の少年時代


学校嫌いだが無類の本好き少年だった

小学生の頃にはこんな本を読んでいた 

小説家は言うまでもなく、ものを書く人ですが、それ以前にものを読む人です。もちろん小説家でない普通の人でも本は読みます。でも費やす時間と読む量を比べるととうてい比較には及びません。

その違いはまさに月とスッポンと言ってもいいでしょう。それに読み始める時期も早く、小説家は幼少の頃から大量の本を読み続けているのです。

国民的作家とも言われる時代劇の名手藤沢周平も例外ではありません。

氏は小学生の頃、なにかのきっかけで吃音症(どもり)になってしまい、授業で指名されても、一言も発する事ができないほど重症の状態になり、そのせいですっかり学校嫌いになっていました。

その反動もあってか、本に対する執着はすごく、身の回りで目にする本は種別を問わず手当たりしだいに読破してしまうという、まさに本の虫そのもので、小学生にしてすでに活字中毒にかかっていたのです。

下に掲げたのは自伝「半生の記」の一文で、小学校五~六年時の読書傾向について書かれたものですが、この一文を読むだけでも、氏のすさまじい読書欲をじゅうぶん観察することできます。  

藤沢周平 半生の記 40~41頁 

宮崎先生は、午後の一時間をつぶして、V・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を読んでくれるような教師だった。また作文を書かせそれを一人一人に返すときは必ず末尾に朱筆で感想と指導の要点を記して返した。私はふつうの授業時間はほとほといやだったけれども、作文(綴り方)の時間は好きだった。声を出さずに済み、また末尾の感想でほめられることが多かったからである。

宮崎先生のこうした教育は、それまでの私のとりとめもない活字好きを、明確に小説好きに変える鍵の役割をしたような気がする。私は家の中の本を手当たりしだいに読むようになった。家には姉たちが子供の頃に読んだと思われる少女雑誌や、丘の向こうの温泉旅館で働いている長姉が休日のときに持ち帰るキングとか富士とかの小説雑誌、菊池寛、吉屋信子、久米正雄、牧逸馬の文庫本などがあった。読んだのはそういうものである。

もちろん姉の持ち物である大人の雑誌や本ばかりでなく、私は少年倶楽部や譚海(たんかい)、立川文庫、それに高垣眸、南洋一郎、海野十三、佐藤紅緑、山中峯太郎の野少年小説の単行本も読み、とくに高垣眸の「まぼろし城」、「怪傑黒頭巾」、山中峯太郎の軍事探偵本郷義昭物、少年倶楽部に連載された吉川英治の「天兵童子」などを夢中で読み耽った。

私は家で読み、学校の休み時間に読み、下校のときに歩きながら読み、授業中に机の中に頭を突っ込んで、そこにひろげてある本を読んだ。完全な教室のはみだしものの図である。

そういう私の状態は、級友たちの目にも異様に映ったに違いない。六年生になってからだろうか、私が例によって教室にたった一人残って本を読んでいると、廊下に十人ほどの級友がやってきて、変な調子をつけて、「ヒマアレバ、ヒマアレバ」とはやし立てた。ひまさえあれば本を読んでいるという意味だった。

いまで言えばいじめにかかったということだろうが、私はそのころは背丈がのびて男子の列の中ほどにいたし、勉強した覚えがないのに成績もそんなにわるくなかったので。級友のいじめは全然気にならなかった。しかしあまりうるさいので、二度目か三度目にやってきたときに、本から顔を上げてそっちを見ると、連中はわっと逃げてそれっきりになった。

小学校五年、六年ごろの私は、子供ながらほとんど活字中毒という有様になっていた。

 

出典:半生の記 文春文庫

2021年5月8日土曜日

フェイクニュースが蔓延するなか、ネットリテラシーがないと生きていけない

 



