今回のシリーズは私のブログ「生涯現役日記」の中で、検索ページランクが高かったり、被リンクが多かったりして比較的評価が高い割には、読者のべージビューがそれほど伸びていないコンテンツを集めたものです。
できたらもう少し多くの方に読んでいただきたいと、再びご紹介することに致しました。
一回目はシリーズ4回のPart 1として【1〜5】の記事を掲載いたします。
もくじ
【1】ルームインスペクタ―は Security Anybody Home?と叫んで部屋に入る・懐かしのニューヨーク職場日誌(2)
【2】ちょっとおもしろい話をお一つ・むかし、百科事典のセールスマンから聞いたことなのだが・・・
【1】ルームインスペクタ―は Security Anybody Home?と叫んで部屋に入る・懐かしのニューヨーク職場日誌(2)
客室が2,000室もあるマンモスホテルでは
わたしが勤務していたNYのホテルは部屋数が2,000もある市内でも有数の大規模ホテルです。
これくらい大きなホテルになると いかにホテルのメッカNYでもわずか数軒しかありません。
とにかくやたらに部屋数の多いデカいホテルなのですが、部屋数の多さを強調するには訳があります。
それはこの部屋数こそが、わたしがこのホテルでおこなっていた仕事と大いに関係があるからです。
わたしはこのホテルのフロントオフィスに勤めていましたが、職務の一つにルームインスペクション(room inspection)と言われる仕事がありました。
英語表示を見ていただくと分かりやすいかもしれませんが、ルームインスペクションとは当日チェックアウト予定の部屋を検査することです。
部屋を検査すると言えば堅苦しく聞こえますが、簡単に言えば部屋に人や荷物が残っているかどうかを調べることです。
何故それを行うかと言えば、人や荷物の所在を調べて客がまだホテルに残っているかどうかを確認するためなのです。
フロントに寄らずにチェックアウトする客が多い
客室が2,000室もあるホテルとなると、毎日の客の出入りは大変な数に上ります。
もちろん2,000の部屋のうち2泊以上の客もいるわけですから、新しく受け入れる客は3分の2程度の1200~1400室ぐらいになります。
この程度の部屋の客がいつも入れ替わっていることになります。つまり毎日1,300前後の部屋にチェックイン、チェックアウトが繰り返されているのです。
チェックインはともかく、ルームインスペクションにはチェックアウトの数が大きく関係してきます。
なぜならチェックアウトの数が多いほど対象の部屋が多くなるからです。
このホテルで働き始めて気づいたのですが、日本のホテルに比べて、こちらではチェックアウトの際フロントを通さず黙って出発してしまう客が非常に多いのです。
それ故に出発済みの客の数がつかみにくくなるのです。ルームインスペクションが発生するのはそのためなのです。
フロントに寄らないのはチェックイン時に料金支払い手続きが済んでいるから
何故フロントを通さずチェックアウトしてしまうのかと言えば、料金前払いの客が多く、チェックインの時にクレジットカードで支払手続きを済ましているからです。
つまり料金の清算が済んでおり、あえてフロントに寄らなくてもチェックアウトすることができるのです。
そんな場合でもルームキーがフロントへ戻っていればチェックアウトと判断できるのですが、問題になるのはチェックアウト予定でありながら、まだ鍵が戻ってない場合です。
こうした場合がルームインスペクションの対象になるのです。
もちろん部屋への電話確認で済む場合もありますが、電話しても応答がないことが少なくないのです。
そうした部屋がピックアップされルームインスペクションのリストに記入されるのです。
その数はだいたいチェックアウト予定数の10~15%程度が普通ですが、出発予定数が1300室にも及ぶと、その数は150~200室に達します。
これだけ多くの部屋がルームインスペクションの対象になるのです。
このルームインスペクションに当たるのが、ルームインスペクターと呼ばれるフロントオフィスのスタッフなのです。
ルームインスペクターはなぜSecurity Anybody home?と言って部屋に入るのか
上のタイトルにあるSecurity anybody home?ですが、securityを除いた、Anybody home?だけだと意味が分かる人は多いと思います。
つまり、誰かいますか?という意味です。
では、その前のsecurityはどうなのかと言えば、こちらは安心とか安全という意味を表します。
したがって全体的には、「安全ですから心配いりませんよ、どなたかいますか?」というような意味になります。
