多甚古(たじんこ)という片田舎の村 素朴な駐在所巡査の日記風日常記録
多甚古村(たじんこむら)という南国の小さ
な田舎の村の駐在所に勤務する「甲田巡査」
の日記のような日常記録だが、その村で人々
が起こす小さな事件との関わりに、この巡査
は思いやりある温かい気持ちで接している
が、そこに作者井伏鱒二の深い人間性を感じ
る。読んでいて心温まるだけでなく、テンポ
がいい軽快な展開がとても面白く、小説とし
て出来の良い優れた作品である。まさ小説家
井伏鱒二の実力を証明する一作ではないだろ
うか。
下に紹介するのは、年末大晦日の日の日記だ
が、この特別な日の出費を家計簿ふうにまと
めている。
正月元旦の1日前、年に何度もないいわば非日
常的な日の家計の出費を記しているのだが、
戦時中のこととはいえ、その質素なことに驚
かされる。
それに何より不思議なのは正月前だというの
に酒の準備がないことだ。
十二月三十一日
今年の最終の巡回を終り、町の年越詣り
雑沓取締りの応援に出張する。私たちはみ
な帽子の顎紐をかけて手に提灯を持ち、左
右の通行人に「せいてはいけませんよ、押
しては子供が危い」などと叫ぶのである。
戦時中のため、参詣人は特に雑沓する。大
道商人や屋台店や見世物やバナナ屋など
も、今年は例年の五倍もたくさんゐた。
しかし例年と違ひ今年は喧嘩が一つもなく
て、その代り、地味でみな理由の通る密会
が四組ほど挙げられた。
帰って来てからも私は家計簿を調べ、購
入品の消費額と日割りの対照に自分ながら
興味を持った。左のような入費の割合であ
った。
米二升(十日分)七十四銭。醤油一升(二
十日分)四十銭。酢五合(二十日分)十三
銭。砂糖(十日分)五十銭。味噌百目(五
日分)七銭。大根一本(二日分)五銭。炭
一俵(二十日分)一円三十銭。煉炭十二箇
(十二日分)五十銭。炬燵と火鉢のたどん
三箇(一日分)一銭。コーヒー(一箇月
分)九十銭。めざし(二日分)三銭。バッ
ト二箇(一日分)十六銭。電気代九十銭。
新聞代一円。散髪代三十銭(月一回)
他に必需品と関係のないものは、十二月
分はコサック従軍記(古本)五十銭、レ・
ミレザブル(古本)二十銭、蠣(一回)十
一銭、小魚(五回)五十銭、うどん(二
回)十銭、慰問袋(二箇)一円、管内貧困
者へ寄付(一回)七十銭、菓子(七回)七
十銭、靴墨、紙、葉書,インキ等、四円
也。以上のような割である。
私は自分のこの物品消費の状況を見て、
国家から金銭をもらってゐる私は、これだ
けの物品を消費して果してそれに値するだ
けの人間奉仕をしてゐるだろうかと熟考
した。それに値する代物かどうかといつく
づく考えた。
が、自分で軽軽に判定することは差しひか
へることにした。それでも私は月四十三円
のほかに手当をもらひ。年末のボーナスを
もらふので、実家に毎月十五円づつ仕送
りをして母と弟にも小遣をすこし送れると
いうものだ.。
出典:日本文学全集 43 筑摩書房
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井伏鱒二(1898-1993)広島県生れ。本名、満寿二。中学時代は画家を志したが、長兄のすすめで志望を文学に変え、1917(大正6)年早大予科に進む。1929(昭和4)年「山椒魚」等で文壇に登場。1938年「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を、1950年「本日休診」他により読売文学賞を、1966年には「黒い雨」で野間文芸賞を受けるなど、受賞多数。1966年、文化勲章受賞。
