2026年5月17日日曜日

30代のはじめ頃だったが、ある日、親しくもなかった顔見知りの女性が職場を訪ねて来たのは何故? (Part 1~2)4300文字 一挙掲載


    GEMINI


(Part 1)


とつぜん私の職場を訪ねてきた女性は、以前勤務先が同じだったAさんだった


これは30歳になって間もないころの話です。その頃の私は大阪福島区に新しくオープンしたホテルPに勤めていました。その前まで勤めていたRホテルから転属してきたのです。

ある日職場のフロントオフィスで裏作業を行っている時、表に立っていた同僚が、「オーさん来客ですよ、きれいな女性の方です」と突然告げに来ました。

「きれいな女性の来客っていったい誰だろう」とやや首をかしげながら、カウンターに出てみると、どこかで見たことのある女性がいくぶん遠慮がちな表情で立っていました。

「どこかで会ったことがあると思いましたが、果たして誰だったろう」と考えている間に相手が口を開きました。「Rホテルのお仕事で一緒だったAです」


R`ホテルはつい3ヶ月前まで在籍していた職場です


彼女にRホテルでご一緒だった、と指摘されて改めて気づいたのですが、それは私が3か月前まで在籍していた職場です。

そこでの最後の職場はフロントオフィスでしたが、その場所にこの女性はいなかったはずです。

「はてRホテルのどこで一緒だったのだろうか」と、少し時期を遡って考えてみたところ、やっと思いだしました。

「そうだフロントオフィスの前の客室係をしていた頃に知り合った同期入社のAさんではないだろうか」と。

7〜8年前のことで定かではなかったのですが、滅多にいないと思えるほどの、その美貌からして、彼女に違いないと思ったのです。

でもそうだとしても、彼女とは別に親しい間柄ではなく、出会ったとき挨拶を交わす程度で長く話したことなど一度もありませんでした。それゆえ名前以外はまったく知らないのです。



Aさんは職場で評判の美人だった


あえて知ってるといえば、彼女は同期入社20名ほどの女性の中で際立った美貌の持ち主であるということで、その印象が強烈だったゆえ7年過ぎたその時でも顔を覚えていたのです。

でもこちらが覚えていたとしても、彼女の方が自分のことを覚えていたのは不思議です。彼女にしてみれば私は単なる同期入社15名ほどの男性社員の一人にすぎなかったはずだからです。

