2014年8月13日水曜日

T.Ohhira エンターテイメントワールド(第33回) ・ 小説 「マンハッタン西97丁目」 第4章・すばらしき1週間(その6)



マンハッタン西97丁目 第4章 「すばらしき1週間」 (その6) 

 乗客ののまばらな地下鉄に乗り、アパートへ着いたとき時計は十一時半を差していた。

 ドアを開けるや否や「サミー帰ってきたのね」と、これまでに無いほどの親しみに溢れた声と共に、バーマが駆け寄ってきた。そして気がつくとなぜだか修一の腕の中にいた。予期しないこの状況に修一はすっかり戸惑った。

 これにいったいどう対応すればよいのだろう、としばらくはじっとして迷っていた。バーマは修一の左肩に顔をもたせかけてきた。すぐ目の下に彼女の白いうなじがあり、それを見た瞬間、胸の鼓動が一気に速まった。

 ドキドキする気持ちをかろうじて抑えながら、意を決してその首筋にそっと唇を押し当てた。
 バーマが腕から離れたとき修一は大いに照れた。

 そして「明日の天気はどうだろう?」などと、およそこの場面にはまるでふさわしくないようなセリフが口から漏れ、思わず苦笑してしまった。

 そんな修一と違ってバーマはなんら悪びれた様子も見せずに 「ねえ聞いてサミー、わたし今夜あなたとバーティをやろうと思ってたの、それで学校からの帰りにいろいろ買い物をしてきたの。ところが帰ってみると、キチンのテーブルの上にドッサリ食料と飲み物が置いてあるじゃない。わたしびっくりしたわ。

 でも少し考えてすぐ分かったの。ハハーン、サミーもわたしと同じことを考えていたのだなーって。買い物がタブッて少しもったいないような気がしたけれど、でもわたし嬉しかったわ。だってサミーとわたしの気持ちが図らずも一緒だったんだもの」そう言ったバーマの声は喜々として弾んでいた。

 「ふーん、そうだったのか。でもそれを聞いて僕も嬉しいよ。実のところ僕一人が勝手にバーティを計画したりして、はたして君に応じてもらえるかどうか心配だったのだよ。それが君まで僕と同じ計画を立ていていただなんて驚きだな。こうなれば二人が買ってきた食糧や飲み物がなくなるまで毎晩でもバーティをやろうよ」「賛成! 今夜がニューイアーズイブのバーティで、明日がニューイヤーのパーティ、それからあさってが、ええっと」

「あさってはエセルの退院を祈るパーティっていうのはどうだい?バーマ」

「エセルの退院を祈るねえ、ねえサミー、ひょっとしてそれ、エセルの入院を祝うの間違いではないんでしょうね」 「おいおいバーマ、冗談言うなよ、せっかくこんなすばらしい舞台を提供してくれた彼女に対して間違ってもそんな失礼なことは言えないよ」「ごめん、ごめんサミー、今のはほんの冗談よ」 
 二人はそんなとりとめもないことを喋りながら袋から食料を取り出して手分けしてリビングのテーブルの上へ並べていった。

 バーマはキチンへ立ち得意の野菜サラダを作った。瞬く間にテーブルは食べ物で一杯になった。

 「ところでバーマ、君はアルコールには強い方?」「うーん、どうかな? でもバーティの席ではいつも最後まで残っている方だわ」質問にはストレートに応えないまでも「決して弱くはないわよ」と暗に示しているようであった。

 「ぼくはねえバーマ、お酒にはかなり自信を持っているのだけど、今夜は何か別のような気がするんだ。なぜって、君と二人だけでパーティをやれることが嬉しくて嬉しくて、それで気持ちが相当動揺しているもんだから、なんだか今夜はすぐ酔っぱらってしまいそうなんだ」 「あらまあ、それを聞いてわたし喜んでいいのやら、悲しんでよいのやら、だってサミーがお酒に酔って速く寝てしまったらわたし寂しいもの」 バーマはそう言いながらまんざら演技でもなさそうに少し表情を曇らせた。

 「大丈夫だよバーマ、君よりはやく酔いつぶれるなんて、大の男がそんな情けないこともいえないし、それにたくさん食べながら飲むと酔わないからね。なにぶん食料はこの通りだし」修一はテーブルを指差してそう言いながら、彼女に向かってニコッと笑った。

