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九月に入ったとはいえ、まだ爽やかな秋風は吹いてはおらず、夏の名残のジトッとした生暖かい風が頬をなでた。バス停が十メートルほど先に見えたとき、文夫はポケットからハンカチを取り出して額の汗をぬぐった後で呟いた。
「明日は木島、そして明後日がいよいよあの浅井と対決の日だ」
次の日、朝から電話したにもかかわらず、当の木島はなかなか捕まらなかった。
最初にかけた十時ごろは来客中であり、二度目の十一時過ぎは席を外していて、その日はどうもタイミングが悪かった。取り次いだ事務員はいずれのときも、「こちらからかけさせましょうか」と気を利かせたが、「いや、こちらからかけ直します」と、文夫はその申し出を断った。
この件に関しては自分のペースを守りたくて、いつかかってくるか分からない相手の電話を待ちたくなかったからだ。
昼休み直後の三度目の電話でやっと木島が捕まった。
さあ、大詰めも間近だ。そう思って文夫は電話に臨んだが、新田や伊藤のときのように周りの耳を気にして、時間を指定して別の場所からかけさせたり、あらためてこちらからかけるようなことは今度はせず、用意していたメモを手に次々と彼に質問を浴びせた。
ただ、問いに対する返事は「はい」または「いいえ」だけでいいから、とあらかじめ言っておいた。
「君は浅井くんと一緒にキャンプ二日目の夜、浜岡くんと南くんがいた食堂に入っていったんですね」
「はい」
「そこで隅のほうの長椅子にいた二人を見たのですね」
「いいえ、一人だけ」
「一人だけというと浜岡くんだけですか」
「はい」
「そのとき浜岡くんは上半身裸だったということですが、確かにそうでしたか?」
「はい。いやいいえ。ぼくはよく・・・・」
「ということは君にはよく見えなかったということですね。それを後で浅井くんから聴いてそう思った。つまりそうなのですね」
「はい」
「何か裁判の尋問のようで恐縮ですけど、君にも周りの耳があるだろうと思って、こんなやり方で質問したりしてすまないとは思うんですが、もう少し我慢してください。
「はい、承知しました」
君は浜岡君しか見なかった。そして噂で言われているように、彼が上半身裸であったことも確認していない。したがってあの二人があそこで〈 やっていた 〉などとは思わなかったのですね。
「はい」
「しかし、その後の浅井くんの話で、現場にいた君としては、ついそうじゃなかったかと錯覚して浅井君の話しに同調してしまい、あえてあの噂を否定しなかった。つまりそういうことなのでしょうか」
「はい、そのとおりです」
「それで浅井君のように微に入り細に入った説明はできなかったけど、この噂について肯定的に伊藤くんたちに喋ってしまった。そうなんですね」
「はい。申し訳ありません」
「では最後にお聞きします。どうか正直に答えてください。浅井くんはともかく、あなた自身は今回の噂のようなことをあの二人がしていたと思いますか? それともそうじゃないと思いますか? まず、していたと思いますか?」
「いいえ」
「それでは、していなかったと思いますか?」
「はい」
木島からの事情聴取はあっさり終わった。
すべて文夫の予想していたとおりで、食い違った点は一つもなかった。
やはり木島は見ていなかったのだ。当日現場にいた二人のうちの一人とは言え、文夫は初めからこの木島に対してそれほどの疑念を抱いてはいなかった。
あの夜、たまたま浅井と同行したばかりに、今回の出来事の当事者の一人となったのだが、普段の彼の態度を通して、文夫としてはどちらかと言えば好感を抱いていたほうで、行きがかり上、彼を追及する羽目になったのだ。
でもそれが随分あっさりと終わり、そのうえ文夫の考えていたとおりの返事が得られたこともあってか、この木島に対してはなんら憎しみめいた感情は湧いてこなかった。
その反動なのか、すべてはあの浅井一人が仕組んだことだとはっきり確認できた今、彼に対する憎しみは倍化しており、明日こそ、この怒りを思いっきり彼にぶつけるのだと、文夫は早くも興奮を抑えきれないほどの気持ちが高ぶっていた。
九月四日木曜日、その日は折から九州に上陸間近という台風十三号の影響で、この地域一帯も朝からすさまじい風雨に見舞われていた。
ともすれば出勤意欲を失ってしまいそうな、そんな悪天候の中、文夫はかろうじて時間通りに事務所に着くことができた。
デスクに座りタバコに火をつけた後、まるで窓を突き破るかと思えるほど激しく叩きつける雨と、歩道で枝が引きちぎれんばかりに大きく揺れるイチョウの木に目をやりながら文夫は思った。
「この台風の激しい風雨とともにあの忌まわしい噂は全部洗い流してやる そしてあの浅井の奴も、この風と一緒にどこかへ吹き飛ばしてしまえないだろうか。
次第に激しさを増す風雨の音は浅井に対する憎悪を増幅させるにはまさに効果的であり、文夫はこれまで当たってきた三人に対してとはまったく違った激しい怒りの感情を抱いたまま、力を込めて受話器を握った。
しかし、このところずっと声を聞いている本部事務員の瀬山知子の「あいにくですが浅井は本日風邪で休んでおります」という返事に、第一段階では肩すかしを食わされてしまった。
つづく
次回7月10日(木)