2026年1月8日木曜日

T.Ohhira エンタメワールド〈4〉直線コースは長かった(12)最終回

 

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馬券売り場の前を通り過ぎて、建物から外へ出たちょうどその時だった。


久夫の四〜五メートル先を大柄な男が横切っていくのが目に入った。その男の頭に目がいったとき、「あっパンチパーマ、あいつだ。あの男だ!」久夫はドキッとしながらつぶやいた。


でも服装がさっきと違っている。確かカーキ色のジャケットだったはずだ。でも今は白に薄い紺の縦じま。人違いだろうか?


久夫は男の向かう方向に目をすえたまま、立ち止まってしばしの間考えた。でもあのパンチパーマの頭と大柄な体格。さっきの男にそっくりだ。間違っていたら謝ればいい。とにかく行って確かめてみよう。そう思ってドキドキする胸を抑えながら、小走りでその男を追いかけた。

          

男はオッズ掲示板の方へ歩いていった。


「すいません。さっきの方でしょう?」追いつくとすぐそう言って、後ろから男の肩を軽くたたいた。男は立ち止まってふり向いた。


「なんや。何の用や?あんた誰や?」


第四レースの前に聞いたものとは音色の違ったぶっきらぼうな関西弁で男が不機嫌な顔をして答えた。


「あのう、さっき第四レースの前、発売窓口の前で・・・」そう言いながら、今度は正面から男の顔を見た。やっぱりあの男だ。 久夫は確信した。


「第四レースの前、発売窓口の前で。何のことやそれ? わしあんたなんか見たこともないで。変な言いがかりつけて、気やすう人の肩なんか触ってくれるな!」


男は少しドスの利いた声でそう言うと、プイと横を向き、またさっきの方向に向かって歩き始めた。


「あのう」久夫はその後ろ姿に向かって再び声をかけた。でも今度は、男は振り返らなかった。


服は違っていた。しゃべり方も違った。でもあの男に違いない。そう思ったものの、今度は足が動かなかった。「気やすう人の肩を触るな」と語気するどく言った男の迫力に押されたからだ。

 

それにしても、なんという変わりようだろう。さっきはあれほどにこやかな親しみにあふれた表情を浮かべていたというのに、クソッ、腕力に自信があったらただではおかないのだけど。


そんなことを口の中でブツブツ言いながら、男の後ろ姿を悔しい思いで見送っていた。


男が雑踏に消えてしまうと、しぶしぶ踝を返し、駅まで行く無料送迎バスの発着場へと、長い通路をトボトボと歩いていった。


 「チェッ、なんたることだ。またあの男に会うなんて。まるでいやなことの駄目押しにしか過ぎないではないか」


 今夜はタクシーを飛ばして魚屋町へ行き、久しぶりにまたあの涼子さんと会うつもりだったというのに。それがなんだ。まだ二レース残っているというのに、こんな早い時間にわびしい送迎バスに乗って帰るはめになるとは。あれもこれもみんなあのパンチパーマの奴が悪いんだ。


 さっき警備室を出たときは、やっと冷静さを取り戻したかに見えた久夫だったが、再びカッカと頭に血を上らせていた。

  

 乗車した後もしばらくバスは発車しなかった。まだレースが終わっていないため、帰る人もまばらで、座席がなかなかうまらなかったからだ。


最後部の座席に座って乗り込んでくる人々の表情を眺めていたが、あの顔もこの顔もみんなさえない表情で、皆むっつりと押し黙っている。


朝ここへ着いて、入場口を入るときの、期待に胸を膨らませた、あの生き生きとした顔色はいったいどこへいってしまったのだろうか。


みんな負けたんだ。〈行きはよいよい、帰りはなんとか〉所詮かけごとなんてこんなもんだ。無欲のとき、ひょいと勝つことがあっても、たいていはこうして負けて帰るのだ。しょんぼり肩を落として。ああ侘しい侘しい。


 十五分ほどしてようやく満員になって、バスはやっと発車した。

 ここから駅までは十五分くらいか。その後何の予定もないというのに、久夫は腕時計に目をやった。四時五分前だった。


 久しぶりに涼子さんに会えるという期待に胸膨らませていた午前中とはうって変わって、希望のないうつろな目をして窓の外をぼんやり眺めていた。


あーあ、涼子さんに会いたいなあ。でもポケットの中身が八千円じゃあなあ。仕方ない。このままアパートへ帰るとするか。


 駅前でまた別のバスに乗り換えて、アパートのある停留所で降りたとき、さっきまで薄曇りだった空はにわかに濃い灰色に変わっており、わずかだがポツリポツリと雨が落ちてきた。


そこからアパートまでの十分ほどの道程を、次第に大粒に変っていく雨に打たれて歩きながら、久夫は半ばやけ気味につぶやいた。


「くそっ、弱り目にたたり目とはこのことか、降れ降れ、もっと降って、好きなだけ濡らしてくれ!」


終り


次回からは「紳士と編集長」をお届けします。


第一回 1月22日(木)お楽しみに