《前回まで》砂田文夫が代表を務めるH市のフランチャイズ学習塾の事務所が何者かによってガス爆発(未遂)を仕掛けられたことについて、本社社長と相談した結果、ことがことだけに結局警察に届けることにした。それから三日後、事務所を訪れてきた二人の刑事に、容疑者として最初に頭に浮かんだ前女性事務員について話した。刑事たちは本人に分からないように捜査を進めることを前提に、被害届を出すよう砂田を促したが、それには従わなかった。それだけでなく、二人目の容疑者として浮かんだ本社社員浅井に関しても何もしゃべらなかった。警察に届けたのは、犯人と思しき浅井を牽制して動揺を与えようと思ったのも理由の一つなのだ。
砂田は今回の事件は警察に頼らず「自分ひとりで解決しよう」と改めて決意を固め、以下のような解明のための行動手順をまとめた。
ガス噴出事件、真相解明調査手順
(1)社長の小谷に今回の事件についての真相解明の調査を する旨を伝え了解を取る。
(2)砂田が比較的親しくしている本部経理社員、新田明彦に、今回の本社での噂に関して、本部社員の現在の反応について尋ねる。
(3)新田からの情報を基に噂を聞いたという人物に当たり事情を尋ねる。
(4)浅井以外のもう一人の当事者、木島に当たり、「本当に 現場を見たのか」「浅井と一緒になって噂を流したのか」などを尋ねる。
(5)浅井忠夫と対決。
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翌朝、朝礼が終わる時間を見計らって、本部の新田明彦に電話した。 これについては社長の小谷に、昨日のうちに了解を取っていた。
昨日の電話で小谷は「噂が事実でないらしいということについては、わたしも後で考えて、なんとなくそう思います。でも砂田さん、何とか穏便に治めてくれませんか。噂を流した本人たちにはわたしの方からそれとなく聞いてみて、もしそうだと分かれば厳重に注意しておきますから」と、文夫が直接調査に手を下すことに対して、暗に反対する口ぶりだった。でも文夫はそれには応じず「噂を流された当事者二人と、その上司である私の名誉に関わることですから」と、小谷の要望を飲まず、自分の意志を通したのだ。
「おはようございます砂田塾長。お変わりありませんか」
新田はすぐ電話に出てきて、男にしてはややオクターブの高い声で明るく言った。
気心が知れてるというほどでもないが、この新田とは過去三度ほど酒席を共にしたことがあり、年齢も文夫より一つだけ下の三十九歳で、同年輩ということもあってか、本部社員の中では最も話しやすい相手なのだ。
「ああ新田さん。突然電話してすみません。実は折り入ってお訊ねしたいことがあるのですが、でも話しの性格上、ちょっとこの電話じゃまずいと思うんです。いや、こちらはいいのですけど、そちらが答えにくいんじゃないかと。それでお手数ですが、昼休みにでも近くの公衆電話からこちらへかけていただけませんか。もちろんコレクトコールでかまいませんから。いかがでしょうか。お願いできますか?」
文夫のその依頼に 「お安い御用です」と新田が応えて、十二時五分過ぎに「隣のビルの公衆電話からです」と言って新田が電話をかけてきた。
今度はいきなりの文夫からの連絡に対して、「たぶんそのことだと思いました」と前置きしてから、文夫の質問に対して新田は淀みなく答えた。
「ぼくが聞いたのは伊藤くんからです。聞いたときはぼくもまさかとは思いました。でも伊藤くんは誰から聞いたのか、その状況を微に入り細に入り説明するんです。それでぼくも半信半疑ながら、つい二~三の社員とそのことについて話題にしたりしました。でも塾長、やはりあの噂はウソだったんですか。でしょうねえ、生徒を引率したキャンプ場で、監督する立場にある講師がそんな破廉恥なことする訳がありませんしねえ。いや軽率でした。よく知りもしないのにあんな噂話に関わったりして、塾長、申し訳ありませんでした」
まだウソだと断定して文夫が言ったわけでもないのに、新田はしきりに恐縮して詫びの言葉を吐いていた。
「分かりました。伊藤くんなんですね。あなたにあの噂を伝えたのは」
文夫はもう一度そう確認して、新田に礼を言い、電話を切った。
昼休み時間が過ぎた頃、文夫は再び受話器を掴むと、今度は新田に噂を流したという経理課の社員、伊藤に電話した。新田はこの伊藤が微に入り細に入り状況を話したと言っていた。
その微に入り細に入った状況とはいったいどんなことなのか。
文夫はそのことについて是非彼に聴き質さねば、と考えていた。
取次ぎの事務員が「伊藤は今ちょっと席をはずしています」と言った後で、すぐ「あっ只今戻ってまいりました」と言い直し、間もなく伊藤が電話口に出てきた。
文夫は今度は新田のときのようにコールバックしてくれ、とは言わなかった。その代わり、夜かけるからと、彼の家の電話番号を聞いた。彼だっていくらなんでも噂についての微に入り細に入った状況を真昼間の人の耳があるオフィスの電話で話すわけにはいかないだろうと思ったからだ。家の電話番号を訊ねられて、最初は少し躊躇っていた彼も、事情を察したのか、すこし間をおいてから「八時過ぎには戻っていますから」と0727の市外番号とそれに続く六桁のナンバーを文夫に告げた。
受話器を置いた後で文夫は考えた。
今朝、新田にかけて、そして今また伊藤にかけた。浅井はオフィス内にいたのだろうか?
経理の新田こそ席が少し離れているものの、伊藤と浅井の席は目の鼻の先、いたとすれば事務員からの取次ぎの声で、誰からの電話か分かったはずだ。また二人の応答の様子からも、彼とて、電話の要件がなんであるか気づいたに違いない。
もしそうであれば、あれこれ気を揉んでいるだろう。でもそれでいいのだ。それこそこちらの狙いとするところなのだ。周辺からじわじわ攻めていき、当人に少しづつ動揺とプレッシャーを与えていく。これぞまさに陽動作戦だ。
つづく
次回6月26日(木)