2019年12月3日火曜日

バスや電車の車内で気になるのはケータイだけではない

 
依然として多い、バス車内でのケータイ着信
 
バスは外出時の交通手段としてよく利用します。それだけに気がつくことが多いのは当然かもしれません。気がつくことはほとんどが悪いことで良い点はあまりない、といっていいでしょう。
 
特によく気がつくのは車内での乗客のマナーです。なかでも迷惑になるのはケータイの利用です。

最近では車内アナウンスなどで注意が行き届いてきたせいか、さすがに通話の発信はほとんど見かけません。しかし着信はそうはいえません。
 
乗車前には電源を切るかマナーモードにするように注意されているのにも関わらず、それを守らない人が多いようで、乗車中に着信音が鳴り、それに応えて話す人は今でも少なくないようです。
 
そもそも何故車内でケータイが禁止されているのでしょうか。それは人は電話では通常の会話より大きな声を出すからです。
 
ひそひそ声で話すのならまだしも、普段より大きな声をバスの中で上げられたら周りの人は迷惑するのは当然です。
 
要するにやかましくて、煩わしく感じるのです。それゆえに車内ではケータイ使用が禁止になっているのです。
 

 
 
車内でケータイ禁止なのは、「人は雑音を嫌がる」から
 
そもそもなぜ公共の乗り物の中でケータイの通話が禁止になっているかといえば、人は雑音を聞くのは嫌がるからです。
 
そうなのです。人が通話する声は騒音以外の何ものでもないのです。なぜなら耳障りが悪いからです。
 
人は耳障りの悪いものは聴きたくないのです。多くの人が音楽を聴くのを好むことからも、それがよくわかるでしょう。音楽は耳障りがよく、聴いて心地よいからです。
 
 
バスの中では、禁止すべきものはケータイ以外にもある
 
車内ではケータイ使用が最もダメなことはよく分かります。でも迷惑なことはケータイ以外にもあります。それらが何かといえば、代表的なのが会話と飲食です。
 
まず乗客同士の会話ですが、どちらかといえば女性に多い仲間内の雑談です。これはケータイに劣らず迷惑なものです。
 
前でも書いたように人は雑音は聞きたくありません。バス内の会話は他愛のないものばかりで雑音の他の何物でもないのです。
 
ケータイが禁止されているのなら迷惑な雑談も禁止にすべきではないでしょうか。
 
 
車内での飲食も良くない
 
たまにバスの中で飲食をする人をみかけますが、観光バスや長距離バスならまだしも、短距離の路線バスでは感心できません。
 
路線バス車内での飲食は目障りであるだけでなく非常に迷惑です。なぜなら飲み物はこぼして座席を汚したり、空いた容器を車内に捨てる心配があるからです。時々捨てられた空き缶が走行するバスの床をコロコロと転げ回っていることがあります。
 
また食べ物も包装をはがして取り出すときのガサガサという音や、食べるときのペチャペチャという音が耳障りです。
 
したがって車内での飲食も、ケータイや会話とともに禁止すべきです。




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2019年12月1日日曜日

もう一度読んでみたい・高校英語リーダー名作シリーズ(5)

 
 
    THE SANDPIPER(いそしぎ)
           
          Mary Sherman Hilbert(出典:new horizon 2,L3)訳:大平庸夫 
 
 
この話は、ピーターソンという女性とウェンディーという少女の交流を、事実に基づいて描いた物語である。
 人っけのない砂浜で1人で遊んでいる少女のことを、ピーターソンは初めはあまり気にかけていなかった。その頃の彼女の気持ちはあまりにも荒涼としていて、少女と遊ぶような余裕はなかったのである。だが時がたつにつれて、彼女はこの少女ウェンディーや、浜辺に飛んでくる イソシギ という鳥について多くのことを知った。でも何よりよく自覚できたのは彼女自身のことについてであった
 
 
 私がはじめてその少女を見たのは、彼女が浜辺で砂のお城を作っているときであった。
 
砂の手ざわりって、とても気持ちがいいわ」 少女が見上げながら言ったが、私はそんなことには少しも関心がなかった。その頃の私は、周りのすべてのことにうんざりしていて、心の余裕など少しも無かったのだ。
 
 「名前なんていうの?」 少女が聞いた。
 「ルースよ、ルース ピーターソン」 私はややぶっきらぼうに応えた。
 「わたしウェンディーというの、6歳よ」
 イソシギが滑るように飛んできて海岸の方へ下りていった。
 「ママはね、イソシギって幸せを運んでくるんだって」 少女は私の方を見て
微笑みながら言った。私はぎこちない笑顔を返すと、少女を残してそこを離れた。
 「また来てね、ピーターソンさん。この次はきっと楽しいよ」
 
