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「ナイトボーイの愉楽」 どんなお話?
舞台はまだチンチン電車やトロリーバスが走っていて、今
と比べて高層ビルがうんと少なく、いくばくかののど
けさが残っていた昭和37年頃の大阪。
20歳になったばかりの浜田道夫は中之島のGホテルでナ
イトボーイとして働き始めた。
昼間は英語学校に通っていて、出勤するのは夜9時からだ
が、人とはあべこべの生活スタイルになかなか慣れず、最
初の頃は遅刻を繰り返しており、いつもリーダーの森下さ
んに叱られ,バツとして300ぐらいある客室へ新聞配
り ばかりやらされて腐っていた。そんな道夫にこの上なく
胸 がときめく出来事が巡ってきた。ホテルへ通ってくるセ
クシーな美女、マッサージ師の11番さんに声をかけられ
た のだ。
「お歳いくつ?、昼間は何しているの?」と。
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「杉山さん,どうですか 今日の売上は?」
ロビー左端の階段を十段ほど上がり、中二階にあるティラウンジのサービスカウンターの前まで来て、中で暇そうに立っている杉山に声をかけた。
「さっぱりだねえ。この一時間で客はたったの三人だけ。なにぶん陽気のいい春の宵のことだし、みんな外へ夜桜見物にでも出かけているんだろう」
今しがたあくびをかみ殺したような潤んだ目をしょぼつかせながら杉山が答えた。
リーダーの森下さんに次いで古参の杉山さんは今年二十二歳の大学四年生。年齢こそ森下さんと同じだが、アルバイトとはいえ、大学入学前の浪人時代から始めていて、もう四年以上もこの仕事を続けており、入って二年以下がほとんどというナイトボーイの中で、森下リーダーとともに道夫などが最も気を使う相手である。
「ところで浜田、今日はチェックインも多かっただろう。どうだチップのほうは?」
杉山は道夫があまり答えたくないことを唐突に聞いた。この杉山はナイトボーイの資金管理係をしており、皆からは資金管理部長と呼ばれていた。
一応、固定給制で働いている道夫らは給料以外の収入、つまり客から貰うチップについては申告制がとられており、丸ごと自分のものには出来ないのだ。
毎日、朝の終業時になると、この杉山が一人一人に前日のチップの総額を報告させ、その半額を集めて資金としてプールするのだ。そしてそれは一ヶ月ごとに集計されて、またそれぞれに還付される。
でも額はというとだいたい申告した額の四割程度に減っている。あとの六割はどこへ行くのかというと、約二割が森下リーダーと杉山さんの取り分であり、同じく二割が夜勤に当たったフロント係へのお礼となり、残った二割がレクレーション資金としてプールされる。
森下リーダーとこの杉山さんに二割がまわるのは、彼らが任務上チェックイン業務に当たらないからなのだ。
道夫は前々から、この杉山さんにはどうも頭が上がらない。 と言うのは、貰ったチップの額をいつもごまかして申告しているからなのだ。
もちろんこれは道夫に限ったことではない。極端に少なかった日は別にして、みな貰った額の七割位しか報告しない。気のあったボーイ同士の内輪話でそのことは良く話されており、事情はよく知っていた。
ついさっきエレベーター係りを代わったばかりの下津さんなんか、この一年、三割以上報告したことがないと、いつだったか、こっそり道夫に話していた。
杉山さんに「今日のチップどうだった?」と聞かれた時、それに答えたくないと思ったのはそんな理由からだった。でも黙っている訳にもいかないので、その場しのぎの答えをした。
「普段どおりですよ。チェックインの数はいつもより少し多かったかもしれませんが、僕は十一時からエレベーター当番だったでしょう。今夜はその時間帯に着くお客さんが集中していたみたいで」
