2025年12月25日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈4〉直線コースは長かった(10)

   

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その部屋には四十年配の痩せた男の人が座っていた。たぶんここでの責任者なのだろう。さっき見た若い警備員たちとは違って、どことなく鷹揚な落ち着きがあった。



「コーチ屋に騙されたということですが、被害はおいくらで?」

久夫に椅子をすすめた後、すぐに男が訊いた。


「六万円です。第四レースの前に」発売窓口の前での大柄なパンチパーマの男の姿を思い出しながら久夫は答えた。


「ほう、六万円ですか。今日五件の被害の中では、額はいちばんすくないようですね。もっともお歳のほうもいちばんお若いようですが」


さっき若い人から聞いたときもそうだったが、「今日五件」と聞き、その数にあらためて驚くと同時に、自分以外の他の四件についてたずねてみたい気がした。


「あのう、あとの四件はもっと被害額が大きいのですか?」

その質問に男の人はおもむろに横のデスクのほうへ手を伸ばすと、その上のノートを取り、それを眺めながら答えた。


「ええっと、今日の被害の最高額は四十万円です。第二レースの前でした。被害者のその人は、第一レースで出た〈4―6〉八千六百円という穴馬券に五千円賭けてたんです。喜び勇んで払い戻し窓口で四十数万円を手にした直後、中年の上品な紳士ふうの男が知り合いを装って近づいてきて、なにか友人の元厩舎の厩務員をしていた人から得た確実な情報がある。というようなことを言い、「必ず八倍の三百万円くらいにはなるから」と、第二レースの〈2―7〉という馬券に、第一レースで勝ったお金のほとんどの四十万円を賭けるようにすすめられたらしいんです。


声をかけられた男の人は中小企業主で、目下、会社の資金繰りに追われていたせいもあって、すすめた相手がどこの誰だったか思い出せないうちに、締め切り時間にもせかされて、ついその馬券を買うことに同意したそうなのです。


そのとき締め切り三分前で、いずれの発売コーナーにも十人以上の列ができているのを見て、その紳士ふうの男が「ここに並んで待ったいたのでは間に合わないかもしれないので、わたしがうまいこと列の前のほうへもぐりこんで買ってきてあげましょう」と言い、中小企業主も、それもそうだと思って、四十万円をその男に渡したのですよ。


金を受け取った紳士ふうの男は、ある列の前のほうに並んでいた人に、何やら親しそうに話し掛けていて、何をどのように話したのか、いつも間にかその人の前に割り込んでいたらしいのです。


締め切り一分前にその男が戻ってきて、中小企業主に言ったんです。


『四十万円、確かに買いましたよ。でも額が額だけに、半分づつ分けて買いました。二十万円づつ。はいこれあなたが持って、あとの半分はレース終了までわたしが持っていましょう。こうすれば、万一いっぽうが紛失しても半分は残る。どうですかこれ、いい方法でしょう』とね。


全部渡されるはずの馬券が半分しか渡されなかったので、中小企業主も不審に思ったらしいのですけど、発走時間も迫っていたし、それにその男が終わるまで一緒にいると言うので、首をかしげながらもそれに従ったそうなんです。


間もなくレースが始まり、馬群が第四コーナーをまわるころまでは、二人は並んで見ていたそうです。でも、直線コースへ入り、中小企業主が立ち上がり、拳を振り上げて無我夢中で馬に声援を送っている隙にその男は姿を消していたんです。


そのレースの結果は〈2―6〉で、確実に三百万円にはなると言われた四十万円分の馬券はただの紙くず。


『なんだ、はずれたじゃないか。いったいどうしてくれるんだ!』と、彼が怒りの声をあげて横をふり向くと、隣にいるはずのあの紳士ふうの男の姿はなく、そこで初めて気がついたんですよ。騙されたと。


レースの終わった五分後には、彼はもうこの部屋にやってきていました。そしてこう言ってました。『騙された四十万円は、もともと第一レースの儲けの分だから、何とか諦めはつくけど、それにしても競馬場は怖い。もう二度とここへは足を向けんよ』そういい残して、その人肩を落としてすごすごと引き上げていきました。


それであなたの場合、相手はどんなふうな男だったのですか?」

男の人は長々と説明してくれた後、ノートを机の上に戻し、ポケットから煙草を取り出しながら久夫に聞いた。


自分よりうんと多い四十万円もの被害にあった人の話を聞いて、気の毒に思う反面、少し楽になったような気もして、久夫は第四レース前にあったことをスラスラと説明した。


「でもあなたの場合は馬券を全部渡されだけましですよ。もっともどこかでずっとあなたのことを見張っていて、もし馬券が当たったとすれば、すぐまた駆け寄ってきて、『コーチ料として半分よこせ』と言うでしょうがね。


それを聞き、久夫はやっとコーチ屋の手口がわかってきた。


早く言えば、彼らは他人のふんどしで相撲を取っているのだ。見ず知らずの他人に当たりそうな馬券を教えてそれを買わせ、レースの終わるまで物陰できっちり見張っていて、もし当たればコーチ料という名目で配当金の半分をせびるのだ。


自分の金はまったく使っていないので、はずれたところで何の損害もない。実にうまい手口ではないか。そのために磨くのがあの演技力。まったくすごいもんだ。そう考えながら、久夫はふと別の疑問を思いつき、それについてたずねてみた。


つづく


次回1月1日(木)