短編小説 34,000文字(400字原稿用紙85枚)連載13回毎木曜日掲載
噂・台風・そして青空
(あらすじ)
兵庫県H市で小中学生対象のフランチャイズ学習塾を運営している砂田文夫は、その年の8月末、本部との連絡会議の後で、社長の小谷から予期せぬことを質問された。それは本部の社員間で流れているH市の塾講師に関する妙な噂話についてであった。砂田は寝耳に水で「その噂とはどんなことですか」と訊ねると、小谷はいかにも言いにくそうに内容を話した。なんと、7月の生徒のサマーキャンプの際、誰もいない深夜の食堂でH市から生徒を引率した講師浜岡康二と南三枝が「いかがわしい行為をしていた」というのだ。いかがわしい行為とはすなわち性行為のことである。砂田は耳を疑った。浜岡康二と南三枝はまぎれもなく砂田の部下だが、内容が口に出すのもはばかるような破廉恥なことだったからだ。その後すぐ二人の姿が瞼に浮かんだ。あのまじめな浜岡と、明るく清楚な感じの南が、いかに婚約中の身だとはいえ、200名もの生徒を引率して行ったキャンプ場で、そんな浅はかな行動をとるだろうか。いやそんなはずはない。あの二人に限って。ということは、これは偽りの噂なのか、でも誰が何の目的で・・・。いずれにしても放ってはおけない。断じて真相を解明すべきだ。砂田は帰りの新幹線の車内できっぱり決意し、H市に着くなり行動を開始した。だがその解明は甘くはなく、途中 何者かによって事務所にガス爆発(未遂)を仕掛けられるなど大きな困難に遭遇しながらも、「負けるものかと」と、砂田はなおも真相解明に突き進んでいった。
うわさ・台風・そして青空
1
H市への帰途、新大阪駅から新幹線に乗って、列車が西明石駅を過ぎる頃まで、砂田文夫はその日、本部の社長、小谷から聴かされた思いもよらないことについて考えていた。
いかに婚約中の仲だといえ、よりによってあの二人が二百人もの子どもたちを引率して行ったキャンプ場の夜の食堂で、そんな破廉恥なことをするだろうか。 いや、そんなことあるはずがない。あの二人に限って。 するとこの噂はいったい何なんだろう。
「二日目の夜、キャンプ場の食堂で、講師の浜岡康二と南三枝がやっていた」
口に出すのも憚るようなこんな噂、いったい誰が何のために流したのか。
「あと約五分でH市に到着いたします」
ふいに車内アナウンスの声が耳に入り、文夫は頭を上げ、乗車して初めてまともに車内を見渡した。前方のドアの上の三号車という文字を見たあと、ふと横に目をやると、三人がけの席の真ん中を空けた通路側の席に、若くてすごくチャーミングな女性が座っているのに気がついた。
「オヤッ、あの人いつ座ったんだろう。おかしいなあ、こんな美人が横に座っているのに気づかなかったなんて・・・ そうか、それほど小谷から聞いたあの二人についての噂話のことに気を取られていたのだ」
文夫はチラッとそんなことを考えて、このまま席を離れるのは少し惜しい気がしたが、立ち上がって下車の準備をした。
猛暑もやっと峠を越した八月最終週のその月曜日、大阪の本部で開かれた恒例の打合せ会議に臨んでいて、夕方から社長の小谷とホテルのバーで飲んでから、八時過ぎに帰途につき、列車が間もなくH市に着こうとしていたときはすでに九時を過ぎていた。
三号車を出て出口のドアの前に立つと、列車はもうH市の駅のすぐ近くまで来ており、駅周辺の見慣れたネオンサインがキラキラと輝いていた。
とにかく早く浜岡と南三枝に事情を聞いてみよう。でも電話で聞くにしても、こんな話を女房や子どもの前でするわけにはいかない。遅いけど、ひとまず事務所に戻ろう。そしてあの二人に電話して真相をただしてみよう。
車中でずっと考えていて、そう結論づけていたことを文夫はもう一度自分に言い聞かせて下車すると、足早に出口のほうへ向かって歩いて行った。