 ミス・バーマ・フォスターにとっても、この夜の修一との二人だけのパーティは思いがけないものであったに違いない。カナダからやってきて、奨学金を得ている学生の身分であり、普段の生活にはまったく派手さはなく質素そのものの生活を送っている彼女にとって、その日常生活で、今夜のようなバーティにしばしば遭遇するとは決して思えない。

 ましてや、相手は東洋から来た男性。舞台は家主のいなくなった下宿屋。そして時は一年の終わりの大晦日の夜。おそらく修一以上にこの予期せぬ出来事に対しての思い入れは大きいのに違いない。
 「ねえバーマ、ニューヨークでの生活は楽しい?」

 修一は何杯目かのオンザロックのグラスをテーブルの戻しながら聞いた。

 「そうねえ、今のわたしの生活と言えば、絵の勉強に八十パーセント以上占められているし、それが楽しいかと言えば楽しくないこともないのだけど、でもサミーの聞いているのはそういうことではないのでしょう?」 「うん、まあそうだね。どう言うか勉強とか仕事を離れた遊びとしての楽しみのことだよ」

「そういう楽しみから言えば今は駄目ね。だってわたしが学校以外で行ける所といえば、図書館だとか美術館、それに大小の公園とかのあまりお金のかからないところばかりで、ブロードウェイのミュージカルにも、すばらしいナイトクラブにもいけないし、ましてや五番外でのショッピングなど夢のまた夢だわ。貧乏学生の辛いところね。でも今はこうでも、将来はきっと立派な商業美術家になって、「この次ニューヨークに来たときにはそうしたこともどんどん体験したいわ」

 バーマは健気な表情でそう応えながら修一の顔をじっと見つめた。
 修一も黙ってバーマを見ていた。

 「その点サミーはいいわね。ホテルの勉強のために日本から来たとはいえ、ちゃんとした社会人だし、それにサラリーだってきっちり貰っているんだし・・・」

 「うん、まあそうだろうね。東洋人の僕にとって、ここニューヨークの生活はすべてがエキサイティングであり、楽しいことだらけなんだよ。でもねえ、その僕にも一つだけ大きな悩みがあるんだ」
「ヘェーそうなの、それでいったい何なのよ?その重大な悩みって言うのは」

 だぜかバーマは「大きな」という言葉を勝手に「重大な」に替えて質問した。

「うーん、そう改まって聞かれると少し言いにくいんだけど、女性の君にこんなことを言っていいのかなあ」 「何なのよいったい。もったいぶらずに思い切って言ったみたら? ひょとしてこの私でも役に立つことかもしれないし」

 私でも役に立つここかもしれない。バーマのこの言葉に修一はドキッとした。

 まさか彼女の内心を見透かされているのではないだろうか?これから言おうとしている「重大な悩み」の内容についてすでに気がついているのではなかろうか? 

 脳裏にまたバーマの部屋での下着の光景がありありと浮かんできた。

 修一は動揺した様子を隠すようにグラスに手を伸ばし、残ったオンザロックをグイと一口で飲み干した。

 「えーい、酔った勢いで言ってしまおうか!」 「そうよ、そうよ。男ですもの」

 バーマはさも興味深そうにそう言うと、テーブルの向こう側から大きく身を乗り出してきた。「つまりねえバーマ、人間の本能的な欲望には大きく分けて三つのものがあるということは君も知ってるよねえ」 「もちろん知ってるわ、でも何よ?ハイスクールのレクチャーでもあるまいし、そんな当たり前のことをあらたまって聞いたりして」 バーマにそう言われて、こんな切り出し方をしなければ言いたいことも言えないのかと情けなく思えた。彼女はシャイな日本人ではないのだから、もっとストレートに言ったほうが好感をもたれるかもしれないのに。

 でもそう切り出した以上、その流れに沿って話を進めるしかなかった。

 「その三大本能というヤツだけど、今の僕はその中の二つ、つまり食欲と睡眠欲はじゅうぶん満たされているんだけど、残ったもう一つのものがぜんぜん満たされていないんだよ。つまり性欲がね。この話そのことに関係あるかどうか分からないんだけど、ぜひ君に聞いてほしいんだ。

 実はひと月前のことだけどね、夜チャーリーの店で食事をしているとき、何もしないのに飲んでいたスープの中に突然鼻血が落ちてきたんだよ。これまで何もないときに鼻血など出たことがなかったので、あれには驚いたね。

