2019年3月5日火曜日

純文学小説を読むとストレスがたまる?



芥川賞受賞「1R134秒」を読んでみたが
純文学とはいったい何なのか?

毎年3月と9月の芥川賞のシーズンになると,決まってこのテーマについて考えさせられる。なぜならメディアなどが報道する受賞作品の評判につられて読んでみるのだが、毎回そのつまらなさに落胆させられるからだ。
 
今回もそうだった。受賞作「1R1分34秒」はボクシングをテーマにした作品である。格闘技の中でもボクシングは群を抜いておもしろい。それを描いた小説ならきっと面白いに違いない。
 
おそらくこう思って読み始めた読者は少なくないはずだ。ところがである。面白いはずのボクシングがこの小説では全く面白くない。
 
壮絶な殴り合いによる息をのむような格闘技のスリルなど微塵も感じない。ストーリー性が乏しい上に、初めから終わりまで意味不明確な脈絡に欠ける味気ない文章の羅列だ。
 
選考委員の一人がまるで詩を読むような感じだった、と評しているが、まさに悪い意味でその通りで、難解で味気ない詩を読まされているようで、読み続けていると次第にストレスを感じるだけで読書の楽しさなどどこにもない。



誰が純文学を支持しているのか?

芥川賞受賞作品については又吉直樹の火花で懲りた人は多く、それ以来手を出すのを控えている人は少なくないはずで私もその一人。
 
しかしたまに村田沙耶香の「コンビニ人間」のような、すばらしい作品に出会うこともある。今回の「1R134秒」にもそれを期待したのだが、やはりそれはかなわなかった。
 
とはいえ書評を読んでいると、面白いとほめちぎっている人もいるから不思議だ。でもその書評も難解で意味が分かりづらい。やはり著者と同類の人なのだろうか。
 
しかし、これほど面白くない純文学を支持しているのはいったいどういう人たちなのだろうか。数は多いのだろうか。



掲載誌(新潮)はわずか数千部しか売れない

いいえ、決して多くはないだろう。なぜならこの作品が掲載された純文学雑誌「新潮」はわずか数千部しか売れていないからだ。新潮だけでなく、同系の文学界、群像、すばる、文藝なども売り上げは大して変わらない。純文学誌全部合わせてもよくて3~4万部というところだろう。
 
これほど少ない売り上げでも出し続けているのは芥川受賞作品の単行本で元を取る魂胆なのに違いない。又吉直樹の火花のような大化けを狙っているのだ。



選考委員は褒めちぎっているが

これほどつまらなくて面白くない作品も選考委員の目にはそう映っていないらしい。以下は選考委員3氏によるこの作の書評である。おおむね好評なものが多いが、これを真に受けて読むと後悔することになるだろう。



山田詠美氏

文章全体から、この作者、そして登場人物たちの「引くに引けない感じ」が漂って来て胸に迫る。途中、いくつもしびれるフレーズが出てきて、思わず拍手したくなった。〈ボクサーでしかありえない情緒がそこにある〉とか。読み進めれば進めるほど登場人物二人の味方になれる。緻密な会話は忘れがたい。
 
 

小川洋子氏

主人公は、愛すべき青年だ。ウメキチとの出会いに救いの気配を感じながら、作ってもらったお弁当を公園のごみ箱に捨ててしまう屈折と、女性の可愛らしさを心の底から称える素直さが、矛盾なく共存している。彼が初めてウメキチとトレーニングするシーンの、肉体を通した緻密な会話は忘れがたい。頭脳から遠く離れた場所で、体は圧倒的な美を表現する。言葉の届かないところにこそ書かれるべきものがある、という真実を証明している。


島田雅彦氏

安部公房の短編「時の崖」を思わせる試合中のボクサーの意識の流れが圧巻である。自意識と向き合う小説とシャドーボクシングの相似を改めて気付かせてもくれる。技術論と友情のブレンド比も絶妙で、主人公とウメキチのホモ・ソーシャル関係に胸キュンとなる読者も多かろう。


(出典)文芸春秋2019年3月号

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