2020年9月28日月曜日

なんでもないものを食べて美味しいと感じる幸せ


 

生の食パンがとてもおいしい

トースターで焼いていない生の食パンを食べていて「おいしいなあ」と思った。

食パンと言っても今はやりの高級食パンではない。コンビニで買ったごく普通の食パンである。確か値段は158円だったはずだ。

バターもジャムもつけず、ハムも野菜も挟まず、パンだけ食べても本当においしいのだ。

こんな何でもない食べ物がなぜこれほどオイシいのだろう。高級レストランのイタリアンは値段が高いからオイシいのは当然だろうが、158円の食パンは安い食べ物なのにこれだけオイシいのだ。

だとすると高級レストランでなくても、美味しいものはいくらでも食べれるではないか。

 

「おいしいなあ」は「幸せだなあ」につながる

人々は誰でも幸せを求めている。幸せはどこにあるのか、といつも探し続けている。でも幸せは目の前にあるではないか。食パンを食べて「おいしいなあ」と思うときが幸せなのだ。

食パンだけでない、大抵の人は1日3度の食事をするが、その食事で「おいしいなあ」と感じられれば、それだけでも1日3度の幸せを味わっていることになる。

幸せはそれほどたくさんあるのだ。 「おいしいなあ」だけで1日何回も幸せを味わっている 。

1日3回の食事を「おいしいな」と感じることができれば、少なくとも1日に3回も幸せを味わっていることになる。

幸せはそれほどたくさんあるのだから何も探し求めることはない。大切なのはものを食べて「おいしいなあ」と感じることが幸せなことであると、気づくことである。

それができれば幸せは無限に見つけることができるのだ。

 

「おいしいなあ」は健康だから感じられること

ものを食べてオイシいと感じるのは当たり前のことではない。人々がものを食べてオイシいと感じるのは体が健康だからだ。

世の中には健康な人だけではなく、病気で苦しんでいる人達も少なくない。ではそうした人たちはものを食べてオイシいと感じるのであろうか。

たいていはそうではなく、少しも美味しさを感じることなく、義務のように無理やり食事をしているのではなかろうか。

そうなのだ。物を食べてオイシいと感じるのは健康な体を維持していてこそのことなのである。

つまり「健康=食事が美い味しい=幸せ」という図式なのに違いない。

かつては何を食べてもまずい時期があった。 5年から3年前にかけて喉と大腸の病気で各々数ヶ月の闘病生活をおくった。

もちろん病院での入院生活をおくったのだが、その入院期間と退院後しばらくは食事がまずく、何を食べても少しもオイシいと感じることができなかった。

それだけに食事が少しも楽しくなく、なにか義務でも果たすように無理矢理に食べているという状態だった。

でも考えてみればこれほど不幸なことはない。人間の3代本能である「食べる」ということで少しも満足が得られないからだ。

これこそが不幸なことと言わずなんと言おう。

 

食べる幸せを過小評価していないか

人は往々にしてどこにでもあったり、いつでも経験できることを過小評価するきらいがある。

例えば、食べ物をオイシいと感じることを当たり前のことで何でもないことであると思うのだ。

これはものを食べてオイシいと感じることが幸せなことであるのを気づいていないからなのだ。

それに気づかないのは食べることを過小評価しているからなのではないだろうか。

食べることは人間の3代本能の一つで、極めて大切なことである。

人は本能が満足すると幸せなのであるから3つの本能の一つでも満足できれば非常に幸せなことなのではないか。

食べてオイシいと感じられることこそ幸せなのだ。それを過小評価してはいけない。

 

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