 カップの中に鼻血がいっぱい落ちたもんだから、いつも間にかそのスープが真っ赤になってね、まるでケチャップでも思いっきりぶちまけたような色に変わってしまっているんだ。チャーリーが紙ナプキンをたくさんくれたので間もなく血は止まったんだけど、店を出るときチャーリーが「サミー、ユーは欲求不満じゃないのか?」って言うんだよ。

 真偽のほどは知らないけど、男は出すべきものを出さないで溜めすぎると鼻血が出る、と人から聞いたことがあるので、彼の言うことはもしかしてあたっているかもしれないと思ったんだ。何しろ日本を離れる前からここ半年ぐらいずっとそのことにはご無沙汰しているんでね」

 バーマはここまで話を聴くと、ゲラゲラと声を立てて笑い始めた。
 でも少し経ってまた真面目な顔に戻ってから言った。

「ふーん、男の人ってそういうときに鼻字が出るんだ。知らなかったわ。でもおかしいわねえ。サミーなんか私と違ってお金も持っているんだし、その気になればいくらでもチャンスはあるでしょう」

「そりゃあプロの女性とならね、でも僕はそのプロというのがもうひとつ苦手なんだ」「なぜなの?」バーマが聞いた

「別に病気とかを気にする訳じゃないんだけど、なんだかそれだけが目的だと味気ないだろうし、すんだ後で何か嫌な気持ちが残りそうな気がするんだ。やはりこういうことはお互いに心の繋がりというのが少しはなくてはね」

 「うーん、サミーって意外にロマンチストなのねえ」
 「それほどでもないよ。さっきの続きだけど、人の話によると、日本人男性は一般的に欧米女性にはもてなくて、それゆえに相手になってもらうのはプロの女性ばかりだということだから、僕としてはどうしてもその一般的な日本人の中に入りたくなくてね、できたら最初は素人の女性とそんな経験を持ちたいと考えているんだ」「そうなの、日本人男性ってそんなにもてないの。そういえばそういう気もするわ。

 サミーは割合アカヌケしていて例外だと思うけど、平均的日本人男性ははっきり言って魅力ないわ。外見もさることながらなにかいつもセカセカ、オドオドしていて、それに欧米男性に比べるとあまりにもシャイだわ。はっきり言って女性に持てそうな人種ではなさそうね。でもサミーは違うわよ」

「でも僕だってシャイという点では一般的日本人と変わりなくてね。そのせいでこれまで何度チャンスを逃したことか。何しろ気心の知らない外国人女性相手だと余計にね」 「そうなの、要は気心が知れていればいい訳ね。じゃあ私なんかだとどうなの?少しは気心も知れているでしょう。それとも私では相手として不足?」
 バーマが突然発したこの言葉に修一は驚いた。聞き間違いではないのか、とも思った。「ねえバーマ、今なんて言ったの?よく聞こえなかったんだ」

「つまりねえ、私がサミーの最初の外国人女性としてお相手しましょうか、って言ったの」 バーマはそういいながら背筋をしゃんと伸ばし、顔を少し横に向け、これまで見たこともないような妖しげな表情で修一に向かってウインクした。

 彼女としては、それは自分をよりセクシーに見せるための精一杯のポーズに違いなかった。修一の目にピンと張ったバーマのふくよかな胸が焼きついた。

 はっきり言って修一は彼女のこのセリフと振る舞いはまったく予想していなかった。期待だけは十分すぎるくらい持っていたのだが、少なくとももっと時間と手順がかかると思っていた。だから今夜のバーティもそのための手がかりになればよいと思っていた。

 だが修一のそんな予想のモノサシを一気に飛び越して、いま早くも期待が現実のものになろうとしているのだ。胸の動悸が急に速まり、ソワソワとして落ち着けなくなった。気を静めようと、またグラスにウィスキーを注いだ。

 心なしかボトルを握った手が震えているような気がした。そして「君が相手で不足だなんて・・・」かろうじてそれだけ言うと、後は言葉が続かなかった。

 なんだか間が持たない気がして修一は手洗いに立った。用を足して洗面台の前に立つと、ポッと上気した赤い顔が鏡に映った。もうオンザロックを七~八杯は飲んでいただろうか、けだるさと心地よさが半々の、あまりはっきりしない頭で修一は考えた。

 さて、これからどうしたものか?  考えながら大きく蛇口をひねって水を出した。 

 両手でそれをすくって二度、三度と顔へあてた。真冬の水は氷のように冷たい。 けだるさが一気に吹き飛んで身体がシャンとしてきた。

(つづく)次回  8月16日(土)


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