2025年8月21日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈3〉ナイトボーイの愉楽(6)

                      

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 6


 その夜、二時から六時までの二班に分かれての仮眠時間に、道夫と小山は前半二時間のA班に当たっていた。二人はクロークの奥の控え室に行くと、少し汗臭い毛布と枕を取り出し、それを抱えていつも仮眠場所と決めているティラウンジの奥のソファーに向かって歩いて行った。

 

「ねえ浜田さん。さっきのあれ、いくらありました?」 すっかり灯が消された暗いロビーを並んで歩いている時、小山がふいにたずねた。

 「ああそうそう、お前あの後すぐ客に呼ばれて客室の方へ行っただろう。それで渡せなかったけど、二千円あったよ、二千円」 


本当は三千円入っていたのだが、小山は後輩だし、それにニューリバーホテルに当の外人がいるのを探したのは自分なのだから、彼へはそれでいいのだと、さっきから勝手に決めていた。


 「へえー、二千円も。よかったですねえ浜田さん。とんだ臨時収入が入って」

 「うん。でもなおれ、今日チップ少なかったろう。だから半分はそれに上乗せしなけれなならないんだ。そうすると残りは五百円だけだよ」 相手を甘く見てか、道夫はまたいいかげんなことを言った。


 「そうでしょうねえ、浜田さん今日は十一時からがエレベーターで、その後の十二時からはラウンジ当番だったし、チップを稼ぐ暇は無かったですよね」

 小山は何の疑いも持たず屈託なく答えた。この男、本当に気のいい奴なのだ。


 二人は階段を上がり、一階のロビーよりももっと暗いラウンジの中を、何かにぶつからないようにと、手さぐりで注意深く進んで行き、一番奥の長いソファーが二つ並べてある所までくると、抱えていた毛布と枕をその上に荒っぽく放り投げた。

 小山に約束の千円を渡した後で道夫が言った。

 

「なあ小山、俺たちいつもこんな所に毛布を広げて眠っているけど、何かお客さんに悪いような気がしないか? 昼間だと、ここにはいろんなお客さんが座ってお茶を飲んでいるというそんな場所で、ほらっ、お前が今、毛布を広げようとしているそのソファーだっって、ついこの前、映画の記者会見の時、女優のYHさんが座っていた所だよ」


 「そう言われてみればそうですねえ。お客さんは知らないこととは言え、あまりいいことではないですねえ。でも僕は先輩の真似をしているだけだし、それに森下リーダーもこのことに関しては、あまりうるさく言いませんからねえ」


「そう言えばそうだなあ森下リーダー。ひょっとして仮眠時間に自分だけ客室を使えることで皆に気を使っているのかなあ。それであの汗臭い仮眠室へ行け、とは言わないのかなあ。


でもまあいいや、夏にはあの仮眠室も改築されてきれいになるそうだから、お客さんには悪いけれど、それまではここを使わせてもうらおうよ」 道夫はそう言いながらソファーの上にゴロッと仰向けになり、ソバガラの枕に頭をつけた。


小山が何か言うかと思って黙っていると、聞こえてきたのは「スヤスヤ」という心地よさそうな寝息だけだった。 こいつまったく寝つきがいいんだから。


そうは思ったものの、道夫もをすぐにそれに加わり、広いラウンジの隅で二人はスースーと寝息の二重奏をかなでていた。


それから十日間ぐらい道夫は一度も遅刻をしなかった。 昼間通っている英語学校を三時に終えると、以前だとそれから少し盛り場をうろついて、六時か七時に下宿に帰っていた。でも三回目の遅刻をしたその次の日からプッツリとそれをやめ、四時には神崎川の下宿に着いていた。それから近くの銭湯のいき、五時になるともう蒲団の中に入っていた。その後、出勤の八時半までが道夫にとっての本格的な睡眠の時間なのである。 


職場での仮眠時間を併せると五時間半の睡眠時間であり、平均的には少し短いかに見えたが、昼間の英語学校での居眠りを入れるとけっこう足りていて、別段寝不足だとも思えなかった。もっとも遅刻が続いていた頃は、トータルでこれが二時間ほど少なく、その為に、つい寝過ごしてしまっていたのだ。


四月も終りの土曜日のその夜、道夫はなぜか出勤前からウキウキしていた。

いつものように梅田でバスを降りると、週に何度か行くガード下のうどん屋へ入り、好物のテンプラうどんを頼んだ。ホテルで夜食が出るので、出勤前の腹ごしらえとしてはこれでじゅうぶんだ。 


熱いうどんの汁をすすりながら、昨夜エレベーターの中でマッサージ師の十一番さんと話したことを思い出していた。


十二時にその日最後のエレベーター当番について十五分位たった時だった。

十二階まで二人の客を送って、下に下りている時、九階で乗り込んできたのが十一番さんだった。


彼女にはあの後も三〜四回会っていた。でもいずれの時も、ただ顔を会わせるだけで、口もきいていなかった。と言うのも、このところ道夫のエレベーター当番は客の出入りの多い早い時間帯ばかりで、彼女がエレベーターに乗り込んできた時はすべて他の客が同乗しており、個人的な話をする機会がなかったのだ。


ただこの数回、お互いにきっちり目をを合わせて微笑みながら別れたせいか、口はきかずとも以前に比べるとずっと親密感は増している。と道夫には思えた。


「あら今晩は。この時間当番だったの?」 久しぶりに聞く十一番さんのハスキーな声だった。 


「はい。今日は最終に当たったもんですから。お仕事はもう終りですか?」

やや胸の高まるのを感じながら、彼女にチラッと目をやってから聞いた。


「いいえまだなの。あと一回残ってるのよ。これからフロントへ下りて、終わった時間をノートに記入して、次は十一階へ行くの。今度のお客さんは外人さん。大変だわ。体が大きいので力が要って」 


そう言ってニコッと微笑んだ十一番さんの目尻にできた細いしわに、なんとも言えない中年女性の魅力を感じながら道夫はうっとりとしてその顔を眺めていた。


「あの、今度は何時に終わるのですか? よかったらその時間に十一階まで迎えにいきますけど」 「あらほんと、嬉しいわそうしていただけると。十二時半からだから、終わるのは一時十五分よ。エレベーターに乗るのは一時二十分ぐらいかしら」


「じゃあ僕、二~三分前に行ってエレベーターを止めて待っています。その頃だともう客の出入りはほとんどありませんから」

「でもあなた、その時間は当番じゃないんでしょう?」

「ええ、一時以後当番はいません。エレベーターを呼ぶブザーが鳴ったとき、手の空いた者が上がってくるのです。どうせ誰かが来るのですから一緒ですよ」


道夫としては久しぶりに巡ってきた十一番さんとの会話の機会を一階に下りるわずか数十秒間で終わらせたくなかったのだ。


「昼間はいつもなにしてるの?」 十一番さんがそう聞いたとき、エレベーターは一階に着いてドアが開いた。 「またすぐに上がるんでしょう。そのとき話します」

道夫のその返事に十一番さんはまたニコッと微笑んで「ええ」とだけ言ってフロントの方へ歩いていった。


それから二〜三分ほどして十一番さんはまたエレベーターの前に戻ってきた。 でも今度は運悪く玄関の方から一人の客がこちらへ向かってきているのが目に入った。

仕方なくその客を待って乗せたため、この時は何も話ができなかった。



つづく


次回8月21日(木)