前にsecurityをつけるのは、とつぜん外来者の訪問を受けた客が驚かない(怖がらない)ようにするためなのです。
かくしてこの任務にあたるルームインスペクターは「セキュリティ エニボディ ホーム?」と大声で叫びながら150~200もの客室を巡回することになるのです。
ルームインスペクションでは対象客室の8割程度は空っぽ
一言でいえばルームインスペクションは体力勝負のきつい仕事です。
それもそうでしょう。4階から25階までの20フロア―以上にまたがる150~200にも及ぶ客室を1室づつスピーディにチェックして廻らなければならないからです。
これを重労働と呼ばず何と呼べばいいでしょうか。
それも黙って廻るのではなく、Security Anybody home?と大声を張り上げながら、なのです。
この声を100回以上張り上げるだけでも相当なエネルギーを消費するのです。
こうして巡回した結果がどうかとちら言えば、対象の部屋のうち8割は空っぽ状態です。
つまり人も荷物も残っておらず、デスクやベッドの上あたりにルームキーだけが放置されていることが多いのです。
残り2割には、まだ客が寝ていたり、人はいなくても荷物だけが残っているような状態です。
こうした客はチェックアウト時間をやり過ごしたか、予定を変更して滞在を延長する人たちです。
こうした状態をどう処理するかと言えば、持参したリストに、空っぽの場合はVacantの頭文字のⅤの字、人や荷物がまだ残っていればOccupaidのOの字を記入します。
記入を終えたリストに目をやると、たいていの場合は、ずらりと並んだVの字ばかりがやたら目につきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・この記事がおすすめ!【シリーズ1~20】 その2
(Play Back series No.2)
ちょっとおもしろい話をお一つ・むかし、百科事典のセールスマンから聞いたことなのだが・・・
大阪で「EXPO’70」と銘打った「万国博覧会」が開かれた頃のことであるから、もうかれこれ40年ぐらいも前の話である。
万博といえば開催期間が半年にもわたる長くて規模の大きい催し物だけに、その展示場建設にも、また多くの人員と長い期間を要したものだ。
これは日本が高度成長真っ只中にある時期に、その万博建設現場で働く作業員が登場してくる話である。
高度成長期と言われた頃は、とにかく物がよく売れた時代である。それもそうだろう。黙っていても給料が毎年20%近くも上がっていく時代なのである。それを当て込んで人々はどんどん物を買うのである。
これから書くことは、はそんな「物がよく売れた時代」を象徴するような話である。
この話を聞いたのは書籍販売会社の大阪のある営業所の所長をしていた人からだ。彼の前職は百科事典のセールスマンであった。
その百科事典とは日本の物ではなく、アメリカの出版社によるかの有名な「B」というイニシャルで始まる世界一と言われていた百科事典である。
彼が言うにはその会社のセールスマンにはひとつの合言葉があり、それはイニシャルが「IHNT」というものであった。彼はまずこのイニシャルの説明の段階で笑わすのである。
彼いわく。「I HNT」というのはつまり「私はHでのろまなとんまです」という意味です。
これを聞いて笑わない人はいないだろう。私も聞いた瞬間大笑いした。
この会社のセールスマンはみな胸に「IHNT」と書かれた札をつけており、客から「それはなんという意味ですか」と聞かれると、即座に先ほどのとぼけた説明をするのだという。
これでその場の雰囲気が一気に明るくなり、その先の商談を有利に進めることができるのだというのだ。
ではそのイニシャルの真の意味は何かといえば「I hate nagative talk」なのだという。これを訳すと「私は決して否定的な言葉は使いません」というような意味だろう。
では話を冒頭の万博建設現場に戻そう。
何でもよく売れる時代の今では考えられないような話である。
話をしてくれた当人のことではないが、同じ営業所の同僚にSという腕利きセールスマンがいて、ある日そのSが嬉しそうに契約書を掲げながら言ったそうだ「おい売ってきたぞ。万博の工事現場で」
彼がそう言うので、きっと工事現場の所長かなにかの偉い人に売ってきたのだろうと思ったのだが、念のために「お客さんはどんな人?」と聞いてみたそうだ。
するとSは何食わぬ顔で答えた「どんな人って、普通の20代の工事をしている人だけど」「エッ、エライさんじゃなくて普通の工事作業の人?」彼は少し驚いて聞き直したがSは一言「うん」と答えるだけだった。