 数日たった或る晴れた日の朝、 ”どうやら私にはイソシギが必要なようだわ ”
 そんな独り言を言いながらコートを着ると足は浜辺の方に向かっていた。頬に冷たい風を受けながら私はどんどん歩いた。
 
 その時はあの少女のことが頭に無かったので、彼女の姿を見たときは一瞬びっくりした。
 
 「こんにちは ピーターソンさん、私と遊びたい?」
 「あなたは何がしたかったの?」 
 子どもに邪魔されるうっとうしさをかろうじて抑えながら私は応えた。
 「うーん、分からないわ、お姉ちゃんが言って」
 「言葉当てゲームはどう?」 私は皮肉っぽく言った。
 「わたしそれ知らないわ、何なの?」
 「そう、それじゃ仕方ないわ。歩きましょ」
 少女を見たとき、その顔色がいくぶん青白いのに気がついた。
 「どこに住んでいるの?」 私はそう訊ねてみた。
 「あそこよ」 彼女は避暑用の別荘を指差しながら答えた。
 それを聴いたとき、こんな冬になぜだろう?と、私にはすごく不思議に思えた。
 「どこの学校へ行っているの?」
 「学校へは行っていないの。私たちは今休暇中だって、ママが言ってたわ」
 浜辺を歩いている間中、彼女は嬉しそうな顔をして喋り続けていた。でも私は別のことを考えていた。
 
 私が家にかえるとき、ウェンディーが「とても楽しい日だったわ」と言った。
 私はいくぶん気分がよくなっていて、彼女を見て微笑んだ。
 
 それから3週間たった或る日、私はこの上なくうっとうしい気分を持て余しながら、また浜辺に行ってみた。
 その日はウェンディーと話すどころの気分ではなく、彼女の母親が彼女を外へ出さなければいいのに、というふうにさえ思っていた。
 
 「ねえ、もしよかったら・・・・・」
 ウェンディーが私を見つけて、ついてこようとしたとき、私はさも機嫌悪そうな声で言った
 「私ねえ、今日は1人でいたいのよ」
 「どうしてなの?」 そう訊いた彼女の顔は、前の時より一層青ざめて見えた。
 私は彼女の方を振り向くと、自分でも何を言っているのかはっきり自覚することもなく
 「何故って、私のお母さんが亡くなったからよ!」と叫ぶように言っていた。
 
 無邪気な子どもを前に、なんと馬鹿なことを言ってしまったのだろう。
 「そうだったの」 彼女は静かに応えた。
 「じゃあ今日は悪い日なのね」
 「そうよ、今日だけでなくて昨日も一昨日もよ。ねえ、私なんかほっといて向こうへ行って遊びなさいよ」
 残酷な言葉だとはよくわかっていたが、そう言うと彼女を残して立ち去った。
 
 それから一ヶ月くらいたってから、私はまた浜辺に行ってみた。この前言ったことに対して恥ずかしさと罪の意識を持ちながら、私はウェンディーを探して歩いた。でもいくら探しても彼女は見つからず、代わりに一羽のイソシギが静かに飛んでいるのが見えた。
 私はそのとき初めて、彼女が側にいないことの寂しだを感じていた。
 
 それからすぐ彼女の別荘へ行ってドアをノックした。まだ若くて美しい女性がどあを開けて現れた。
 
 「私アンダーソンと申します。お宅のお嬢さんが今日は浜辺には見当たらず、どこにいらっしゃるのかと思いまして・・・・・」
 
 「まあ、あなたがアンダーソンさんでいらっしゃるのね。どうぞお入りになって。ウェンディーがいつもあなたのことを話していましたわ。あの子、あなたの邪魔になったんじゃなくって? もしそうだったのならご免なさいね」
 「いいえ、決してそんなことはありませんでしたわ。とても賢いお嬢さんでいらして」
 とつぜんそう応えながら、私はそのことに初めて気がついたという風だった。
 
 「それで今どこにいらっしゃるのですか?」
 「ウェンディーは先週亡くなりましたわ、ピーターソンさん。あの子、白血病だったんです」
 
 私の胸を激しい動悸が走り言葉を失ってしまった。立っていられない気がして近くの椅子をまさぐった。心臓が激しく打っていた。
 
 「あの子、浜辺がとても好きで、あそこで楽しい思いを一杯したようだったわ。そうそうピーターソンさん、あの子がこれをあなたに渡してくれるように言ってたわ」
 
 彼女はそう言うと、子どもらしい字で、Miss.Pへ、と宛名書きした封筒を手渡した。中には黄色い砂浜、青い海、そして茶色い鳥がうすい色のクレヨンで描かれた絵が入っており、その下の方に太い文字で ”イソシギがお姉ちゃんにしあわせをはこんでくるよ ”と書いてあった。
 大粒の涙がどっとあふれてきた。そしてそれと同時にほとんど忘れかけていた温かい”人の愛”に触れた思いがして、胸のつかえが一気に晴れたような気がした。
 
 「ごめんね、本当にごめんね!」 泣きながら私は何度も何度もそう叫んだ。
 小さな絵の下に書かれた一行の文字、この一文字一文字こそ、彼女が生きてきたかけがえのない一日一日だったのだ。これこそ、私に真実の愛を教えてくれたあの少女からのすばらしい贈り物なのだ。



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2019年11月27日水曜日

そのうち読もうと思っている本棚の文学全集になかなか手がつけられないのは何故?

 
本棚の本を単なるインテリアで終わらせていないか?
 
電子図書であらゆる本が簡単に読めるようになった昨今になっても家の本棚にたくさんの本を並べている人は少なくないようですが、いったい並べた本は読まれているのでしょうか。
 
並べられた本にはおそらく未読のものが少なくないはずです。読みかけてやめたのか、あるいはいずれ読もうと思って並べているのかもしれません。
 
そうした未読のものにはいわゆる全集と言われるものが多いのではないでしょうか。なぜなら、全集ものは装丁がきれいなものが多く本棚に並べると見栄えがよく格好のインテリアになるからです。
 
それだけでなく”知的でありたい”というインテリ願望も満たしてくれます。
 
 
家の本棚の本がついつい後回しになってしまうのは?
 
でもなぜ自宅の本棚に未読の本がたくさんあるのでしょうか。理由はいろいろありますが、大きいのは、今は本の調達方法が非常に多くなったからではないでしょうか。
 
中でも最も影響が大きいと思われるのはインターネットの電子図書の出現です。電子図書といえば、まず第一に挙げるべきは「青空文庫」というサイトです。
 
これは死後50年が経過した(著作権が切れた)内外の主だった作家の作品が網羅されている電子書籍の図書館です。
 
たとえば国内作家で言えば、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治など往年のメジャー作家の主だった作品がすべて収められているのです。
 
これらの作品がどこからでもパソコンやスマホを使って簡単に、しかも無料で読めるのです。これはネットがなかった時代に比べるとまるで夢のような話です。
 
 
今は読む本の調達方法はいろいろ
 
そのうち読もうと思っていながら、いつまでも手がつけられず、単なる飾りに終わってしまっている原因が何かといえば、今は本を調達するために選択肢が多いからです。
 
つまり、あえて本棚にある古くなった自分の本を読まなくても、他に新しくて魅力的な本を調達する方法がいくらでもあるからです。現在の本の調達方法はざっと並べれば次のようのものです。
 
 
・インターネットで電子書籍を読む
電子書籍の魅力は、無料で読めるものが多い上にジャンルの広さと点数の多さです。
 
たとえば「青空文庫」ですが、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などの有名作家ですと(没後50年を経過した人に限る)なら、その作品のほとんどすべてが掲載されています。それがすべて無料で読めるのですから凄いことです。
 
・書店で新しい本を買う
お金がかかるとはいえ、時代の流れについていくためにもある程度は新しい本の調達は必要です。
それを購入するのが本屋さんです。
 
・図書館へ行く
図書館といえば古い本ばかりいうイメージを持っている方は少なくないはずです。つまり人の手垢にまみれた古い本しかない、と思っているのです。
 
でも今ではこの考えは通じません。もちろん大半は古い本で占められています。しかし図書館の一角には「新刊コーナー」という陳列棚があり、そこには新刊書ばかりが並んでいるのです。数は少ないとはいえ、図書館では新刊書も読めるのです。
 
・自分の書棚から探す
自分の書棚の本は時の経過とともに次第に増えてきます。本好きの人ほど増え方が顕著で、そのうち収納スペースが無くなる人もいるでしょう。中には収納スペースが無いのが理由で本屋で新しい本を買わず、図書館や電子図書しか利用しない人もいるくらいです。 
 
 
こうして本の調達方法の特徴を並べてみてもわかるように、「自分の書棚からさがす」は選択肢の最後のなってしまいます。
 
これが家の本棚の本がいつまでたっても手がつけられない最大の原因ではないでしょうか。つまり余程読み物が払底しているときでない限り、家の本棚の本には手がつけられないのです。
 
したがって中途で読み止しの本や、手にとって読むのに骨のいる扱いにくい全集ものが未読のままどんどん貯まっていくのです。



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2019年11月23日土曜日

名作を読み直してみた(1)・ 田舎教師 田山花袋

 
 
文庫版(新潮文庫)は106刷りにも達する超ロングベストセラー
 
一見自伝風の作品だが、そうではない。花袋には生涯教師の経験はない。
 
「蒲団」と並ぶ代表作だが、古い作品にもかかわらず現在でも根強い人気を続けている。その証拠に左の写真にある新潮文庫は平成30年の発行まで実に110刷りを数えており大ベストセラーにも匹敵する発行部数を誇っている。
 
110刷がいかにすごいかといえば、たとえば夏目漱石の「こころ」や「草枕」などと比較しても、決して遜色がないことからもよくわかる。
 
もっとも太宰治の「人間失格」のように206刷りという恐るべき超ロングベストセラー作品もあるのだが。
 
 
田舎教師はなぜこれほど長い間人気が続くのか
 
・文章とストーリーがわかりやすい
古い本を読むのに悩まされることのひとつは仮名遣いと意味不明の古い用語が多いことです。今の新仮名づかいでなく、読みづらい旧仮名づかいになっている上に、今では使われていない古い用語が出てくることもあります。
 
確かにのこの作品にもそうした箇所は少なくありません。でもそうした箇所にはほとんどルビが振られていますから読めないことはありません。
 
そんな難点は多少あっても、文章が回りくどくなく非常に素直な読みやすい表現で書かれいるためスラスラ読み続けていけます。
 
またストーリーが時系列に順序だてて展開しているため、わかりやすく、途中でこんがらがり、立ち止まって整理しなければならないようなことはありません。
 
読んでいる最中に「なんとわかりやすい小説なんだろう」と何度も思ったぐらいです。
 
 
・卓越した背景(情景)描写と心象描写
一般的に小説は、背景描写、心象(心理)描写、会話文でなりなっています。その比率は均等ではなく作品によって異なりますが、概して下手な小説ほど会話文の比率が多く、小説で大切な要素である背景や心象描写がうんと少なくなっているようです。
 
それは会話文に比べて書くのが難しいからです。会話文はともかく、背景や心象の描写こそが作家に力量が問われる大切な要素なのです。
 
この作品は会話文は極端に少なく、その反対に背景、心象の描写が非常に多くなっています。だからといって決して読みづらくはなく、作者の卓越した表現力(文章力)はこの作品の価値をうんと高めています。
 
 
・登場人物が多彩で魅力的 
主人公(林清三)の魅力を語るには、登場人物を挙げないわけには行きません。なぜならこれが多彩で多いほど、主人公の人間性が良くわかるからです。
 
彼を取り巻く人物は学生時代の友人を初めとして男女とも非常に多くいます。とりまく友人が多いということは彼が人として魅力があるからであり、それが人をひきつけるのです。これが登場人物を多彩にし、この小説の大きな魅力になっています。
 
 
・文学のかおりが高い
小説などの文芸作品を読んでいると、よく文学とは何か、という命題に突き当たります。特に純文学と称される作品を読む際によくあることです。何を言おうとするのかが不明で内容にさっぱり興味がわかないため、小説(文学)というもの意味がわからなくなってしまうのです。
 
その点この作品は違います。薫り高い瑞々しい文章が散りばめられており、味わい深い文学のかおりが、初めから終わりまでいたるところに立ち込めているからです。
 
”これぞ文学 ”という思いを強く感じさせる作品です。
  
 
 