膨大な数のネットニュースに多くのフェイクが紛れている

あのトランプ氏が言った「フェイクニュース」は当たっているかも

今はちょっと懐かしいような気もする、あの悪名高かったトランプ前アメリカ大統領がよく口にしていたのがフェイクニュースだ。

どんなにメジャーな媒体であれ、彼に関して好ましくない情報を流すと、必ずと言っていいほど「あれはフェイクニュースだ」と言っていた。

そうした発言を聞いてた頃は「米国でそんなにフェイクニュースは多いはずはない」と、少し疑わしい気持ちを抱いていた。

でも今になってみれば、あれはあながち間違っていたとは言えないのでは、という気になってきた。

それはヤフーニュースをはじめネットで流される膨大な数のニュースを見ていると「一体この中に真実を伝えものがいくつあるのだろう?」という疑問が湧いてくるからである。

そうした疑問はだんだんふくらんできて、この中にはきっと嘘まがいの話も混じっているに違いない、という気がしてくるのだ。

うそまがいの話、そうなのだ、これこそがトランプ氏の言っていたフェイクニュースなのではないか。

 

なんと100社以上も!ネットニュース提供社はこんなにある

皆さんが毎日目にするネットニュースは、例えば、ヤフーニュース、スマートニュース、グーグルニュースなどのメジャーな媒体が多いのではないだろうか。

これらはいずれも日本を代表するニュースサイトだが、こうしたサイトの傘下には、驚くなかれ実に100社以上のニュース提供社があり、毎日多くの記事をメジャーサイトに送り続けているのだ

仮にニュースの数を1社30件と少なく見積もっても、トータルでは毎日3000件ものニュースが作られいることになるのだ。

1日に3000件とはすごいではないか。これだけ多ければフェイクが混じっていても何ら不思議ではない。

 

コロナ禍日本の医療崩壊、フェイクではないのか?

数あるネットニュースのサイトの中で経済誌プレジデント社が運営するプレジデントオンラインは比較的信頼できる媒体であるが

今メディアで喧伝されているコロナ禍の医療崩壊について、特集記事を組んで次のような矛盾点を指摘している。

下に掲げた内容でわかるように、いまコロナ禍で騒がれている医療崩壊について疑問の目を向けているのだ。

 

(プレジデントオンライン特集記事)

「コロナでの医療崩壊」が叫ばれたとき、なぜ一般病棟もICUも患者数は減っていたのか  https://president.jp/articles/-/42286

 

(記事の内容)

・先進国の中で圧倒的に急性期病床数が多い「急性期病床大国ニッポン」


・非常に長い入院期間


・その状況でも76%と低いベッドの稼働率


・治療や検査がないのに病院のベッドで食事をとるだけの「素泊まり入院」


・海外諸国と比較して「日帰り」が可能な医療が入院で行われている状況

 

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(注目すべきデータ)

日本のコロナ重症者数  1,000名  2021年 4月 (医療崩壊)

フランスの  ”    5,000名  同 (医療崩壊起きていない)

 

 

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これだとファイクに騙されて当然!

ネットリテラシーを知らない人がこんなにたくさんいる


MMD研究所によるフェイクニュースに関する調査(2020年) 

スマートフォンを所有する18歳~69歳の男女1,116人を対象に、「ネットリテラシー」について意識しているか聞いたところ、「言葉を知らない」が最も多く37.2%、次いで「普段から意識している」が27.4%、「言葉は知っているが、内容は知らない」が18.2%となり、内容を知らないのは半数以上であることがわかった。
これを年代別に見ると、「言葉を知らない」と回答したのは60代(n=173)が最多で45.1%、次いで40代(n=267)が40.1%、50代(n=231)が39.0%となった。「普段から意識している」と回答したのは10~20代(n=232)が最も多く39.2%、30代(n=213)が26.8%、60代(n=173)が24.9%という結果となった。

 出典:MMD研究所

 

ネットリテラシーとは

インターネットを正しく使いこなすための知識や能力。インターネットリテラシーともいう。本来、リテラシーliteracyは読み書きの能力のことで、知識や応用力という意味で使われる。ネット上の情報の正確性を読み取り、情報の取捨選択や適切な対応ができること、電子商取引に正しく対処できること、利用料金や時間に配慮できること、プライバシー保護やセキュリティ対策を講じられること、などをさす。


 ネットリテラシーが不足したままインターネットを利用していると、不適切なプライバシーの公開や個人情報の流出、著作権や肖像権の侵害、コンピュータ・ウイルス感染による迷惑メール送付行為など、自らが被害を受けるだけでなく、故意でなくとも加害者になる可能性がある。さらに、不正アクセスによるなりすまし、サイバー犯罪への加担など、モラルに反する行動や違法行為へとエスカレートすることもある。また、ネットショッピングを通じた過剰な消費行動、オンラインゲームへの依存など生活の破綻につながるケースも指摘されている。


 インターネットの利活用に加えて、パソコンなどのコンピュータ機器まで応用範囲を広げた能力をコンピュータ・リテラシーという。さらに、パソコンやスマートフォン、ウェアラブル端末などの適切な利用、ネットワーク接続なども含めた、総合的なIT情報の活用能力をITリテラシー、または情報リテラシーという。

 

出典:;コトバンク

 

2021年5月4日火曜日

小説を書きたい人にぜひおすすめしたい一冊     「職業としての小説家」


村上春樹が小説のつくられ方や構造について本気で語っている

村上春樹の作品で、エッセイでは小説ほど評判になったものはこれまで見ていないが

この「職業としての小説家」は小説以外の分野でもなみなみならぬ力量が発揮されていることを認めざるを得ないクオリティの高いエッセイある。

この作品では氏が35年以上作家活動を続けてきた経験をもとに、小説創作技法に関わる様々な点が注意深く語られている。

中でも注目すべきは、小説の思いがけない展開について書かれた部分である。

それは「短編小説のつもりで書き始めたものが、その作品の登場人物の作中での予期せぬ発言一言で、長編小説に変わってしまった」という興味深い話である。

また、小説は作者が展開についてあれこれ悩む前に、作中の登場人物が勝手に動いてストーリーをどんどん前に進ませてくれるので、作者はそれにしたがって文字を並べていくだけでいい、とも書いている。

こうした話は小説を書こう思いながら、いろいろ悩んで一歩を前に踏み出せないでいる未来の小説家たちには心強い身方になってくれるに違いない。

下に掲げるのがその一文である。

 

村上春樹『職業としての小説家」(232~234頁) 

小説のキャラクターにとって重要だと僕が考えるのは。「その人物がどれくらい話を前に導いてくれるか」ということです。その登場人物をこしらえたのはもちろん作者ですが、本当の意味で生きた登場人物は、ある時点から作者の手を離れ、自律的に行動し始めます。これは僕だけではなく、多くのフィクション作家が進んで認めていることです。実際そういう現象が起きなければ、小説を書き続けるのはかなりぎすぎすした、つらく苦しい作業になってしまうはずです。小説がうまく軌道に乗ってくると、登場人物たちがひとりでに動き出し、ストーリーが勝手に進行し、その結果、小説家はただ目の前で進行していることをそのまま文章に書き写せばいいという、きわめて幸福な状況が現出します。そしてある場合には、そのキャラクターが小説家の手を取って、彼をあるいは彼女を、前もって予想もしなかったような意外な場所に導くことになります。

具体例として、最近の僕の小説を引き合いにださせていただきます。僕の書いた長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の中に、木元沙羅というなかなか素敵な女性が登場します。実を言いますと、僕はもともと短編小説にするつもりでこの小説を書き出しました。原稿用紙にすればだいたい六十枚ぐらいのものになるだろうと予想して。