どう考えてみても私という男性をいつまでも忘れ得ないほどの強いインパクトを与えたとは思えません。それ故にいくら考えても突然の訪問を受けたことが解せないのです。

とはいえ、彼女の突然の訪問に私は大いに驚いたものの別に不快ではありませんでした。

というのも彼女が評判の美人だったからに違いありません。たとえどんな形にせよ、美人の訪問を受けていやな気持になる男はいないと思います。

それに、同僚たちに「オーさんには、こんな美人の知り合いがいたのか」という羨望の気持ちを抱かせるのも小気味良いものです。

なにしろ、彼女は回りのすべての男性を虜にするほどの素敵な美人女性だったのですから。



彼女はなぜ親しくもなかった私をわざわざ訪ねてきたのだろう


それにしてもなぜ彼女は親しくもなかった私をわざわざ訪ねてきたのだろうか、という疑問はその後長い間消えませんでした。

繰り返しますが、彼女とは同期入社の関係で顔見知りだとは言うものの、出会ったときに挨拶を交わす程度で、親しく話したリ、行動を共にしたことは一度もないのです。

この程度の密度の薄い関係では、一般的に一方がわざわざ相手の職場を尋ねてくることなどないことだ、と思うからです。

とはいえ、かつて私は心の隅で、こんなにきれいな人を彼女にできたらどんなに幸せなことだろうと憧れたことはあります。

ひょっとしてそんな私の下心を彼女は見透かしていたのかもしれません。もしそうだとしたら、彼女の突然の訪問は分からなくもありません。

つまり、自分に憧れていた僕を甘く見て「この人だと聞いてくれるかもしれない」と、何か頼みごとを企てて、やって来たのかもしれないのです。



驚くべきかな、彼女の目的は保険の勧誘だったのだ


悲しむべきかな、私のそんな予想は的中しました。

さすがに遠慮がちな表情はしていたものの、彼女の口から出た用件は、なんと「生命保険に入っていただけませんか」というものでした。

訪ねてきて、最初に見た彼女は、最初に出会った頃の美貌は幾分失せていて、何か疲れていて寂しそうな雰囲気が漂っているのを感じました。

そんな様子から、ひょっとして彼女は何か頼み事をするためにやってきたのでは、と思っていたのですが、その予想が的中したのです。

驚くべきことに、彼女は保険の外交員になっていたのです。

その頃の私は保険の外交員のことを、いわゆる「おばちゃん」と呼ばれるような50歳を超えた、年配女性の仕事と思い込んでいました。

それ故に、まだ30歳にも手の届かない彼女のような若い彼女が、その職業に転身していたことに大きな驚きを感じたのです。



何故私は彼女の頼みを即決で承諾してしまったのか


最後に私の後悔話しを書くことにします。彼女が保険のセールスレディに転身していたことに大きな驚きを感じた私ですが、「生命保険に入ってください」という彼女のリクエストには、ほとんど抵抗することなく承諾してしまったのです。

でも、数日後には、これが大失敗であったことに気がつきました。

生命保険の契約は人生で数ある契約ごとの中でも決して小さなものではありません。それ故に頼まれたからとはいえ、簡単に決めていいものではありません。

ましてや私は既に妻帯者の身で、妻も子どももいたのです。生命保険は必要なものとはいえ、当然配偶者である妻に相談して決めるべきものです。

それを独断で、しかも特に親しくもなかった女性から頼まれたその日に即決で承諾し、契約を結んでしまったのです。

なんという軽はずみな行為でしょうか。

このことで妻との関係に少なからずヒビが入ったことは言うまでもなく、その後しばらくしてからの離婚の一因になったことは確かです。



(part 2)


Aさんはなぜ親しくもなかった私に頼み事をするため職場までやってきたのだろうか


このシリーズPart 1では、Aさんが私の職場を訪れてきた目的は生命保険の勧誘であったこと。それに対して、私はよく検討もせず、安易に承諾し契約を結んでしまったことを後で深く後悔したところまで書きました。


その続編として、このPart 2`は始まるのですが、まず書きたいのは、そもそもAさんはどんなプロセスを経て私を訪問することを決めたのかということです。この点がとてもミステリアスで私にはよくわからないのです。


というのもAさんと私はRホテルの親会社である株式会社Sホテルに同期入社した間柄というだけで、別に親しくお付き合いしたこともありません。いうなれば出会ったときに挨拶を交わす程度のうすい関係の間柄でしかないのです。


それに私は親会社を離れて傘下のチェーンであるRホテルへ移動し、さらにその後ホテルPへ転身したのです。その間7年間Aさんには全く会っていません。


それ故にAさんの存在は忘れかけていたのです。これはAさんにしても同じことで、7年も会っていない私のことなど、とっくに忘れて去っていていいはずです。


そうした状況で、Aさんが突然私を訪問してきたことが解せないのです。それに合わせて気になったのは次のタイトルにある点です。


7年以上会っていないのに何故Aさんは私の新しい職場がわかったのだろうか


上に書いたようにǍさんには7年以上会っておらず、その存在すら忘れかけていましたのです。それ故に突然訪問を受けた時の驚きが大きかったのです。


驚きだけではありません。不思議なのはなぜAさんが私の新しい勤務先を知っていたのだろうかということです。


系列のRホテルへの転籍については、社内ニュースなどで知り得た可能性がありますが、その後のホテルPへの転身は部外者は知り得ないことなのです。


なのにAさんは私の新しい勤務先を知っていたのです。いったいなぜなのか、この点がまったく解らないのです。


Aさんはこれまでどんな人生をたどってきたのだろうか


親しくもない私に保険の勧誘にきたAさんについて私はいろいろ考えたのですが、結論から言えることは、彼女は決して幸せな人生を歩んできていないのでは、ということです。


周りの誰もがうらやむほど、抜群の美貌を持つ彼女なら男性にも持てたはずです。


それ故に経済力のある男性に恵まれ、幸せな結婚生活を送っていても不思議はないはずです。


でも実際の彼女は、若い女性にとって決して良い職業とは言えない(当時は)、保険のセールスという厳しい世界に身を投じていたのです。


私には「これには何か深い事情があるに違いない」と思えて仕方がないのです。



ひょっとして悪い男に騙されて不幸な人生を送っているのかも


特別親しくもなく、もう何年も会っていないAさんが、突然私を訪ねてきて、しかもその目的が保険の勧誘だったということに対して、私はどうしても納得できないどころか、事態のこうした成り行きに対して、何か陰謀めいたものさえ感じてきたのです。