彼が驚くのも無理はない。その百科事典は英語版で、その頃の顧客ターゲットは主にインテリ層に絞っていたからである。
それもそうだろう英語の百科事典を普通の人が買うわけがない。しかも給料が今よりうんと安い時代なのに、この百科事典の価格は10万円以上したのである。
でもそのSはそんな常識を破ったのである。普通の人どころか、現場で力仕事の作業をしている人に売ってきたのである。
この話には後日談がある。そのSの話を聞いた他のセールスマン2人も、後日同じ工事現場で同じような人に1セットずつに売ってきたのである。
これははつまり、バブルの時代が今と
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この記事がおすすめ!【シリーズ1~5】 その3
(Play Back series No.2)
「小説新人賞」・かくも冷酷で厳しい世界
そもそもこのタイトルでブログを書こうと思ったのは、最近、五木寛之著「僕が出会った作家と作品」という本を読んだからである。
この本はここ40年間ぐらいにわたっての「直木賞」をはじめ、名だたる「文学新人賞」を受けた作者紹介と、その作品の選評集なのである。
その中には「小説現代」「小説すばる」の歴代の新人賞受賞者名も載っており、これには載っていない。
「オール読物」を含めて、メジャーといわれる三賞すべてに過去において応募した経験のある私としては、40代終りからから50代はじめのその当時のことが懐かしく思い出され、本日のブログタイトルにしたわけなのである。
これらのメジャーな出版社による新人賞の審査員といえば、今をときめく実力派の有名作家ばかりである。
審査員の作家は応募作品の一部だけしか目を通さない
でも、皆さんはご存知だろうか。
そうした審査員が実際に目を通すのは「最終予選」を通過した僅か数点の作品だけだということを。
それもそうだろう。
これらのメジャーな文学賞には毎回一千点を超える作品が応募されてくるのだから、それらの多くの作品を僅か数人の審査員が目を通すということは物理的にもとうてい不可能なのである。
予選段階で応募作品に目を通すのは「下読みさん」たち
では一体誰が予選段階での作品を読んで審査するのであろうか。
それは「下読みさん」と呼ばれる主にフリーの編集者・評論家・ライター、といった業界の人間を主力にする、いわゆる「下読みのプロ」が担当しているのである。
それらの人による下読みで1次予選・2次予選・3次予選と上がっていき、そして最終候補作品数点が選ばれるわけなのである。
その数点のみが審査員の作家によって読まれ、審査員間で協議され、最終的に入賞作品が決定されるのである。
だいたいこうした方式が多くの出版社における新人賞応募作品審査のプロセスである。
出版社に原稿を送っても受け取り通知は来ない
まあこれはこれでいいとしよう。
実は私が今回のブログのサブタイトルにしている「かくも冷酷で厳しい世界」ということについてであるが、その理由のひとつは応募原稿に対する出版社の対応のことについてなのである。
一般的に考えて応募者にとって「原稿」というモノは非常に大切なものである。
それはそうだろう。
応募する作品を仕上げるのには多くの日時とエネルギーを費やしてきているのである。
人によって違いはあると思うが、数十日、あるいは数ヶ月、中には数年のものもあるかもしれない。
頭脳とエネルギーを使い、それだけ日数をかけて完成させたモノが大切でないわけがない。
その大切な原稿がである。
出版社に送付したあと、例外はあるが一般的には受け取り通知の一つもこないのが普通なのである。
まあ大方の応募者は安全を帰すため、郵送に当たっては普通郵便を使わず、配達証明付きかあるいは書留で送っているとは思うが、受取通知も送らない出版社の大柄な態度はどうかと思う。
私の小説新人賞応募でも
私自身のことを言えば、40代後半から50代はじめにかけて、たて続けに三つの出版社の新人賞を応募したことがある。
その出版社というのは「オール読物」の文芸春秋社・「小説現代」の講談社・「小説すばる」の集英社であった。
その結果文芸春秋社と講談社は「なしのつぶて」で、僅か集英社だけがハガキの受け取り通知を送ってきた。
集英社だけが丁寧だったのは、それが第一回目の新人賞公募であったので、たぶん慎重をきすための従来からの出版界の常識を超えた例外的な扱いであったのに違いない。
私は小説新人賞に応募したのは始めてであり、文芸春秋社と講談社が大切な原稿送付に対して受けとりも何もこないことについて「どうして通知がないのだろうか、本当に担当者のもとに確実に着いているのだろうか」と随分不安に思ったものだ。
