2025年11月20日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈4〉直線コースは長かった(5)

 

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話が一段落したところで、涼子さんは、今度はホッとしたような表情をして、腕時計を見たあと、また久夫の方をふり向いて言った。


「ねえ、これからわたしの店へ来ない?ここはもういいでしょう。長くいたんだから。一階上へ上がるだけでいいんだし、ねえいいでしょう?」


彼女から不意にそう言われて、今しがた、取っておきの面白い話を聞かされた久夫としてはむげにいやだとは言えなかった。


「十一時前か、でもキミの店もうすぐ閉まるんだろう」

「一時までよ。まだ二時間以上あるわ。ねえ、すぐ行って一緒に歌でも歌いましょうよ」再びそう言われて、久夫にはさしたる反対の理由も見つからなかった。


「わかったよ。じゃあそうするか。みっちゃん、聞いてのとおり、そういうことになったのでお勘定たのみます」


久夫はついさっき来たばかりの客の相手をしていた彼女にそう伝え、ママさんの方を見て会釈した。


「涼子ちゃん、やっぱりそうだったわね。でもまあいいか、桑野さん今夜は長いこといてくれたんだし、上でしっかりサービスしてあげてね」

「任しておいてママ、じゃあどうもおじゃまさま。またね」彼女は入ってきたときと同じようなオクターブの高い声でそう言うと、ドアを開けて先に出て行った。


「ねえ桑野さん、涼子ちゃんに誘惑されちゃだめよ。あれでなかなかなんだから」釣銭を渡すとき、みっちゃんが久夫の耳元でそっと言った。


一階上のその店はラウンジ〈マイルド〉という名前だった。スナックでもなくクラブでもないラウンジなのである。はっきり言って久夫はこういった夜の店で、スナックとかラウンジとかクラブとかの区別についてよく知らなかった。


中に入ると、ついさっきまでいたダートよりかなり広く、内装も豪華だった。それにスナックだとカウンター席がメインでテーブル席は少ないのが普通だが、そこはその逆で、カウンター席もあるにはあるが、それは五~六席しかない申し訳ていどのもので、その時七~八人いた客の中でそこへ座っているものは一人もいなかった。


 ラウンジとはスナックより少し高級で、カウンター席の少ない店のことか、よくわからないまま、久夫はラウンジのことをそんなふうに勝手に定義づけていた。


涼子さんは久夫をやや奥まったところの四人掛けの席に案内した。ダートのカウンターの椅子に比べると、フワフワしていて、ずいぶん座り午後地のいいソファーであった。


「ねえ、お飲み物は?桑野さん」彼女はダートにいたときよりなれなれしい声で久夫に聞いた。

「そうだなあ。ウイスキーはもうたくさん飲んだし、今度はビールにしようか」


少したってビールを運んできた涼子さんと一緒に、和服姿のもう一人の女性がやってきて「いらっしゃいませ。ようこそ」と涼しげな声で言った。「こちらこの店のママ、桑野さん。着物よく似合うでしょう」


良子さんにそう言われ、あらためて眺めてみて、彼女の言ったとおり髪形とも見事に調和しており、実にあでやかな着物姿だと久夫は思った。日ごろ、女性の着物姿などあまり目にしたことがない久夫だったが、このママさんの優雅な和服姿を目の当りにして、女の人のこういう姿もまたいいものだ。と思ったりもした。


話し上手な涼子さんに乗せられてか、結局この店には看板の一時まで居座っていた。一時少し前に時計を見て「もうそろそろ終りだろう?」と聞いたとき、涼子さんは「そうね」と言って、ちょっと考える仕草をしてから「ねえ桑野さん、この後お店出たら、外で少し待っててくれない?このビルの三軒先に〈シンク〉っていう喫茶店があるわ。そこで待っててほしいの。二十分以内に行くわ」


閉店まぎわになって涼子さんが思いがけないことを耳元で囁いた。

ダートで最初に会ったときから、かわいい女だなあ、とは思っていたが、今日会ったばかりだし、すぐどこかへ誘う勇気は久夫にはなかった。「そりゃあ僕はいいけど、キミ家の方は遅くなってもいいの?」


「家の方って、私の家はここからずっと離れた田舎の方よ。今は学校の友達と一緒にこの近くのアパート暮らし」久夫は涼子さんのその返事を聞きながら、せっかく女性から誘いを受けたというのに、柄にもなく殊勝ぶって、つまらぬことを聞くんじゃなかったと後悔した。本当は、夢じゃないかなと、ウキウキと胸を躍らせていたというのに。


「わかった。待ってるよ。三軒先のシンクだね」今度はとても言い返事をして、サッとソファーを立ち上がった。


外へでて、すぐ場所がわかったシンクという店に入って、さしてほしくもないコーヒーを注文して、見たくもないテレビに目をやって、久夫が所在なさげに待っていると、涼子さんは約束より五分くらい遅れてやってきた。彼女は店で着ていたセーターの上に、黒っぽいスエードのコートを羽織っており、それがショートカットの髪とよく調和していて、店で見たときよりずっと大人びて見え、数時間前、ちょっと色気に欠ける。と思ったのが不思議に思えるほど、久夫の目にはなまめかしく映った。


「お待たせ。わたしは今何もほしくないわ。出ましょうか」涼子さんは久夫の顔を見るなりそう言うと、席には着かずすぐドアの方へ行こうとした。


そこを出て、その後どこへ行こうと、なんの考えも決まっていなかった久夫だが、彼女に促されて「うん」と返事して立ち上がった。


外は風もなくさして寒くなかった。「国道まで出ましょうか」そう聞かれたときもまた「うん」としか答えられなかった。この一月に二十五歳になったばかりの久夫だが、こうしたときの女性の扱い方など、とんとわからなかったのである。


広い国道のすぐ手前まで来たとき、また涼子さんが言った。

「ねえ車ひろって」久夫は言われるまま車道に少し入ると、近づいてくるヘッドライトに向かって手を上げた。


つづく


次回11月27日(木)