2011年3月3日木曜日

教育現場で教師同士が誰彼となく相手を「先生」と呼ぶことの弊害


過去の一時期、主に学校を取引先とする図書関係の会社に籍を置いたことがある。

その会社の営業活動で取引先である学校へ出向いた際、多くの場合商談は教師の執務室である職員室で行われた。

したがってそこで教師の日常の生態に接するのは常であった。

学校の先生といえ所詮人の子、そこでの執務姿は多くの場合普通の社会人と大きく変わることはない。

だが、ただ一点だけ会社勤めなどの一般人に比べてすごく奇異に感じられることがあった。

そのことは今でも忘れられない印象として脳裏に深く刻まれている。

それはほかでもない職員室で教師同士が相手を呼ぶときに誰彼なしに「先生づけ」で呼ぶことである。

それが先輩教師であろうが、入りたての新米教師であろうが押しなべて相手のことを「〜先生」と呼ぶのである。

これは上下関係のはっきりした一般のサラリーマンなどからするとすごく違和感を感じることである。

なぜならそうした呼び方を聞くと、教員社会というのは全員が同列にいて、上下関係などまったくないように感じるからである。

つまり勤続30年のベテラン教師でも、入って1年も立たない新米教師でもすべて同列に並んでいるような印象を抱くからである。

確かに学校教員といえば管理職は校長と教頭だけであとは例え学年主任といえども他の多くの教師と同じ平教員であり、職責上は皆平等なのであるということは分かっている。

しかし、経験や実力差は大きいはずで、それを押しなべて同列化できるはずがない。

したがってベテラン教師と新人教師がお互いに同列にいるような錯覚を与える「先生」という呼称で相手を呼びあう合うことはどうしても解せない、

というより20歳前半の新米教師をつかまえて50歳を過ぎたベテラン教師が〜先生と呼ぶこと自体が第3者の耳にはすこぶる奇異に聞こえ、違和感を感じさせることなのである。

それだけではない。

先生、先生と相手を呼び合うことは、相手の人格や人間性を隠してしまうという危険性をはらんでいる。

つまり先生という一種の尊敬を込めた呼称は相手を敬う精神が表に出るが故に、相手の人間性、能力などの評価を包み隠してしまうからである。

それゆえに先輩後輩の序列とか経験の差だとかの観念が希薄になり強いては若手の教師に錯覚を与え、進歩の妨げになる危険性をはらんでいるのである。

これは何も教師に限ったことではなく、病院にしろ政治家にしろ、こうした呼称で相手を呼ぶ職業に従事する人々には大いに考えていだだきたい問題である。

余談だが一般社会においても相手のことをやたらと先生、先生と呼びたがる人がいるが、こうした場合はその人の下心がまる見えである。


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