それもそうでしょう。単なる顔見知りであいさつ程度しか交わさない相手で、しかも何年も会っておらず、消息さえ掴みにくい相手を探し出し、保険の勧誘に出かける。このようなことは、普通に考えて世間一般ではあり得ないことだからです。


陰謀めいたものを感じるというのは、この計画が彼女自身が考えてものではなく、誰かにそそのかされてのことなのではないか。と思えるからなのです。

その誰かとは、彼女が交際している男なのではないか。その男はかつて私と職場が同じで、私とは親しい関係にあって、私のことをよく知っている人物なのかもしれない。


それ故に私の消息もよく掴んでおり、当然その後の私の職場についても知っていたのだろう。それを交際相手のAさんに教え、保険の勧誘を指示したのかもしれない。


そうだ、Aさんの行動は交際している男にそそのかされてのことなのではないだろうか。こう考えると、不思議に思えたAさんの行動も納得できるではないか。


長い人生では理解に苦しむような出来事の遭遇することもある

私の古い知り合いで悪い男。と考えると、2~3人の姿が頭に浮かんできて、この中の誰かだろうか、と思ったりしました。


でも私は、この件に関してこれ以上考えるのは止めることにしました。

いくら考えてもキリがなく、憶測を生むだけで決して明快な結論には達し得ないと考えたからです。


長い人生には、時として、まったく理解に苦しむようなことに遭遇することがあるものです。


こう考えて、ここまででこの話を終りにすることにしました。










2026年5月14日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈6〉紳士と編集長(3)

 

  

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3       


「なるほどねえ。他には?」


「そうですねえ。そうそう、これはむしろ第一にあげるべきだったんですが、リベーラという名前ですね。見たときの感じも口に出した時の語感もすごく良くて、いかにも知性的な響きを持っていて、なんという意味なんでしょうあれ?」


「さあ、なんでしょう。そこまでは甥も教えてくれていませんで、何か造語かもしれませんね。しかしあなたはいいとこ突いていらっしゃいますね。いつだったか甥も話していました。雑誌に売れ行きの良し悪しは中身もさることながら、名前とか表紙、それに装丁などに負うところが多いんだと、つまりあなたがお気づきになった点なんです」


それから僕はコーヒーをたて続けに三回すすって、さっきよりいくらか落ち着いた気分になり、その後十五分ぐらいあの雑誌の記事の内容について一方的にしゃべっていた。


「やあ、いいお話うかがいました。すぐ甥に伝えてやります。なにしろ創刊号の感想だし、さぞかし彼も喜ぶでしょう。でもあなた、お若いのにたいした見識をお持ちになっていて、失礼ですがお仕事は? 


あっそうだ。あなたにそう聞いているものの、私自身まだ自己紹介してなかったんだ。これはどうも失礼致しました」


彼はそう言って内ポケットから黒い名刺入れを取り出すと、その中から薄茶色の高級紙でつくられた横書きの名刺を一枚差し出した。


僕はそれをテーブルの上に置くと、しばらくじっと見つめた。


〈木谷法律事務所、木谷徳夫〉とあり、その下にここからそう遠くない〈内山下〉という住所が記してあった。


「この仕事、今はほとんど息子に任せていまして、僕は週に二~三度顔を見せる程度なんです」


しげしげと名刺を見つめている僕に対して彼はそうつけたした」


法律事務所、ということはこの人弁護士さんなんだ。どうりで知的な風貌のわけだ。でも週に二~三度顔を出すだけというのはどうしてだろう? 他の仕事ならいざ知らず、こうした仕事だと六十そこらで引退することはないはずなのに。