冷酷で厳しい」という二つ目の理由
まず審査結果通知に関してである。
だいたい小説新人賞は直木賞、芥川賞などの半年に一回というのを除いて、大方のものは年に一回の募集である。
それらのいずれの賞には当然のごとく締切日があるが、ほとんどの人は締め切りの一ヶ月前ぐらいまでには原稿を送るであろう。
そしてその締切日から入賞作品発表までが長く、通常四〜五ヶ月ぐらい先なのである。
したがって応募者は今か今かと発表を首を長くして待つことになる。
そしてやっとやって来た発表であるが、またもや審査結果通知などはまったくこなくて、予選通過作品が載る月の発売された雑誌を見て確認するしかないのである。
応募者としては期待と不安の入り混じったドキドキする胸を抑えながらその雑誌を見るのである。
そして応募作品のわずか1割にも満たない予選通過作品の中から自分の作品名を探すのだが、その中に自分の作品を見出せなかったときの気持はいったいどんなものだろう。
数ヶ月かけた「汗と知恵の結晶」とも言える大切な原稿の束が一瞬にして「もくずと消えて」しまったときの気持は。
そうした応募者の気持などまったく察することがないように、出版社側は個々にはなんの結果通知も送らず、「勝手に発表された雑誌を見ればいい」というその態度が応募者にはいかにも冷酷に感じるのである。
私個人としては応募した作品3点がいずれも厳しい予選を通過したのであったが、落ちた9割にも及ぶ多くの作品の応募者ことを考えて、自分自身、応募原稿に苦労してきたがゆえに決して他人ごととは思えず、そうした出版社の冷酷で厳しい態度について、その当時は切実に考えたものであった。
いずれにしても「文学新人賞応募」という世界も、また厳しいものである。
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この記事がおすすめ!【シリーズ1~20】 その4
(Play Back series No.2)
女性のスカート着用率低下と独身男性増加の因果関係
女子高生や20前後の若い女性の極端に短いスカートは別にして、一般的に女性のスカート姿は一時に比べてこのところ著しく減少している。
一言で言って、近ごろの女性はスカートをはかなくなっているのである。
今も昔もたいして代わり映えしない男性の服装に比べてこうした女性の著しい服装の変化はいったいどんな意味をもっているのであろうか。
またそれによって男性はどんな影響を受けているのであろうか。
これについて、ここでは今回のテーマである「独身男性増加」という問題に関連づけて考えてみようと思う。
今や異常な勢いで上がり続けている独身男性の比率だが、一体その原因はどこにあり、またどうしたらそれを改善できるのであろうか。近ごろ「草食男子」などという、言わば弱くなった男性を象徴するような言葉が流行っているが、この言葉のように今日の独身男性は本当に女性に対して、その本能として意味において淡白になってきているのであろうか。
いや、風俗業界やアダルトビデオ業界が特に衰えを見せていないことから考えても、決してそうは思えない。
では変わったのは何なのかと言えば、それは女性の男性に対する意識なのではないだろうか。
つまり今の女性は、対男性ということにおいて、あらゆる面で極端に強くなってきており、その結果いわゆる「媚び」を売らなくなってきているのである。
つまり男性の気を引くために、よりセクシーに見せたり、積極的に誘惑的な態度を見せたりはしなくなってきたのである。
原因は色々あると思われるが、もっとも大きな理由は、経済力をつけた女性が増えるなかで、草食男子と呼ばれるように、女性たちに魅力的だと思わせる、いわゆる「強い男性」が少なくなってきているからなのではないだろうか。
その結果、女性は男性を意識しなくなり、強いては次第に遠ざけるようになっているとも言えるのである。
つまりこうした要因で、今回のタイトルのような二者間の因果関係が成立するのである。
今の世の中には驚くほど多くのニートとかフリーターとか呼ばれる男の人たちがいる。
こうした人々は当然のごとく経済力も無く、女性にとってはもはや魅力的な対象ではない。
したがって当然のごとく、こうした男性に対して女性は冷淡になり、次第に相手にしなくなり、強いては無視するような冷淡な態度に出てゆく。
相手に女性と感じてもらう必要が無くなり、女性らしく装うともしなくなる。
当然、セクシーさも必要なくなるので、服装にしても男性が好むスカートを着用しようという気も起こらなくなる。