田舎教師 あらすじ
主人公林清三は、埼玉・三田ヶ谷村の小学校教師。中学卒業までは青雲の志に燃えていたものの家庭の事情もあって卒業後は薄給(月給11円)地方の教師になるしかなかった田舎の地味な教師生活の中、時には東京から下宿先の寺に学生時代の親友らがやって来て、酒に酔いにまかせて文学談義を闘わしたり、また一高に行った友人から葉書を羨望をこめて読んだりしながら日々を送っていた。そうした中で教師仲間で通った田舎の小さな料理屋酒の味もおぼえ。夏休みがやってくると密かに思いを寄せていた熊谷に住む親友の妹が学校から帰ってきたのを訪ねてその美貌に恋心を募らすそうした焦燥と寂しさを癒やそうと利根川べりの妓楼に女を求めに行くようになり生活は乱れるやっと堕落から逃れて、何とか気を取り直すと、かねてより学校の授業の合間に勉学を重ねてきた音楽の試験を受けに東京へ行くが、あえなく失敗に終わり借金はますます増えていったその後健康も次第に悪化して、病魔は日に日に体を犯していったついに学校休み、実家で養生を続けたがくしくも日露戦争での遼陽半島占領で賑わう提灯行列の日に貧困のなか寂しく死んでいく。


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2019年11月18日月曜日

若者ことば「なにげに」と「ほぼほぼ」が嫌い

 
若者ことばに違和感を感じるのは年齢のせいではない
 
タイトルに「なにげに」と「ほぼほぼ」という若者ことばが嫌い、とはっきり書いていますが、なぜ嫌いなのかといえば、感性が合わないからです。
 
とはいえ、それは年齢のせいではありません。それが証拠に、若者ことばでも好きなものはあります。
 
たとえば人気漫才コンビサンドイッチマンがはやらせた「意味わからん」という言葉は大好きです。その他でも「半端ない」や「やばい」なども嫌いではありません。
 
年齢などは関係なく「嫌いなものは嫌い」という感じです。要は語感が悪く、見るのも聴くのも嫌なのです。したがって自らが使うなどはもってのほかです。
 

こうした若者ことばは一時だけの流行ですから、そのうち消えていくものでしょうが、どうせならできるだけ早く消えていってほしいものです。 


さてこれら二つの言葉の意味ですが、「ほぼほぼ」については想像がつきますが、もう一つの「なにげに」は想像ではわかりません。

ご参考までにネットに載っている二つの言葉の意味を下に記しておきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何気に

読み方:なにげに

何気なく」(何気無く)を省略した若者言葉さりげない、特別な様子見せないさま。「さりげない」も「さりげに」と略されることがある
 
 

ほぼほぼ

「ほぼ」を重ねて強調した言い方。完全とは言えないまでも、おおむねその通りであると述べる際に用いられる表現三省堂が「今年の新語2016」の大賞に「ほぼほぼ」の語を選出している。

「ほぼほぼ」の意味・ニュアンス基本的に「ほぼ」と同じと言い得るが、使用者ごとに微妙にニュアンス異な場合もある。「ほぼ」よりもさらに確度が高いさまを示す意図がで用いられている場合あり得るし、「ほぼ」の語調強め意味合い重ねて述べている場合あり得る。単に口語では「ほぼ」という表現が短すぎては聞き逃されるという懸念から重ねて述べているだけ、ということあり得る
 
 
出典・Weblio辞書 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 
使う人の言葉のセンスが疑われる
 
どんな言葉を使うかは使う人の自由で誰にも止める権利はありません。

「なにげに」は、つい最近もyoutubeの動画で聴きました。ただし視聴率の高い人気動画ではありませんでした。「ほぼほぼ」の方も夏場のプロ野球中継で解説者が使っているのを聴きましたが好きな解説者ではありません。

いずれも、聴いたときは「うーん」という唸り声が出るだけで、聴いて好い気はしませんでした。と同時に、いい年をしてなぜこんな言葉を使うのだろう、という疑問も残りました。
 
要は言葉に対する感性(センス)が悪いのではないか?という風に思っただけです。
 
 
ボキャブラリーが多ければ変な言葉は使わない
 
「なにげに」「ほぼほぼ」などの意味のはっきりしない言葉を使う人は、たぶんボキャブラリーが少ない国語力の弱い人なのではないでしょうか。

言葉の選択肢が少ないために、つい流行っているいい加減な言葉を使ってしまうのかもしれません。

言葉は大事です。言葉によって相手に信頼されたり、されなかったりするのですから、決しておざなりにすることはできないのです。それはネットの人気ユーチューバーを見てもよくわかります。
 
 
人気ユーチューバーは言葉づかいがうまい
 
最近注目を浴びているユーチューバーですが、人気がある人はたいてい言葉遣いが上手です。

おそらく人気が出た理由の半分ぐらいはボキャブラリーの豊富な巧みな話術にあるのではないでしょうか。要は聴いていて話が面白く説得力があるのです。

これからユーチューバーを目指す方は、ボキャブラリーを増やし話術を磨くことがいちばんの課題ではないでしょうか。