そんなふうに思って、そのことについて質問しようかどうか迷っていた。


「ところで、よろしかったらあなたのお仕事をお聞かせください」

紳士がまた口を開いて控えめにたずねた。



「はい。S百貨店に勤めています。今年で三年目ですけど、そこの外商部で働いています。僕の方こそ紹介遅れてすみません。これ名刺です」


僕はどこにでもあるような会社のマークの入った縦書きの名刺を差し出した。


「ほう、S百貨店ですか。しかも外商部、聞くところによるとデパートの外商はエリートの集まりだとか、それにいいじゃないですか。周りの売り場は若い女の人ばかりで」


今度は彼が僕の名刺をしげしげと見つめながら言った。


「デパートの外商部がエリートの集まりだなんて、そりゃあウソですよ。一昔前はそうだったかもしれませんが、今はそうではありません。早く言えばご用聞き、体力と行動力が優先する言わば肉体労働でして」


ぼくはやや謙遜気味にそう答えた。


「いやあ弁護士だったそうですよ。人目には知的この上ない仕事に思われているかもしれませんが、そうとばかり言えません。知力よりもっと必要なのが体力それに忍耐力。僕は常々そう思っています」


彼はそう言った後、腕時計にチラッと目をやり、さらにこうたずねた。


「失礼ですがお酒のほうはおやりで?」

「はい。人並には」


急な話の方向転換に僕はとまどいながら短く答えた。


「そうですか。そりゃあよかった。今日はこうしてお話できたからいいんですけど、どうですか、この次は一杯やりながらお話しませんか。まだいろいろお話したいこともありますし。


いやあ甥の雑誌をほめていただいたからだけじゃなく、歳の差を越えて、なにかあなたとは馬が合いそうな気がしましてね、僕今度出てくるのは四日後の月曜日。いかがでしょうか。その日の同じ時間帯に」


彼のその申出に、一瞬返事をためらっていた。でもさしたる断る理由も見つからず、少し間を置いた後、「ええいいですよ」と、あっさりその申出を承諾していた。


その四日後の月曜日。いつもバスに乗る時間より少し遅い六時三十分に、彼と僕とはバス停からあまり離れていないKホテルのロビーで待ち合わせ、お互いが十五分くらいも早く来ていて、六時に二十分くらいにはもう二人はロビーで会っていた。


この日で彼と会うのは三度目だが、会う度に服装がかわっていて、この日は淡い茶色のズボンにグレイに紺色の細い縞の入ったジャケット姿で襟元には水玉模様のスコッチタイが形よくおさまっていた。


僕のほうはというと、少なくても週に二度は着るグレイのスーツと、これもまた週に一度は必ず締める緑と赤のストライブのネクタイ姿で、確か最初の日バス停で会った時と同じ服装であったはずだ。


十分ぐらいロビーのソファーで話した後、その後のことについて彼が提案した「まずはこのホテルのバーで飲みましょうか」という意見をすんなり受け入れ、それから五分後には二人は三階にあるバーのカウンターに腰かけていた。


時間が早いせいか、長いカウンターのあるそのバーにはまだ客は少なく、カウンター斜め前のテーブル席に夫婦と思われる中年の白人カップル一組がいるだけだった。


つづく


次回 5月21日(木)


2026年5月9日土曜日

このデータに注目! 友人・家族と毎日交流している者が半数を切っているのは 46か国中、日本を含め3か国だけ。



 孤独・孤立は世界的な課題であり、OECDはその点に関する報告書を作成している。ここでは、そこで取り上げられている「人のつながり」を示す指標のひとつである「友人・家族との交流頻度」(ギャラップ調査)についての国際比較データをグラフ化した(もう1つの指標である「困った時に頼れる友人・家族がいるか」は図録9498参照)。


 図は「少なくとも毎日」の比率の低い順に国を並べてあるが、日本は同比率が42.3%とリトアニアの20.6%、ポーランドの38.0%に次いで世界第3位の低さとなっている。


 この指標からは日本人は極めて孤独・孤立の程度が高い国民だということになる。


 反対に交流頻度がもっとも高いのはOECDではギリシャの86.3%、OECD以外ではタイの90.2%となっている。


 ここでの交流頻度は「近くに住む友人・家族」との交流の回数で測ったが、それ以外の「隣人」、「遠くに住む友人・家族」、「グループ・メンバー」、「同僚・同級生」、「他人」との交流頻度を調べた結果を参考までに下図に掲げた。



 国により、どのような人との交流頻度が高いか、低いかは微妙な違いがあることが分かるが、日本は概して交流頻度が低くなっている。


 図録9498では、主な孤立度の指標として「困った時に頼れる友人・家族がいるか」を取り上げたが、ここでの「交流頻度」とどう相関しているかを下図に取り上げた。交流頻度が低いほど孤立度が低くなるように考えられるが、果たしてそうであろうか。


 結果は相関度は余り高くない。というのも、交流頻度と孤立度は、文化圏の違いで構造が異なっているからである。


 すなわち、北欧や中欧などヨーロッパの北部やオセアニアなどでは交流頻度が余り高くない割に孤立度は高くないのに対して、その他の南欧、中南米、英米、アジアなどでは、交流頻度は高くても孤立度は低くない、というような違いがあるからである。


 日本はこれらの文化圏の中間的性格の国であり、交流頻度も孤立度もかなり低い方に属していることが分かる。


出典:社会実情データ図録


2026年5月7日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈6〉紳士と編集長(2)

  

  

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結局つぎのバスがやってくるまで彼は現れず、僕はその日五十分間もバス停に立ち尽くしていたのだ。


その次の日、つまり最初に彼と会ってから三日目の十月終りの木曜日、その日は仕事がどうしても定時の五時半に終わらずに、結局四十分も残業を強いられて、バス停に着いたのはいつもより二台も後のバスが来る少し前だった。


こりゃあ今日も駄目だ。一時間も遅れたんじゃあ。彼たとえ来てたにしても、もうバスに乗って帰ってしまっただろう。


そう思って、僕が残念そうに「チェッ」と舌打ちしてコンクリートの地下街入り口の囲いに持たれかけようとした時だった。


「やあ、先日はどうも」


背後から聞き覚えのある耳ざわりのいい声が聞こえてきた。とっさにふり向くと、目の前に三日前のあの紳士が立っていた。


「ど、どうも」

待ち人がふいに現れて、しかも駄目だと諦めかけたときの思わぬ出現に、僕はまるで久しぶりに恋人に会ったときのような感激的な気分につつまれ、思わず上ずった声でかろうじてそう答えた。


「この前より一時間ほど遅かったのですがあなたもそのようで、よかった。よかった。またお会いできて」


彼はきわめて嬉しそうな笑顔を浮かべながらそう言ったあと、「失礼ですが少し時間はおありですか」とたずねた。それに対して僕は「ええ、ありますけど」と、躊躇することなく反射的に答えていた。


「よろしかったらコーヒーでも飲みながらお話しましょうか。この地下にいい喫茶店があるんですよ」


彼と僕は並んで地下街へ通じる階段を下りていき、ラッシュ時でごったがえす人波を抜けて最初のコーナーを左に曲がって、角から三軒目の喫茶店へと入っていった。


奥まった席に向かい合って座った後、すぐまた彼が口を開いた。「この喫茶店、コーヒーもうまいんですけどBGMがまたいいんですよ。ほら、今かかっているのもモーツアルトの交響曲です。えーっと何番だったかな。そうだ第四十番だ。♪チャララ、チャララ、チャララッラ♪ いいでしょうこの旋律。若いころは毎日のように聞いたものですよ。クラシックはお好きですか?」


「え、ええ。まあまあ」


とっさの彼の質問についそう答えたものの、ふだん聴く音楽といえば演歌かポピュラーがせいぜいで、クラシックなどとはとんと縁がないことを思い出して、この後も彼がその話題を続けるのを恐れていた。


それにしても彼、外見も立派だけど音楽の趣味にしてもまた立派なもんだ。僕なんかがとんと理解できないクラシック音楽のファンだなんて。やはりこの人只者ではないな。 


彼の次のセリフにいささか不安を抱きながら、あらためてその紳士について感心していた。


「ところで先日の雑誌のリベーラ、もう読み終わりましたか?」


「は、はい。二~三の興味の湧かない記事をのぞいてはだいたい」


紳士が話題をかえて二人の最大の関心事ともいうべき事柄に移して口を開いたので、ほっと胸をなでおろしてそう答えた。


「この前お話しかけたんですが、実はあの雑誌、わたしの甥が編集長をやってるんですよ。ですからわたしも大変関心をもっていて、先日あなたがあれを読んでいらっしゃるのを見たとき、つい嬉しくなって話しかけた次第なんです。お読みになっていかがでしたか。良かったとしたらどんな点が?」


