読み物の中ではエッセイがいちばん好きで、ネットで目にしたものはことごとく読んでいますが、残念ながらすべてが良い作品というわけにはいきません。
つまり、読み終えて、「うーん」と唸るような良い作品にはあまり当たらず、たいていの作品が「まあまあだな」程度の感想で終わるのです。
こう書いていて、ふと思い出したのが、「イギリス毒舌日記」というブログのエッセイです。
名前の通り、イギリスがテーマのエッセイで、作者の長年に及ぶイギリス生活記なのですが、筆法鋭く辛口で書いているところがとても魅力的で、すごく気に入った作品です。
偶然なのか今回ご紹介するのもイギリス生活がテーマになっています。それにこの作者も12年という長期滞在で生活体験が豊富な方です。
偶然とはいえ、私はイギリス生活をテーマにしたエッセイと相性がいいのでしょうか。
久々に「うーん」と唸った良い作品でした。
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瀬戸際の七瀬ちゃん
生活費危機のイギリスで収入ダウン!家賃値上げで「国外退去」の崖っぷち
2025/04/18 06:00
#代田七瀬#コラム&エッセー
大手小町 (読売新聞オンライン)
ケンブリッジの家の庭先で、自転車のハンドルを握りしめたまま思わず叫んでしまった。
“Are you an angel ?!”
庭のトネリコの大木で身を休めていたリスや小鳥たちも、あまりにも大きな声に何事かと目を覚ましたに違いない。
60代のイラン人の大家さんは、私の月々の収入がガタ落ちしたことを知り、来月から私の住民税を支払ってくれるという。
生活コストの上がったイギリスで、同僚の研究者や友人たちは「来月から家賃を10%値上げします」という恐怖の通達を次々に受けている。このタイミングで家賃や光熱費や住民税の値上げとなれば、私にとっては国外退去命令も同然だ。
しかし、私の目の前にエンジェルが舞い降りてきた! 大家さんは人懐っこい愛猫ザーラを抱えて、インテリらしい丁寧な語り口で言った。
「僕も大学関係者だったから、研究職を続けるのがどんなに難しいかよく分かる。外国人ならなおさらだ」
30代半ばで交際相手に振られ、「日本には帰らない!」と踏ん張っている底辺研究者の私が、家賃の高いケンブリッジに居続けられるのは、こうやって私の生活を経済的にも精神的にも支えてくれるエンジェル大家さんのような人が数人いるからだ。
彼らは口をそろえてこう言ってくれる。「Nanaseは家族だから」と。
シェアハウスで暮らすイギリスの若者たち
ケンブリッジは首都ロンドンから電車で1時間ほどの町。中心部を流れるケム川(River Cam)にかかる橋(bridge)が地名の由来と言われている。川にゆかりのある「七瀬」という名前の私が、この町に身を置いているのも、何かの縁かもしれない。
ケム川沿いから10分ほど歩くと、私の暮らす一軒家がある。150年以上前に建てられた家屋はフレームだけを残してリノベーションされ、内装も外観もモダンハウスといったたたずまいだ。
広い庭には樹齢100年を超えるトネリコの大木が堂々と根を張り、ラベンダーや水仙やクロッカスが季節ごとに現れる。庭の壁にはブドウやイチジクやバラも顔を出す。手作りの小さな池には、黄色い花を咲かせるマーシュマリーゴールドや紫色のアヤメが咲く。エンジェル大家さん自慢の庭だ。
私はこの一軒家の2階の一室を間借りしている。窓を見下ろすと、1階に暮らす大家さんが愛猫ザーラとほのぼのと庭で散歩をしているのが見え、遠くに目をやれば、ゴシック様式の教会が尖塔をのぞかせる。日曜日の朝には、教会の鐘がこれでもかというほど鳴り響く。
豊かな英国ライフを絵に描いたような、いかにも“丁寧な暮らし”をエンジョイしているように思われるかもしれないが、実態は楽じゃない。イギリスでは経済的な理由から、学生や若い社会人はシェアハウスで暮らすのが一般的だ。
