2025年12月4日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈5〉直線コースは長かった(7)

 

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払い戻し窓口に並んでいるとき、配当金を知らせるアナウンスがあった。


「連勝複式、一と三の組、六百二十円」オッ、また上がっている。六百二十円もついたのか。ええっとそれだと、ろくさんが十八で、にさんが六で、合計一万八千六百円か。それから三千円を引くと一万五千六百円だな。やった!最初からこんなに儲かった。  


久夫は頭の中でそんな計算をしながら、ウキウキした気分で払い戻しの順番を待っていた。


配当金を手にして、次のレースまでまだ二十分ある、と時間を確認すると、馬券売り場の並びの隅にあるスタンド喫茶へ行きコーヒーを頼んだ。

 次が第四レースだし、この調子だと元手の五万円が倍になるのは時間の問題だな。 

そんな都合のいいことを考えながら、熱いコーヒーをすすっていた。


第四レースの前、オッズの掲示板のところには少しだけしかとどまらなかった。第三レースの前にすでに予想は立てていて、このレースは本命に中穴馬券を絡ませた三点買いだと決めていたのだ。ただ、その三点にどれだけ賭けるかはまだ決めてなかった。


 前のレースで勝ったことだし、よし今度は倍の六千円を賭けてみよう。本命の〈5―6〉に三千円、残った三千円を〈6―8〉と〈1―8〉に千五百円づつ。よし、これでいこう。久夫がそう結論を出して発売窓口に並ぼうとした時だった。


「やあ久しぶり。どうしてたの、元気だった?」


雑踏の中からふいにそんな声が聞こえてきた。自分に向けたものではないだろう。そう思ったものの、いちおう声の方をふり向いてみた。カーキ色のジャケットに白いズボンをはいた大柄な男が二メートルほど先に立っていた。


満面の笑みをたたえていて、もうこれ以上にこやかな表情はできないと思えるほどのこぼれるような笑顔を向けて男は立っている。


「あのう、僕でしょうか?」久夫は左右を見わたした後、男にそうたずねた。その人にさっぱり見覚えがなかったからだ。


「そうですよ。あなたですよ。本当に久しぶりですねえ。三年ぶりくらいじゃないですか。お元気そうで。その後どうだったんですか?」

男は少しも笑顔をくずさずそう言った。


久夫はそのこぼれんばかりの笑顔と懐かしそうな声にすっかりひきこまれながら考えていた。


三年ぶり、はて誰だったろう?この街で会った人ではない。ということは以前いた大阪か?仕事での取引先の人だろうか。それとも学生時代の友達か。いやそんなはずはない。相手は大分年上だ。ああ思い出せない。うーん、いったい誰だったろう? 


次のレースの馬券を買わなければいけないこともあってか、久夫の頭は少し混乱してきた。


「あのう、失礼ですが、どちらでお会いしたんでしょうか?」久夫がそうたずね終わるか終わらないうちに、男がまた口を開いた。


「ところでさっきのレース取りましたか?」


「ええ、まあ」質問をはぐらかされてか、久夫はポカンとした表情で答えた。


「そうですか。それはよかったですねえ。実は僕もなんですよ。見てくださいこれ」男はそう言って、右手をジャケットの内ポケットに突っ込むと、すごく厚い札束をつかんで久夫の目の前に突き出した。それを見て久夫は「えっ」と声を上げて後ろへ少しのけぞった。


目の前に出された札束の厚さに驚いたからだ。百万円、いやもっとある。

「すごいですねえ!」いっしゅん相手が誰だったか考えるのを忘れたかのように、つぶやくように言った。


「ねえ、これから第四レース買うんでしょう。なに買うんですか?」男は間髪をいれずに聞いた。「これなんですけど」男のその声につられて、久夫は予想紙に赤鉛筆で書いた三点の数字を見せながら答えた。


「ああこれね。いい線いってるけど、これでは駄目。ここだけの話なんだけど、本命になっているこの五枠の馬、練習中に足を打撲したらしいんですよ。一時は出走取り消しも考えたそうだし、だから、五枠はまず無理。買うなら三番人気の〈1―8〉と、もう一点、休養あけのサツキヒーローを絡ませた〈7―8〉、これですよ、これ。


ねえ、ところで今いくらお金もっていますか?」男は屈託なく少しも悪びれた様子のない口調でたずねた。

「六万円ほどですけど」久夫は反射的につい正直に答えてしまった。


「そう、六万円ね。じゃあそれ出して、僕が一緒に買ってきて上げますよ」男のその言葉に、久夫はなんの抵抗もなく、ズボンのポケットに手を突っ込み、二つ折りの札束をつかむと、それから千円札だけ抜いて差し出した。


後で考えると、その時はまるで催眠術にでもかけられたかのように、抵抗力というものが少しも働いていなかったのだ。


「じゃあちょっとここで待っててくださいね」久夫からお金を受け取った男は三列ほど離れた窓口へ行き、間もなく馬券を握って戻ってきた。


「はいこれ六万円分。あと五分もすれば、少なく見積もっても五〜六十万にはなりますよ。じゃあ僕はこれで、向こうに人を待たせているものですから」男は馬券を渡した後、そう言うとピョコンと頭を下げて立ち去った。


つづく


次回12月11日(木)