2018年2月23日金曜日

ニューヨーク がむしゃら奮戦記 ・ 懐かしのニューヨーク職場日誌(7)



スタットラーヒルトンホテルへ入るまで


1971年の秋、ニューヨークへ着いた時の僕は、まったく右も左もわからないストレンジャーで、地図を片手に右往左往しながら、やっと目的の知り合いの人の家にたどり着いた。

それからその日のうちに、その人がかねてより探してくれていたウェストサイドのアップタウンにあるアパートに落ち着いた。

大阪を発ってから17時間という長い飛行機の旅で、さすがにぐったりとなっていた僕は、ベッドに横たわるや否や、ぐっすりと深い眠りに落ちた。

最初に訪問したのはバークレーホテル支配人 Mr.Parker


次の日よりさっそく行動を開始。まずかねてより連絡をつけていた、バークレーホテルマネージャーのパーカー氏に会うことにした。

朝、アポイントメントをとるために電話をすると、午後の2時ごろが都合が良いので、その時間に来てくれ、とのこと。それまでに相当の時間があるので、僕はトーストとコーヒーの軽い朝食をすますと、街の地理に慣れるため、しばらくマンハッタンを散策することにした。

マンハッタンの街はまるで碁盤の目の如く整然と整っており、地図さえあれば不案内の者でも、どこへでも手軽に行けることが次第に分かってきた。アベニューとストリートできっちり区画されたその町並みは、まったく見事という他はなく、都市計画という点では、東京や大阪などは何十年もの遅れがあるのではないかと、つくづく考えさせられた。

ミスターパーカーは典型的な陽気なアメリカ人で、ユーモアを交えつついろいろ話してくれた後でこう言った。「自分のホテルはいま景気が悪く、あなたをとレイニーとしておいてあげる余裕がない。景気が上向く来年の3月くらいまで待ってもらえないか。でももし君がそれまで待てないというのなら、私が他のホホテルへ紹介状を書いてあげるから、それを持ってそちらへ行けばいい」彼は親切にこう提案してくれた。

当面は1年間しか滞在期間(後に2年間に変更になった)のない僕としては、とうてい3月まで待てないので、翌日パーカー氏が書いてくれた紹介状を持って6番街52丁目にあるホテルアメリカ―ナへ向かった。

ホテルアメリカーナのセールスマネージャー・ギルフォイル氏は超ハンサム


ホテルアメリカーナは数あるNYのホテルのうちでは、ニューヨークヒルトンとともに最も新しいホテルの一つで、古いビルの多いマンハッタンで三十数階建ての、そのスマートな外観はさすがに目を見張らせるものがある。

ここで会ったのはセールスマネージャ―のギルフォイル氏であった。まるで二枚目映画スターを思わせるようなスマートな容姿の彼は、僕を快く迎えてくれ、親切にも館内をあちこち案内してくれた。

その後で僕の仕事の話になったのだが、このホテルで君をとレイニーとしておいてあげても良いが、ここは日本人客が少ないので、もっと多いホテルへ行った方が君のためにも、ホテルのためにも良いだろうと、その場で友人であるスタットラ―ヒルトンホテルのフロントオフィスマネージャーに電話してくれた。

度目に向かったのは7番街のスタットラ―ヒルトンホテル


二人の間で話はとんとん拍子に進んだらしく、二日後に僕は胸を弾ませながら、エンパイヤ―ステートビルからあまり遠くない7番街33丁目にあるスタットら―ヒルトンのフロントオフィスマネージャーである、ミスター・スレイターに会いに行った。

彼はあらかじめ友人から聞いていたこともあって、話はすんなり運び、来週よりこのホテルでルームクラークとして働くようにと、その日のうちに人事手続きを済ませてくれ、給料やその他の勤務条件も即座に決めてくれた。

こうして僕はスタットら―ヒルトンで働くことになったのだ。こちらへ来るまでに勤務の候補先として、他にもウォルド―フアストリアやホテルタフトなどを候補に挙げ、日本から連絡を取っていたが、結局これらのホテルのは仕事の話では行かずじまいだった。

NYでホテルマンとしての仕事がいよいよ始まった



初出勤の朝は澄みきった快晴であった。出勤するや否や、フロントオフィスマネジャー、スレイター氏に連れられてその部署で働くいろいろな人に紹介されたが、そのときの僕は、流石にいくぶん緊張していたようだった。

ミスタースレイターは一人一人クラークを紹介してくれた。眼鏡をかけて背の高いチーフクラークのフレディ、このホテルで三十年の経験を持つミスター・マクスード、キューバから来たというハンサムで気のいい男のアーリー、紅一点すばらしい美人のワーナーなど、みな人なつっこいアメリカ人気質をむき出しにした人たちで、少なくとも初対面の知らない外国人に対する敵意なとというものは微塵も感じさせることはなかった。