私も、香港から来たリンとキッチンやバスルームをシェアして暮らしている。ケンブリッジ大の博士課程に籍を置くリンは機転の利く、早口で気前のいい女性だ。仕事の愚痴やガールズトークを何時間もする関係ではないけれど、「どうぞ」と書いた紙切れをそっとキッチンに置いて、チョコレートやスイーツを交換してお互いをねぎらう。
ケンブリッジでワンルームタイプのアパートを借りる場合、家賃相場は1200~1800ポンド(約22~35万円)。イギリスの大卒初任給が1600~2500ポンドと言われているので、アパートを借りて一人暮らしなんてとてもできない。大手の投資銀行や有名なコンサル、世界的なIT企業に勤めるか、安定した収入のあるパートナーと同棲でもしない限り1LDKなんて夢のまた夢だ。
その上、イギリスはここ数年続く記録的なインフレで、2021年頃からcost of living crisis(生活費危機)に襲われている。急激な物価高や家賃の高騰などで生活苦に陥り、冬に暖房代を払えない人たちも出始めた。多くの地域で「フードバンク」ならぬ「ウォームバンク」と称し、暖を提供する公共スペースやNGOやカフェが日中に人々を迎え入れた。
そんな生活費危機が身近に押し寄せている中、ケンブリッジ大でポストドクター研究員としての1年間の契約は終わり、講師に切り替わった。研究員であれば一定の月収をもらえるが、講師は教えた分を時給で受け取る。だから、授業のない長期休暇中に収入はない。私の所得が大幅に減ることははっきりしていた。
経済的に支え合えるパートナーがほしい
エンジェル大家さんの計らいで、生活費危機とワーキングプアのダブル・ピンチをなんとか乗り越えられそうだが、こうなると、やっぱりパートナーがほしい。経済的に支え合える「家族ユニット」的なチームメートがいれば、生活は少しでも楽になるのにと考えずにいられない。
そして私はまたデートアプリを開いてスワイプを始める。最近は、「家を買った」という人とアプリでマッチして会うことがよくある。
先日会ったのは、ケンブリッジから1時間ほど郊外にあるスポールディングという小さな町に暮らす30代後半の男性だ。身長は175センチくらい。短く刈り込んだ髪の毛はやや少なくなりはじめ、これといって特徴のない顔だけれどニコッと笑顔になるとチャーミングだ。
彼はコーヒーを片手に、子どもの時にサッカーで「スーパー補欠」というトロフィーをもらったと笑いながら話していた。カッコつけない自然体な人だった。そして数年前に「自宅を買った」ということも。
家族、友人、仕事、家、コミュニティー……、友人を除いて私が持っていない全てを持っているように見えた。「経済的に頼もしい。一緒に住んだら家賃0ポンドかな」とか、「家持ちの彼氏なんて超ラッキー」くらいに思えればいいのに、私は心のシャッターをそっと下ろしていた。
“I don`t want to die in Spalding…”
スポールディングで一生を終えたくない……。だって、外国人の私がそんな田舎に住んだら孤独になる。そして私にできる仕事は、たぶんそこにはない。あなたには「家」よりも「国際感覚」を持っていてほしかった。私は密かにそう思っていた。
夜中に狭いキッチンでリンとすれ違った。そういえば、落ち込んでいたリンに、彼女の大好きなポルトガルのパステル・デ・ナタを買ってきて、キッチンに置いておいた。
「タルトをありがとう。本当、うれしかった」と早口で言うリンの背中に、「しっかり休んで」と声をかけた。自分の部屋に戻り、私は静かにドアを閉めた。
ソファー代わりのベッドの端に座り、スポールディングから来た彼に、次のデートのお断りの返信メッセージを送る。私は小さく息を吐いた。
(英・ケンブリッジ大講師 代田七瀬)
出典:大手小町