2019年11月1日金曜日

もう一度読んでみたい・高校英語リーダー名作シリーズ(3)

 
 
  HUMOR AND LOVE
 
            Alfons Deeken(出典:unicorn 2B,L8)  訳:大平庸夫
 
 
 ユーモアについての一つの共通した間違いは、それが楽天家に生まれつき備わっている天分であるとか幸運に恵まれた人の嬉々とした反応であるとか解されることである。
 反対のことにはしばしば真理が隠されているが、ユーモアとは必ずしも陽気な人々による精神の発露であったりするものではないし、またそれが或る人々に先天的に備わっていたりするものでもない。
 
 鋭いユーモアはしばしば苦痛とか災難を被っている最中に想起されたりするものである。  真のユーモアは安っぽいジョークや表面的な浮かれ騒ぎなどと同等に考えるべきではなく、むしろ苦痛や災難の中でこそ、本来のものが生み出されると言っても過言ではない。
 もしここに激しい苦痛に身をさいなまれている人がいて、彼がそのさなかに笑顔を見せることができるとすれば、彼こそが本当の意味のユーモアの持ち主なのである。
 
 子どもの頃、ユーモラスな振る舞いで多くの子どもたちに限りない喜びを与えてくれたサーカスのピエロが私は大好きだった。
 ある時、そのピエロと話す機会があったが、そのとき私は彼のユーモアが決して幸運に恵まれた人生をおくってきたその結実として身につけたものではないことに気がついた。
 それどころか、むしろ彼がサーカスのピエロになろうと決意したのは、人生に上でも希にしかないような大きな悲劇に見舞われた直後だったのである。これを知ったとき、私は初めてユーモアの真の意味を知ることができた。
 そのピエロは見舞われた悲劇に負けることなく、真のユーモア人になったのである。自身が大変な危機に身をおいていたので他人には苦痛の代わりに喜びを与えようと思ったのである。
 
 さて、私自身の経験について述べてみると、ユーモアの深い意味に気づいたのは自分の人生において最も苦痛に満ちた時期であった。
 最初の2年間の日本での滞在で、私が日本語を習い始めようとしたときは、ものすごく困難な時期であった。
 横浜に到着したその日、私が知っている日本語といえば ”さよなら”と”ふじやま”の2語だけであった。だが、まもなく或る日本人学生に二つ目の言葉が正しくないことを指摘されたとき、私の日本語のボキャブラリーの50%が間違いであったことを知って、まるで打ちのめされたような気になった。
 
 二年間の日本語の勉強を通して私は日本に住むかなり多くの外国人が不十分な日本語のせいで引き起こした数々の誤解や失敗の為に神経症になっていることを知った。当然、私自身も例外でなく、誤解とか屈辱的な間違いを重ねてきた。でもこのことを通じて、日本語を学習する上での避けられない過失をユーモアのセンスをもってよりスマートに受け入れることを学ばなければならない、ということに気づいた。
 
 自分自身およびその欠点を笑い飛ばすことを学ぶことは、文化の違う外国生活では、日常の数々のフラストレーションを克服する唯一の方法なのである。
 この一つの智恵を身につけたその日、私はまるで何かに啓蒙されたような気になっていた。それはまさに”悟り”にも似た経験だった。
 
 この啓蒙(悟りにも似た境地)についての実際の場面での体験は、私が或る日本人家族を訪問した時にあった。
 日本に着いて間もない頃、彼らは私を夕食に招待してくれたのだ。
 さて、いったいどうしたら私たちはお互いにコミュニケーションをはかることができるであろうか?こう思案していたとき、私のアメリカ人の友人が、三つの簡単なルールを教えてくれながら、私のその招待を受けるように勧めた。
 そのルールというのは、まず第一に笑顔を忘れないこと、次に主人が話しているときは頭を下げてうなずくこと、最期は約5分ごとに ”そうですね”と、あいずちを打つこと、というものであった。
 そのルールをしっかり覚えて、私はそのホストファミリーのきれいな家へと入っていったのだが、そこでの日本人の温かいもてなしにすっかり圧倒されてしまった。
 
 私が絶え間ない微笑とコンスタントに行った”うなずき”とが彼らに好感を与えたようであった。幸いなことに、彼らは大変話し好きであり、しきりにその日の料理の説明をしてくれたり、様々な日本の文化について話してくれたりした。
 私が微笑んだりうなずいたりする度に、奥さんは顔を輝かせていた。きっと彼女は、私が彼女が話したすべてのことを理解した、と思ったに違いなかった。
 
 たった三つの簡単なルールに従うだけで、かくも多くのコミュニケーションがはかられたことに私はすごく驚いた。
 奥さんが ”おそまつさま”と言って、その夜の食事が終わるまで万事がスムーズに運んだ。
 
 食事の間中、私は微笑み、うなずき、そうですね、と熱心にあいづちを打ち続けた。そのたびに夫人が何か驚いたような表情になるので、私はなにか不適当なことでも言ったのではないか、というような妙な気がした。
 
 家に帰ると急いで辞書で ”おそまつさま”という言葉を調べてみたのだが、その意味を知ったとたん、私は当惑で顔が赤くなった。だが次の瞬間には大声を出して笑っていた。
 
 私の馬鹿さかげんからきた最初の怒りにも似た気持ちも、無知なことを思わず笑い飛ばしてしまったユーモラスなムードに負けたのだ。そして私は外国人が冒す言葉の上での屈辱的な失敗は、そこで暮らすために払わなければならないコストのようなものであることに気づいた。
 たとえ私が人生の終わりまで日本語の勉強を続けたとしても、へまを完璧に避けて通ることなどできないに違いないのだ。もし、へまをする度に取り乱したりしていたなら、神経の破滅に至るか、神経症の外国人グループの一員になっていたに違いないだろう。
 避けられないへまを笑い飛ばすことができる能力だけで、かろうじて私は正気と健全さを保ってきているのである。
 
ヨーロッパと比べて非常に異なった日本の文化と、不可思議なものの考え方について段階的に理解していきつつあった最初の一年間に、私は数多くの愉快な体験をした。 
 それに、異文化に関しての誤解や避けられない大失敗などを、たちどころにユーモアに変えてしまう才能も大いに磨いてきた。
 私はこれまで12ヶ国に滞在してきたが、ユーモアの表現方法も、それぞれの国で異なっていることに気づいた。
 
 フランス人が鋭い機知をもっていることはよく知られているが、それに対してドイツ人は辛口のユーモアを好むと言われている。
 私が好きになったのはイギリス人のすばらしいユーモアだが、とりわけ同一人がユーモアと深刻さをバランスよく使い分けるのは実に見事なものだ。数多くのそうしたユーモアの中で第一級品はというと、まず上げなければならないものは偉大な政治家で人道主義者の、サー トーマス モアーであろう。彼は一面では、自分の主義主張のこととなると非常にまじめで、信念を曲げて妥協するより、むしろ死刑になるのを選ぶというような姿勢を貫いた人であった。それと同時に鋭いユーモアセンスの持ち主であり、死刑になるわずか1分前ですらジョークを言い放つことができるくらいであった。
 
 彼は斧を持って待っている死刑執行官に向かってこういった。 ”私の首は少し短いからしくじって君の死刑執行官としての地位が危うくならないようにして注意して斧を打ち下ろさなければいけないよ” それから彼はあご髭をかき分けて死刑台の外に出しながら、”この髭は王様のヘンリー8世を背いたりしなかったのだから、切り落とされるべきではない”などというジョークの注釈を加えたりしていた。
 死に面した彼のこのようなユーモアは、彼が精神的に完全な自由と成熟とを勝ち得ていたなによりの証拠である。
 
 私の仕事は哲学者であり、その職務は考えることであるから、これまで非常に多くの時間をユーモアの意味について考えることに費やしてきた。結論として言えば、深い意味においてユーモアとは愛情の表現なのである。
 或る人に愛情を示そうとするとき、私たちは、まず相手が何を期待し、何が好きなのかを知らなければならない。ほとんどの人が日常生活で求めているのはリラックスした温かい雰囲気であろう。笑顔や笑い声を通して私たちは仲間の人々に対して、楽しい雰囲気を創造してあげることができる。人間にはみな、苦痛や苦労を背負ったり人生の重荷に押しつぶされそうになるときがある。ユーモアはそんなときの張り詰めた雰囲気をリラックスした愉快なものへと変える不思議な力がある。
 ユーモアはこのように苦痛を癒してくれる芳香であり、万人にとってのかけがえのない薬なのである。
 
 日本に滞在中、私は笑顔の重要な役割について知ることができた。
 応接の際、日本人のまじめな表情の中に ”どうかこれ以上近寄らないでください。私は英語ができないのですから”と言っているような無言のメッセージを見つけることがある。一方、笑顔を見せているときは歓迎してくれているのである。

 今のように国際間の関係が密接になっているときには、笑顔や笑い声は人々を結びつけたり、コミュニケーションを容易にしてくれたるするのに大きな役割を果たしているのである。笑顔や笑い声は地球上のすべての人が理解できる「愛」というものを運んでくれる、いわば地球語なのである。
 
 哲学者は、男女間の愛もユーモアなしでは長続きしないと、しばしば指摘している。
 二人の人間が一緒に笑ったりできなかったり、二人の上に起こった問題について楽観的に見つめることができなかったりすれば、決して二人が一緒に幸せな人生をこることができないのである。
 ユーモアという花は他人への同情や愛に満ちた心に自然に咲くものである。情愛のある人は、いつも人間関係の緊張を和らげて、リラックスした雰囲気を作ろうとしているものである。
 
 詩人のユーゲン ロスはこう言っています。
 
 ”この世には他人を愛せない人々がいます。たぶん彼らはユーモアのセンスのない同種類の人々に違いありません。私たちの家庭、学校、そして現代の社会のあちこちのストレスの貯まりやすい場所では、ユーモアのセンスに満ちた笑顔が、時として最も大切な愛情の表現になるに違いないのです ”
 
 
 

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