2014年7月20日日曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第24回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第3章・夜のセントメモリアル病院(その6)



マンハッタン西97丁目 第3章「夜のセントメモリアル病院」(その6)
 
 修一が二度目に日本クラブに行ったのは、あの雪の積もった日から三日目のことであった。その日は仕事が休みということもあって前回読み残したものをできるだけ多く読んでやろう、と朝十時過ぎにはもう地下鉄に乗っていた。

 五七丁目で降りて、もう半ブロックも歩けば日本クラブへ着くという所で、反対から歩いてきた金縁メガネの痩せた白人の老女が突然修一の前に立ちはだかった。

 なんだろうこの老女は?と、怪訝に思っていると、やおら「地下鉄乗場はここからまだ遠いの?」と聞くのである。

 修一は一瞬妙な気がした。れっきとした白人がなぜまだこちらへ着て間もない日本人に道を訊かなければいけないのだろう? そう思ったからなのだ。

 「いいえ遠くないですよ。次の角を右に曲がればすぐ入口の階段が見えます」
 修一は自分が来た方向を指差して教えたあげはしたが、なにか解せない気持ちがしばらく残った。

 十一時前のその時間だと、この前のときと比べて人は少ないに違いない、と思いながら日本クラブのドアを押した修一は、間もなく自分の予想が大きく外れたことに気がついた。ロビーの新聞・雑誌閲覧室にはすでに十人近い先客があったのだ。

 その日館内は前のときと違ってずいぶんざわめいていた。ロビーを見渡すと窓側のソファに陣取った五人連れの日本の若者が賑やかに談笑していた。

 年のころなら二十歳前後であろうか、一人を除いて他はみな肩までかかるかと思うほど髪を長く伸ばしていた。五人とも古びたジーンズ姿で、上はジャンパーかセーターといういでたちであった。親しそうに話し合っているその様子から、彼らが仲間同士ということが分かった。でも何者なのだろう?
 
 修一はなおも観察の目を向けていた。外見からしてビジネスマンには見えない。その長い髪の毛からロックかなにかの音楽をやっているグループに見えなくもなかったし、あるいはソーホー辺りに住んでいる芸術家志望の若者だろうか?
 
 大声で笑ったかと思うと、次にはスッ頓狂な声を発したりして閲覧室にいるにしてはずいぶん騒々しい連中であった。

 その彼らから少し離れたところへ座って新聞を目にしていた修一の耳に、ふいに彼らが話していた「寿司」とか「天ぷら」という日本食の名前が飛び込んできた。続けて「昨夜の黒人客はどうのこうの」と言っているのも聞こえてきた。

「ハハーン、日本レストランで働いているのか」と、そのときになって初めて彼らが何者なのかが分かったような気がした。

 その後でも「この頃は天ぷらよりも刺身の方がよく売れる」と言うのを聞き、もう間違いないと思った。そう言えばここからあまり遠くない六番街四九丁目に「バンコー」という安ホテルがあって、そこにはたいした目的もなしに日本からやってきて、日本レストランでバスボーイ(皿洗い)をやっている若者がたくさん泊まっているのだ、と、この前山崎のアパートで帝京銀行の栗田が話していた。

 観光ビザでやってきた彼らは、もちろんワーキングパーミット(労働許可証)は持っておらず、いつもイミグレーション(出入国管理局)を恐れながらビクビクして生活しているのに、職場が職場だけに食べることには事欠かず、そのせいかお金だけはよく貯めるらしい。今や日本食ブームの真っ只中にあるここニューヨークでは、新たに続々と新しい日本レストランができており、こうした若者にとっては働く場所には事欠かないようなのだ。

 それに経営者にしても違法だとはわかっていても、ついついこの安上がりの労働力に頼ってしまうのである。

 ときおり同業者による密告などがあったりして、イミグレーションの手入れを受け、高い罰金を払わされたりするのだ、とそんなことも栗田は話していた。

 修一はその後もロビーの五人連れの若者の賑やかな声を耳にしながら「なにもニューヨークくんだりまでやって来て日本人同士でじゃれあうこともなかろうに、とその騒々しさをいささか不服に思っていた。

 でも昼前になって彼らは去っていった。先ほどまでの喧騒がウソのように辺りは本来の静けさを取り戻した。これでいい。この静けさこそが活字を読むのにふさわしいのだ、とホッとした思いがした。

 それからは修一の目も次第に集中力を帯びてきて、しばらくは貪るように紙面を追っていた。

 五時間ぐらい経ったであろうか、時計はすでに夕方に四時を差していた。
 いつもなら遅出勤務の仕事が始まる時間である。

 それにしてもよく読んだものだ。十日分づつファイルされた新聞三紙、それに月刊誌二冊と週刊誌四冊。もちろんすべての記事が読めたわけではないが、少なくともタイトルと大体の内容にはずべて目を通した。

 活字から目を離した修一はなんとも言いようのない満足感を覚えていた。

 これで日本語の活字に対する空腹感は解消されたとも思った。そしてこうしたものを揃えて自由に読ませてくれる日本クラブに心の中で深く感謝した。

(つづく)次回  7月23日(水)


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