三日前、バスに乗った後もすごく気になっていた途切れたセリフの続きを彼はサラッと言ってのけた。


「甥っ子さんが編集長、あの雑誌の?」

意外なことをあまりにもサラッと言いのけた彼に対し、僕はいささか自分の耳を疑いながら聞き返した。


「ええ。兄の子なんですけど、もう二十年もいろいろな雑誌の編集に携わっていましてね。今年四十三歳になったところです。もちろん東京に住んでいます」


「へえー。あのリベーラの編集長が甥っ子さん!」

さっきと同じようなセリフをかろうじて一言返したが、その後なんと話しを繋げばいいのかと、しばらく言葉を詰まらせていた。


紳士の言ったことは少なからず僕を驚かせ、いささか頭に混乱を生じさせていたのだ。


「甥に伝えてやりたいのですが、どんな点が、あるいはどんな記事が良かったのでしょうか?」


ポカンとしている僕を見て彼が催促の質問をした。


「そ、そうですね。一言でいえばユニーク性でしょうねえ。これまでのモノにはない」まだあまり実感がつかめないまま、とりあえずそう答え次の質問を待った。「そのユニーク性どいうことですが、具体的に言って例えばどんな点が?」


「そうですねえ、まずあのサイズでしょうね。隔週発行ということですから、ジャンルとしては週刊誌の中に入ると思うんです。それがあの月刊誌並の小サイズで、なにか奇をてらうところがあって」


つづく


次回5月14日(木)


2026年5月5日火曜日

Space speaks。空間(間隔)は語る・再掲載シリーズ No.24

 

 


初出:2010年11月3日  更新:2026年5月5日

 

10年以上前になるが、高校英語「NEW HORIZON」(Ⅱ)の教科書に今でも忘れられない印象的な記事が載っていた。

それは本日のブログテーマの「Space speaks」と題した、人が会話するときのお互いのスペースには「国によって違いがある」ということが主な内容の読物である。

それまでそんなことを聞いたことも、また意識したことも無かったので私にはすごく新鮮で魅力テーマに思え、読んだ後には少なからず感銘を覚えたものだ。

内容はざっとこういうものである。

このアメリカ人の著者は、ある時外国からの外交官の訪問を受けたのだが、その時のエピソードを綴ったものが今回の話である。

「その南米から来た外交官は私と話し始めると、次第に私のほうへ少しずつ前進して間隔を狭めようとした。

私としてはそれにつれて後ずさりをはじめ、もとの間隔を保とうとした。

すると彼は『何で後ずさりなんかするのだろう、私は友好的に話し合うために近寄っていっているだけなのに』とでも思うかのように、怪訝そうな表情をして、しだいに話しにくそうなそぶりを示し始めていた」

著者としては自分が話しやすいと思うスペースを保とうとして「21インチ」ほど後退しただけなのだが相手はそれを理解しなかったのである。

そのことについて後になって、会話のときの心地いいスペースというのは国によって違いがあるのではないかと気づいたのである。

つまり自分たちが心地よいと考えているスペースは違う国の人々には必ずしもそうでなく、むしろ話し憎くて、心地悪いと感じるのかもしれないというふうにである。

例えば南米の人は一般的なアメリカ人より狭いスペースを心地よいと感じるようだが、逆にそのスペースで会話を続けることはアメリカ人にとっては好ましい状態でなく、むしろ不快感さえ感じるのである。

著者はまた次のようにも綴っている。

「一般的にアメリカ人はごく親しい人との会話を除いての普通の会話では、だいたい2〜3フィーとの距離を保っている。

でもラテンアメリカの人々はそれでは間隔が空きすぎると感じるので次第に前進して間隔を詰めてくるのである。

そしてアメリカ人はというと、そんなに間隔をつめられるのは馬鹿にされているというふうに感じ、後ずさりするのである。

でも決して彼らは前進することを止めないので、最後は机の下にもぐってでも間隔を保たざるを得なくなってしまうのである」

最後の部分は著者のジョークであろうが、「Space speaks」というこの話、中々興味が湧く含蓄ある内容ではあった。

さてわれわれ日本人が好む会話の際のスペースはいったいどれぐらいなのであろうか。


2026年5月2日土曜日

開高健の「香水を飲む」は本当か? 書評「作家と酒」 平凡社

 


「えっ 昔の物書きは香水まで飲んだって、 いくらアルコール分が高いからといって、それはないだろう」


開高健の「香水を飲む」は本当か?