そう答えたものの、ひょっとして杉山さん、僕が最初の新婚客のチェックインに当たるところを見ていたんじゃないかなと、ちょっと不安な気持ちが脳裡をかすめた。でも杉山はそんな道夫の答えを別に勘ぐりもせず、「あっそう」とだけ言うと、あと一時間残ったティラウンジのサービスを道夫に引き継いで、さっとロビーの方へ下りて行った。
そんな杉山の後ろ姿を見つめながら思った。 杉山さん、あれでなかなか鋭いからなあ、 ちょっと多めにごまかした日に限って、「あれっ浜田、昨夜はこんなものか?」などと言ったりしてドキッとさせる。明日の朝もまたそう言われるんじゃないだろうか。
ついさっきまでは明日の申告は二千円ごまかして千五百円にしておこう、と考えていたのだが、ここへきてその考えが少しぐらついた。そして、今夜せめてもう二〜三回チェックインがあればなあ、それで貰った分を上乗せして申告できるんだけどな。などと随分虫のいいことを考えていた。
杉山さんから引き継いだ後もラウンジは暇だった。
前からいた夫婦らしい初老の白人カップルがオレンジジュースのおかわりをして、少し前に来た黄色い服を着た三十年配の日本人女性に紅茶を出して、三十分の間にしたことと言えばそれだけだった。でも時計が十一時四十五分になり、あと十五分すれば閉店だと思っていたところにやって来た二人の客が少しやっかいだった。
一人はアメリカ人らしい中年の紳士。もう一方はそれより大分若いビジネスマン風の日本人。 たぶんコーヒーか紅茶の注文だろうと、グラスの水を運んでいくと、メニューを見ていた日本人客の方が、「フレッシュオレンジジュースとミックスサンドイッチを二つづつ」とぶっきらぼうに言った。
それを聞いて道夫は少し躊躇した。 コーヒーと紅茶、ボトルに入ったジュース類、それにペストリー(ねり粉菓子)数種、夜十時以降のサービスカウンターに用意しているものはこれだけである。あとはすべて地下にある深夜営業のバーの厨房まで取りに行かなければならないのだ。
あーあ、最後になって厄介な注文をしてくれるもんだ。 とは思ったが閉店まで十五分も残っているとなれば聞かないわけにもいかなかった。
多分、僕以外の者だと、「売り切れです」とかなんとか言って体よく注文を断っているだろうな。そう思いながら電話のダイアルを二回まわして地下の厨房にオーダーを入れた。
それから十分ほどして階段で地下に下りて、サンドイッチとフレッシュオレンジジュースを客の前に運んだ時、時計は十二時ジャストをさしていた。
やれやれ、今夜は閉店のタイミングをはかり損ねたな、この二人、少なくてもあと十五分位はここにいるだろう。それからかたづけものをしていると、ロビーに下りる予定の十二時半はまわるだろう。この調子だと今夜のチェックインはもう望めそうにないな。
道夫は口の中でそうブツブツつぶやきながら二人の客の方へ少しうらめしそうな表情をおくった。 その二人は予想よりさらに十五分も長くいて、道夫がやっとロビー下りたのは一時十五分前だった。階段を下りてロビーに入ったところで運悪くリーダーの森下さんに出会った。
「浜田、おまえ何してたんだ。もうすぐ一時だよ。この前も言っただろう。ラウンジはできるだけ時間どおりに切り上げて、十二時十五分までには下りてくるようにと」
この日二回目のリーダーの小言である。
「すみません。閉店のまぎわになってやっかいな注文があったもんで」
さっきのクロークの時と違って、今度は森下の正面から頭を下げた。
「おまえなあ、要領だよ。要領が悪いんだ。そういう客はさりげなくバーの方へ送るようにと、この前教えたばかりだろう」
「はい。そうなんですけど、それがどうも」
ついさっき明朝からの新聞くばりの日数をまけてやると言われたばかりなので、この森下に逆らいたくなかった。下手に言い訳などして、「先ほどのこと取り消し」などと言われるのが怖かったのだ。
道夫が言い訳もせず、ひたすら頭を下げているのを見てか、森下はそれ以上の追求はせず、「以後気をつけるように」とだけ言って去って行った。
それにホッとしながらも、 これで明日からは余計に遅刻しずらくなったなと、胸の内に、ずっしりとしたプレッシャーを感じていた。
つづく
次回 8月14日(木)