筋を簡単に説明しますと、主人公の多崎つくるは名古屋の出身で、高校時代にとても親しくしていた四人のクラスメイトから「もうあまえとは会いたくない。口もききたくない」と言われます。その理由は説明されません。彼もあえて質問しません。彼は東京の大学に入って、東京の鉄道会社に就職し、今では三十六歳になっています。高校時代に友人から理由も告げられず絶交されたことは、心に深い傷を残しています。でも彼はそれを奥に隠し、現実的には穏やかな人生を送っています。仕事も順調だし、まわりの人々には好意を持たれているし、恋人も何人か作りました。でも誰かと深い精神的な関係を結ぶことができません。そして彼は二つ年上の沙羅と出会い、恋人の関係になります。

彼はふとしたきっかけで、高校時代に親しくしていた四人の親友から拒絶された体験を、沙羅に語ります。沙羅はしばらく考えてから、あなたはすぐ名古屋に帰って、十八年前にいったいそこで何があったのかを調べなくてはならないとつくるに言います。「(あなたは)自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ」と。

実を言うと僕は、沙羅がそう言うまで、多崎つくるがその四人に会いに行くことになるなんて、考えもしませんでした。僕としては、自分の存在が否定された理由もわからないまま、多崎つくるがその人生を静かに、ミステリアスに生きていかなくてはならないという、比較的短い話を書くつもりだったのです。でも沙羅がそう言ったことで(彼女がつくるに向かって口にしたことを僕はそのまま文章にしただけです)、僕は彼を名古屋に行かせないわけにはいかなかったしそして果てはフィンランドにまで送り込むことになりました。そして四人がいかなる人々であるのか、それぞれのキャラクターをl新たに立ち上げなくてはなりませんでした。その結果として、当然のことながら、物語は長編小説という体裁をとることになりました。

つまり沙羅の口にした一言がほとんど一瞬にして、この小説の方向や性格や規模や構造を一変させてしまったのです。それは僕自身のとって大きな驚きでした。考えてみれば彼女は、主人公である多崎つくるに向かってではなく、実は作者である僕に向かって語りかけていたのです。「あなたはここから先を書かなくてないけない。あなたはそういう領域に足を踏み入れているし、それだけの力をすでに身につけているんだから」と。つまり沙羅もまた、僕の分身の投影であったということになるかもしれません。

彼女は僕の意識のひとつのアスペクトとして、僕が今ある地点で留まってはいけないということを、僕自身に教えていたわけです。「もっと先まで突っ込んで書きなさい」と。そういう意味ではこの『色彩を持たない多先つくると。彼の巡礼の年』は、僕にとって決して小さくない意味を持つ作品となっているかもしれません。形式的に言えばいわゆる「リアリズム小説」ですが、水面下ではいろんなものごとを複合的に、またメタフォリカルに進行している小説だと僕自身は考えています。

僕自身が意識している以上に、僕の小説の中のキャラクターたちは、作者である僕をせき立て、励まし、背中を押して前に進めてくれているのかもしれません。それは『IQ84』を書いているときに、青豆の行動を描きながらひしひしと感じたことでもありました。彼女は僕の中の何かを強引に押し広げて(くれて)いるみたいだな、と。でも振り返ってみれば、僕は男性のキャラクターよりは女性のキャラクターに導かれたり、駆り立てられたりする場合の方がむしろ多いみたいですね。自分でもどうしてかわかりませんが。

僕が言いたいのは、ある意味においては、小説家は小説を創作しているのと同時に、小説によって自らをある部分、創作されているのだということです。

 

     出典:「職業としての小説家」スイッチ・パブリッシング

 

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この本の紹介文より

「村上春樹」は小説家としてどう歩んで来たか――作家デビューから現在までの軌跡、長編小説の書き方や文章を書き続ける姿勢などを、著者自身が豊富な具体例とエピソードを交えて語り尽くす。文学賞について、オリジナリティーとは何か、学校について、海外で翻訳されること、河合隼雄氏との出会い……読者の心の壁に新しい窓を開け、新鮮な空気を吹き込んできた作家の稀有な一冊。