駅前に出ると、近距離で運転手に嫌な顔をされるのは分かっていたが、それは承知の上でタクシーに乗った。いつもなら二十分ぐらいかけて歩いて行くか、バスに乗るかのどちらかなのだが、この日ばかりは気がせいていて、とにかく早くあの二人に電話しなければと、運転手の嫌な顔など、さしたる問題ではなかったのだ。
タクシーは三分ほどで花川町へ着き、歩道を五~六歩進んだ所にあるビルの細い階段を四階まで駆け上がり、事務所へ入るや否や、乱れた息づかいを整えようともせず、すぐ机の上の電話に手を伸ばした。
「はい、浜岡でございます」
受話器の奥から、何度か聞いたことのある老女の上品な声が響いてきた。浜岡の母親の声だった。まだ一度も会ったことはなかったが、その品のある耳障り良い声を聞く度に、文夫は物静かで知的な風貌の老女の姿を想い浮かべていた。
「夜分申し訳ございません。真剣塾の砂田です。浜岡君、いらっしゃるでしょうか」
月曜日だと、八時半にレッスンを終えもう戻っているはずだと、文夫は時計を見ながら、頭の中で浜岡のレッスンスケジュールを確認して、そう尋ねたのだった。
浜岡康二、二十九歳。文夫が代表をしている「真剣塾」に入ってきて今年で二年目。
大学時代に父親を亡くしていて、今は母親と二人暮し。姉が一人いるが、すでに嫁いでいて九州の大分に住んでいるという。文夫の学習塾に講師として入ってきた時は二十七歳で、その歳にもかかわらず既に履歴書には過去五つもの職歴が記されていた。
「五年間で5ヵ所ですか、よくお変わりになったほうですね」
面接のとき、自分とは一回りほど下のなんとなく気弱そうな浜岡に向かって文夫はそう尋ねた。
「ええ、5ヶ所のうち2ヶ所がつぶれたりして運もなかったものですから」
浜岡は、ややメリハリに欠ける声でボソッとした調子で応えていた。
「あいにくですが、康二は只今留守でございます。あのう、本人からお伝えしていませんでしたでしょうか。今月から、塾が終わった後で、深夜二時まで別の仕事を始めたのですが」
「塾が終わって別の仕事を? いいえ、聞いていませんが、それ最近お初めになったのですか」
「はい、十日ぐらい前からです。いえ、私は反対したのですけど、本人が結婚資金の足しにするためにどうしてもと言って、あなた様には、前もってお伝えしておくように申しつけたのですけど」
「へー、十日前から、深夜二時まで。それでどんなお仕事を?」
「パン屋さんなんです。朝までに作るパンの仕込みの仕事らしいんですけど」
「へえー、浜岡君がパン屋さんへ、それは知りませんでした。
いえ、こんな時間にお電話しましたのは、ちょっと急用がありましてね。でもお帰りになるのが深夜二時では遅すぎて連絡も難しいし・・・。 分かりました。それでは申し訳ありませんが、彼に明朝事務所のほうへ電話くださるようにお伝えいただけませんか。9時半過ぎに」
浜岡が留守で、その理由は分かったものの、深夜の二時まで働く彼の家庭の事情に対して少し解せない気持ちを残しながら文夫はとりあえずそう伝えて電話を切った。
でも浜岡君はなぜだろう。この塾で五時間あまりも頭と神経を使う仕事を終えた後で更に別の職場で深夜の二時まで働くなんて。おまけにその仕事がまったくお門違いのパン屋での仕込とは。
ここでの給料の手取りは二十一万円、勤務時間を考えれば決して低い賃金でもないはずなのに。南三枝との結婚資金を貯めるため、と母親は言っていた。 もしそうだとすると仕方ないか、転職の多かった彼のこと、貯金もすくなくて、結婚のためにはそうせざるを得ないのかもしれない。何しろ新婚旅行はヨーロッパ一周したいなどと言っているんだし、あの歳だったら少しは体の無理も利くだろう。
それはそうと浜岡君がいないとすると今夜中に少なくとも南三枝とは話しておかないと、そうでなければこんな夜中にわざわざ事務所へやってきた意味がない。
文夫は改めて自分にそう言い聞かすと、また受話器を上げてダイアルに手を伸ばした。
つづく
次回 4月24日(木)