スカートをはかない女性は、外見的にはなんとなく女性っぽさを減少させており、それがますます男性を遠ざける要因にもなり、次第に男女の接触のチャンスは少なくなっていく。
つまり魅力の乏しくなった男性を意識しない女性が増え、そして一方の男性としてはそうした女性を本来の女性として認められなくなり、次第に距離をおくようになる。
その結果、婚期を逸して未婚のままズルズルと歳を重ねていくのではないだろうか。
年毎に非婚率の高くなる昨今の我が国の男女の関係においては、女性がスカートをはく必要性を感じないような、実にいびつな構図になっているとのである。
こうした状態を打破するには、男性が奮起して、女性に軽んじられたり、なめられたりしないように、再び「魅力ある確固とした男性像」を取り戻していくための努力をするしかないのではあるまいか。
独身男性諸氏の奮闘を祈る。
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この記事がおすすめ!【シリーズ1~20】 その5
日本人、中国人、韓国人・顔は違うのだろうか
(Play Back series No.2)
YouTubeで「日本人、中国人、韓国人の見分け方」を見たが
YOUTUBEに「日本人、中国人、韓国人の顔の見分け方」という動画があった。インドネシアで現地のいろいろな層の人に、3者の違いについて尋ねるという内容のものだった。
少し期待して見たのだが満足のいくような応えは皆無だった。
インタビューを受けた大抵の人が肌の色の微妙な違いとか、髪型の違い、あるいは体格の違いなどについて述べていたが、確信的なものはなかった。
結局のところ、彼らにもよくわからないのだ。とすれば3者には決定的な違いはないのかもしれない。
もし、これがひと昔前だったら、服装の違いで見分けられたかもしれない。それは経済力で優位にあった日本人は圧倒的に服装が良かったからだ。
しかし今は経済的にも完全に両国に追いつかれていて、3者に服装の違いはまったくないと言っても過言ではない。
要は顔立ちだけでなく服装にも違いはなくなったのだ。これで見分けろと言われても、所詮無理なことではないのか。
NYでAre you chinese?と訊かれたことを思い出した
若い頃NYに住んでいたことがある。トレイニーとしてNYのホテルで働いていたのだ。
住んでいた下宿屋の近くに「チャーリーのカフェ」という店があった。
ほとんど毎日訪れていたのだが、その店のマスター、チャーリーが、何度目かに訪れたとき、突然「Are you chinese?」と訊くではないか。
それに対して、やや声を荒げて「No, I’m Japanese」と応えていた。声を荒げたのは少し腹が立ったからだ。
なぜ腹が立ったかと言うと、当時は日本と比べて中国や韓国は経済的にうんと下位の国で、そんな国の人と同等に見られるのがイヤだったからなのだ。
でもチャーリーが日本人を中国人に間違えるのはなんの不思議もない。なぜならNYには大きななチャイナタウンがあってそこには10万人を超える中国人が住んでいるのだ。
それに対して日本人の居住者はわずか1万7千人程度でしかなかった。
当時のアメリカで外国人としてメジャーなのは中国人で、日本人はマイナーな存在だったのだ。
3者に決定的な顔立ちの違いはない
日本人は変な優越感からか、我々の顔は中国人や韓国人と同じではない、と思いたがる傾向があるようだが、果たしてそうだろうか。そう思うのは単なる錯覚ではないのだろうか。
たとえば日本に住んでいる中国人、韓国人にそれぞれ5人づつ登場してもらい、「この中に日本人が3人混じっているから見つけて」と言われたとする。
仮に回答者が5人いたとすると、各々は見つけようと必死になり、なんとか適当な3人づつを指名するに違いない。
でも「この中に日本人は一人もいない」と指摘できる人は皆無であるに違いない。
それはそうだろう。10人全員が日本人にも、中国人にも、韓国人にも見えるからだ。
日本の立場が弱くなるほど、中国人や韓国人に間違えられることが増える
上述したようにニューヨークで日本人が中国人によく間違えられるのは、NYでは日本人より中国人の方がメジャーだからである。人は何事においてもメジャーなものを優先するのだ。
いまや日本を凌駕するような勢いのある中国や韓国は、経済的にも日本よりメジャーな雰囲気を持つようになっている。
とすれば、今後日本人が中国人や韓国人に間違えられることが今以上に増えてくるのではないだろうかか、と心配になってくる。
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