深夜一時にもなると、さすがに人の出入りも少なく、さっきまでの喧騒が嘘みたいに広いロビーから次第に人影が絶えていき、時おり鳴るエレベーターのドアが開く時のチンという音がやけにはっきりと耳に響いてくる。
この時間だともうチェックインもなく、仕事が一段落したボーイたちはロビーの隅の小さなカウンターデスクの周りに集まってしきりに雑談を交わしていた。
話題といえば、今夜自分たちが携わったチェックインのこと。宿泊中の芸能人のこと。明日仕事が終わってからの遊びの予定などというたわいのないものが多かった。
そんな会話の中で、さっきからロビーの隅のほうを見つめていた後輩の小山君が道夫の肩ををたたいて突然言った。
「ねえ浜田さん。あの隅のソファーに座っている女の人がいるでしょう。あの人一人でああして一時間以上も座っているんですよ。誰かを待っているのですかねえ」
小山のその言葉に道夫も視線をそちらの方へ向けてみた。
少し距離があり、おまけに窓向きにすわっていたため顔は見えなかったが、ソファーの背から少し出た黄色い服の肩口と少し長めの髪を見て、その女性を今夜一度見たことがあると思った。 「ああ、あの人ねえ。どこかで見たことがあるなあ。ああそうだ。さっきラウンジで紅茶を注文した女の人だ。確か十一時半位だったかなあ」
「へー、じゃあもう二時間以上ここへいるんですねえ。見たところ宿泊客のようでもないし、ちょっと気になりますねえ」 「そうだなあ、そろそろロビーも消灯だし、小山君、行って確かめてきたらどうだ」 「ええいいですけど。でも一人じゃどうも」
「いいよ。じゃあ一緒に行ってみようか」
好奇心も手伝って、道夫は二つ返事でOKすると小山君とともにそちらの方へ歩いて行った。その女性の前までやってきた時、小山君が妙にモジモジしているので、道夫の方が切り出した。
「あのう、失礼ですがこのロビーそろそろ消灯なのですけど、どなたかをお待ちなのですか?」
女はゆっくり顔を上げて二人を見た。間違いなくさっきティラウンジに来た人だ。あのときは横に立って注文を聞いたので気がつかなかったけれど、今こうして正面から見ると、化粧こそ少し厚めだが切れ長の目をしたなかなかの美人である。
歳のころなら三十前後であろうか。
その女は少し考えた後で今度は道夫の方だけ見て言った。
「消灯って、ここ電気が消えるちゃうの?」
「ええそうなんです。一時半になると」
道夫はチラッと腕時計を見ながら答えた。
「あらそうなの。困ったわ、どうしようかしら。私ねえ、十二時にここである人と会うことにしていたの。十一時半頃に来て、ずっと待ってるんだけど、いまだにその人現れないのよ。少し遅れるかもしれないけど必ず行くからと言ってたので、こうして待ってるの。でももう 十一時をまわったんでしょう。いったいどうしたのかしら」 女は面長の整った顔を少し曇らせて答えた。
女のところへやって来る前の道夫と小山は、この女のことを「多分、外人相手の夜の女だろう」などと話していた。でもこうして近くで見てみると、女にはどことなく清楚な感じが漂っており、決してそうだとばかりは言い切れなかった。
「その人、このホテルへ泊るって言っていましたか?」
「ええ。今夜から三日間その予定だと」 「失礼ですがその方のお名前は?」
道夫がポケットのメモ帳を探りながらたずねた」
「ロイ、ヘンダーソン。アメリカ人よ」 「ロイ、ヘンダーソンですね。ヘンダーソンのスペルは?」
「ええっと、H、E、N、D、E、R、S、O、N 確かそうよ」
道夫はすばやくそれを書き取るとメモを小山に渡しながら言った。
「小山君、フロントへ行って宿泊客と今日到着予定の予約客を調べてきてくれないか」
「はい分かりました」 小山はメモ帳を持ってすぐフロントのほうへ歩いていった。
「それでその方、今日アメリカから到着するのですか?」
「いいえ、日本には四日前に来ていて、今日は東京からなの」
「東京ですか。でも東京からだと列車にしても、飛行機にしても最終便はとっくに着いていますしねえ」 「そうねえ。おかしいわ」
「あのう、ひょっとして他のホテルとお間違えじゃないのですか?」
ふと道夫は前にもこんなことがあったな、と思い出しながら、そうたずねてみた。
「いいえ、確かにこのホテルよ。場所も中島だと言ってたし」
「でも中島にはもう一軒ホテルがありますよ。ニューリバーホテルってのが」
「いいえ、確かにここだと言ってたはずだわ」 女はいったん腰を浮かせてソファーに座り直してから言った。
小山はすぐ戻ってきた。 「浜田さん、ありませんよこの名前、宿泊客にも予約客の残りにも」 小山がそう言ってメモを返そうとしたが、それは受け取らず、「そうかやっぱりな、ちょっと待ってって」とだけ言って、道夫はサービスカウンターの方へ戻っていった。
カウンターの前に来て、電話の受話器を取ると、ニューリバーホテルの番号を回して、出てきた人にロイ・ヘンダーソンという人の宿泊の有無をたずねた。
しばらく待たされた後で受話器から 「その方のルームナンバーは八二九号です」とういう答えが返ってきた。
やっぱりそうだったか、この前のケースとまったく同じだ。もっともあの時は男の人だったけど。道夫は自分の推理が当たったことをいささか満足に思いながら、また二人の所へ戻っていった。
「やっぱりホテルをお間違えでしたよ。そのヘンダ―ソンという方、ニューリバーホテルへお泊りだそうです」 女はそれを聞いたとき、「えっ」とだけ言って、しばらくはキョトンとしていた。
「よくあるんですよこういうこと。ここがニューシティホテルであちらがニューリバーホテルでしょう。最初のニューの字が同じなもんで、つい勘違いされる方が」
道夫のその言葉に、女は少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら口を開いた。
「どうしよう私、恥ずかしいわ、ホテルを間違えたなんて。私の不注意からお二人にはすっかりご迷惑をかけてしまって、ごめんなさいね、なにかお詫びしなくちゃあ」
そう言うと、前のテーブルに置いてあったハンドバッグに手を伸ばすと、それをソファーとテーブルの間に隠すようにしてなにやら中をまさぐっていた。
「これ少ないんですけど、お二人でお茶でも飲んでください」 女はティッシュペーパーの小さな包を道夫に向かって差し出した。
「いいんですよそんなこと。我々は当たり前のことをしただけですから」
一応、礼儀にしたがってそう言ったものの、女が少しも手を引っ込めようとしないのを見て、「そうですか。それではお言葉に甘えて」と、今度はさっと手を出してそれを掴んだ。
「おい小山君。車、車、玄関にこの方のタクシーの手配を」
「はい浜田さん。今すぐに」
渡された思わぬ報酬にすっかり気を良くしたのか、小山はすごくいい返事をして玄関の方へすっ飛んでいった。 道夫もせめてもの感謝の意をと、女をタクシーの所まで案内していった。
つづく
次回 8月21日(木)