この本の中で開高健は「香水を飲む」というエッセイで次のような興味ぶかい話を書いていますが、果たして本当にあったことなのでしょうか。冒頭で本人も「あてになるような。ならないような」と言っているのですが。 


   「香水を飲む」

小説家の話だからアテになるような。ならないようなと承知しておかねばなるまいが、この国のアル中には”パフューム・ドリンカー”というのがいるそうである。酒を切らしていてもたってもいられなくなると、女房の香水をひっかけてその場をしのぐというのである。香水に入っているアルコールは度数がグっと高いから少量でも緊急の渇えはおさえられるかもしれないが、聞いていて身につまされた。白昼に「夜間飛行」をひっかけて、ウム、こいつはトリップできる、などと呟くのであろうか。「シャネル」の5番は「ディオリッシモ」よりもグンと書けるゼ、などと言いかわしあっているのであろうか。取材費を惜しむといいしごとにならないというのはどこでもおなじだろうが、それにしても香水をあおってゲップを洩らしている深夜の鬼という光景は、ちょっと・・・

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出版社内容情報

【収録作品(掲載順)】

1 酒呑みの流儀
正しい酒の呑み方七箇条/おいしいお酒、ありがとう 杉浦日向子  
二十年来の酒 立原正秋 
或一頁 林芙美子 
ビールの歌 火野葦平 
酒と小鳥 若山牧水 
ビールの味 高村光太郎 
あたしは御飯が好きなんだ! 新井素子 
酒のエッセイについて 二分法的に 丸谷才一 

2 酒の悪癖
酒徒交伝 永井龍男 
失敗 小林秀雄 
酒は旅の代用にならないという話 吉田健一
一品大盛りの味─尾道のママカリ 種村季弘
更年期の酒 田辺聖子
やけ酒 サトウハチロー
『バカは死んでもバカなのだ赤塚不二夫対談集』より 赤塚不二夫×野坂昭如
ビール会社征伐 夢野久作

3 わたしの酒遍歴
ホワイト・オン・ザ・スノー 中上健次
音痴の酒甕 石牟礼道子
酒の楽しみ 金井美恵子
eについて 田村隆一
先生の偉さ/酒 横山大観
酒のうまさ 岡本太郎
私は酒がやめられない 古川緑波
ビールに操を捧げた夏だった 夢枕獏
妻に似ている 川上弘美

4 酒は相棒
ブルー・リボン・ビールのある光景 村上春樹
薯焼酎 伊丹十三
サントリー禍 檀一雄
香水を飲む 開高健
人生がバラ色に見えるとき 石井好子 
パタンと死ねたら最高! 高田渡 
風色の一夜 山田風太郎×中島らも 
冷蔵庫マイ・ラブ 尾瀬あきら 
『4コマ ちびまる子ちゃん』より さくらももこ
こういう時だからこそ出来るだけ街で飲み歩かなければ 坪内祐三  
焼酎歌 山尾三省

5 酒場の人間模様
未練 内田百? 
カフヱーにて 中原中也
三鞭酒 宮本百合子 
星新一のサービス酒 筒井康隆 
とりあえずビールでいいのか 赤瀬川原平 
「火の車」盛衰記 草野心平 
水曜日の男、今泉さんの豊かなおひげ 金井真紀 
終電車 たむらしげる 

内容説明

きょうも一杯、いい気分。開高健、吉田健一、赤塚不二夫、中上健次、さくらももこ、内田百〓…。酔いどれ作家46名のエピソード。

目次

1 酒呑みの流儀(正しい酒の呑み方七箇条/おいしいお酒、ありがとう(杉浦日向子)
二十年来の酒(立原正秋) ほか)
2 酒の悪癖(酒徒交伝(永井龍男)
失敗(小林秀雄) ほか)
3 わたしの酒遍歴(ホワイト・オン・ザ・スノー(中上健次)
音痴の酒甕(石牟礼道子) ほか)
4 酒は相棒(ブルー・リボン・ビールのある光景(村上春樹)
薯焼酎(伊丹十三) ほか)
5 酒場の人間模様(未練(内田百〓)
カフヱーにて(中原中也) ほか)

出典:紀伊国屋ウェブ