(この本のもくじ)
第一回 小説家は寛容な人種なのか
第二回 小説家になった頃
第三回 文学賞について
第四回 オリジナリティーについて
第五回 さて、何を書けばいいのか?
第六回 時間を味方につける——長編小説を書くこと
第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み
第八回 学校について
第九回 どんな人物を登場させようか?
第十回 誰のために書くのか?
第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア
第十二回 物語のあるところ――河合隼雄先生の思い出

 

 

 

 

2021年5月1日土曜日

「人に支えてもらって症候群」なのだろうか?


「まわりの沢山の人に支えてもらって」という人がやたら多いが

例えば大会で優勝するなど立派な成果を挙げたスポーツ選手がTVなどでのインタビューを受けているのを見ていると、「周りの多くの人に支えてもらって」というようなセリフを口にする人がやたら多く、これに対して違和感を覚えて仕方がない。

一昔前だと決してこんなふうには言わず、その多くは「一生懸命努力した甲斐があって」とか「毎日の厳しい練習に耐えたおかげで」などの発言だったはずだ。

要するに今の選手は成果を挙げられたのは「周りの多くの人の支えのおかげ」、一昔前の選手は「自分自身が厳しい練習で努力してきたおかげ」というふうに原因が自他にはっきり分かれているのだ。

このことについて冷静に考えてみると、どうも一昔前の方が自然で、今の言い方は不自然ではないかと思ってしまう。

いうまでもなくスポーツの成果は日頃の練習によってもたらされるもので、その練習をするのは本人だ。

もちろんコーチや監督など周りの人の支えはあるだろう。でもそうした人たちはそれを仕事としてやっていることで、個人的に特別な世話をしているというわけではない。

それなのに選手から「支えてもらったおかげで」などと言われれば、なにか気恥ずかしい思いをするのではないだろうか。

 

「沢山の人に支えてもらって」は他力本願のあらわれか?

なにかにつけて「沢山の人に支えてもらって」と口にする人は、もし成果を挙げられなかったときはどういうふうに言うのだろうか。

まさか「周囲の人の支えがなかったから」とは言わないはずで、「努力が足りなかったから」とか「練習不足のせいで」などと、原因を自分のせいにするのではないだろうか。

だとすると成果を挙げられたのは周りの支えのおかげであり、成果が挙げられたのは自分のせい、ということになり、辻褄が合わないではないか。

このように考えると、やはり「沢山の人に支えてもらって」と口にするのは、正直な気持ちの現われとは思えない。

こうした発言は、たぶん周りの人に遠慮したり、あるいは自信のなさからくる他力本願の気持ちのあらわれなのに違いない。

 

「周りの人に支えてもらっ」は「させていただく」にニュアンスがに似ている

テレビの芸能人を筆頭に、このところなにかにつけて「させていただく」という言葉を使う人が多くなったようだが、こうした傾向は「させていただく症候群」とも言われ、どちらかといえば感心できない言葉遣いだ。

なぜかといえば、いかにもへりくだった自信なさげな表現だからである。

今回問題にしている「周りに人に支えてもらって」も「させていただく」と同様に、いかにも自信なさげで、言い方そのも他力本願的な物言いではないだろうか。 

 

「多くの人の支えのおかげ」より「努力の甲斐あって」の方良い

人々がやたらに「多くの人の支えのおかげ」と口にするのは、単に周りのi誰もがそう口にするので、自分だけ目立たないように、真似して言っているだけなのではないだろうか。

要するに本心で言っているのではないのだ。本心では、成果は自分が努力したおかげだと思っているはずだ。

とすれば、わけも分からず「周囲の支えのおかげで」などとは言わず、はっきりと「毎日の厳しい練習を耐えてきたおかげで」というふうに、はっきり言ったほうが、聞く人の耳には心地よく響くのではないだろうか。