2020年1月8日水曜日

窓際の客は外見(見栄え)で選ぶ・パリのレストランの話


パリのレストランで窓際の席を断られても人種差別とは言えない
パリのレストランでアジア人が窓際の席を断られたが

あるブログに載っていた話ですが、パリの中心部にある有名ホテルのレストランで一人のアジア人中年男性が訪れたときのことです。

男性はできることなら外が一望できる窓際の席を希望していました。ところがその席に付こうとしていると、おもむろに男性店員が近づいてきて、「奥の席へ移動してください」と言うではありませんか。

残念とは思ったものの、たぶん予約席か何かなのだろう」と思い、諦めて窓際から離れた入り口側の席につきました。

それからしばらくして、地元のフランス人らしい白人女性が入ってきて、窓際の席に着きました。

「ハハーン、あの人が予約の人か」と思ったのですが、しばらくしてまた白人男性客が、同じように窓際の席につきました。

その後も白人客が続き数人が窓際に席に付いたのです。アジア人の彼が断られてから、もう5人以上がその席に付いたことなるではありませんか。

ここまできて、彼は「これはどうもおかしい、予約席というのはひょっとして嘘ではないのだろうか。私が日本人だから断られたのではないだろうか。そうだとすると人種差別なのでは?」と疑い始めたのです。


アジア人を希望した席に付かせないのは人種差別に当たるだろうか?

人種差別、いやな言葉です。でもパリのレストランでアジアの客が窓際の席を断られたことは、果たして人種差別に当たるのでしょうか。

それを考える前に、なぜアジア人だと窓際の席を断られるのでしょうか。

理由はこうです。窓際の席は客が外を見ることができるいわば特等席ですが、外の通行人にもレストランの客を見ることができます。つまり外から仲の客が観察されるのです。

この際、外から観察する人は当然窓際に座った客をみることになります。そして座っている人の様子から店のことを判断するのです。


外からの見栄えを重視するレストランのマネージャー

外から見る人が窓際の席に座った客で店を判断するとすれば、その店のマネージャーはどういった行動をとるでしょうか。

簡単なことです。窓際にはなるべく外見の良い客を座らせようとします。そうすることで外の人からは「客筋のよい店」と判断されるからです。

その結果店は評判を呼びどんどん繁盛していくのです。では逆の場合はどうでしょうか。つまりマネージャーが窓際の席の客層に無頓着で、来る客の外見などにかかわらず順番に席に付かせた場合です。

そうすると必ずしも外見のいい客ばかりが席に付かずに、中には?が付く人も混じっているかもしれません。

そうした場合、外から眺めた人は、客層について良い判断を下さず、店に評判が下がり、結果として店が繁盛しなくなるのです。

いかがでしょうか。店の繁盛のために窓際の席の客を選択するマネージャーの行動を人種差別と呼べるでしょうか。


はっきり言えば、これはホテルレストランの売り上げを増やすための方策であり、外見的な美醜で人を差別するルッキズム(lookism)には当たらないのではないでしょうか。



(注)ルッキズム(lookism)とは


外見的な美醜を重視して人を評価する考え方容姿による差別をいう


窓際の席はショーウィンドウの役目をする

カフェやレストランなどでは、店のグレードが高ければ高いほど客の質に気を配ります。

その対策の一環として外から眺められる窓際の席に座る人は厳しく選択します。なぜなら外から見る人は客層によってランキングするからです。

つまり、窓際の席に見栄えの良い人が座っていれば、グレードの高いレストランだと判断し、見栄えの良くない人を見れば、低ランクに評価するのです。

これがレストランの売り上げに直結するのです。

これでわかるようにレストランの窓際の席はショーウィンドウの役割も果てしていますから、マネージャーは、できるだけ見栄えの良い客をそこへ座らそうとするのです。



(ツイートより)
パリのホテルの件、ひどいと思うけど、人種差別では無いと思う。だいたい飲食店はフランスでも日本でも 「窓際の席は見栄えのいい外国人やモデルのいわば指定席。店のイメージアップにつながる人を意図的に座らせる」 ことが行われていて、そのホテルの見栄えの基準が白人だっただけだと

2020年1月3日金曜日

もう一度読んでみたい・高校英語リーダー名作シリーズ(7) 最終回

 
SPACE SPEAKS(空間は物語る)
 
                    Edward T. Hall(出典:new horizon 2, L5)  訳:大平庸夫
 
 
 ある時、巷間によく名前の知れた外交官が私を訪ねてきた。
 彼はそのとき私が行っていた或る研究に興味を持っていて、私のクラスに入りたいと申し出てきたのであった。
 
 ある日の講義が終わったとき、彼が私の前にやってきて、その日行った講義のいくつかの点について話した。話すときの彼はやや接近しすぎていて、それに気づいた私は少しづつ後ずさりしながら聞いていた。

彼の熱心さは理解できたが、マナーの上から言えば少し強引すぎると私は思った。しかし私が少しづつ後ずさりを始めると、彼の態度は変化していき、幾分やりづらさのようなものを表情に出していた。
 
 人と対面して会話を交わすとき、私が心地よいと感じる間隔(約21インチ)に移動するのを見た彼は明らかに当惑した様子で、あたかもこんなことを言っているかのようであった。
 
 ”どうしてそんな風にするんだろう、いま私は彼と友好的なマナーで話す為に一生懸命になっているというのに、にもかかわらず彼といったら後へ下がったりして、近寄ってさえいてくれれば、私はもっとうまく喋れるというのに、私はあなたに何か悪いことでもしましたか?”
 
 彼が少し傷ついたかもしれないと私は思った。
 
 人と話すとき、距離をあけたり、ぐっと近寄ったり、人によっていろいろあるが、それはそれぞれの文化の違いからくるのであろうと、私はかねがね思っている。
 
 そして、それが親近感を与えるか、反対に冷たさを感じさせるかは当事者同士が正しい間隔で話していると分かるまで確かなことを言うのは難しい。
 
 米国では初対面の人同士が気分よく離せる間隔は約4フィーとであると考えられている。
 だから、一方の人が近づきすぎると、相手の人は後退りするのです。待合室などでは知らない人同士は離れて座りますが、友達同士だと引っ付いて座りますし、家族の者同士だとお互いが体を触れ合ったりもするようです。
 
 でも米国と違った他の国では人々はもっとお互いが接近しているようです。例えばラテンアメリカでは、距離を置いて人と話すことは米国と比べてうんと少ないようです。
 
一般的な会話はここでは2~3フィートの距離でなされますが、これが彼らにとって最も都合のいい間隔のようです。したがって、ラテンアメリカ人が彼らにとって都合のいい距離まで前進してくると、アメリカ人にとっては窮屈すぎるということになるのです。その結果何か侮辱を受けているような気がして後退りしてしまうのです。
 
 こんなときは、何かが起こって会話が中止されない限り、一方が追い、他方が後退りすして部屋中を動き回るような事態にならないとも限りません。その結果、ラテンアメリカ人を冷たく友好的でないと思い、アメリカ人はラテンアメリカ人のことを敵意があって好戦的だと思うでしょう。
 
 こうした摩擦を起こさないために、アメリカ人は机やテーブルを防御に使います。でもラテンアメリカ人はそんなことぐらいでは引き下がることはなく、机によじ登ってさえ自分の距離を保とうとします。これは周知の事実です。
 
 もしあなたが違う文化圏に住んでいる人なら、これらの感覚にまつわる合図ということについて、十分理解していただけることでしょう。
 
 二人のアメリカ人が1フィートまたはそれ以下の距離で話しているときは極秘事項について話し合っているのでしょうし、2~3フィートの距離ならば、個人的なことがテーマになっているのでしょう。4~5フィートなら、やや一般的な会話であり、7~8フィートも離れたものであれば、相手は自分の言っていることをじゅうぶん聞いて欲しいと思っているのです。
 
団体に対して話すときは10~20フィートの距離が適当とされています。
 話し相手は別にこうした空間を保つことを常に意識しているわけではありませんが、気がついてみると自然にそういう形になっているのです。
 
 例えば、今あなたが2フィートの間隔でラテンアメリカ人と私的なことを話しているとしましょう。そしてあなたは少し後退りして、感覚を4~5フィートにすることによって話題を一般的なものへと変えることができます。このとき彼が会話を続けようとしなかったら、彼は明らかに失望して、その距離では個人的な会話ができないと思っているのです。
 
 空間(間隔)というものはこのように ”物語る”ものなのです。
 
 好む、好まざる関わらず、空間はコミュニケーションに調子を与え、アクセントを刻むのです。

そして時には話し言葉を無効にさえしてしまうのです。さらに私たちをしばしば混乱させ、文化の違いを理解する上で邪魔になることすらあるのです。
 

2020年1月1日水曜日

この言葉が好きだ・世界の名言シリーズ(2)


2020年 新年を迎える高齢者へのエール
 
 
 
     
誰もが「老いたくない」と思っているが
 
 
高齢者社会真っ只中の今の日本には65歳以上の人が約3千万人もいます。
 
これだと4人に一人が高齢者と言うことになり、いわば「石を投げれば老人に当たる」と言っていいような状態なのです。
 
でも石には当たりたくありません。どうしたらいいのでしょうか? 
 
そのためには石に老人と思わせないことです。老人と見えなければ石もターゲットと認識せず避けてくれるに違いありません。
 
 
老いないためには、いつまでも希望(夢)を抱き続けること
 
老いないためには健康に気をつけることです。体はもちろんですが、それにも増して大切なのは心の健康です。でもどうしたら心の健康を保てるのでしょうか。
 
それには希望(夢)を抱き続けることです。老い先短い身にとって夢など抱いてもしかがたない、などとは決して思っはいけません。
 
いつも「明日はこうしたい」、「来年はああなりたい」、というふうに、明日へ明日へと夢と希望をつないでいくのです。その心意気が人を若々しく保たせるのです。

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2019年12月28日土曜日

結婚したい、でもできない ・ ブログ「生涯独身日記」に注目!

 
生涯独身男性 23.4%という どうしようもない日本の現実
 
「生涯現役!!日記」というブログを約10年間運営しています。
 
先日グーグルで検索順位を確認していると、ページの何番目かに、この「生涯現役日記」と名前が似通った「生涯独身日記」というタイトルを目にしました。
 
「生涯~日記」というふうに、~の部分にいろいろなワードを入れたブログタイトルは多いのですが、今回のような「独身」が入っているのを見たのは初めてです。
 
かつてないほど世の中に独身者があふれている昨今なら、こうしたブログがあっても不思議はないのですが、今になって初めて目にしたということは、ひょっとすれば盲点になっていたのかもしれません。
 
このブログは今の世の中の現実直視のストレートさが良いだけでなく、アイロニーもこめられており、なかなか親しみを感じるタイトルではありませんか。
 
内容はともあれ、タイトルだけでもヒットしそうに思えます。個人的にも応援したいブログです。
 
参考までに検索ページに載っている「生涯~日記」と同パターンのタイトルをご紹介します。
 
 
こんなにある「生涯~日記」というバターンのブログ

生涯現役を目指す、オバちゃん日記

生涯現役-Southern Wind 日記

宇野爺ちゃんの生涯現役日記

組み込み技術者の生涯現役日記

かけはし日記 - 生涯現役サポート かけはし

生涯現役 l いなせな女将の太腕日記 うさぎ編

優利加の「生涯現役のトレード日記」

ワークライフハーモニーで生涯現役)日記

生涯現役倶楽部・・ | イエンナレアガシの元気日記

生涯現役・・でも・・ (加藤一郎税理士事務所業務日記

生涯現役 No.2133 | 社長の三行日記

 
生涯独身日記(生涯独身おやじ)はこんなブログ
 
このブログに注目したのはタイトルが良いからです。男性の生涯独身者が23.4%%にもなるという今の超難婚社会をよく表しているではありませんか。
 
ブログ作者もこの中に属する一人ですが、中年で婚期を逸した身でありながら、なんら臆することなく、堂々とこうしたブログを発信できるのは天晴れです。以下はその内容の一部です。
 
 
☆最近の投稿
 
・簡易孤独耐性テスト
 
・移動後の近況報告
 
・人事異動で左遷となる
 
・偽装フィアンセ
 
・独身が語る 独身のメリット、デメリット
 
 
生涯独身おやじ The Art of SingleLife
 
Url) https://shougaidokusin.com/


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2019年12月23日月曜日

もう一度読でみたい・高校英語リーダー名作シリーズ(6)

        本当なのか?動物の地震予知




EARTHQUAKE PREDICTION(地震予知)
             
                  James M Hendrickson (milestone 2,L5

                      訳:大平庸夫
 
 
 地震は天災の中でもも最も恐ろしいものの一つですが、日本はその地理条件から世界でも有数の地震国といわれています。この国はこれまでに大きな被害を伴った大地震に幾度も見舞われています。私たちは地震が防ぎようのない災害であることをよく知っていますが、もしその地震が、いつ、どこで、起こるかを知ることができたなら、その地域に住んでいる人々を緊急避難させることによって多くの命を救うことができるのです。
 
 一時は地震を予知するなどということは不可能だと考えられていました。しかし、中国、アメリカ、ロシア、日本などの科学者は諦めることなく、その方法を探る研究を続けてきました。
 
 中国の人々の間では馬を初めとする多くの動物の奇妙な行動を地震の起こる警告として効果的に利用してきました。
 中国の科学者は地震予知の為に最新の設備を使用しています。しかし、それに頼るだけではなく、様々な地鳴りとか、井戸の水位の変化、動物の奇妙な行動などを絶えず観察しています。こうしたことに関して、次のような興味或るデータがあります。
 
 例えば、1975年の2月4日には、中国北東部でのマグニチュード7.3の地震を予知し、また1976年の5月29日には、中国とミャンマーの国境付近で二つのマグニチュード6.9のものを予知しています。これらの予知が非常に正確だったので、事前に多くの人々を避難させることができ、その結果数千人の命を救うことができた、と科学者たちは付け加えています。
 しかしいつもがこうとは限らず、時としては間違った警告を出したことがあったことも権威筋は素直に認めています。
 
 古い年代記の記録によれば、当時のお百姓さんたちは、馬が後足で立ち上がり急に走り出したり、犬がしつこく吠えたり、魚がしきりに飛び跳ねたりしているときは、必ず地面の下で何かよくないことが起こり始めているのだ、ということをよく知っていたそうです。
 
 その他の危険な兆候としては、人々が普段あまり見ることのないネズミやヘビなどが大挙して隠れ場所から出てきたりすること。また別の年代記によると、雷の音のような地鳴りが地震が起こる数時間前に聞こえた、ともあります。
 
 動物による警告のうち、いくつかのものは科学的にも説明が加えられています。
 例えば、冬の真っ只中に凍え死ぬ危険をおかしてまでも、冬眠中のヘビが穴から出てくることがあるそうですが、これに関しては次のように関連付けています。
 つまり、地震の前には地中の温度が極度に上昇するため、冬眠中のヘビは春が来たものと勘違いして出てくるのではないか、と言うのです。
 
 馬、犬、猫、ネズミ、その他の動物の奇妙な行動については残念ながらあまりはっきり説明されていません。たぶん、これらの動物が地震とともに起こる、地鳴り、揺れ、土中の磁気、電気、普段と違う匂い、その他諸々の変化について人間より数段優れた感知能力を持っているからである。と科学者たちは考えています。
 
 他の幾つかの例では、水泳中の人が陸上では聞くことのない音を水中で聴いたり、透明な井戸水が突然濁ったり、水位が変わったりすることもあったそうです。
 
 地震前のこうした警告は世界中のいたるところで知られています。
 アメリカインディアンの祈祷師は地震を予知できる、と言われていますし、ロシアでは真夜中に地震で家が崩壊する直前に、飼い犬が女主人を起こし、外に引っ張り出した、というようなことも報告されています。
 これに似たような話はユーゴやニカラガでもあります。
 
 この点では日本も例外ではなく、魚、動物、鳥、虫、ヘビや昆虫などの異常な行動についての数々の記録が残っています。
 ナマズが地震を起こすなどということは、今では誰も信じないと思いますが、1923年の関東大地震が起こった一日前、東京の向島の池の水面を無数のナマズが飛び跳ねているのが目撃された、という実際の報告があったのも事実です。
 
 こうした記録や報告は知られてはいるのですが、一般的には迷信として葬り去られています。これらの自然の警告を実際に系統立てて地震予知のために使った最初の国は中国です。この方法による1975年と1976年の画期的な予測は世界中の科学者を、この方面の研究へと目を向けさせました。彼らは古い記録を調べると同時に、最近起こった地震についての調査もはじめました。 
 
 はたして日本でもこうした自然の警告を使って、地震予知を成功させることができるでしょうか。幾人かの科学者たちは、日本と中国の地震のメカニズムの違いを理由にあげて悲観的な見方をしているようです。しかし、この分野の研究は始まったばかりですし、これらの自然の警告も他の近代的な予知機器と併用することによっては、地震予知の助けになることは大いにあり得ることだと思います。
 
 

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2019年12月19日木曜日

この言葉が好きだ ・ 世界の名言シリーズ(1)

 
 
 
 
己を知ることの難しさ

言わずと知れた有名な「孫子の兵法」の一節である。
これは戦時の兵法訓であるのだが、これまで私たちはこれをまるでビジネス訓のように捉えてきてはいまいか。

ビジネス訓、あるいは営業訓と言い換えてもいいのだが。
つまりこれが引き合いに出されるのはいつもビジネス現場なのであり当然のごとく戦場ではない。

その場面も上司が部下に向かっての話す朝礼時などの訓話の中などが多いのではなかろうか。
私も営業の責任者であった頃はよくこれを引き合いに出して部下の奮闘を促したものだ。

でも私が人からこれについて聞くときはたいてい前段の一節、つまり「彼を知り己を知れば百戦危うからず」までであり次に続く文節についてはあまり聞いたことが無いような気がする。

次の節とは「彼を知らずして己を知れば一勝一負し、彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆うし」と続くのである。

およそ人とあい対するときそれが戦場であれ、ビジネスの交渉現場であれ相手のことを知らなければ作戦などの立てようもなくまるで勝負にならない。

したがって事に当たる前には相手についての研究が必至である。
それを知ってこそ戦略が立てられるのである。
そしてそれと共に必要なのが自分について知ることである。
 
出典:生涯現役日記

孫子の兵法・彼を知り己を知れば百戦危うからず・だが意外と知られていないこの後に続く文節
http://tuneoo.blogspot.com/2011/04/blog-post_18.html


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2019年12月15日日曜日

純文学とは何か ・ アメリカの純文学は?

 
純文学とは「この作品のどこが面白いの?」と思わせる読み物?
 
こんなふうに思ったのは、アメリカの作家サリンジャーの「ナインストーリーズ」を読んだときです。
 
サリンジャーは超ベストセラー作品「ライ麦畑で捕まえて」で有名な米国の作家ですが、今回読んだ「ナインストーリーズ」はそれに次ぐ彼の代表作です。
 
実は「ライ麦畑で捕まえて」も随分前に一度読んだ記憶があるのですが、あまりにも前なので内容をすっかり忘れてしまっており、面白かったかどうかも不明なのです。
 
以前から家の書棚にある世界文学全集にサリンジャーの巻があり、それば前から気になっていて、意を決してその中に収録されている作品のひとつ「ナインストリーズ」を読んでみることにしました。
 
しかし読んでみて思ったのは、表題の「この作品のどこが面白いの?」というものだったのです。要はこの作品、アメリカの純文学なのでしょうか?
 
 
ブログに「純文学について」という名文があった!
 
たまたま目にしたブログに「純文学について」という記事があり、内容が優れており非常に感銘を受けましたので、ここでその抜粋をご紹介します。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
純文学とは何か
 
まず、とても端的な質問を与える。それは、純文学とは何か、ということである。その答えというか定義は多様であるが、1つの定義として、純文学は私小説である、というものがある。
するとさらに私小説とは何かということになるが、それは作者が直接に経験したことに基づき書いた小説ということになり、自叙伝的なものとか、日常のちょっとした経験したことをテーマに書いた小説ということになる。そういえば、私は若い頃から渡部昇一氏のファンであるが、渡部昇一氏は、私小説だと書くテーマが限られているので、次第に枯渇するのではないかと、私小説に対して批判的だった。それでつい私も、私小説的な小説を避けてきたところがあるが、ちょっと一方的だったかもしれないとこの歳になって反省している。自分の個人的な体験から壮大にテーマを描くというのは十分にありえるからである。
別の純文学の定義として、面白さよりも芸術性にフォーカスされた小説というものがある。そういえば大学時代にある知り合いが、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読んでみたが、何が面白いかさっぱり分からないといっていた。今の私なら、そういうならと読んでみたかもしれないが、当時は松本清張一辺倒で、純文学っぽいものは読む気がしなかった。ともかく、「ライ麦畑でつかまえて」が純文学なのかどうか知らないが、文学の芸術性というのは私は、ある程度の教養がないとその意味とか面白さが理解できないもの、と定義してみる。違うだろうか。そういう意味で、ノーベル文学賞をもらった大江健三郎なども私には芸術性が高い純文学と映る。なにしろ、読んでもさっぱり理解できなくて、途中で投げ出してしまう。そしてその背景に単なる荒唐無稽ではなく、何かの思想があるんだろうとは推察する。
 
出典:純文学について  あやたろう 20131222
http://commutative.world.coocan.jp/blog3/2013/12/post-1126.html
 
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このブログで注目すべきは、サリンジャーの代表作「ライ麦畑で捕まえて」についての記述です。
 
この著者も私が同じ作者の作品「ナインストーリーズ」で抱いたと同じ感想を「ライ麦畑で捕まえて」で感じているのです。
 
要は、アメリカでも日本でも、純文学とは、何を言わんとするのか意味不明の「この作品のどこが面白いの?」と思わせる作品なのではないでしょうか。 
 
 
「純文学 ⇔ 芥川賞 ⇔ 面白くない」
これは疑いようのない図式なのか?
 
これまで私のブログでは純文学のつまらなさについて何度も書いてきました。ターゲットに上がったのは、たいてい芥川賞受賞作品でした。それゆえに純文学について上のような図式のようなものを思いついたのです。
 
それでも飽きもせず読み続けるのは、発表のたびにメディアが大きく取り上げ、賛辞を送るからです。
 
いったいメディアは何ゆえにつまらない純文学作品の後押しを続けるのでしょうか。


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