出社第一日目で、不安でいっぱいの僕にとっては、そうした彼らの態度は何にも代えられない心強さを与えてくれた

行列を前にマイペース


2000室という膨大な数の客室を抱えるマンモスホテルであるスタットラーヒルトンのフロントオフィスは、いつも戦場のようにけたたましい。でもそうした状態の中でもすべてのクラークがマイペースを守り、いたって気楽そうに仕事をしている。

忙しさでペースを乱し、顔をこわばらせた者もおらず、周りの雰囲気も、そういった時にありがちな殺気立ったものは全然感じない。すべてが自然なのである。最もこのホテルはどちらかと言えばビジネス系のホテルで、ほとんど毎日がこう言った状態なので、みな慣れっこになっているしまっているのではないか、とも思った。

とにかく皆のんびりと仕事をこなしているという感じで、すぐ目の前に並んでいるチェックインの長い行列など、さほど気にしていないように見える。もちろんこれは客の方が辛抱強く20分でも30分でも、苦情ひとつ言わず、列を乱さず自分のレジストレーションの順番がくるのをおとなしく待っているのだから、クラークにとってこれほどやりやすいことはない。

アメリカ、特にニューヨークでは行列というのはどこへ行っても珍しくない。銀行の窓口しかり、郵便局の切手売り場しかり、スーパーのキャッシャーしかりで、僕も最初の頃はまったくうんざりしたものだ。

でもそうした場所の行列はある程度仕方がないにしても、ホテルの窓口となればそうではないだろう。我々日本人の感覚では絶対にそういうことはあり得ないだろう、と考える。しかし今はニューヨークの1000室以上のホテルでは、チェックインやチェックアウトの時、長い行列を作って待つということは、いわば常識になっているのではないだろうか。

また客にしてもそのことに対して、それほど強い不満を抱いている様子も見えないようだ。それが何よりの証拠に、一年間このホテルのフロントで働いている間、五つあるチェックインの窓口に、各々5~6メートルぐらいの行列ができるという状態はしばしばあったが、それが原因で客がエキサイトしてマネージャーに噛みつくといういうことは、稀にしかなかったし、そのことをコンプレイン(苦情)として書いて寄こしたということもあまり聞かなかった。

もしこれが日本のホテルであったらどうだろう。現在では2000室というホテルは、日本のどこへ行ってもないし、また日本で1000室以上のホテルで働いて経験のない僕には、このニューヨークの状態をクレイジーだとは言い切れないし、だからと言って仕方がないことだと諦めてしまうこともできない。

ただ、日本に将来こういうホテルが出現したときは、どうなるかを考えると、僕の良き仲間であったヒルトンのルームクラーク諸氏の仕事ぶりは、常に冷静で、慌てず、取り乱すこともなく、落ち着いてマイペースで仕事をしていたということが頭から離れない。

日本人客獲得大合戦


日本人エコノミックアニマル変じてトラベルアニマルと化す、という表現を最近あちこちの新聞や雑誌などで目にする。まったく今の日本人の海外旅行熱には凄まじいものがある。

日本人客が多いホテルであるということで僕はこのスタットラーヒルトンへ差し向けられた。しかし正直言ってこれほど多いとは思ってもみなかったのだが、実際フロントオフィスへ立ってみると、次々に現れる日本人旅行者の多さには、まったく度肝を抜かれる思いであった。

特に春から秋にかけてのシーズンには、連日二つも三つも日本人ツアーグループが着くこともあり、数にしても1200名は下らないようだった。こうした日本人トラベラーの急増ぶりをアメリカ人側から考えると、よくもまあ高い航空運賃を払って自分たちの国へ押し寄せるものだ、ということになりそうだ。

実際、一緒に働いていたネルソンやウィリーのように、日本人という奴は金持ちばかりだ、というように考えた者もいたようだ。同じ東洋人にしても、多いのは日本人ばかりで、他の国の人は数えるほどであるため、同じイエロー民族の中で日本人だけが何故こうも多いのか、という意識も働いて「金持ち日本」という印象がよけい彼等の頭に残るのだろう。

今やアメリカのホテルは日本人客獲得に血まなこである。ごく最近、僕が日本へ帰る二か月ほど前にも、ニューヨークにあるホテルペンガーデンというところが、宮崎トラベルというNYではかなり名の知れたトラベルエージェントを、家賃をタダにするという条件で、それまでそこがオフィスと置いていたプリンスジョーズホテルから自分のホテルへ引き寄せた、というようなニュースもあって、どこのホテルもあの手、この手で一生懸命なのである。

やや停滞気味のアメリカのホテルビジネスにおいては、今の日本人客獲得ということは、まさに死活問題なのかもしれない。





0 件のコメント: